Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年7月1日(金) | ||||
以下は、イビウーナの中村さんの今週のウィークリーノート。エドソンがVejaという雑誌を読んで仕入れた情報によると、以前、ブラジルは様々抱える諸問題により、世界の経済学者の研究対象だったそうなのだけれど、最近では、その経済的な成功と成長のため、引き続き経済学者の研究対象になっているのだそうだ。中村さんが指摘する不思議も研究されているのかな?
ブラジルは公定歩合操作手段を持っているが、役立っていない。何故ブラジルは高金利国なのか、説明できない。「高インフレ国だから」では、インフレが同程度あるいはもっと高い国でも低い金利の国は少なくないので、説明にならない。では、「低い貯蓄率」はどうか?これもブラジルと同程度の貯蓄率で低金利の国があり、ブラジルの高金利を説明出来ない。ブラジルのマクロ経済指標はG-20の中で抜群によいし、公的債務の対GDP比率も低いので、財政赤字が高金利の原因だとするのも首肯けない。所得格差が大きく、所得が少数者に集中していて、大多数の国民の消費が長年抑制されてきたブラジルのような国では、貯蓄率が低くなるのは分かるとしても、同様な消費性向を持つ他の新興国に比べてもブラジルの金利は高すぎる。最近ついに、金利率=購買切望率(impatience rate)と言う新説が出てきた。「ブラジル人は何でも新商品を欲しがるので、割賦購入に走るインフレ体質がある」、そこまではよい。だが、それが直ぐ高金利につながるだろうか、疑問だ。 インデクゼーションが身体にしみ込んでいて高インフレを呼び、高金利で対抗しなければならない、という尤もらしい議論もあるが、インフレとインデクゼーションの因果関係が逆だ。ハイパーインフレに対処すべく発想されたのがインデクゼーションだ。又、需給の構造的不均衡(需要>供給)がインフレの原因だとする説も根強いが、輸入が自由化した現在、説得力に欠ける。という訳で、どの説も高金利の原因を突き止めていない。 反対の極にある日本はどうか?長年ゼロ金利政策を採ってきたが、デフレ脱却に成功していない。対米ドル為替レート(レアル高であり円高である)では共通している。米国がこれでもかこれでもかと大型景気対策を打つと、グローバライズされた世界では注入された米ドルは米国経済を刺激せずに先物市場や他国に向かう。資源や食糧の先物価格が値上がりし、他国通貨が買われ、米ドルが売られる。さすがのバーナンキFRB議長も、これ以上の米ドルの量的緩和策を諦めたようだ。 かつて金融政策は国家経営の最重要政策手段だった。今や金利操作も通貨操作も働かなくなった。市場は超国家の政策手段を求めているのではなかろうか?イビウナ、27/06/2011 中村 勉 | ||||
2011年7月2日(土) | ||||
数週間前、イビウーナの中村さんから、最近、香山のおじいちゃんが86歳という年齢もあって、どうも体調が悪いことが多く、元気がないから、彼を元気づけるために桜が咲く時期にお花見に招待したので、あなたたちもいらっしゃいと呼んでいただいた。そして、この月曜日にメールで、今週末あたりに満開になりそうなので、日曜日にお花見をすることにしたから土曜日から泊まりがけでいらっしゃいと連絡をもらい、今日、お昼前に家を出発してイビウーナに向かった。モビも一緒に連れて行きたかったのだけれど、香山さんたちが犬好きがどうかわからないので、今回は遠慮してと言われ、モビはドナ・クレウザのところで預かってもらった。 午後2時半過ぎに無事イビウーナ到着。中村さんのお宅の庭の5本の大きな桜が満開で出迎えてくれた。中村さんの住むコンドミニオ内にはあちこちにたくさん桜の木が植わっていて、みんなきれいに花を咲かせていた。中村さんご夫妻とは昨年の8月に一緒にユバ農場に行って以来なので、約1年ぶりの再会。でもあいにく、ご主人はここ1ー2週間お腹の調子が良くなく、食欲がないらしく、澄子さんも少し風邪ぎみのようで、本調子ではない感じだった。それでも、おふたりといろいろなことを話し、夕飯に塩鮭や納豆や塩こぶなど、ブラジルに来て以来食べたことのなかった食事をいただき、楽しい時間を過ごした。
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2011年7月3日(日) | ||||
昨日、今日はそれぞれ降水確率90%と80%の予報だったのだけれど、結局雨は降らず、花曇りの状態が続いた。午前中、私は台所で澄子さんのお手伝いをし、エドソンはカメラを持って、コンドミニオ内をお散歩して過ごした。イビウーナはパーディーニョよりも少し暖かく、過ごし易いのだけれど、それでもお天気があまりよくないので、香山さんにとっては寒く、外出がやはり難しいらしく、来られないということになり、香山さんの次女ののぶ子さんと彼女のお嬢さんと、弁護士をしているというお嬢さんのボーイフレンドの3人だけがお昼前にやって来た。昼食のメニューはおでんと、若い人用にとミートソースのスパゲティを澄子さんは用意してくれた。次の写真はガスストーブの上に置かれたおでん。これもブラジルに来て以来、初めていただく。
庭の桜が見えるサンルームでお花見昼食。
この後、のぶ子さんたちと一緒に香山さんのお宅に伺い、おじいちゃんのお見舞いをした。体に負担になるといけないので、10分くらいと思っていたのだけれど、いつものように書斎のコンピュータの前で待っていてくださった香山さんは、私たちの訪問を喜んでくださり、40分くらいいろいろおしゃべりをしてしまった。
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2011年7月4日(月) | ||||
土曜、日曜と、雨が降る予報だったのに降らず、その代わり、今朝は雨の音で目が覚めた。冷たい雨が降っていたため、モビが朝一番のお散歩に、外に出るのを嫌がるほどだった。でも、幸い長くは降り続かず、お昼前には止み、太陽は顔を出さなかったものの、気温は少し上がり、午後のお散歩は気持ちよくできた。 次の写真は、私たちが薬草園と称している庭の部分にある低木。満開の花が咲いていたので写真に収めた。この木の正式な名前は知らないけれど、エドソンはこれをインセンス(incense、つまり、お香)と呼んでいる。この葉を燃やすといい匂いがして、教会などで使われるのだとか。この花自体もほんのりいい匂いがした。
イビウーナの中村さんのところから、アロエの苗を2種類、4本いただいて帰ったので、午後からそれらをこのインセンスの側に植えた。写真の左側に見えるのはローズマリーの木。
