Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年4月1日(金) | ||||
昨日、病院の帰りに建築資材の店でペンキを買う予定だったのだけれど、思いがけず病院で時間がかかったので、今朝出直して買いに行かなくてはならなかった。フィオナは今日も大学病院で点滴を受けなければならないので、マウリシオに連れて行ってもらい、私たちは建築資材の店に行った。ペンキを買ってすぐ戻り、エディに届け、エドソンは仕事に出て行った。窓枠用に以前買っておいた濃いベージュのペンキではここの赤土のホコリに対して、色が薄すぎるから、もう少し赤みを帯びた濃い色のペンキの方がいいとエディに言われたので、再度色を選んで買わなければならなかった。ドライドトマトという赤っぽい茶色を選んだのだけれど、サンプルの色と、実際の色が少し違い、窓枠に塗られたペンキの色は何だか赤の濃い色なので、ちょっとびっくりしたけれど、まあ、ここの土は赤土なので、悪くはないかな?と、思う。これで、月曜日か火曜日に窓を入れることができる。 マウリシオは午前8時少し過ぎに出かけて行き、午後5時少し過ぎにエドソンの職場の方にフィオナを連れて戻ってきてくれた。やはりフィオナは慢性の腎臓病らしいということだった。腎臓病というのは人間も犬も、症状がほとんど出ないらしく、症状が出たときはほぼ手遅れの状態で直すことはできず、人間の場合、即、人工透析ということになるらしい。フィオナも静かに病気を進行させていたようで、真菌感染を治療するための薬を飲んだことによって、食欲が落ちて、一気に症状が出てしまったようだった。 | ||||
2011年4月2日(土) | ||||
今朝は7時にマウリシオがフィオナを迎えに来てくれ、大学病院に連れて行ってくれた。昨日の夜、ドクターの指示で、少量のご飯と挽き肉と人参を小さく刻んで、少しの水で混ぜて温めたものをフィオナに食べさせようとしたのだけれど、全く受け付けない。それで、挽き肉に少し水を入れて火を通したものを作って与えようとしても、やはり食べてくれない。仕方なく、ドッグフードの缶詰のペースト状の牛肉をぬるま湯で溶いて、注射器でフィオナの口に少しずつ入れて食べさせた。でも、数時間後にそれも嘔吐してしまった。木曜、金曜と丸2日間何も食べておらず、点滴だけで何とか命をつないでいるような状態で、悲しくなってくる。 夜の間にフィオナは大量のオシッコをしたようで、オシッコで濡れた新聞紙を処理して床の掃除をし、昨晩掃除し切れなかった嘔吐で汚れた犬小屋のベッドとクッションを外で洗って干したりした後、やれやれと腰を下ろして、メールをチェックすると、広島の兄からのメールで、父が肺炎で入院したという。ああ・・・めげるなあ・・・ 午後、ホドリゴとヴィトーがいつも通り英語のレッスンにやってきたので、予定通りレッスンを行ったのだけれど、イザベラはお休みすると電話があり、少し、ほっとした。フィオナや父のことが心配で、気分が落ち込んで、やる気が起きない。 6時を回ってもマウリシオが戻ってこないので、どうしたんだろうと心配しながら待っていると、7時を回って、ようやく戻ってきた。病院は救急の患者で溢れていたらしく、点滴にも時間がかかり、こんなに遅くなったのだということだった。明日の日曜日は大学病院で点滴が受けられないので、私たちが家で薬を与えなければならないということで、点滴薬2本と注射2本を持って帰ってきたマウリシオから詳しく報告を聞き、やり方を教えてもらう。フィオナの状態は昨日よりはほんのちょっといいようで、夜、挽き肉に少し水を入れて火を通したものを与えると、ほんの少量だけれど食べてくれた。3日ぶりに、少しだけれど、口から食事を取ることができた。ああ、良かった。
| ||||
2011年4月3日(日) | ||||
昨晩、フィオナは久しぶりにオシッコも嘔吐もなく過ごすことができた。朝のお散歩も弱々しい足取りながら、うれしそうに行くことができた。治療の効果が少しずつ出てきているのかな?と、期待したのだけれど、今朝もやはり何も食べてくれないので、また肉汁を注射器で少しずつ与える。その後、午前中にやらなければならない点滴と注射をエドソンがしてくれた。その間、モビも心配して、側に付き添っている。幸いなことに、モビは1回目の抗がん剤治療後も食欲がそれほど落ちず、その他の毎日の薬も問題なく与えることができていて、いつも通りに元気にしていることがとても救いになっている。
