Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2011年8月1日(月)

エドソンは土曜日に屋根裏での電気の配線作業を何とか終え、昨日の日曜日は、上の家の配電盤と下のガレージの配電盤をつなぐ配線作業に悪戦苦闘した。上と下をつなぐために、5本も通してあるパイプのどれもワイヤーガイドが通らない状態だったため、何時間も格闘していた。パイプが詰まって通らないのではなく、パイプがカーブするところを優しくカーブさせないで、直角にカーブさせたりしているからうまく通らないのだということだった。次の写真はワイアーガイドをパイプに通すために家の配電盤のところで格闘しているエドソン。

朝から何時間も格闘の末、午後、パウロが用事でやって来た頃、ようやく1本を通すことができ、パウロの助けを借りて、もう1本、計2本通すことができ、ようやく問題解決。次の写真はガレージ内の配電盤。上から通したワイアーが出ているところ。

「5本パイプを通しているのに、2本通っただけでいいの?」と聞くと、5本パイプを通していても、1ー2本はうまくワイアーガイドが通らないということはあるから、そんな時のために多めに5本のパイプを通してもらっておいたのだとか。なるほど、予防策だったのか?ここの人たちの結構雑な仕事ぶりを熟知しているからこその、対策だったのだ。脱帽。でも、その5本がみんなアウトかもしれないとわかった時は、焦っただろうなと思う。そして、陽が沈んでから、上の家に行き、ふたりで点灯式をする。玄関の照明と、居間の中央の扇風機付きの照明はまだ電気がつながっていないのだけれど、その他はすべてが無事に点灯。苦労した甲斐がありましたね。お疲れ様でした。エドソン。

2011年8月2日(火)

また、ポルトガル語の表現について、ちょっと。ノヴェラ(連続ドラマ)で、おませな10歳くらいの女の子が、やもめのお父さんが付き合っている女性に向かって、「エウ ケロ ファラー コン ヴォセ(Eu quero falar com voce. ちょっと話がしたいんだけど)。エン パーチクラー(Em particular.プライベートで、又は、ふたりだけで)」と言って、ふたりだけで何やら話している場面があった。このem particularは、英語に直訳するとin particular (特に、又は、具体的にという意味)なのだけれど、ふたりだけで話がしたいと言う場合、英語だったら「I want to talk to you privately 又は、in person.」などとなり、普通in particularとは言わない。また、先週、超音波検査などを受けに行った際、行く先々の受付で、「Particular?」と繰り返し聞かれた。これもどうやら支払いは保険負担ではなくて、「自己負担か?」と聞いているらしく、やはり、「特別に」という意味ではなく、「プライベート」という意味に近い。同じヨーロッパの言語なのに、英語とポルトガル語では似ているようで、微妙に意味の違う表現がいろいろあり、おもしろいなと思った。

2011年8月3日(水)

去年の7月初旬に居候生活を脱して、ガレージでの仮住まいを始めたので、もう1年以上ガレージで暮らしていることになる。家は内外共にまだあちこち未完成なのだけれど、内部の照明や電気が使えるようになったので、上の家で暮らせないことはない。それで、天候の具合や手伝ってくれる人の都合などが許せば、とにかくなるべく早く、上の家に引っ越すことにした。

昨日、エドソンが仕事から帰宅し、「今週末はまた雨の予報で、引越し作業は無理みたいだから、明日休みを取ったから明日引越しをしよう」と言うので、今日、引越しをすることになった。エディたちに手伝ってもらう了解を取り付けてあるけれど、万が一、エディたちが仕事に来なかった場合は、お隣のジョアオンにも手伝いを頼んだと言う。何と手回しのいいこと。

朝食後すぐから、お昼抜きで、夕方の4時半頃までかけて、何とかほぼすべてを、とにかく上の家に移動。食器棚、ダイニングテーブル、ソファー、ベッド、冷蔵庫、洗濯機など大きくて重いものは、エドソンがいつも通り仕事に来てくれたエディとマノの助けを借りて、3人で移動。私は食器棚や冷蔵庫の中の物を出して、食器棚と冷蔵庫を掃除し、出した中の物を少しずつ上に運び、また入れ直すという作業などに追われた。4時頃にはエドソンが衛星放送の受信アンテナを家の東側から、屋根の上に移動して取り付けてくれたので、テレビを見ることができるようになった。そして、5時半頃ホドリゴが来てくれ、インターネットのアンテナをエドソンと一緒に屋根の上に取り付けてくれたのだけれど、何か問題があるようで、インターネットは使えるようにはならなかった。7時過ぎにホドリゴが作業を断念して帰り、今日の作業は終了。この後、エドソンがパーディーニョの町までピザを買いに行ってくれたので、8時頃ようやく夕飯を食べることができた。ふたりともくったくた。でも、念願の我が家への引越しができ、とても満足!

2011年8月4日(木)

次の写真は、昨日、屋根の上に取り付けられた衛星放送の受信アンテナと、インターネットのアンテナ。

6月はとても寒い毎日だったのだけれど、7月になり寒さが緩み、最低気温13度前後、最高気温23度前後の、寒くなく、暑くもない、気持ちのいい穏やかな日々が続いていた。それが先週末からのお天気の崩れに伴い、気温が下がり始め、昨日の引越し作業の際は1日中、冷たい風が吹き荒れ、日の入りと共にどんどん冷え込んだ。今朝起きたら、寝室の気温は10度だった。ガレージの中でも13ー4度以下になったことはないので、戸外はおそらく0度近くまで下がったものと思われる。お昼前にエドソンがホドリゴと戻って来て、インターネットの接続を完了してくれ、インターネットが使えるようになったので、午後、天気予報を見てみると、今日の最高気温は15度。明日の最低気温はマイナス1度となっていた。ひぇーっ!これってブラジルに来て以来初めての記録的な寒さだ!ブル、ブル、ブル!!さむーい!でもただ、ひとつ幸いなことは、ここは下のガレージと違い、シャワーだけでなく、洗面所と台所でも太陽光温水機のお湯が出るので、氷のように冷たい水で顔を洗ったり、お皿を洗ったりしなくても済む。感謝。感謝。