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2011年7月5日(火) | ||||
ブラジルに来て1年余り、ウィリアムのファームハウスでの居候生活が8ヶ月を過ぎた去年の4月に、私は体調を崩し、パーディーニョの病院の救急や、ルシアのマッサージやお灸のお世話になった。その後、ボトゥカトゥにある婦人科医院に受診し、血液検査や超音波検査などをし、異常はなかったのだけれど、これからは日本にいたときのように、半年に1度くらい定期的に検査をして、健康管理をすることにした。でも、7月には居候生活を脱し、ガレージでの仮住まいを始め、モビとフィオナもガレージの中で一緒に暮らすようになり、10月には急に日本へ一時帰国しなければならなかったりと、いろいろ忙しく、半年後の受診ができなかった。 そして、また、あれよあれよという間に時間が経過し、年が暮れ、年が明けしているうちに、モビとフィオナの病気治療が始まり、同時並行的に父も入院し、4月に亡くなったため日本で1ヶ月間を過ごしたり、ブラジルに戻って来てからも継続中のモビの治療などに忙殺される日々が続き、気がついたら去年の受診から1年以上が経っていた。それで、モビの治療が終わったのを機に、ようやくエドソンに予約を入れてもらった。今日午後4時の予約だったのだが、午後から急患の手術が入ったから1時半に来てほしいという連絡がエドソンのところにあり、午前中の掃除、洗濯などの家事を終え、シャワーを浴びて服を着替えているところに、エドソンが私を迎えに帰って来たので、12時前に急いで家を出て、ドナ・クレウザのところにモビを預けて、ボトゥカトゥに行く。でも、医院での受診時間が早まったことで、その後、あちこちの店を回って、必要な買い物をする時間を十分に取ることができたので、かえって良かったように思う。 | ||||
2011年7月6日(水) | ||||
この月曜日に中国新聞の編集の方から、記事のストックがなくなったから、何か手持ちの記事があったら送って欲しいというメールが来ていたので、ブラジルの桜について書いてみることにした。月曜日は手持ちの資料を探して取り出し、リポートの内容を考え、掲載する写真の用意をした。昨日は忙しかったので、ほとんど何もできなかったのだけれど、今日、ようやくリポート書きに集中した。中国新聞の海外リポートは4月に33本目のリポートが掲載されて以降、時間的にも気持ち的にもゆとりがなく、ずっとご無沙汰していたので、今日はモビとのお散歩と家事以外の時間は部屋にこもって、久しぶりにエンジン全開でリポート書きに徹した。夕方、エドソンが帰宅してから、書き上げたリポートの内容を読んで聞いてもらい、コメントをもらい、夕食後、仕上げ作業をして、中国新聞に送ることができたので、ちょっとした達成感を得ることができた。 | ||||
2011年7月7日(木) | ||||
今週末、イビウーナの中村さんのところで、アロエの苗の他、大きく肉厚な種類のアロエを2本切ったものをもらって帰った。これを適当な大きさに切って、皮をむき、さっと茹で、サイコロ状に切ったものをヨーグルトに混ぜると、アロエヨーグルトができるということで、やってみた。次の写真は茹でたアロエと、その湯出汁。この湯出汁はアロエのネバネバが解け出していて、肌荒れにいいようなので、捨てないでハンドクリーム代わりに使うことにした。これはすべて澄子さんから伝授してもらった知恵。
次の写真はヨーグルトに混ぜたアロエ。ヨーグルトが白く、アロエが透明なので、よく見えないかもしれないけれど、ヨーグルトとアロエが混ざっている。アロエは茹でる前は独特の匂いがするけれど、茹でると匂いが消え、特別な味はせず、食べ易い。
今日から夕方1時間半ほど、エドソンの職場のエンジニアのハファエウ(Rafael)に英語のプライベートレッスンをすることになった。土曜日のホドリゴたちのクラスに合流するのではなく、平日のプライベートレッスンが希望ということで、まずは週1回で始めることにした。初回は彼の英語の理解力を見るために、いろいろ質問して答えてもらったり、文章を読んでももらったり、クイズをしたりした。英語の理解力は土曜日のクラスの人たちよりもずっと高いけれど、発音はがんばらないとという感じだった。生徒さんがじわじわと増えていることをうれしく思う。 | ||||
2011年7月8日(金) | ||||
水曜日の夜、寝る前にいつものようにモビを用便のために外に連れて出た際、ドアから出て少し行くと、モビがいきなり猛スピードで走って暗闇の中消えてしまった。いくら呼んでも戻ってこないので、家に懐中電燈を取りに戻り、エドソンと一緒に探しに行った。モビが走って行ったと思われる入り口ゲートに向かう道をゲートの方に向かって、モビの名前を呼びながら歩いて行くと、だいぶ経って向こうの方からモビがひょこひょこ戻って来た。一体何があったのだろうといぶかりながらも、その場は一応それで終わった。そして、その晩、午前4時前頃、エドソンがベッドの上で懐中電燈をつけてモビの名前を呼び、モビが足元のベッドにいないと言うので目が覚めた。それで、私のベッドの横を見てみると、私の足元の敷物の上で、モビが腹ばいに寝そべっていたので、ベッドに戻るように言って、エドソンのベッドの足元にあるモビのベッドに戻した。次の朝、何だか元気がなく調子が悪そうで、どうもモビは一睡もしていないようだった。どこかが痛いようなのだけれど、お腹が痛いのか、頭が痛いのか?よくわからない。病院に連れて行こうかどうしようか迷ったのだけれど、体をくまなく調べてもどこにも傷はないので、一応、お腹の薬と鎮痛剤を食事に混ぜて食べさせ、様子をみることにした。 木曜日の昼間は、まあまあ元気に散歩をしたり、食欲も普通にあり、用便の具合も正常だったのだけれど、夜になるとまたちょっと元気がなくなり、今朝は、また前日と同じような感じで、痛みがあるような浮かない顔をしている。それに今朝は首の右側が腫れている。水曜日のお散歩中に何か悪いものを食べたのか、夜どこかに行ってしまった際に何かがあったのか、とにかく2日連続で様子がおかしいので、やはり大学病院に連れて行って診てもらうことにした。いつものように9時少し過ぎに大学病院で受付を済ませたのだけれど、今日はいつもより以上に患者犬が多く、診察の順番が回ってきたのはほとんど12時近くになっていた。エドソンがこれまでのモビの状態を説明して、インターンの人がまず診察をし、次にドクターが来て診察をし、血液検査をすることになった。でも、もうお昼でラボは午後1時半にならないと再開しないので、1時半に戻って来るように言われる。 それで、仕方がないので、待ち時間を有効利用するため、ボトゥカトゥの中心部に行き、2ー3件の用事を済ませた。その後、大学病院に戻り待っていると、2時半頃になってようやく採血をしてくれた。でも、その検査結果が出たのは5時前で、検査結果に異常はなかったのだけれど、首に腫れがあるから炎症を抑える薬を処方すると言われ、担当の先生の手が空くまでまた延々待って、6時過ぎてようやく処方箋をもらい、大学病院を後にした。途中薬局で処方箋の薬を買い、家に戻ったら7時を回っていた。何だかとても疲れる1日になった。でも、ひとつの救いは、待っている間、ずっと私たちの膝の上でおとなしくしていたモビの調子がだんだん良くなってきたこと。 | ||||
