Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年5月23日(月) | ||||
一昨日の21日(土)に、約1ヶ月間一時帰国していた日本から無事に戻ってきた。私がこちらを出発した19日に父が亡くなったことを、21日に成田に到着してから知った。その日は成田で1泊する予定を急遽変更して、急いで羽田に移動し、最終便で広島に飛ぶ。21日のお通夜には間に合わなかったけれど、何とか22日の葬儀には間に合ったので良かった。生前からの父の希望で、質素に家族葬で見送る。それでも親戚の人たちや、バレーボールの関係の人たちは葬儀に参列してくれたのはありがたかった。 父は3週間足らずの入院で、余り苦しむことなく、89歳と6ヶ月余りで永眠。穏やかな微笑むような顔をして眠っていた。90歳には半年弱届かなかったけれど、いい人生を精一杯生き抜いたのではないかと思う。学生時代は何度もバレーボールで全国優勝をし、戦争直前の東京オリンピックの開催が流れたため、オリンピックには出ることはできなかったけれど、その代わりに行われた極東大会で日本代表として出場。フィリピンの戦場では無駄に部下を死なせることなく、マラリアにかかりながらも生還。世の中が平和になってからは、帝人名古屋工場の女子バレー部を全国優勝に導くというバレー人生だった。バレーを離れてからは平凡なサラリーマン人生だったかもしれないけれど、兄の所のふたりの孫とふたりの曾孫にも恵まれ、穏やかな老後だったのではないかと思う。最後までボケることなく、自発呼吸ができなくなる前後の、最後の数日以外は寝たきりになることもなく、人生の幕を降ろすことができたのは立派だったと思う。お父さん、長い間お疲れ様でした。ありがとう。
5月20日(金)の晩から空港近くのホテルに泊まったエドソンに、サンパウロ空港で出迎えてもらい、タクシーでまずはバハ・フンダのホドビアーリア(バスターミナル)まで移動する。金曜日の晩、交通渋滞でホテル到着が遅くなったため夕食を食べ損ない、土曜日の朝もホテルの朝食の準備ができる前に空港に来なければならなかったエドソンは、お腹を空かせていたので、高速バスの切符を買った後、ホドビアーリアの中のランショネッチのひとつで、簡単に腹ごしらえをし、午前9時発の高速バスでパーディーニョに向かう。私は前回同様、2時間半余りのバスの中で、2時間近く眠ることができた。 パーディーニョのホドサーブのバス停から、まずはドナ・クレウザの所で預かってもらっていたモビを迎えに行くと、モビは大喜びで飛びついてきた。術後の経過は順調とは聞いていたけれど、とても元気そうなので、ほっとする。家に戻ってから、建設中の我が家の進捗状況をエドソンとふたりで見て回った後、シャワーを浴びて、ベッドに潜り込んだ。午後6時過ぎに「晩ご飯の支度ができたよ」と、エドソンに起こされるまでぐっすりと眠る。日本から戻って来た日はいつも、眠っても眠っても、まだ眠いという状態が続く。夕食後、後片付けをして、またすぐにバタンキューと寝てしまった。お陰で、翌日の日曜日の朝は気持ちよく目が覚め、疲れも少し取れた感じがした。 充分眠って、少し元気を回復した日曜日は、掃除、洗濯、荷物の片付けに追われ、あっという間に一日が終わる。今朝は、朝食の後、エドソンはいつものようにモビと連れ立って散歩に出て、エディとの話が終わると、仕事に出て行った。私の留守中は、モビも一緒に職場に連れて行っていたのだけれど、今日からは以前のように、私とモビは家でお留守番の日常が戻ってきた。 | ||||
2011年5月24日(火) | ||||