2011年8月5日(金)

先日、ブラジルの医療について少し書いたけれど、ニッケイ新聞の2011年7月22日付け「コラム 樹海」に、医療費無料の公立の医療施設を利用している編集長が、どういう経験をしているかが書かれていて、おもしろいと思ったので、ここに転載する。プライベートクリニックでは、まずこういうことはないのではないかと思う。この記事の中のモレーノ(moreno、女性はモレーナ、morena)というのは、髪の黒い、肌の色が白くも黒くもない人のこと。白人でも肌が日焼けしていたらモレーノと呼ばれる。東洋系の人たちもこう呼ばれたりするらしい。そう言えば、お隣で居候生活を始めてしばらくしてジウダが来た際、私のすっぴんの日焼けした顔を見て、モレーナと言ったことがあったっけ。

『肺の持病の関係でここ2カ月ほど毎朝、最寄のポスト・デ・サウーデ(市立診療所)に通って注射を臀部に打っている▼先日オカマらしきモレーノの看護士にあたり、注射する振りをして3回ほど尻を揉まれた。普通なら針が通りやすいように摘まむだけだが、明らかに感触を楽しんでいるようだった。さすが同性愛者の行列に数百万人が集まる町だけあってあらゆるところに・・・▼いつもなら30分以内で終わるが、普段とは別の看護婦がやって1時間近くかかった事があった。ようやく順番となり診察室に入ったら、前の患者に注射するはずの薬剤を注射器に移していた看護婦が大声を上げた。見ると注射器が壊れて、薬剤がドバドバと床に流れているところだった。心の中で天を仰いだ▼気が重いと思っていたら、いつもの看護婦長が通りかかり、彼女がやってくれることに。「よかった」と胸を撫で下ろす間もなく、婦長まで「ドバドバ」と始めた。どうやら注射器に大量の不良品が混じっていたよう ▼注射する前に「10本も試してようやくまともなのがあった」とブツブツ言い訳し、「大丈夫?」と聞くと「いつもの事だから」といいつつも、注射器を押す指先にはしっかり力が込められ、ギューと注射液が入ってきて、思わず「痛い!」と叫んだ▼そのような医療環境の中でも、我慢強く働く彼女らには頭が下がる。日本ならこれだけの医療機関網を政府が無料で維持することはありえない。この部分だけ見れば高福祉国家といえる。SUSという制度自体には高邁な理想が込められている。この国の問題はいつも同じ。制度でなく、運営だ。(深)』

2011年8月6日(土)

未完成ながら我が家に引っ越してからの2日間は、この冬一番の厳しい冷え込みで震え上がったけれど、昨日の午後から寒気が緩み、暖かい風が吹き始め、今日はとても暖かい1日になったのでほっとした。それで、1日中窓を開け離して、外の暖かい空気と家の中の冷たい空気を入れ替えた。ガレージから移動してきて寒い日が続いたのもあって、居間の北側の窓際の日だまりが、モビの午後の定位置になった。今日は暖かくて日だまりにいると暑いくらいだったのだけれど、モビはベッドの中で毛布を被らず、デレーっと気持ちよさそうにしている。

2011年8月7日(日)

次の写真は、我が家の玄関から外を写したもの。玄関先のベランダから下りる階段はまだできていない。それでもぐるっと回って行けば、ガレージに下りて行くことができる。

まだ開けていなかった引越し荷物を少しずつ開けて、毎日、毎日、片付けをしている。頑張って一度にやっつけてしまおうとしても無理なので、少しずつ。少しずつ。来客用の寝室の中に積み上げた引越し荷物の箱が、半分くらいになってきた。これを全部片付けて、部屋を空っぽにしないことには、お客さんを迎えるための部屋の準備ができないのだけれど、まあ、ぼちぼち。急いだことはないと思いながらやっている。だんだんブラジル流に染まってきたかな?

ここでは朝日が登る前に、寝室の壁が赤く染まる。そして、夕方の日の入りの際は、居間の壁が赤く染まる。居間のソファーに座って見る夕焼けは何とも言えない。これらを意図してデザインした家ではあるのだけれど、こうやって毎日、日の出と夕焼けを楽しむことができる幸いに感謝。

2011年8月8日(月)

またまた、ニッケイ新聞2011年7月27日付けの「コラム 樹海」を転載する。ブラジル南部のパラナ州や、サンタ・カタリーナ州、ヒオ・グランジ・ド・スーウ州は、黒人系の人口が少なく、街並みもヨーロッパのようだというのは有名な話。記事の中にあるクリチーバは、リオやサンパウロよりもずっと治安がいいと言われているけれど、それでも最近はだんだんと治安が悪くなってきていると聞いている。エコシティーとしても、国際的に有名な町で、東京の地下鉄網をモデルにしたバス路線網がある。一度は行ってみたいと思っている町だ。