2011年7月9日(土) | ||||
今週は、ボトゥカトゥの家具店に配達を頼んでおいた納戸に入れるタンスと、玄関に置く下駄箱が配達され、組み立てられた。そして、家の方は、南側の軒下や柱の仕上げが終わり、足場が取り除かれ、台所のガスの配管も行われ、玄関の外のベランダの床にタイルが貼られた。ゆっくりだけれど、少しずつ少しずつ、前進している。 モビも首の腫れがほとんどわからないくらいになり、いつものように元気に走り回ることができるようになったので、一安心。次の写真はお散歩中のモビ。
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2011年7月10日(日) | ||||
木曜日の夕方、エドソンが仕事から戻り、いつものようにモビを連れてお散歩に出た。家と入り口ゲートの間の、普段は滅多に行かない草地にモビが入って行くので、 後をついて行くと、鳥か動物の毛のような物が、地面一面にあるのだけれど、肉や骨はまったくない。ウルブか他の動物が食べて掃除をしてしまったのだろうか?翌日、エドソンがエディにこの毛を見せると、野うさぎの毛だということだった。何者かがエドソンが嫌っていた野うさぎのオサマ・ビンラーデンを殺害したのかもしれない。水曜日の午後もお散歩中にモビがこの辺をいつまでもうろうろしていたので、その時はすでにこれがここにあったと思われる。だからオサマを殺害したのはモビではないのだけれど、水曜日の夜、モビが姿をくらませた際、何かを追いかけて行ったことは確かで、その動物と格闘したのか、自分で転んだのか、おそらく首を痛めたので、首が炎症を起こして腫れ、痛みがあったのだろうという解釈で落ち着いた。
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2011年7月11日(月) | ||||
昨日、一昨日と、エドソンはいつものように家の中での作業を継続し、コンセントや照明スイッチなどの取り付けをすべて完了した。後は、屋根裏に上がって配線し、これらの線をつなげると、電気がつくことになる。そして、昨日はエドソンのワークスペースの窓にブラインドを取り付ける作業もしたので、くたくたになりながらも、少し満足そうだった。私は午後から床の掃き掃除と拭き掃除、納戸に入れたタンスなどの拭き掃除をした。エディたちは家の中でも土足で作業をするので、何度掃除をしてもすぐに床が汚れる。でも、汚れたままにしておくと、ますますひどいことになるし、傷つけてもよくわからないので、なるべくきれいにしておかなくてはならない。 昨日の作業の中で、テレビの衛星放送受信用のワイアー2本を壁の中に設置されたパイプに入れて、天井まで通す作業がうまく行かなかったので、エドソンは今朝エディにその作業を頼んだようだ。洗濯と物干しが終わった後、モビとお散歩に出たら、エディとマノが屋根の上で何かやっているのが見えた。テレビの白いワイアー2本を天井から通そうとしているようだった。次の写真では、マノが屋根の上にいるのと、家の東側(左側)のエドソンのワークスペースにある窓に、エドソンが取り付けた白いブラインドが下りているのが見える。
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2011年7月12日(火) | ||||
ニッケイ新聞の2011年6月29日付け「コラム オーリャ!」に次のような記事があった。日本を代表して、外国の人たちと意思の疎通を図り、日本の国益を守らなければならない立場にある人たちがこれでは、ちょっと寂しい。 『パラナ州の2市で、在クリチーバ総領事と、各市の市長や現地の議員の挨拶などを聞いた。 式典の懇親会でも、フェスタの舞台上でも、メディアの取材に対しても、総領事の言葉にはあまり力を感じられなかった。言葉の問題もあるのかもしれないが、原稿を読み上げるような口調で、心なしか目も泳いでいたように見えた。 それに対し伯人の市長や議員たちは、たまにユーモアも入れ、聴衆やインタビュアーの目を見て、訴えかけるように話していた。 両者とも話の内容は似通っていたが、話し方でここまで伝わり方や印象が違うかと驚いた。 外交官は政治家ではないので、演説に長けている必要はないのかもしれない。だが国の代表として話す以上、しかも移民が高く評価されているのだからもっと力を込めて話しても良いのに、と残念に感じた。(詩)』 ここパーディーニョは現在「冬」だけれど、日本の冬と違って、いろいろな花が咲いている。去年、ハイビスカスの庭に2株植えた黄色いマーガレットが、一旦、花が終わり、種があちこちに飛び散り、ハイビスカスの周りにたくさん生えてきて、最近また花を咲かせ始めた。
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2011年7月13日(水) | ||||
先週書いて、中国新聞に送った私の34本目のリポート「ブラジルの冬を彩る桜」が、今日付けで中国新聞のウェブサイトに掲載された。このサイトは、こちらへ。この短縮版が8月9日(火)の夕刊紙にも掲載されると聞いている。4月のリポートが掲載された際にも書いたけれど、このサイトは会員登録をしないと読めなくなってしまった。登録をしてログインし、このサイトの画面上左側にある「リポーター発」をクリック。そして画面中央最後の「海外リポート」をクリックし、左側の「ブラジル」のサイトを選ぶと読むことができる。登録するのは面倒だけれど、リポートは読んでみたいと思われる方はリポーター用のIDとパスワードをお知らせします。メールでご連絡ください。 エディはここで作業をしている時は、いつも車のラジオのボリュームを上げて、1日中音楽を流しているのだけれど、最近はスピーカーを持ってきて、どこにいても音楽が聞こえるようにしている。時々、音楽に合わせて歌ったりもしている。BGMがあると作業がはかどるのかな?