私の留守中、こちらの様子を知らせるためにエドソンがメールに添付して送ってきてくれた写真を、時系列順に以下に紹介しようと思う。 次の2枚の写真は、4月19日の朝、サンパウロ空港に向け出発する前に撮影した我が家。ようやく屋根の建設が始まった。
留守中、ちゃんと食事を作って食べているかと心配する私のために、4月24日(日)のイースターに、エドソンが張り切って作った夕食の写真を送ってきてくれた。パスタとジャガイモと鶏肉とオクラ。そして、欠かせないワイン。モビもいつものようにドッグフードに牛肉の缶詰を混ぜたものを食べている。
4月28日(木)にモビは大学病院で予定通り手術を受けた。麻酔がすぐには効かず、手術室に入ってもしばらく泣き声が聞こえていたらしい。手術が怖かったのだろうと思う。手術が済むと、「麻酔から覚める頃だから、声をかけてあげてください」と言われ、エドソンはモビの名前を呼んだり、いつもモビに歌っているこどもの歌を歌ったりしてあげたということだった。術後の痛みでクーン、クーンと泣くので、可哀想だったと言っていた。次の写真はその日の晩、家に連れて帰って、ベッドの中でぐったりしているモビ。よく頑張ったね。
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2011年5月25日(水) | ||||
昨日に引き続き、私の留守中にエドソンが撮った写真を紹介しようと思う。 手術から一夜明けた朝、散歩に出た際の写真。前の晩はぐったりしていたけれど、翌朝は少し元気を取り戻したようだ。首の包帯が痛々しい。でも、手術はうまく行き、元気を取り戻しつつあるので、良かった。
次の写真も散歩の際に撮った写真で、家の屋根に瓦が並んで、家らしくなってきている。
家の中のベッドに座って、いい子にしているモビ。
術後、毎日モビに抗生剤などを飲ませたり、1日3回、傷口の消毒をするなど、エドソンはモビの世話がとても忙しい。次の写真のモビは、首に包帯をしていないので、首の所に手術の傷跡がはっきり見える。
私の留守中、毎日のように採れるオクラをエドソンは満喫したようだ。
家の屋根の瓦が一通り並び、屋根に上がる足場が取り外された状態になっている。でも、まだ太陽光温水ヒーターのパネルは屋根の上に設置されておらず、軒下の仕上げや雨樋の取り付けなどもまだこれからのようだ。
モビの手術の傷口が癒え始め、かゆいらしく、後ろ足でかいて傷口が開いてしまうことがあるらしい。夜は左後ろ足に包帯を巻いて、寝ている間に傷口をひっかいても大丈夫なように工夫している。包帯を巻くと、モビは足を怪我しているという錯覚を起こすらしく、変な歩き方をし、翌朝包帯をはずしてやると、「あれ?」というような不思議な表情をするらしい。
夕飯前の散歩から戻ると、一緒に家に入ったはずのモビの姿が見えないので探すと、台所のガスレンジの前に立って、昨日エドソンが作って一緒に食べた肉と野菜の煮込みの入った鍋をいつまでも見つめている姿がおかしくて、写真を撮ったのだそうだ。モビが今飲んでいる薬は、食欲が旺盛になるから肥満に気をつけてと言われていたけれど、以前にも増して、食いしん坊になってきている。そして、本当に太って肥満児になってきている。こりゃ大変だ!ダイエットしなければ・・・
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2011年5月26日(木) | ||||
一ヶ月も留守にすると、超スローペースで作業が行われている我が家の方も、さすがにいろいろな事が進展していた。次の写真は、私が戻った翌日の22日(日)にエドソンが撮った我が家。北側の屋根に太陽光温水ヒーターのパネルが並び、東側の軒下や柱の仕上げをするための足場が組まれていた。そして家の東側で育てていたイペーやフランボヤンの苗木11本を、マウリシオが植えてくれていて、植林総数が235本になっていた。その他にも植林用にたくさんの穴を掘ってくれていた。