点滴と注射を終え、フィオナをベッドに戻し、病院に連れて行くのに使って汚れたタオル数枚を外で洗うために出たり入ったりしていると、フィオナが落ち着きなく、ベッドの中でごそごそしているので見ると、犬小屋の前に置いた新聞紙がオシッコでビショビショになっていた。フィオナを犬小屋から呼び出して、濡れた新聞紙の始末をしていると、今度は新しく換えた新聞紙の上でゴソゴソするので、またオシッコかなと思ったら、今後は下痢。フィオナを外に連れ出すと何度かウンチを試みるのだけれど、もう出てこない。すると今度はトコトコ走って物干場のところに行って、ゲボゲボ。追いかけて行って、ゲボゲボしている間、体を撫でてやる。その後、汚れた口やお尻を洗ってやり、ベッドに戻す。私はまたまた汚物の処理と床掃除。これだけで、もうお昼になってしまった。そして、お昼前には雨が降り出してしまった。モビやフィオナに頻繁にオシッコさせなくてはならないのに、雨では困ったなあ・・・ 午後、またフィオナに肉汁を与えたのだけれど、嘔吐する様子はないため、犬小屋から出して、モビと同じベッドに入れてやると、落ち着いて穏やかに夜まで過ごすことができた。夜、私たちの夕食が終わって、モビに夕食をやり、フィオナに肉汁を与え、しばらくして、フィオナの点滴をまたエドソンがしてくれた。病院では足の血管に針を刺すのだけれど、私たちにはそれはできないので、皮下点滴をするように指示されている。冷たい(と言っても冷蔵してあるわけではなく、室温なのだけれど)点滴液が体に入ると、寒いようで体をブルブルと震わせるので、毛布を掛けて、体をさすってやり、点滴無事終了。モビと一緒にいたいのはわかるのだけれど、また嘔吐やオシッコをするといけないので、犬小屋に戻すと、落ち着かず、イライラと動き回り、やはりまた嘔吐してしまった。1日2回与えなければならない飲み薬を飲ますと、必ずしばらくして嘔吐する。この薬は体のためになっているのか、いないのか?疑問に思う。 | ||||
2011年4月4日(月) | ||||
昨日、昼前から降り出した雨は一晩中降り続き、今朝、6時半にマウリシオがフィオナを迎えに来てくれた時もまだ少し降っていた。7時を回ってようやく雨は止んだものの、何だかすっきりしない、どんよりとしたお天気が1日続いた。でも、今日はエディたちの他、家の窓の取り付けをしてくれる人たちも来て作業が始まった。 今日はドナ・クレウザとマテウスもマウリシオと一緒に来たので、どうしたのだろうと思っていたら、マテウスの吃音を直すための言語治療があって大学病院に連れて行くのだということだった。1年前に申し込んでいたのが、ようやく今日から治療が始まるのだと聞いて、のけぞってしまった。まあ、命に関わる治療ではないけれど、マテウスの学校での生活や人生を大きく左右するものなのに、この悠長さは何と表現したらよいものやら・・・ 夕方5時前にマウリシオたちがフィオナを連れて戻って来た。今日、ようやくフィオナは超音波の検査を受けることができたようで、検査結果は明日わかるということだった。今日は、デニス先生の他、彼の上司の教授もフィオナの診察をしてくれたらしい。5時過ぎにエドソンが帰宅するのをみんなで待つ間、少しずつ家らしくなってきている我が家を隅から隅まで見て回り、時間をつぶした。ドナ・クレウザとマテウスは「きれいだね」を連発し、マウリシオは「掃除が大変だ」としきりに言っていた。 | ||||
2011年4月5日(火) | ||||
夜の間、フィオナはひとりで犬小屋で寝るのが嫌なのか、それとも体調が悪いため気分が悪いからなのか、朝になるとベッドのクッションをボロボロにしていたり、 ベッド自体をビリビリに破いていたりして、毎晩次々に八つ当たりしているようで、今日はクッション、今日はベッドという具合に使えなくなってしまった。仕方なく昨晩は引越しの荷造りに使って、取ってあったダンボールや新聞紙や割れ物用の包み紙を何枚も重ねて敷いて、ベッドとクッション代わりにした。 今朝はマウリシオが昨日のように早く来るといけないと思い、6時過ぎに起きて、フィオナとモビをオシッコに行かせ、フィオナに薬を飲ませ、私たちの朝食を済ませて準備をした。その後、モビに食事を与え、ドクターの指示通り、フィオナには卵の白身の部分を注射器で口に入れて食べさせる。次の写真は朝、マウリシオが迎えに来るまで私たちの部屋の前で日向ぼっこをしながら座って待っているモビ(手前)とフィオナ(後ろ)。フィオナは体調を壊して以来、まともに食事ができないため体重が減り、痩せて小さくなってしまった。表情もとても悲しそうな顔をしている。モビもちょっとジュルルな表情をしている。フィオナの調子が悪いことを分かっているのだと思う。