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2011年7月14日(木) | ||||
昨日は午前9時に、モビの超音波検査があったため、ボトゥカトゥの大学病院まで行ってきた。検査結果は異常なし。良かった。良かった。一安心。今後は3ヶ月に1度と言っていた超音波検査は、4ー5ヶ月に1度でいいということになった。一応、昨日がモビの治療の最終日だったので、抗がん剤治療や手術でずっとお世話になっていた主治医のカリナ先生(Dra. Karina)たちに何か感謝の気持ちを示そうということで、月曜日に作っておいたバナナブレッドを持参した。「そんなことしなくてもいいのに」と言いながらも、ドトーラ・カリナはとても喜んで受け取ってくれた。そして、彼女にモビを抱っこしてもらって、記念撮影。長い間、いろいろお世話になりました。
大学病院の後、郵便局、建築資材の店、ウエノ、パオン・ジ・アスーカーなどに寄り、用事を済ませ、午後2時近くに帰宅。帰宅後、エドソンは寝室や居間の4つの窓にカーテンレールを取り付ける作業をしてくれた。エディたちは家の玄関前の外ベランダを作る作業をしていた。 | ||||
2011年7月15日(金) | ||||
以下は、ニッケイ新聞の2011年7月1日付け「コラム樹海」からの転載。 『戦争直後に祖国救援運動として送ったララ物資に匹敵するぐらいの義捐金が、東日本大震災の被災者のために集まっていることは移民の日特集号(6月30日付け)で報じた。6億円というのは尋常な金額ではない▼ララ物資の時は、コロニアが勝ち負けに分かれて物騒な争いをしていた。祖国救援や聖市400年祭の準備を通して団結を固めて統合に向かっていった。90年代に求心力を失ったと言われたコロニアが、今回は久々に底力を見せている感じがする▼同特集座談会で園田昭憲県連会長が言っているように、「今までは日本が親代わりで助けてくれた。これからは・・・」という 覚悟は象徴的だ。何でもかんでも日本政府に支援を乞う姿勢を「コロニア乞食」と自嘲する論者がかつていたが、今は流れが変わった▼残念なのは日本国大使館がこの調査に協力してくれなかったことだ。「どの団体がいくら?」と聞いているのではなく、総額と団体名を聞いているだけ。せめて総額だけでも教えてもらえれば、さらに実態に近い数字が出せた。これはコロニア史というよりは、日伯交流史に残る重大事だ。不完全な部分が残ってしまったことに遺憾にたえない▼ 正直言って百周年の時ですら団結といえるものは少なかったが、今回を見ていると、主旨さえ賛同できるなら今もコロニアは一体化した動きが出来る——との希望も生れた▼同座談会の中で、山内淳元文協会長から「世代交代」という言葉への異論が出された。今回は一世、二世、三世、非日系関係なく、みなが日本の為に義捐金を拠出したという意味で、新しい形の日系共同体の出現を予兆させるものかもしれない。(深)』 | ||||
2011年7月16日(土) | ||||
昨日は、夜8時からパーディーニョの町で、パウロとジミーの主催で、¨Noite do Queijo e Vinho (チーズとワインの夕べ)¨というイベントがあり、行ってきた。このイベントの目的は、¨Uma festa beneficente em prol a Casa do Idoso de Pardinho.¨つまり、パーディーニョの老人ホーム(Casa do Idoso)のための資金調達。たった5000人ほどの人口しかいないこの小さな町に老人ホームがあると聞いてちょっと驚いたけれど、資金難で運営が大変らしい。それでパウロとジミーが資金調達支援にこのイベントを企画したのだという。ジミーというのは、町で鉄工所を経営しているパウロと同じくらいの年齢の人で、前からこの人の話は聞いていたけれど、直接会うのは今回が初めて。 ボトゥカトゥのパオン・ジ・アスーカーに行けば、様々な種類の、値段もピンから切りまで様々なワインが手に入るけれど、パーディーニョの町のスーパーでは無理だった。でも、最近、4軒あるスーパーの内のパーディニェンセ(Pardinhense)が、店舗を拡げて新装開店してから、安くておいしいアルゼンチンやチリなどのワインを豊富に販売するようになったので、エドソンは毎週のようにここにワインを買いに行く常連になった。パーディーニョのような田舎町では(パラカンビも同じだけれど)、ワインと言えば赤でも白でも、一般的にブラジル特有の呼び方で、スアヴィ(suave、甘口)とセコ(seco、ドライ)の違いしかなく、あまりおいしくない。そして、赤ならカベルネ・ソーヴィニョン、メルロー、シラー、ピノ・ノワール、白ならシャルドネ、リースリングなど、ワインのことをあまり知らない私でも知っているような名前を、ここの人たちは知らない。でも、パーディニェンセのようなお店が安くておいしい本物のワインを取扱い始め、今回初めての試みとは言え、町でチーズとワインのイベントが開かれるようになったというのはすごいことだと思った。 次の写真は、このイベント会場に一緒に連れて行って、私たちの足元でおとなしくしているモビ。犬を同伴していたのは私たちくらいのものだったけれど、小さな子供同伴の家族はたくさんいた。
イベント会場は、去年、牛の丸焼きの昼食イベントがあったのと同じ場所。でも、今回のイベントは夜の開催だったので、ライティングに工夫が凝らされ、設置されたテーブルや椅子にはきれいな布のテーブルクロスや椅子カバーがかけられ、ちょっと高級感を演出していた。ワインはガーソン(garson、ウェーターまたはウェイトレス)がテーブルまで注ぎにきて来てくれるのだけれど、ワインのお供のチーズなどは、会場の真ん中のテーブルに置かれており、各自取りに行くようになっていた。
次の写真は、毎週木曜日の夕方、私と英語のプライベートレッスンを始めたハファエウ(Rafael)。そして、彼のガールフレンドのマイーラ(Maira)。マイーラはUNESP(サンパウロ州立大学)付属の大学病院で、臨床心理士をしている。
舞台の上ではヨーロッパの民族衣装のようなものを着た数人の男女が、お決まりのサンバやセルタネージョではなく、フニクラとかオーソレミヨ、ボラレなど、聴き覚えのあるヨーロッパの歌を歌っていて、マジシャンの人が各テーブルを回って、間近で複数の手品を見せてくれた。なかなか楽しいイベントだった。
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2011年7月17日(日) | ||||
昨日午後の英語レッスンに、ホドリゴは仕事が忙しく来ることができず、ヴィトーはサンパウロに住むおばあさんの具合が悪く、家族でお見舞いに行ったため、欠席。それで、出席は女性陣ふたりだけとなった。普段はホドリゴがクラスのムードメーカーなのだけれど、もう慣れてきたからか、彼女たちだけでも、とても賑やかに和気あいあいとクラスをすることができた。人数が少なかったので、時々脱線しては、その脱線途上でもいろいろなことを一所懸命英語で話そうとするので、かえって良かったかもしれない。午後4時にレッスンが終わって、帰ろうとしているふたりをパチリ。左がエリカ(Elica、一般的にエリカはEricaとつづるのだけれど、彼女の名前はElicaとつづるのだそうだ)で、右がアナ・パウラ(Ana Paula)。アナ・パウラはとても健康的な人で、趣味は自転車とジョギング。昨日はここまで上り坂を40分かけて自転車でやって来た。すごい!