そして、お隣のカゼイロのジョアオンが、乳牛4頭(大人の牛2頭と子牛2頭)を飼い始めたため、我が家の敷地の南側で4頭がのんびりと草を食んでいた。
次の写真は、23日(月)の朝、東側の軒下と柱の仕上げを始めたエディたち。右側の足場の上で赤い野球帽を被り背中を向けているのがエディ。左側のおにいちゃんは、我が家の建設が始まったほぼ当初からずっとエディを手伝っているまだ10代のおにいちゃん。ペドレイロの手伝い仕事はきつい割に、日当が安いので、みんなしばらく仕事をすると、長くは続かずやめて行くため、手伝いの人たちの顔ぶれは結構頻繁に変わる。でも、このおにいちゃんはとてもまじめで、ていねいな仕事をするので、エドソンがペドレイロになるための修行をさせてやったらどうかと、エディに助言して、以来、エディが目を掛けて仕事を教えている。この日はエディの弟のネゴと、もう一人のヘビースモーカーのペドレイロさんはお休みで、その代わりに、これまで見たことのない黒人の人が手伝いに来ていた。
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2011年5月27日(金) | ||||
以前、家の下の三角地帯に植えたオレンジの木の根元から、何かの芽が出てきていて、かぼちゃのような黄色い花が2つくらい咲いていると書いたけれど、やはりかぼちゃだった。私の留守中、実がなり、少しずつ成長しているから戻ったら収穫して食べようと、エドソンが言っていたのだけれど、一つだけ成長したかぼちゃを、早速エドソンが日曜日に収穫して来てくれた。余り大きくはないけれど、これもインゲン同様「棚ぼた」で収穫したものなのだから、ただただ感謝。
昨日は、週に一度の抗がん剤治療のため、モビを大学病院に連れて行く。いつものように血液検査の結果を待って、治療をしてもらい、お昼頃治療終了。モビは、ドクターやインターンの人たちとすっかり顔馴染みになり、名前も憶えてもらっている。他の患者犬の飼い主からも「かわいいね」とよく言われ、名前を聞かれたり、どこが悪いのかと声をかけられることがある。結構人気者だ。そんな時は親バカ丸出しで、うれしい。午後からは、マクドナルドのドライブスルーでお昼を買って食べ、建築資材の店や銀行や車の保険会社やスーパーなど6ー7軒を走り回り、夕方帰宅。欲張っていろいろたまっていた用事を済ませたため、モビも私たちもちょっとお疲れさまとなり、夕食後はみんな一緒にソファーでうたた寝。似た者家族だなあ。 今日は、マウリシオが仕事に来てくれた。2月にソロカバから持って帰って植えたくぬぎのどんぐりのひとつが、芽を出して15センチくらいに育っていたので、その苗木を丘の上に植えたり、すごく元気に育って、枝が密集してきたハイビスカスの枝を12本ほど切って、株分けしたりという外での作業を一緒にした。外での作業は思いのほか疲れるけれど、気持ちがいい。 | ||||
2011年5月28日(土) | ||||
留守中6週間にわたりお休みにしていた英語のクラスを、今日再開した。ホドリゴとヴィトーとアナ・パウラに加えて、今日はアナ・パウラと同じボトゥカトゥの英語学校に通っていたクラスメートだという若い女性が、もうふたり参加することになった。初日は体験クラスなので、気楽に参加してもらう。4人掛けのダイニングテーブルを6人で囲むのはちょっと窮屈だけれど、上の家ができるまでの辛抱だからとエドソンに説明してもらう。パラパラと新しい生徒さんが参加するため、クラスをやり始めた最初からの生徒であるホドリゴは何度も同じところを復習することになるのだけれど、全然気にしていないようで助かる。