『パラナ州都クリチーバは実に不思議な町だ。白人の比率が高く、町並みが整然としていて、路上生活者が少ない。 まるで欧州にきたかのよう▼市単独なら175万人、大クリチーバ都市圏なら317万人もの人口を数える大都市にも関わらず、深夜営業するレストランもボアッチもほぼないという珍しい町でもある。何人ものタクシー運転手に尋ねたが、異口同音に「夜は家族と過ごす習慣があるから夜遊びしないんだ」という。もちろん寒いのも理由の一つだ▼にも関わらず、92年に伯国初の24時間街(Rua 24 Horas)という、終日営業の商店が集まった通りができたのも不思議な出来事だった。大々的に報道されて34店がぎっしりと並んだが、閑古鳥が鳴くようになり、07年にいったん閉鎖した。市が400万レアルを投じて改修し、この6月から店子の再募集をしている▼同地のポスト・デ・サウーデでも肺病の注射を打ってもらった。聖市では待ち時間が平均30分前後程度だが、ここは待ち時間ほぼゼロで名前が呼ばれ、「さすがクリチーバだ!」と驚いた▼翌日、待合室で品のある背広を来た、この町では極少ない黒人系中年男性が、「自分は一番に待合室に来たはずなのに、もう4人も後からきた人が診察室に呼ばれて入った。 どうしてだ」とブツブツ言っていた。聖市の黒人なら怒鳴っていたかもしれない。心の中で「もしかして肌の色で・・・」と思った▼同地には黒人文化の雄であるエスコーラ・デ・サンバどころか、伯国式カルナバル自体がないことを思い出した。真夜中に大騒ぎする黒人系ラテン文化はこの町には似合わない。でもこの多様性こそが伯国なのだ。(深)』

2011年8月9日(火)

次の写真は、居間の窓から撮った昨日の日の入りの様子。肉眼だと真っ赤な太陽が沈む様子が、もう少し綺麗に見えるのだけれど、写真に撮ってみると、腕前のせいか、肉眼で見た感じと少し違う。

そして、日が沈んだ直後の西の空。

2011年8月10日(水)

次の写真は、ダイニングルームから南西方向を見た今朝の空。この辺一帯は厚い雲に被われて、強い風が吹き荒れているけれど、ずっと先の南西方向のお天気はいいようだ。

2011年8月11日(木)

一昨日、夕陽と夕焼けの空を撮ってみたのだけれど、夕焼けの色がいまいちだった。そして、昨日は午後からお天気が回復し、夕焼けが少し濃かったので、また写真に撮ってみた。

2011年8月12日(金)

今週は毎日、来客用の寝室に積み上げてあった引越し荷物の箱を開けて、衣類をタンスに収めたり、本を本棚に移動したりという作業をしたので、ようやく来客用の寝室を空っぽにすることができた。でも、靴にカビが生えているのはしょうがないとして、ドライクリーニングをしてから箱詰めした衣類にも若干カビが生えかかっているものがあり、それらをアルコールで拭きながら、少し風を通して、整理しなければならなかったので時間がかかった。何しろ日本で箱詰めしたのが2年前の2月末。2年半もの間、箱に入ったままになっていたのだから、仕方がない。靴の箱や衣類の箱の一部は、去年の10月、日本に一時帰国する際、箱を開けて探し物をしたので、箱が開いた状態で湿度の高い雨期をガレージの中で過ごしたのだから、まあ、これぐらいで済んで良かったと思う。靴はカビを拭いて掃除をして、陰干しにし、今日ようやく汚れ落とし用のクリームを塗って汚れを落とした。最終的な靴磨きはこの週末にしようと思っている。

今週は少々疲れたけれど、仕事がはかどったので、気分がいい。そして、仕事がはかどったのは私だけでなく、エディの方もだいぶはかどったので、さらにうれしい。外ベランダに手すりが取り付けられ、玄関から下りる階段はまだだけれど、南北に上り下りする階段はコンクリートが入りだいぶ形になってきた。そして、1階と2階の間の西側の外壁に、水平にコンクリートが塗られ、外壁の仕上げも少しずつ始まった。

次の写真は、エディが注文してくれた材木がパーディーニョの町の材木店から今日届き、下のガレージに運び込まれているところを、上からパチリ。これらの材木は、エディが作ってくれることになっているダイニングテーブルと、キャビネットのためのもの。

2011年8月13日(土)

毎週土曜日の午後は、大人と子供の英語のクラスの日。子供のクラスの唯一の生徒のイザベラは、レッスンをお休みすることがよくあり、今日もお休み。ここまで誰かに車で送り迎えしてもらわなければならないので、親の都合が悪いと、お休みということになるのは仕方がない。でも、今日からお隣のジョアオンのところの小学生の子供たち3人がレッスンに加わることになったので賑やかになった。一番上のお姉ちゃんは15歳で年が離れているので、この小学生のクラスに参加することはできないけれど、下の3人は見たところ、11歳、9歳、7歳といったところだろうか?みんなちゃんとノートと筆箱を持参して来ていた。左からミレーニ(Milene)、モニケ( Monique)、パブロ(Pablo)。この3人はジョアオンの奥さんのジレウザの連れ子で、一番下のパブロはつい最近まで、パラナ州に住むジレウザのお母さんの所で暮らしていて、ここに来たのは冬休み明けの7月末らしい。彼には今日初めて会った。3人ともお隣とは言え、初めて来た家で、よく知らないポルトガル語の話せないおばさんに英語のレッスンを受けるので、最初はちょっと固くなっていたけれど、レッスンの後半、導入した単語のカードを使って、神経衰弱ゲームをしたので、楽しんでくれたようだった。

2011年8月14日(日)

昨日の日の入り後、少し暗くなってから、東の丘の上にまーるく明るい月が出ているのに気づいた。以前、この2本の木の間から月が出ている写真を撮ったことがあるけれど、季節が違うので、今回の月は位置が少し北寄り。日の出も、日の入りも、冬の間は少し北寄りの位置になり、夏の間は少し南寄りの位置に移動する。

昨日、今日と、パーディーニョの町から何度も花火が上がる音がして、家の外に出ると、風に乗って音楽が聞こえてきた。昨日はジア・ドス・パイス(Dia dos Pais、父の日)だったので、その関係で2日連続で、町で何かお祭りのようなものがあったようだ。西隣のクラウディオのところも、普段はバウルに住んでいて、ここには滅多に来ないのだけれど、この週末はここに来て休暇を過ごしているようだった。夜は家に明かりが灯り、賑やかな子供たちの声が聞こえ、今朝は乗馬を楽しんでいる人たちの姿が見えた。