昨日の夜は、パウロのパーディーニョ・ロータリークラブ会長就任を祝う会が、アグアス・ダ・セハであり、行ってきた。去年の今頃、同じようにジュニオーの就任祝いがあったばかりで、たった1年で会長を交代するのかと驚いた。そしてさらに、パーディーニョ・ロータリークラブのずさんな会計運営などにがっかりして、一旦メンバーになりながらやめたエドソンが、またメンバーになるというので、さらにびっくり。どうやらロータリークラブのメンバーの顔ぶれが少し変わり、新しいメンバーも加わり、これからさらに刷新して行くというパウロを支援するために戻ることにしたらしい。去年のジュニオーの就任祝いでは、市長や市議会議員などが会費を払うことなく招待されていて、ジュニオーの政治的野心を感じたけれど、パウロの就任祝いには政治家は誰も招待されておらず、近隣のロータリークラブ関係者、友人、家族を招いての、政治臭のない会だった。会が始まるまで、飲み物を飲みながら待つ間、私たちのテーブルを囲んでいる人たちを撮影。左から、エドソン、ハファエウ、彼のガールフレンドのマイーラ、ホドリゴ、パウロの会社のイタチンガ支店で働いているタチアナ、そして、タチアナの友達の女性。この女性は私のつたないポルトガル語にも我慢強く付き合ってくれ、結構おしゃべりをしたのだけれど、名前は聞き忘れてしまった。
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2011年7月18日(月) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年7月6日付け「コラム樹海」からの転載。この記事の中のカレフールは、フランス系のスーパーマーケット、カルフールのこと。ポン・デ・アスーカルは、ボトゥカトゥにもある全国チェーンのスーパー、パオン・ジ・アスーカーのこと。 『自らの責任においてレアル・プランを実行し、現在の伯国隆盛の礎を作ったイタマル元大統領が2日死去した。思えば、17年前のちょうど7月1日に同プランは発表された▼クルザード・プランや夏季プランなどの数々の経済政策が導入され、総てが失敗に終わった80年代。サルネイ政権5年間のインフレ率はなんと100万%に達し、とどめは90年のコーロル・プラン。コロニアにはデカセギブームが起き、コチア産組、南伯などが潰れていく〃魔の90年代〃となった▼イタマル氏が副大統領から昇格した92年のインフレ率はなんと2200%!それが94年のレアル・プラン以降ピタリと止まった。それ以前は通貨切り下げが頻繁に繰り返され、紙幣に載せる肖像画の偉人の遺族が「どうせすぐ使われなくなるなら使用を許可しない」と怒ったとの記事まで出た▼いま合併が取りざたされているカレフールやポン・デ・アスーカルが大発展したのもプラノ・レアル以降だ。いかに安定した経済が重要であるかを如実に表している▼そして忘れてはいけないのは、歴代の大統領中でイタマル氏は唯一、スキャンダルに巻き込まれなかった潔白な政治家だったことだ。逆にいえば、だから印象が薄いともいえる▼大統領の罷免裁判という超弩級のスキャンダルで免職したコーロル大統領の後釜として、イタマル氏は副大統領から昇格した。その後には名声高いカルドーゾ大統領。派手な二人に挟まれ、どうしてもイタマル氏は地味なイメージが強い。コーロル大統領という最悪の時期にこそ、次世代の新芽がその政権内に吹いていた。今の日本もそうであってほしいと切に願う。(深)』 | ||||
2011年7月19日(火) | ||||
昨日の朝起きたら冷たい雨が降っていた。10時前には雨が止み、明るくなって来たものの、ときどき小雨が降ったりする曇りがちな1日だった。この週末、エドソンは上の家の台所にガス台を取り付けたり、電子レンジを置く棚を作って、電子レンジを据え付けたり、天井裏での電気の配線作業にとがんばってくれた。でも、電気の配線はことのほか時間がかかり、3分の1くらいしか進まなかったらしく、今週末もまた天井裏での作業を続けなくてはならないらしい。私も日曜日は、移動できる衣類や台所用品などを、上の家に少しずつ移動させる作業をし、ガレージと家とを何十回も往復した。それで、ふたりとも月曜日は体中がガタピシ言って、その上お天気があまり良くなかったので、何だか体の調子もどんよりして、しゃっきりしない1日になった。でも、この雨のお陰で、今週の水やり作業は必要なくなり、体のガタピシに拍車がかからなくて済むのはとてもありがたかった。 次の写真は、台所の流しの隣にエドソンが取り付けてくれたガス台。
昨日は午後3時半にエドソンの健康診断のために内科クリニックでの予約があったので、午後2時過ぎからふたりでボトゥカトゥに行き、建築資材の店、クリニック、カーテンの店、薬局と、はしごをして、用事を済ませた。 | ||||
2011年7月20日(水) | ||||
先日ノヴェラ(連続ドラマ)を見ていて、男性が女性に「ミ ダ ウマ セグンダ シャンスィ」(Me da uma segunda chance.)と言うのを聞いて、これは¨Give me a second chance.¨つまり、「やり直すチャンスをくれ」とか、「もう一度チャンスをくれ」という意味だと理解できた。英語のto giveにあたるポルトガル語がdarということが、これまで何故かどうしても頭にすんなんり入ってこなかったのだけれど、この表現を耳にしてようやくピンときたので、これからは忘れないで済みそうだ。ポルトガル語学習でのノヴェラの力はあなどれない。 次の写真は、ベランダ前に出来つつある外ベランダの輪郭。この右側に階段を作って、玄関から下りてこられるようにする予定なのだけれど、それはまだまだ。
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2011年7月21日(木) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年7月9日付けの「パウリニアで先行上映会=勝ち負け描いた『国賊』=主演の伊原剛志も来伯=コロニア向け試写会も」と題する「日系社会ニュース」からの転載。映画のタイトルのCoracoes Sujosというのは、日本語や英語に直訳すると、それぞれ汚れた心、Dirty Heartsということになるけれど、日本語の国賊というタイトル訳からすると、むしろTraitor(売国奴)の方が近いだろうか?いつだったか、だいぶ前にこの映画に出演している女優の常磐貴子さんと余貴美子さんが撮影が始まる前に来伯して、いろいろな人たちの証言を聞いて勉強しているというニュースをニッケイ新聞の記事で見たことがある。その映画がようやく完成したようだ。小さな田舎町に住んでいるので、この映画を見ることができるかどうかわからないけれど、見てみたいなと思う。ちなみに、記事の中に出てくる伊原剛志さんの言った「エウ・アモ・オ・ブラジル」というポルトガル語は、I love Brazil.という意味。 『終戦後の勝ち負け抗争を描いた話題のブラジル映画『Coracoes Sujos』(国賊、ヴィセンチ・アモリン監督)が完成し、初めての先行上映会が7日晩、聖州カンピーナス市近郊で行われた第4回パウリニア映画祭の開幕式として行われ、招待客1500人が鑑賞した。日本からは主演の伊原剛志が来て伯字紙各紙が競って扱うなど、一般公開前にも関わらず大きな話題を呼び、一 部では期待が高まっているようだ。 