今朝は気持ちよく太陽が顔を出していて、眺めがいいからと、エドソンが写真を撮ってきた。森の向こうの景色はちょっと内海に浮かぶ島々といった感じだけれど、もちろんここはサンパウロ州の内陸部なので、これは海に浮かぶ島々などではなく、雲海の隙間から見える下の様子。
マウリシオが8時前にフィオナを迎えに来て、病院に出発した後、杭をたくさん積んだ大きなトラックがやって来た。うちとお隣のウィリアムの土地の境界線上に杭を打ち込んで、柵を作る作業をするための杭だ。先々週、エドソンとウィリアムが話し合い、1000レアル以上かかる経費を折半することで合意し、柵を作ってくれる人に仕事を依頼したので、その作業の準備が始まったのだ。トラックの横に立っているのは、右がエドソンで左がお隣のカゼイロのジョアオン。
| ||||
2011年4月6日(水) | ||||
先週の木曜日から毎日ずっと大学病院での治療に通ったのだけれど、結局、フィオナを助けることはできなかった。昨日の午後、心臓の機能が弱まり、容体が悪化。救急救命室に移され、デニス先生があれこれ手を尽くしてくれたのだけれど、もう手の施しようがなかったようだ。午後7時頃息を引き取った。超音波検査の結果、フィオナの腎臓は2つとも機能を停止していて、血液中に出た毒素が体中に回って、昨日は血便も出ていたらしい。エドソンは午後、何度もデニス先生やペットクリニックのヴィットリア先生と話をして、状況を把握して、私にも電話をくれていたので、覚悟はしていたのだけれど、1年8ヶ月余りの間一緒に暮らし、家族として私たちの生活の一部になっていたので、ぽっかりと心に穴が開いてしまったような感じだ。でも、何よりもモビが一番寂しいだろうなと思う。 フィオナがこうなってしまった原因は、はっきりとはしないのだけれど、考えられる有力な原因のひとつは、3年か4年前に受けた去勢手術の際、腎臓と膀胱をつなぐ管を傷つけたか、何か別の問題が発生していたのに気づかず、そのままの状態で来てしまったため、徐々に腎臓を悪くして行き、慢性の腎臓病になったのではないかということだった。これは去年、フィオナがカーラに噛まれた後、感染症を起こして手術を受けた際に、別のペットクリニックの先生も、フィオナの状態を見て、同じようなことを指摘していたので、やはりそう言うことだったのかと思う。原因を突き止め、研究してもらうため、エドソンはフィオナを検体に出すことを申し出た。解剖の結果を知らせてもらえるのかどうかはわからないけれど、今後のために研究してもらえれば、フィオナも浮かばれるような気がする。 昨日の朝、マウリシオがフィオナを車に乗せると、モビもさっと車に乗って一緒に行こうとし、マウリシオたちがここを出発してしまうと、モビは「クーン、クーン」としばらく泣いた。その後、エドソンが仕事に出る際も、一緒に車に乗ろうとし、エドソンが出かけると、私がすぐ側の水場でタオルを洗っているのに、車が走り去った方向を見つめて、また「クーン、クーン」と泣き、いつもとは全然違う様子だった。ひょっとして、もうフィオナが帰ってこないことを予知していたのかもしれない。 昨日午後8時近くになって、ようやくマウリシオが大学病院から戻ってきて、フィオナを連れて行く際に使った空っぽのダンボール箱と毛布を届けてくれた。少し家の中に入ってもらい経過を話してもらう。あれこれ手を尽くしたけれど助けられなかったため、デニス先生も泣いていたと言って、彼も涙を流した。マウリシオは今年の1月まで、ウィリアムのところのカゼイロ(住み込み管理人)だったので、モビとフィオナがここで暮らすようになった時から、彼らのことを世話してきている。だから私たちよりも付き合いが長い。その彼が毎日毎日病院にフィオナを連れて行ってくれ、看取ってくれたのだから、彼にはただ、ただ、感謝の気持ちでいっぱいだ。 | ||||
2011年4月7日(木) | ||||