そもそも新しい生徒さんをリクルートして来るのはホドリゴなので、その辺のところはよくわかってくれているようだ。今日参加した女性たちが2回目以降も来るかどうかはわからないけれど、参加することになると、生徒数は5人になる。2人より3人。3人より5人の方がクラスが賑やかで活気が出るので楽しい。新しい生徒さんをリクルートしてきて、クラスのムードメーカーを務めてくれているホドリゴには心から感謝。人口5000人ちょっとの小さな田舎町のパーディーニョから3人もボトゥカトゥの英語学校に通っている人たちがいたなんて少々びっくり。若い世代は少しずつ変わって来ているのかもしれないなと思った。 | ||||
2011年5月29日(日) | ||||
広島に戻っている間、中国新聞だったか産経新聞だったかに、ブラジルに関する特集記事が連載されているのを見かけた。また、お年寄りに絶大な人気があるというNHKの深夜ラジオでも、ブラジルのことを特集しているよと、友人が知らせてくれた。このところ日本も遅まきながらブラジルに関心を持ち始め、注目し始めているようだ。そして、ブラジルに戻ってきたら、2011年5月11日から18日までの6回にわたり、ニッケイ新聞が『「第3の波」到来か=ブラジル進出企業の今を追う』という記事を連載していたので、ここに紹介しようと思う。 『今、にわかに、そして着実に日本企業の進出の足音がブラジルに響こうとしている。クビチェック大統領時代の1950年代の工業化促進計画に乗った 「第1の波」、「第2の波」の70年代の官民による熱い日伯関係は80年代の伯国の経済混乱と90年代の日本側のバブル崩壊で極端に冷えきった。経済を立て直した大国としての評価をいち早く下した欧米企業のラッシュに遅れる事約15年、内需拡大による安定的な成長を続ける伯国の潜在性に改めて日本企業が目を向け始めたのだ。その年間進出企業数はまだ70年代とは比べものにはならないが、伯国は資源を持つとともに、「モノを売る」市場として確立しつつあり、 進出企業の業種にも変化が見られるようになった。長い沈黙の時を経て今、日本企業の「第3の波」の到来を予感させている。(宇野秀郎記者)』 この連載サイトは、こちらへ。6つの記事の中から興味のあるものだけを読んでみようと思うわれる方は、以下に列挙したそれぞれの記事のサイトへ直接どうぞ。 《1》=「失われた20年」を経て=再び高まるブラジルへの関心・・・ このサイトは、こちらへ。 《2》=日本の牛丼を伯国に=「すき家」2年目の挑戦・・・ この記事のサイトは、こちらへ。 《3》=〝逆上陸〟のフジアルテ=人材サービス業で法人設立・・・ この記事のサイトは、こちらへ。 《4》=パナソニック・ド・ブラジル=初の白物家電に参入=「新しい1ページを」・・・ この記事のサイトは、こちらへ。 《5》=年550社がジェトロ訪問=澤田所長「企業の姿勢変わった」・・・ この記事のサイトは、こちらへ。 《6・終》=「過去の歴史繰り返すな」=百年の交流が築いた信頼・・・ この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年5月30日(月) | ||||
上の家は少しずつ、少しずつ完成に向かって進んでいる。シャワールームと台所の流しで、水とお湯が出るようになった。でも、シャワールーム/洗面所は、使えるようになったけれど、台所はこれからガスの配管や、換気扇や薪ストーブ用の煙突を作らなければならないので、まだまだ。家中の電気の配線もこれからなので、電灯もまだついていない。そして、本棚やキャビネットを作る作業もこれからだ。外回りもまだ完成には程遠い。後何ヶ月後に住み始めることができるかなあ?