伊原剛志が演じる主人公タカハシは写真館を経営しており、妻のミユキ(常盤貴子)は日本語教師。日本戦勝を信じる愛国的な指導者から元軍人暗殺の使命を 授けられてからタカハシの振る舞いがどんどん変化し、夫婦生活がおかしくなる。変貌していく夫との愛を貫こうとする妻の葛藤が映画では描かれる。 奥田瑛二らハリウッド映画『硫黄島からの手紙』の有名俳優が多く参加しており、構想7年、制作費も750万レアル(約3億9千万円)かけている。フォー リャ紙7日付けによれば伊原剛志は取材に答えて、「この映画はきっと日本で成功するに違いない。あちらでは誰も知らない驚きの物語だ」と語っている。 エスタード紙7日付けによれば、アモリン監督は「エスタード・ノーボ体制と戦後において、日本移民は国旗掲揚、日本文化や日本語教育を禁止された。その社会背景からすれば映画の中で日本移民役にポ語をしゃべらせることはありえない。だから日本の俳優を選んだ」と説明する。 加えて「映画は純粋に過去のものであってはいけない。現代の反映でもある。日本移民への抑圧があの抗争を生んだように、今の中東の原理主義にも同じ力が働いている。少数民族の表現の自由が狭められ、社会的な不寛容が強まることは危険」と社会派監督らしい発言もしている。 UOLサイト記事によれば伊原は開幕式で「エウ・アモ・オ・ブラジル」などとポ語を交えてあいさつし、観客を喜ばせた。「良く完成された映画」であり、 セリフの9割が日本語という特殊な〃武器〃を弄したブラジル映画と高く評価しつつも、同記者は「映画には入り込めない距離感がある」とし、「鑑賞後に残る感動を重視すべく全力を尽くしているように見えるが、実際に見終わった後、会場は奇妙な違和感に襲われ、けっして感動の渦ではなかった」とも記している。 なお同映画の広報を担当するプリメイロ・プラノ社によれば、本格的な一般向け上映は11月以降で、それ以前にコロニア向けの先行上映会も検討されているという。』 | ||||
2011年7月22日(金) | ||||
次の写真は、ガレージ内の仮設台所の食器棚の側に置いたベッドの中で、ゴロンと横になっているモビを抱きしめているエドソン。カメラを向けたら、モビまでカメラ目線になっているのが何ともおかしい。エドソンはモビが可愛いくてしょうがない。モビが何をしても、決して声を荒げることはない。例え鼻先でオナラをされても笑っている。でも、基本的にモビは本当に聞き分けが良く、賢いので、叱らなければならないようなことはめったにない。あえて問題をひとつ挙げるとすれば、夜寝ている間のモビのいびきがうるさくて、安眠を妨げられることぐらいだろうか?でもこれに関してもエドソンは「やれやれ」と苦笑するだけ。
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2011年7月23日(土) | ||||
今日は朝から大忙し。エドソンがアリステウに重機での作業を頼んだと言うので、私は朝一番のモビの用便兼お散歩の際、モビと一緒に入り口ゲートの鍵を開けに行き、戻ってから朝食の支度。朝食が出来た頃アリステウがやって来たので、エドソンは朝食後回しで、アリステウと作業を開始した。しばらくしてエドソンが戻り、急ぎ朝食を済ませて、また作業に戻って行った。私は洗濯などをしながら昼食の支度。アリステウには日当を支払うのだけれど、作業に来てもらう際はいつもお昼の食事を出すことになっているので、簡単にできるカレーを作った。お昼の準備ができ、外に出てみたら、家の外の階段の下の部分の土が削られ、外ベランダの煉瓦の囲みの中に土が入れられ、アリステウが家の北側で重機を操作していたので、それをパチリ。
12時前に作業を一旦終え、3人でお昼を食べた際、エドソンがアリステウに「これはインド料理を日本風にアレンジしたカレーというものだよ」と説明していた。ブラジルの人は甘い味の料理はあまり好きではないけれど、辛い味やスパイシーな味のものは大丈夫なので、カレーは誰に出しても問題なく食べてもらえる。アリステウもカレー初体験ながら完食してくれた。その後、エドソンとアリステウは作業に戻り、私はガレージ内の掃除をして、午後の英語のクラスの準備。2時近くなって重機が故障したらしく、作業が中断。来週末もう一度来て、作業を完了してくれるということになった。それで、エドソンは天井裏に上がって、夕方まで電気の配線作業を再開。私は2時から4時まではおとなのクラス。4時から5時までは子どものクラスをし、あっと言う間に夕方に。次なる仕事は夕食作り。モビのレバーペースト作りも同時進行。バタバタしている間に1日が過ぎて行った。 今日は子どものクラスにイザベラと一緒にエンヒケ(Henrrique)という7歳の男の子がやってきた。イザベラとどういう関係の子なのか知らないけれど、英語のクラスなど経験したことがないということなので、今日は体験参加ということだった。イザベラはもう何度もクラスをやっているし、エンヒケよりも年上なので、彼のために私の言っていることをポルトガル語に訳して説明したり、彼の発音がおかしいと直したりと、何だかんだと世話を焼くのがおかしかった。 | ||||
2011年7月24日(日) | ||||
以下は、ニッケイ新聞2011年7月13日付け「コラム 樹海」からの転載。コパ・アメリカでブラジルは早々に敗退し、今日ウルグアイが優勝した。これからどんな影響が出るのだろう? 『サッカーと政治が密接に結びついていることは当地の常識だ。先日ラジオを聞いていたら現在アルゼンチンで行われているコッパ・アメリカが開催されている6蹴球場のある都市の首長のうち、4カ所がクリスチーナ大統領の与党に属すという。ここで亜国が地元優勝すれば、国民は現体制への好感を強める▼もちろん10月末には同国の大統領選挙だ。立候補表明したばかりのクリスチーナ氏の公約の一つは「テレビを全国民に」、つまりコッパを見てもらうことだ▼1928年の五輪のサッカーで実績をあげたウルグアイが初めてのW杯を同国に誘致して優勝したのが、南米におけるサッカーと政治の蜜月関係の始まりだ▼ブラジルの場合、優勝した代表選手団はまず大統領官邸に優勝報告に行き、大統領らとの記念撮影から国内の日程を始める。2014年に地元開催するW杯で優勝するかどうかで、当然その年の10月に行われる大統領選挙に影響する。勝てば現政権への支持が増え、負ければ苦戦が予想される▼だからジウマ大統領はW杯に向けて全伯で建設される蹴球場の入札や建設の詳細報告をゆるめる法案を可決させ、聖市のカサビ市長も開幕試合を行うイタケロン(コリンチャンス新蹴球場)の建設を特別支援する法的枠組を無理やり可決した。サッカーで国民的な不評を買うことは、政治家にとって致命的な失点になる▼調子を取り戻しつつある亜国代表に比べ、伯国代表はいまだ不甲斐ない状態。万が一このまま敗退すれば〃1億9千万人全員が代表監督〃と言われる伯国民は黙っていない。この国でサッカーは単なるスポーツではないのだ。(深)』 | ||||
2011年7月25日(月) | ||||
先月中旬、家の南側の三角地帯でとうもろこしを収穫した後、そこを耕し直してマンジョキーニャ(Mandioquinha)の種を撒いた。2ー3週間ほどして芽が出始め、少しずつ成長してきているので写真に収めた。マンジョキーニャというのは中国新聞のブラジルリポートにも書いたことがあるけれど、「小さなマンジォカ」という意味で、キャッサバ芋の仲間なのだけれど、見かけはマンジォカとは異なり、小さめのジャガイモのよう。味はジャガイモというよりもマンジォカに近い。ポタージュスープにするのが一般的なようだけれど、ジャガイモのように調理してもいいと思う。