ニッケイ新聞、2011年3月23日付けと、3月24日付けの「コラム樹海」に掲載された記事を、ここで紹介したい。 『東日本大震災の恐ろしいところは、地震から津波に派生し、畳みかけるように原発事故にまで拡大したことだ。原 発事故には残念なことに「万が一」の可能性がまだ残っており、人災の感が強い。40年前の原発をそのまま稼動させていた判断の甘さ、危険性の高さを、日本国民はいま肌身で痛感している▼だがブラジルも人事ではない。リオ沿岸部のアングラ原発だけでなく、先ごろ米国と原子力協力協定を結んだ隣国チリには今後原発が建設される可能性があり、昨年2月同様の大地震・津波がそこを襲えば当然影響は当国にも出てくる▼災害対策は本来、最悪の事態を想定して立案するのが常道のはず。ロシア政府はいち早く「日本人を受け入れてもいい」と表明したが、「万が一」を想定した場合、ブラジルこそそのような態度を表明してもよい。86年のチェルノブイリ事故の後、同地のウクライナ人がパラナ州等に移住した〃実績〃もある。世界最大の日系社会があるブラジルが受け入れるのは一つの筋だ。もちろん、そうならないことを心底から祈っている▼日本の企業関係者と話すと「会社はどこかで儲けなくてはいけない。むしろこの地震よってさらに進出企業が増えるだろう」との見通しを述べていた。であれば日系政治家は日本からの法人(企業)の進出、個人の移住に関して手続きを簡素化するとか、特別枠を作るとかの働きかけをしたらどうか▼原発に替わるエネルギー源として、ブラジルから安価に原油やエタノールを提供することも選択肢の一つかもしれない。日本と相談しながら、各々の立場でできる復興協力を模索すべきだ。(深)』 『東日本大震災発生から、はや2週間が経つ。文協、援協、県連に加え、宮城、岩手、福島3県人会に集まった義捐金がわずか1週間で63万レアルに上った(本日付け7面詳細)。「ブラジルで何もできない。せめてもー」という多くの人の善意を感じる。そんななか被害の大きい岩手からメールが届いた▼酒を飲んでいる場合ではない、という状況ですー。で本紙金曜日に執筆してくれている地酒『南部美人』の蔵元、久慈浩介さんによれば、スーパーでは食料、日用品は品切れが続いているが、酒類は余り余っているとか。銀座のネオンも計画停電で暗いまま。「これでは経済的な二次災害が東北の蔵元、食品メーカーを襲う」▼そこで普段飲むビール、カイピリーニャの一杯を、ブラジルで手に入る東北の日本酒に替えてくれないか、という。「その一杯が東北の蔵を救います。私たちは絶対に負けません」。一番手軽な(?)支援の提案であり、切実な声でもある▼女性らでつくる『ブラジルを知る会』は 5月1日に「がんばれ日本・ブックフェア」を開催、売り上げ全額を日本に送る。清水裕美代表は、「家に眠っている古本を譲ってほしい。買いに来てくれてもいい。それが支援に繋がります」と呼びかける▼ブラジル日本語センター傘下の学校では、生徒らが手紙や絵を被災地に送ろうと作成中だ。元々の題材はカーニバルだったが、子供たち自身の希望で変更されたという。それぞれの形、やり方がある。今の状況で自分にできることは何だろうか—そんなことを考えること自体が、鎮魂、復興への祈りとなる。(剛)』 | ||||
2011年4月8日(金) | ||||
10日程前オクラの花のつぼみの写真を掲載したけれど、それからオクラの実がなり、この水曜日の夕方1本のオクラを収穫した。自分たちで育てた初めてのオクラ。早速茹でて、刻んで、梅干しと合わせて、冷や奴の上に乗せていただく。ブラジルのマーケットで売っているオクラは収穫時期が遅すぎるようで、大きくなりすぎたものを売っているためおいしくないけれど、収穫時期さえ間違えなければ、ちゃんとおいしいオクラが食べられる。
同じく水曜日から柵を作ってくれる人の作業が行われ、境界線に杭が埋め込まれた。次の写真は、杭が並んだ様子。杭の右側がウィリアムの土地で、左側がうちの土地。ウィリアムの側は先日ジョアオンがトラクターに取り付けた大型の草刈り機で草を刈ったので、中程から下にかけてきれいになっているけれど、我が家の方は、まだ草刈りをしていないので、草ボウボウ。
| ||||
2011年4月9日(土) | ||||
昨日は、モビの2回めの抗がん剤治療のため朝からボトゥカトゥの大学病院に出かけて行った。受付を済ませた後、外科で採血をし、1時間後に戻って来るように言われ、モビのオシッコがてら外をお散歩した。次の写真の奥の右側の木立の後ろが外科の建物。内科の建物はさらに奥にある。