2011年8月15日(月)

ドトー・ジョゼのクリニックでの予約が今日の午後の時間で取れたので、午後からエドソンとボトゥカトゥに行く。ドトー・ジョゼは人気があって、大学病院で教えてもいるので、予約を取るのがなかなか大変。車をいつもの駐車場に止めた後、銀行、郵便局と回り、血液検査の結果をもらいに行く。クリニックの近くのランショネッチで昼食を食べた後、超音波検査の結果をもらいに行き、ドトー・ジョゼのクリニックへ。先生が来るのが遅れているらしく、小さな待合室は待っている患者さんたちで一杯だった。2時15分の予約だったのだけれど、順番が回ってきたのは3時15分。でも、検査の結果を見てもらい、何も異常がないことを確認するだけだったので、15分くらいで済んだ。その後、駐車場近くの写真店で私の証明写真を撮ってもらい、エドソンの検査結果をもらいに行き、建築資材の店、家具店、スーパーとはしごをして、用事を済ませたら、6時半になっていた。家に帰り着く頃には真っ暗で、エドソンは懐中電灯を持って、ジョアンの所で預かってもらっていたモビを迎えに行った。モビは初めはいい子にしていたらしいのだけれど、5時過ぎ頃からずっと、クーン、クーンと泣き続けていたらしい。でも、クリニックに連れて行くことはできないのだから、仕方がないのよ、ご免ね。

2011年8月16日(火)

ニッケイ新聞2011年8月3日付けの「ブラジル国内ニュース」に、「キリンがスキンカリオール買収=市場2位のビール大手=株式の50・45%取得=親族は法廷で争う構えも」という記事が載っていた。ブラジルビール業界第2位のスキンを買収するなんて、日本企業もブラジルの市場に本気で関心を示すようになってきた証拠だろうか?この記事は、こちらへ

また、このニュースに関連して、同日の「コラム 樹海」には、次のような記事も載っていた。

『キリンが約2千億円もの投資をしてスキンカリオルを子会社化するとの発表には驚いた。当地のグループ企業・東 山農産加工が築いてきた84年もの歴史が買収劇の背景にはある▼戦前に同支配人を務めた君塚慎氏が戦後初の駐伯大使として赴任、東山の後任だった山本喜誉 司氏が戦後の勝ち負け抗争で荒れたコロニアの統合を図って文協を設立したのは、みなが知るところだ▼後藤留吉著『続・雑草の如く生きて』(96年)によれ ば、東山農場は三菱の岩崎家がポケットマネーで27年頃に購入した。質の悪いピンガで体を壊す移民が多かったことから34年に日本酒「東麒麟」の醸造を始めた。当初はアルコールを混ぜた合成酒だったため二日酔いが酷く「頭キリン」などと揶揄されつつも大いに愛飲された▼今回に先立つ大型対伯投資の代表例としては、07年に発表された新日鉄の既存製鉄所拡張と新炉建設の計1兆円を筆頭に、同年に住友金属工業が仏バローレックと当地で合弁会社設立に約2千億 円、03年に三井物産がヴァーレ社に1千億円を投資したあたりが目立つ。これらが日本の生命線ともいえる資源系なのに対し、今回は食品という新分野への大投資であることが特徴だ▼商工会議所によれば日伯間の貿易高は07年の89億ドル、09年の96億ドル、10年の141億ドルと急増している。ただし、中 国は昨年564億ドルで堂々の1位だった▼でもこれからが勝負だ。一世紀の歴史を持つ日本移民への信頼が他国企業との差を生むに違いない。日本酒で移民の心を癒したように、W杯や五輪の応援で乾いたブラジル人の喉を潤して欲しい。(深)』

2011年8月17日(水)

今週は、玄関前の階段と、1階と2階の間の壁の仕上げと、家の北側のエクステリアの作業が行われている。

今日は、エドソンの主治医のドトーラ・ヘジーナ(Dra. Regina)のクリニックで、4時45分に予約が取れたので、検査結果を持ってボトゥカトゥに行く。私とモビはクリニックが入っているビルの前の公園のベンチに座って、エドソンが戻ってくるのを待った。エドソンの検査の結果はコレステロール値が高いこと以外は異常なし。私とほぼ同じものを食べているのに、私のコレステロール値は問題なく、エドソンは高いというのは、おそらく、彼が食べている毎日の脂っこい昼食のせいではないかと思う。それで、これからはなるべくジャナイーナの作る昼食や、レストランの昼食は止めて、スーパーでサンドウィッチを買って食べることにすると言う。コレステロール値を下げるためには、果物をたくさん食べるといいらしいので、これまで以上にせっせと果物を食べさせなくては。

2011年8月18日(木)

昨日、ボトゥカトゥに行った際、クリニックに行く前に、駐車場の近くの家電販売店に行き、掃除機と電動のオレンジ絞り機を買った。これまでずっと、箒で掃除をしていたのだけれど、これで掃除がずっと楽になる。今日は早速、買ったばかりの掃除機を使って掃除をしてみた。日本のものとほとんど変わりはないけれど、スイッチが手元になく、掃除機の本体にある点が、利用者の身になっていないかな?と、思う。でも、吸引力は悪くなく、箒に比べ、部屋の隅々まで断然きれいにできるので、とてもうれしい。

ここではオレンジを買ったり、もらったりして、オレンジジュースを絞ってよく飲むのだけれど、1回に20個くらいオレンジを絞るので、ちょっと疲れる。それで、電動の絞り機を買った。これで、私の家事労働が少し楽になる。感謝。感謝。

2011年8月19日(金)