13日(水)付けで中国新聞のウェブサイトに掲載された、私のリポート「ブラジルの冬を彩る桜」の短縮版が、夕刊に掲載されるのは、8月になってからと聞いていたのだけれど、明日26日(火)付けの夕刊への掲載に変更になったという連絡があった。そして、今日付けで、ブラジルからリポートを書いているもう一人のリポーターの沢田さんの「アルゼンチンでコパ・アメリカを取材」というリポートが、ウェブサイトに掲載された。このサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年7月26日(火) | ||||
今月の初めにイビウーナの中村さんのお宅でのお花見に誘われて行った際、ご主人の体調が思わしくなく、元気がなかった。サンタ・クルス病院で受診するつもりという話は聞いていたけれど、そのまま入院されたことは退院されてから知った。その間ずっとウィークリー・ノートはお休みだった。10日ほどの入院から家に戻られた際、電話で少し話すことはできたものの、精神的にちょっと参っておられるようだったので、心配していたのだけれど、4週間ぶりに以下のウィークリー・ノートが届き、ほっとした。しかも、ご自分の入院体験を正直に書いておられる。口述筆記ということなので、まだご自身でコンピュータには向かえないのかもしれないけれど、どうやら精神的には立ち直ってきておられるのだなと、少し安心した。どこにいても幸せな生活の基本は、心身の健康だ。がんに負けることなく、がんと仲良く、末永く共存して行ってほしいと心から願っている。
翌6日(水) 腸洗浄の上、大腸カメラで腸内検査をする。その結果、大腸の入口に癌を発見。直ちに開腹手術。 手術の目的は3つ。 1.腸内のがん細胞のサンプル採取。(癌は切除せず、細胞のサンプルのみ採る。) 2.癌で塞がっている大腸にバイパスをつける。(通じのため。) 3.腹水を取る。(5リットル超あった。) 直ちに集中治療室(UTI)へ入れられる。 UTI(Unidade de Terapia Intensiva): 初めての経験 術後、目を覚ましたらUTIの中に居た。癌の最大の問題は、頭がはっきりしていることだ。集中治療室の中で蠢くプロの集団は青い制服を着ていた。その蠢く姿がまるで地獄の中の蒼鬼のように見えた。てきぱきと動けば動くほどその感じを強めた。周りからは始終泣き声が聞こえる。阿鼻叫喚。自分は全く手足も動かせず、ただ身を任せるのみだった。自由を奪われた人間はもはや人間とは言えない。ただ長い時間が澱んで停滞していた。 8日(金)UTIから病室に移される。家内がいて人間らしい感覚が蘇る。入室した病室は405号室。看護婦、看護人の溜まり場に最も近い特別室だとのこと。ありがたいこと。 9日(土)フェルナンド岡田先生が訪ねてくる。これまでの処置について説明を受ける。 1.癌の治療についてチームの考え方を教えてくれる。ブラジルとアメリカは癌治療に関して最も進んだ国。ブラジルもアメリカも最新の薬物を投与する。 2.日本の癌治療と米伯の癌治療のコンセプトは異なる。その骨子は癌と闘わない事。癌との共存を図る。(Conviver)従って、開腹手術後の身体を休める。出来ればカテーテルを体内に早めに埋め込んだ後、分析結果と一週間後の経過を診て抗癌剤の種類と投与計画を立てる。 12日(火)トニー先生の手でカテーテルを埋め込む。 16日(土)岡田先生がトニー先生の埋めたカテーテルの状態を確認。「病院であと一週間は特にすることがないのでどうするか」ということについて相談に乗ってもらう。ちょっとキツイかもしれないがイビウナへ帰っても良いという許可を戴く。喜び勇んでイビウナヘ帰る。但し、21日(木)には病院に診せに来るようにということだった。21日に診察に行った際、27日(水)の田中医師による診察を予約。 開腹手術の経過 術後全く食欲が無く、点滴で凌ぐ。但し、先生方が便通を懸念し無理でも点滴を止め、口から食物を摂るように言う。ポイントは放屁。無理にでも食べるようにとのこと。何となれば、癌と共存する治療は体力が勝負だからだ。体力は飲み食いしない限り維持も増強も出来ない。しかし、イビウナに帰った後も全く便通がなく心配になる。目を瞑って食べるが中々辛い。 18日(月)朝7時15分、バイパス手術後初めての便。直ちにDr.フェルナンド岡田の携帯電話に連絡。先生大喜び。出た瞬間、家内と「出たー!」と喜びを分かち合う。他人が聞いたら可笑しな事だと思うがこんなに嬉しかったことは最近なかった。その後、19日、(20日を跳んで)21日以降便通が続く。 よく考えると飲み食いすることは、今の仕事の全てである。20日次女、21日長女、22日長男が相次いでサンパウロ入り。気持ちも大分和らいだ。 マタイ6章に有名な主の祈りがある。その11節に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」というのがある。今まで「食べる」という意味について深く考えなかった。食べることが第一の仕事になって初めて「日用の糧を今日も与えたまえ」の意味を知る。これは、「食糧を買うお金を一万円ください。二万円恵んで下さい。」という意味ではなくて、「日々の糧を与えてください」と言う意味で、もっと言うと「生かしてください」という意味だ。何億円持っていても日用の糧を失っては意味がない。そんな聖句だと気付いた。イビウナ、24/07/2011 中村 勉 (口述) | ||||
2011年7月27日(水) | ||||
テレビのノヴェラ(連続ドラマ)を見ていると、「どうしたの?」とか、「何があったの?」という意味で、O que foi?(オ ケ フォイ、What was it?)とか、 O que aconteceu?(オ ケ アコンテセウ、What happened?)という表現をとてもよく耳にする。この他、「そんなこと信じない」とか、「信じられない」という意味で、Nao acredito.(ナオン アクレジト、I don´t believe it.)という表現もよく聞く。このacreditarという言葉、英語のcreditに似ている。英語のcreditは、すぐに誰もがクレジットカードを思い浮かべるように、信用取引のことだけれど、そこから「信じる」という意味もあることに気づき、「ああ、そうなのか」と納得する。 また、テトラパックに入った果物ジュースや飲むヨーグルトなどを買うと、テトラパックにAGITE ANTES DE BEBER(アジチ アンチス デ ベベー)と書いてある。これはagiteという言葉を知らなくても、飲む前によく振ってから飲むようにという意味(Shake before drinking.)だなと推測できる。そしてワンテンポ遅れて、このagiteという言葉は、英語のagitate(扇動するとか、かき混ぜるという意味)のことだとハタと気づいて「ああ、そうか」と納得する。英語のcreditにしてもagitateにしても、ポルトガル語のような使い方はあまりしないので、連想からピンとくるまでに少し時差が生じるのだけれど、ポルトガル語の新しい言葉に出会う際、こんなふうな連想から、英語との共通点を見出して、納得するということがよくある。 | ||||