昨日は丸1日、私は上の家の床を掃除し、エドソンは電気のコンセントの取り付け作業に勤しんだ。家の中はまだ赤レンガの最終磨きが完全に終わっておらず、湿気予防の塗料が塗られていない所もある。それらの作業が完了している寝室は徹底的に拭き掃除をし、磨き上げ、完了していない居間や台所なども、一応掃除をしてきれいにした。上の家は、今の時期1日中日差しがあるので、明るくて暖かい。夕方、下のガレージに戻ると、その気温の差は歴然。陽が沈むと、ガレージ内の気温はさらに下がり、寒くなってきた。 今朝は、寝室の気温が16度。ガレージ内の台所の温度は13度。戸外の気温は7度だった。戸外の最低気温が一桁台になるとさすがに寒い。季節は着実に冬に向かっている。今日はとても冷えるので、晩ご飯は熱々の野菜たっぷりポトフを作ることにした。夜のニュースで、今日は今年一番の冷え込みになったと言っていた。寒いはずだ。寒くなるのが、例年より1ヶ月くらい早いような気がする。 | ||||
2011年5月31日(火) | ||||
日本もようやくブラジルに注目し始めたということに関連して、イビウーナの中村さんも週に一度書いておられるウィークリーノートで、「ブラジル経済昨今」と題する随筆を書いておられるので、ここに紹介したい。
漸く日本もブラジルに注目しだした。大変喜ばしい。ブラジル特集が新聞・雑誌・TVで目白押しだ。日本の流儀は、上潮も引潮も集中豪雨的なので、心配だが、先ずはブラジルへの関心の高まりを歓迎したい。急拵えの特集は、どれを読んでも代わり映えしないが止むを得ない。時間の経過と共に、質も向上する筈だ。 昔と違い今は、基礎となる統計資料が入手し易い。日本語では、在ブラジル日本大使館の月刊ブラジルマクロ経済(概要推察する。インターネットでバックナンバーを含め手軽に入手できる(HP:www.br.emb-japan.go.jp)。便利な時代になったものだ。 詳しい数字はInternetに任せるとして、ブラジル経済の昨今を以下に箇条書する。 1. GDP:世界の占有率はブラジルの3.3%に対し日本は8.6%、即ちブラジルのGDPは日本の38%、4割弱に迫っている(2010年)。世界第8位 2. 一人当たりGDPはUS$8,628で日本の1979年並み、BRICSの中では最高。 3. 自動車(新車)販売は2010年351万台で、中・米・日に次ぐ世界第4位。 4. 原油生産は2010年214万BPD(バーレル/日)、今や有数の産油国だ。 5. 外貨準備高は2011年3月末現在3,171億ドル、2001年末359億ドルだった故、その間に9倍弱になった勘定だ。もはやIMF詣でを必要としない。 6. 公的債務は2010年末14,756億レアル(GDPの40%)で、2002年の8,923億レアル(同60%)より金額では65%増だがGDP比では20%減になっている。 7. 2007年に対外債権が対外債務を上回り、収支が黒字化した。債務だけを見ると、前2006年末の1,726億ドルに対し2011年3月末は2,792億ドルへと6割増だが、対外債権が2006年(978億ドル)比2,413億ドル増の3,391億ドル、収支は2006年(‐748億ドル)比1,347億ドル増の599億ドルの黒字。 8. サンパウロ株式市場(BOVESPA)は2002年1月12日の13,872から急上昇し、2008年5月20日に最高値73,517を記録した後、リーマン・ショックで暴落2009年10月2日に最安値29,435を付けたが、2011年4月末には66,312まで回復している。世界の株式市場で最も回復が早かったと言われている。 9. 失業と平均賃金(月収)は2011年3月現在、各々6.5%とR$1,567で、改善著しい。因みに、2003年は失業率11%、平均月収R$1,246だった。 10. 金利と為替政策には苦労している。インフレ抑制の為に高金利の維持を余儀なくされている。高金利は好まざるホットマネーの流入を招き外為レアル高を招来、平衡税と為替介入(ドル買い)で対抗しているが、上述の外準急増をもたらしている。金利は欧米並みを指向するも、成功していない。苦労の跡を辿ると、2000年の19%、2006年の26.5%、2011年の12%と乱高下している。外国為替はこのところ、+/-R$1.6=US$1 (R$1=\50)で推移している。イビウナ、16/05/2011 中村 勉
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