ニッケイ新聞の2011年8月5日付け「日系社会ニュース」に、「リオのロッシーニャ潜入?!=ファベーラ観光体験記=最大級の貧民窟の現実は」と題する、リオのファベーラ観光についての記事が載っていた。ニューヨークにもハーレム観光があったように思うけれど、それと似たようなものと言っていいだろうか?でも、いくらガイド付きで安全と言っても、私はファベーラ観光はしたくないかな?怖い気持ちの方が勝ってしまう。この記事は、こちらへ

8月に入ってから少しずつ準備していたペトロポリスの「BUNKAーSAI」に関するリポート、「ブラジルの地方都市が日本にエール」を、昨日、ようやく最終的に仕上げて、中国新聞に送ることができた。今回もペトロポリス日系協会会長の安見さんの全面的協力を得たお陰で書くことができた。感謝。

2011年8月20日(土)

昨日は、北西からの強い風が吹き荒れた1日だった。お天気が下り坂になる際のいつものパターンで、思った通り、夜遅くになって強い雨が降り始めた。この強風の中、朝からダイニングルームの窓辺でたくさんの黒く細長い蜂が飛んでいるので、不思議に思っていたのだけれど、夕方、モビと散歩に出た際見てみると、ダイニングルームの窓の上に蜂がたくさん群がって、巣作りをしていた。エドソンが帰宅してからそれを見せると、ボロ布とアルコールとマッチを持って来てというので、どうするのかな?と、思ったら、屋根まで届く長い鉄パイプの先に布を巻きつけて、アルコールをかけ、火をつけて、蜂が群がっているところに何度も火を持って行き、蜂退治をしてくれた。この壁は垂直な平面なのに、こんなところに巣を作るなんて、他にもっと適当な場所があるだろうにと、不思議に思った。

最近、モビはエドソンと朝の散歩に出ると、ブラキアーリア(この辺一帯に生えている牛が食べる草)をよく食べていることがあるらしく、エディがそれを見て、「モビはお腹に虫がいるんじゃないか?」と言うので、昨日、エドソンはモビのために薬を買って帰ってきた。モビは首の腫瘍摘出手術後の抗がん剤治療の薬のせいで、体重が増えたので、現在、食事の量を徐々に減らしながら、ダイエットに励んでいる。それで、いつもお腹が空いているため、外に散歩に出ると、死んで干からびたミミズなど、やたらいろいろなものを見つけては食べたりする。そんな訳で変なものを食べてしまっていても不思議はないので、薬を与えることにしたという。薬のタイプには3種類くらいあったらしいのだけれど、一番いいとされる値段の高い、バイエルの薬を買ってきた。何と24レアル(約1200円)。他の薬はこの6分の1の4レアル(約200円)だったそうだから、値段の違いには驚いてしまう。エドソンのコレステロール値を下げるために処方された薬の魚油(18.35レアル=約915円)よりも高い。

2011年8月21日(日)

土曜日の午前中も仕事をしている、ホドリゴとヴィトーは、よく仕事が長引いて午後の英語のクラスに来れないことがあるので、クラスを日曜日の朝に移動してほしいということになり、今日から彼らのレッスンは日曜日の朝10時から12時まですることになった。その代わりに、以前からやはり土曜日も仕事なので、日曜日にレッスンを受けたいと言っていたルアナ(Luana)という17歳の女の子も参加することになった。ルアナもヴィトーと同じように、午前中は高校に行き、午後から毎日パウロの会社で働いていて、土曜日はパウロの会社のイタチンガ支店に出向いて働いているので、日曜日しか時間が取れないらしい。彼らの年齢だと、普通は日曜日くらい遊びたいだろうに、唯一の休日を利用して、さらに勉強したいなんてすごい向上心だと思う。ちなみに、ルアナは土曜日のレッスンに来ているアナ・パウラの従姉妹なのだそうだ。とても頭の良さそうな、明るく、感じのいい子だった。

昨日は1日雨。今日は雨は降っていないものの、風が強く、いつ雨が降り出してもおかしくないようなお天気で、気温が下がり、とても寒い1日になった。それでも昨日の大人のクラスの2人も、子どものクラスの4人も、みな休まずレッスンに来て、今日も3人ちゃんとやって来るのだから、みんなすごいなあ。

モビは時々、おとなしく寝ていたかと思うと、突然ベッドの中でクネクネと体を動かしてもだえることがある。昨日も、クネクネした後、仰向けになってしばらくひっくり返っているので、その姿がおかしくて写真に収めた。

2011年8月22日(月)

昨日の午後、ジウダが来ていたので、お隣までモビを連れてご機嫌伺いに行った。以前、お隣で居候生活をしていた頃は、ジウダにはカピトゥというモビのお母さん犬がいたので、彼女はモビのことを特別可愛がっていたわけではないのだけれど、私たちと一緒に暮らし始めてモビがとてもよく私たちの言うことを聞き、お行儀がいいことに気づき、カピトゥが死んでからはモビをとても可愛がるようになった。それで、ここに来るとモビに会うことを楽しみにしているので、彼女が来ると、モビを連れて行ってご機嫌伺いをするようになった。そして、昨日はとても寒かったので、モビも寒いだろうと言って、ジウダが以前フィオナに着せていたピンクのセーターを出してきて、モビに着せてくれたので、そのまま帰宅し、今日もそのセーターを着せている。このセーターを着ているとベッドから出てくる際、いつにも増して毛布がスルリと取れず、セーターにひっかかって、毛布の長いトレイルを引くのでとてもおかしい。これを見る度に、エドソンも私も大笑い。