2011年7月28日(木) | ||||
ニッケイ新聞に2011年7月13日から15日までの3日間、『特別寄稿=私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ』と題するとてもおもしろい連載記事(上)(中)(下)が載っていた。 『1899年から14年間、神戸の在日ポルトガル領事館の総領事などを務めたヴェンセスラウ・デ・モラエス(リスボン生れ、1854—1929年)は軍人、 文筆家としても知られる。著書には『おヨネとコハル』『日本精神』『徳島日記』などがあり、芸者おヨネと共に暮らし、彼女の死後は職を辞して、ヨネの故郷である徳島市に移住。ヨネの姪であるコハルと暮らすが、やはり先立たれる。徳島ではスパイの嫌疑をかけられ、「西洋乞食」とさげすまれたこともあり孤独のまま同地で亡くなった。作家・新田次郎の絶筆はこのモラエスを取り上げた小説『孤愁 サウダーデ』だった。その次男で数学者の藤原正彦が父の取材の道筋を追体験し『父の旅 私の旅』として出版した。そんなモラエスに惹かれた中田みちよさんが今年わざわざポルトガルを訪れ、モラエス足跡を辿り随筆を寄稿したので、ここに掲載する。(編集部)』 この連載記事の(上)は、こちらへ。 この連載記事の(中)は、こちらへ。 この連載記事の(下)は、こちらへ。 | ||||
2011年7月29日(金) | ||||
今朝、モビと寝起きの用便兼お散歩に出ると、気持ちのいい青空に、飛行機雲がちょうど東西南北に十字を切るようにくっきり浮かんでいたので、家にカメラを取りに戻り、写真に収めた。私たちの頭上は旅客機の航路ではないので、軍用機が残した飛行機雲なのだと思うけれど、我が家の上できれいに十字を切っているなんて、珍しい。
ブラジルの医療制度は少しアメリカのそれと似ている。まず、アメリカで言うところのプライマリー・ケア・フィジシャン(primary care physician、主治医)のところで診てもらい、その医師から必要な検査(例えば、血液検査や超音波検査など)を指示されると、それらの検査をしてくれる施設に自分で予約を入れて、検査をしてもらいに行く。もちろん、ただ闇雲に検査施設を探して行くのではなく、主治医がこの検査はどこそこに行きなさいとちゃんと指示してくれる。検査後、結果が出る日を確認して、その検査結果をもらいに行った後、主治医のクリニックに予約を入れ、その検査結果を持って、もう一度診てもらい、問題があればその後の治療法を相談したり、他の専門医に紹介してもらったりする。私の主治医は婦人科のドトー・ジョゼ。エドソンの主治医はドトー・ジョゼから紹介してもらった内科の女医さん。昨日、一昨日は、エドソンの神経系の検査、ふたりの血液検査と尿検査、そして、私の超音波検査と、三ヶ所の検査施設を回って検査を受けた。結果は来週の中頃出る予定なので、来週またそれを受け取りに行かなければならない。ちょっと面倒くさい感じもしないでもないけれど、必要なことなので、面倒くさがっていてはいけない。そして、日本と違って主治医や検査施設の専門医の感じが良く、質が高いように感じる。何科の医師であろうと、主治医は日本の医師よりも幅広い知識を持っているようだし、患者のことを第一に考えてくれる。患者が不快な症状を訴えているのに、検査結果に特に異常がなければ、自分の専門分野しかわからないため、何でもないと突っぱねる(あるいは、単にストレスだろうと片付ける)日本の医師とは大きな違があるように思う。 私たちの住んでいるパーディーニョはとても小さな田舎町だけれど、お隣のボトゥカトゥにはサンパウロ州立大学医学部と、付属病院があり、医療レベルが高いことで知られている。そして、この医学部があることで、ボトゥカトゥ市内にはたくさんのプライベートクリニックや検査施設がある。そのため、小さな田舎町にもかかわらず、ここでは十分な医療が受けられる環境があるのは、何ともありがたい。ボトゥカトゥは医療関係者の人口に占める割合が高く、住民の平均所得が比較的高いためか、犯罪発生率も他のブラジルの同規模の町よりも低いと言われている。 ただ、ブラジルでは医療費は基本的に無料(動物はもちろん有料)なのだけれど、それは公立病院で医師を選ばず、何時間も、事と次第によっては、何週間、下手をすると何ヶ月も待たされることを覚悟しなければならないという現実もある。そのため、医師を選んで、ちゃんとした医療を受けたいと思うと、私たちのようにプライベートクリニックに行くことになる。そして、アメリカのようにいろいろな医療保険があるのだけれど、保険料がとても高いので、入院でもしない限り、1年間に実際にかかる医療費よりも、月々保険会社に支払う保険料の総額の方が高いというおかしなことが起こる。それで私たちは保険に入らず、実費で診察を受けたり、検査を受けたりしている。2人分なので、受診や検査をするとごっぞりまとまった費用がかかるのだけれど、1年に1ー2回の受診や検査のために、1年間保険料を払いつづけるよりも安上がりなのは言うまでもない。 | ||||
2011年7月30日(土) | ||||
このところモビのいびきが前にも増してひどく、夜中に何度も起こされる。それでふたりともちょっと寝不足ぎみ。特に、木曜日の夜は私たちが寝る前からモビがゴーゴーといびきをかくので、エドソンが何度も声をかけて止めさせようとするのだけれど、止まらない。それで全然眠れず、仕方なくモビを彼のベッドごとシャワールームに移動した。しばらくは静かだったのだけれど、その後、目を覚まして自分が私たちと一緒に寝室にいないことに気づくと、悲しそうに泣き始め、ドアを開けようと足でガサゴソ始めた。「ああ・・・やれやれ、やっぱりダメか・・・」それで、また私たちの寝室に戻し、「お願いだから、大きないびきをかかないでね」と、言い聞かせ、床についた時はもう3時近くになっていた。 それで、昨日エドソンは1日中ゾンビ状態だったらしく、たまりかねて睡眠導入剤を買って帰ってきた。マラクジャ(パッションフルーツ)から作った自然素材の睡眠導入剤で、処方箋がなくても買える種類のものらしい。昨晩はふたりでこれを飲んで寝たので、モビのいびきはまったく気にならず、久しぶりに朝までぐっすり眠ることができた。
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2011年7月31日(日) | ||||
次の写真は、昨日現在の我が家の玄関前の状態。左側に外ベランダの形ができ、中央の玄関先から下りてくる階段のための煉瓦が少し積まれ、右側のガレージに下りて来たところに低い煉瓦の壁ができつつある。でも、煙突はまだできていないし、屋根瓦も、面と面が出会うところの峰がまだふき終わっていない。東側の外壁のペンキ塗りも何故か3分の1がまだ未完成でほったらかし。ダイニングルームのキャビネットもまだできていない。結構、ないないずくしで、これらがすべてできるにはまだまだ時間がかかりそうだ。それに、このところエディはうちの作業は午前中だけして、午後からは他所の大工仕事(ベランダに置かれた木の欄干のようなものを作っている)をここでしているようで、こちらの期待通りにはなかなか作業が進まない。
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