今日も相変わらずの曇り空の上、強風、低温で、寒ーい!それでエディたちは今日は外での仕事はせず、ガレージの中でダイニングテーブルやキャビネットを作る大工仕事をしてくれた。電気ノコギリの音や、トントンと木をたたく音がさかんにしていた。夕方、彼らが帰った後、ガレージをのぞくと、エドソンのオフィスの中の、北側の壁一面に据え付けの本棚が完成し、ガレージの中ではダイニングテーブルの脚の部分が出来つつあった。

2011年8月23日(火)

今日はこの地域のロータリークラブのガバナーが、パーディーニョのロータリークラブを訪問するというので、アグアス・ダ・セハで夕食会が開かれた。8時からの夕食会が始まる前5時頃に、ガバナー一行がマックス・フェファー文化センターを見学するので、付き合ってほしいというパウロの依頼で、5時前にエドソンが仕事から戻り、シャワーを浴びて着替え、私とモビを連れてマックス・フェファーに向かった。私たちはただ一緒に見学するだけで、特に何もすることはないのだけれど、マックス・フェファーの新しいプログラム・ディレクターに会えたのは良かった。1時間ほどの見学が終わり、8時まで適当に時間を潰さなければならなかったところ、マックス・フェファーの前に住んでいるセージオがちょうど帰宅して、私たちを見つけてやって来たので、セージオと一緒に、最近ルシアが手伝い始めたというカーテンのお店に行く。セージオの年金請求の手伝いをして以来、会っていなかったので、しばらくぶりの再会を喜び合う。ルシアはマッサージの仕事が体に負担になってきたらしく、最近は仕事を減らして、このカーテンのお店を手伝っているのだとか。

店で少し話をしてから、彼らの家に行き、また少し話をした。セージオは無事に2ヶ月に1度、とてもわずかな額だけれど、日本から年金が送られてくるようになったと言って、振込通知を見せてくれた。その後、彼らの家を出ると、マックス・フェファーの前で小さな野菜市が立っていたので、覗いてみたら、タケイシさんがいたので、彼ともしばらくぶりの再会を喜び合う。彼はこの市とは関係なく、たまたまコンピュータのクラスが終わって出てきたら市をやっていたので、おしゃべりをしていたらしい。この市は地元の農家の人が有機栽培の野菜などを持ち寄って、毎週火曜日の夜、こじんまりとやっているのだそうだ。知らなかった。地元の農家の人の生産物を、どうして地元で販売しないのだろう?と不思議に思っていたのでうれしくなる。主なものはレタスやほうれん草だったけれど、この他ビーツ、大根、バナナ、いちご、玉子なども少量販売されていた。どれもとれたてで新鮮な野菜だった。大根は小ぶりだけれど、ウエノで見かけるものよりもきれいな大根だったので、2本買った。毎週、火曜日の夜はロータリークラブのミーティングの日で、その前にこの市に寄れば、新鮮な野菜を買うことができるので、これから頻繁に覗いてみようと思う。

8時を少し回ってアグアス・ダ・セハに行くと、夕食会の顔ぶれがほぼ揃っていて、比較的すぐに会が始まった。次の写真の真ん中がガバナーで、左側がパーディーニョ・ロータリークラブ現会長のパウロ。

2011年8月24日(水)

昨日の夕食会では、ボトゥカトゥのロータリークラブから来ていた、日系のミノルさんと道子さん夫婦に紹介された。ミノルさんはブラジル生まれの2世で、道子さんは15歳の時に家族とブラジルに来て、以来52年という1世だった。ふたりともポルトガル語はもちろん、ちゃんとした日本語をまったく問題なく話されるので、久しぶりに日本語でのおしゃべりを楽しんだ。ブラジルではよくすごい日系の人たちに出会うけれど、この夫婦もそうだった。7人姉妹の長女の道子さんがブラジルに来た時は、もう15歳で、普通の昼間の学校には入れず、夜間に行ったのだけれど、小学校1年生の勉強からしなければならなかったのでやめてしまい、妹たちの教科書を借りて独学でポルトガル語などを勉強して、大学に行き、獣医になったという。そして、道子さんの妹たちも全員、大学に進学し、それぞれに専門職を身につけていて、「一番末の7女は演劇学校に行き、女優をしているの」と言う。そして、その人は、6月のブログで紹介したMorde & Assopraという午後7時台のノヴェラ(連続テレビドラマ)で、チエコという役をやっているミワ・ヤナギサワさんだったので、びっくり。そう言えば、何となく顔が似ているかな?そして、ご主人のミノルさんは大学で薬学を学び、ロータリークラブのガバナーなどもやったことがあるという人で、この地域のロータリークラブの重鎮のひとりでもある。彼らの5人の子どもたちも皆、大学に行って専門職についている。ブラジル人の中には親が大学に行っていても、子どもは親に反発してなのか、大学に行かず、高卒で働いているという人も多い中、日系の人たちの子どもへの投資と、子どもたちの大学進学率の高さにあらためて感心してしまう。

この夕食会では、アグアス・ダ・セハのオーナーで、ここ何ヶ月も病気療養中で顔を見せなかったマーセロが、少し体調がいいいからと、久しぶりに顔を見せ、マトグロッソ・ド・スーウ州から病気の父親を心配して来ていた彼の息子さんを紹介してくれたので、とても楽しい夕食会になった。左から、道子さん、ミノルさん、マーセロの息子さん、そして、エドソン。

2011年8月25日(木)

先月初め、イビウーナの中村さんのお宅でのお花見の後、香山さんのところに立ち寄り、ご機嫌伺いをした際、以前からそれとなく繰り返し言っておられたことなのだけれど、何十年にも渡って彼が収集してきた日系移民関連の蔵書、つまり「香山文庫」を、私に引き受けてほしいという具体的な話があった。もう85歳と高齢なので、先がない。子どもたちは日本語が読めないから宝の持ち腐れになるだけだし、日系協会の現在の主要な人たちも皆、2世や3世で日本語が読めないから、活用されず倉庫に積み上げられるだけになるのがおち。自分の友人たちは同じように高齢で先がないし、サンパウロのアパート住まいの人では本を置く場所がない。あなたならまだ若いし、家にスペースがありそうだし、これまでに色々、移民関連の本や資料を読んできているから、もう移民史研究を始めているようなものだから、もらってもらえるとうれしい。と、おっしゃる。自分がいなくなった後の本の行き場所をちゃんとしておかないと、心残りなのだというのはよくわかるのだけれど、そんな大事なもの、ただの主婦の私が引き受けていいものかどうか、とても悩んだ。でも、これまで香山さんにはたくさん本や資料をいただいたり、貸していただいて、お世話になってきているのだし、そこまで付き合いの長くない私を信頼し、ぜひと言ってくださるのはありがたいことでもある。そして、「本を活用してもらうために、少しずつでも、どんな本があるのかがわかるように、本のデータベースを作ったりすることはできるんじゃない?」、「ここでの君の一生涯のプロジェクトにすればいいじゃない。協力するよ」というエドソンの後押しもあり、お引き受けすることにした。

8月上旬に、本の整理ができ、全部で9箱になったから、いつでも取りにきてくれと連絡があった。乗用車では9箱も運べないので、トラックをどのように調達したものか、エドソンがいろいろ考えてくれていたのだけれど、お隣のカゼイロのジョアオンが、収穫したアテモイアを、後もう1回、サンパウロに配達に行くというので、その際一緒に行って、帰りにイビウーナに寄ってもらうことなり、今日、サンパウロに行くことになった。

朝、モビをジョアオンの奥さんのジレウザに預けて、8時に3人で出発。10時半頃、サンパウロ到着。まず、以前はセアザ、現在はセアゼスプ(SEAGESP)と呼ばれる中央卸市場の近くの倉庫に行き、大粒で箱詰めしてあるアテモイアを配達し、次に、セアザの果物市場に、カゴに入った小粒のアテモイアを配達した。次の写真は、最初に行った倉庫で、アテモイアを下ろすためにトラックを横付けしたところ。

ジョアオンたちが荷下ろしをしている間、エドソンと私は倉庫の中を、ウロウロ見て回った。様ざまな果物と野菜が所狭しと置かれていた。パーディーニョやボトゥカトゥでは見かけないような、ありとあらゆるきれいな果物があった。さすがサンパウロだ。

手前左から、マラクジャ、メロン、グラヴィオラ、マンゴー、スイカ。後ろには、アボカド、オレンジ、ライム、マンゴー、スイカなどが見える。

次に、セアザに小粒のアテモイアを届けて、荷下ろしが行われている間、私たちは果物市場を見て歩いた。その後、ジョアオンと3人で、セアザの中にあり、サンパウロで一番おいしいパステウのお店と評判の、ヨシヤマ・パステイスで、パステウの昼食をいただく。気の良さそうな愛想のいい、日系の若い男女がやっていて、パステウは脂っこくなく、評判通りとてもおいしかった。パステウというのは、長方形の薄いパイ皮のようなものに、牛挽き肉を炒めたものや、チーズやハムを包んで、油で揚げたもので、コシニャやキビなどと共に、ランショネッチの定番メニュー。

荷下ろしが終わり、空になって戻ってきたカゴをトラックに積み、午後1時頃、セアザを出て、イビウーナに向かう。香山さんのお宅で、エドソンとジョアオンが本の箱をトラックに積んでくれている間、私は少し、香山さんとおしゃべりをする。歳を取ると、物事に対する好奇心がなくなるから、最近は新聞を読むのもしんどいとおっしゃっていた。普段は家族の人たちは皆、仕事などで出かけていてお留守なので、香山さんとお手伝いさんしかおらず、お手伝いさんの話だと、最近、香山さんは気持ちが沈みがちで元気がないということだった。でも、顔色は悪くなく、頭もまだまだはっきりしておられた。イビウーナを午後3時に出発し、パーディーニョには5時半頃戻ることが出来た。次の写真は、帰宅して、トラックから本の箱を下ろす前に撮影。エドソンとジョアオンが箱を事務所の中に運び入れてくれた。

2011年8月26日(金)

昨日、セアザの近くの卸しの倉庫で、ジョアオンが「ジャガイモを1袋買うつもり」というので、私たちもそれに便乗して、1袋50キロのジャガイモを買って2軒で分けることにした。次の写真がその1袋50キロのジャガイモ。

とても広大なセアザの中には、果物市場のセクションだけでなく、野菜市場、魚市場、肉市場などがあるそうなのだけれど、とても広いので、私たちは果物市場だけを見て回り、いろいろな果物を買った。帰宅してから、ジョアオンにもそれらを少しおすそ分けした。次の写真は、右上の箱がジョアオンにおすそ分けした果物。その下のカゴ一杯のジャガイモは、私たちの取り分の3分の1ほどのジャガイモ。

以下が、昨日買ったもののリストと、それぞれの量と、支払い金額。まず、ジャガイモ1袋(50キロ)、32レアル(約1600円)。このジャガイモ、セアザでは1袋20レアルで売られていて、ちょっとがっかり。でも普通にスーパーで買うと、1キロ3レアルくらいするので、50キロ買おうと思うと、150レアルくらいすることになるので、32レアルでも十分安い。

パイナップル1箱(6個入り)、17レアル(約850円)。ぶどう1箱(10房入り)、18レアル(約900円)。マンゴー1箱(14個入り)、10レアル(約500円)。いちご1箱(4パック入り)、5レアル(約250円)。キイウィー2パック、5レアル(約250円)。合計87レアル(約4350円)。

2011年8月27日(土)

今週は、水曜日のお昼前までお天気が悪かったため、エディたちは外での仕事ができず、下のガレージの中で大工仕事をしてくれた。お陰でエドソンのオフィスに書棚を作りつけたり、ダイニングテーブルを作る作業が少し進んだ。次の写真は、ほぼできあがった書棚。まだ塗料塗りは下半分だけで、上半分は終わってない。ここに香山さんからお引き受けした蔵書、「香山文庫」を置く予定。

水曜日のお昼前からお天気が回復した後は、家の北側のエクステリアの工事が再開され、レンガの低い壁が出来つつある。次の写真の通路の向こう側、突き当たりに、鶏小屋と野菜畑を作り、その手前の家の前の部分には、芝生を植える予定。

2011年8月28日(日)

日曜日の朝の英語のクラスには、今日から新しい生徒さんが2人増えると聞いていたのだけれど、結局、その子たちは来ないことになったようで、3人で固定したようだ。左からホドリゴ(Rodrigo)22歳、ヴィトー(Vitor)16歳、ルアナ(Luana)17歳。みんなとてもいい子たちなので、このクラスもとても楽しい。

2011年8月29日(月)

以下は、ニッケイ新聞2011年8月10日付け「コラム 樹海」からの転載。ブラジルの日本人移民史を語る上で、絶対避けて通ることのできない「移民の祖」である水野龍に関する連載をするにあたり、深沢編集長が水野龍の息子を訪ねた際の印象を書いていて、とてもおもしろい。

『水野龍の息子、龍三郎さん(80、二世)宅はパラナ州都クリチーバ郊外にあった。あまり裕福な地区ではなく、 実に質素な家に住んでいた。44歳年下の妻との間には15歳を先頭に2歳半まで3人の子供がおり、ヤキソバ弁当を作って日々の生計を立てている。あの水野龍の息子がこのような質素な暮らし——と考えさせられた▼龍三郎さんは「ヤキソバの売り上げがよくない月には料金が払えず、電気を止められたりするんで す」とボヤく。その事実ひとつとっても、水野龍が子孫に財産を残さずに生涯を閉じたことが伺われる。笠戸丸移民からお金を借りて返さなかったことから悪評が残っていることは重々知っているが、子孫の生活ぶりを見て、少なくも自分の懐を肥やした人物ではなかったと思えた▼常々不思議だったのは、聖市で水野龍の立像、胸像の類を見たことがないことだ。上塚周平、山本喜誉司、下元健吉らの胸像は史料館にある。でも〃移民の祖〃であるにも関わらず胸像一つないことに何かの符合を感じる▼また日本政府からの水野龍に対する功労評価は、彼に与えられた勲章が勲六等であることからも伺える。もちろん戦前と戦後では勲章の基準自体が違うだろうから、単純な比較はできない。でも参考までに山本喜誉司には勲四等旭日章が、宮坂国人には勲五等旭日章、細江静男には勲三等瑞宝章、 輪湖俊午郎は勲五等瑞宝章という具合だ▼水野にはまとまった自伝もない。なぜか歴史的評価から外されている雰囲気を感じる。連載の中であまり難しいところまで突っ込むことはできないだろうが、知られざる〃移民の祖〃の生涯に少しでも迫りたい。(深)

【訂正】コラム樹海中で、水野龍の胸像が聖市にはないと書いたところ、移民史料館から「小さいものですが、7階の笠戸丸コーナーに展示されている」と連 絡があった。同様に読者から指摘があり、山本喜誉司への正しい最終勲位は勲三等旭日章(死後叙勲)、宮坂国人へは勲二等瑞宝章(同)だった。お詫び訂正す る。』

そして、この連載記事、「水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男」は、 こちらへ

2011年8月30日(火)

このところお天気は悪くないのだけれど、毎日のように、強い風が吹き荒れている。昨日など、その風のせいで、洗面所の足拭きマットを乾かすためにかけていた、物干場の2本あるワイアーの1本が切れてしまったくらいだ。この風は、暖かい北風と冷たい南風がせめぎ合いをしているかららしい。季節は確実に冬から春に変化しつつある。昨日は、午後からぐんぐん気温が上がり、とても暑くなった。冬の間、落葉して裸になっていた入り口ゲート付近の木々にも緑が戻ってきた。家のベランダ前のハイビスカスガーデンのハイビスカスも赤や黄色の花をつけ始めた。今日も朝から暖かい強風が吹いているけれど、明日は雨で、その後また気温が下がるという予報だ。三寒四温という言葉があるけれど、ちょっとそれに似た感じで、暑かったり、寒かったりを繰り返しながら、季節は移って行くのだということを実感する。

2011年8月31日(水)

予報通り昨日の夜、雷が鳴り始め、雨が降り出した。一晩中ザーザーと降り、今日は1日ぐずつくお天気になった。でも、エディたちはこの雨の中、今日も仕事にやって来てくれた。エディたちが仕事に来る日数は、これまでだいたい月に15日前後だったのだけれど、今年の4月に初めて1日も休まず、21日間仕事に来るという記録を打ち立てた。その後、16日、15日、18日というペースだったのが、何と、4月に引き続き、今月も1日も休まず、23日間仕事に来てくれ、4月の記録を更新してしまった。こんなことで感激する自分もどうかと思うけれど、今までになかったことなので、驚くと同時にやはりうれしい。私たちが上の家に移動したので、お天気の悪い時は、外での作業ができなくても、下のガレージの中で大工仕事をすることができるようになったということもあるのかもしれない。それと、我が家はこの辺のごく一般的な家とはデザインがだいぶ異なり(例えば、白いレンガを使ったり、玄関があったり、窓が大きく、家の中が明るいなど)、いろいろエディと相談しながらも、私たちのアイデアや意向が大いに反映されている。そのためエディにとってはとても変わった家なのだけれど、彼はどうも、我ながらとてもいい家ができたと満足し、自慢に思っているらしいことも、最近の精勤に反映しているのかもしれない。



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