お散歩の途中、エドソンとモビをパチリ。サンパウロ州立大学(UNESP)医学部の、獣医科の大学病院の敷地はとても広いので散歩のしがいがある。牛や馬、バッファロー、羊などもいて、牧場のような感じもしないでもない。
お散歩の後もまだ待ち時間がたっぷりあるので、内科の建物に行き、フィオナの担当医だったデニス先生のところに行って、少し話を聞く。フィオナの解剖の結果は、やはり去勢手術の際、腎臓と膀胱の間の部分を傷つけていて、彼女の腎臓の一つはまったく機能しておらず、もう一方の腎臓もほとんど機能していなかったこと、そして、腎臓を包んでいる組織が異常に薄く、いつ破裂していてもおかしくないような状態だったということを説明してくれた。日本の獣医さんのことは知らないけれど、人間相手のお医者さんは、こんなに親切丁寧に説明などしてくれないけれど、ブラジルのお医者さんは獣医さんに限らず、こちらの気持ちも気遣ってくれ、説明が本当に丁寧だと思う。次の写真は、話が終わって、モビを抱いて写真に収まってくれたデニス先生。
血液検査の結果がなかなか上がってこないらしく、予定よりも長く待たされ、12時近くになってようやく治療が始まった。先週は右足の毛を剃って点滴したのだけれど、昨日は左足の毛を剃って、点滴をした。次の写真は毛を剃ってもらっているモビ。ちょっと剃り損なって、血が出ているところがある。右側の女性がお医者さんで、左側の女性はインターンのひとり。
次の写真は、点滴をしながら、抗がん剤を注射器で入れているところ。毛を剃られるときとか、少し違和感がある時はちょっと嫌がるけれど、モビはほぼ問題なく素直に静かに治療を受けることができるとても賢い子だ。
| ||||
2011年4月10日(日) | ||||
金曜日の夕方、ここでの仕事を終えたマウリシオがたくさんヴァージェン(vagen、いんげん)を持ってきてくれたので、どこでとってきたのだろうと思ったら、下の三角地帯に植えたオレンジの木の根元の一ヶ所から、いんげんの芽が出ていて、たくさん実をつけているという。オレンジの木を植えた後で、所々に何かの芽が出ているのは知っていたけれど、最近、側まで行って注意して見ていなかったので、その芽のひとつがいんげんで、実をつけているということに全然気づかなかった。このいんげんもオレンジの木を植える前に掘った穴に、台所から出た野菜くずを埋めていたのが、自然に芽を出したものなので、まさに「棚からぼた餅」。昨日の夕食に、早速お隣のジョアオンからもらったシュシュと一緒に調理していただいた。完全な有機栽培で、新鮮取れたての野菜が食べられる幸せを噛み締めた。
さらに、この三角地帯に種を撒いたとうもろこしも結構すくすくと成長してきている。ブラキアーリアが伸び放題なので、オレンジの木もとうもろこしも草むらの中に埋もれている感じだけれど、どれもみんな何とか育ってきている。
ペトロポリスの安見さんから、広島原爆展を終えて作成された実施報告書が送られてきた。左側が実施報告書。右側はペトロポリス日系協会の教育グループの人たちが作った数十頁のスライドを印刷したもの。そしてCDも1枚入っていた。実施報告書は会場の様子を写したたくさんの写真や、どのような報道機関にどのように報道されたかというようなことが詳細に記録報告されていた。中国新聞のインターネットサイトに掲載された私のリポートも中国新聞の許可を得て、報告書の中に加えられていた。この報告書もそうだけれど、数十頁のスライドを作ってしまうところなんかすごいなあと思った。ペトロポリスというのはおもしろい町で、日系人人口は少ないのだけれど、その生い立ちの関係で、知識人が結構いて、日本に関心を持っているブラジル人が多く、そういう人たちがこの日系協会の主要メンバーを構成している。そして、毎年日本文化祭を開催しているので、こういう展示会を主催することもでき、ちゃんとした立派な報告書もできるのだと思う。この報告書はサンパウロのブラジル被爆者平和協会に送られるはずのものを、私に送ってもらって見せてもらったので、月曜日にはサンパウロに向けて郵送しなくてはならない。
| ||||
2011年4月11日(月) | ||||
土曜日にお隣のジョアオンが畑で取れた野菜や果物をお裾分けしてくれた。左側の野菜はシュシュ。その右にあるひょうたんのような形のものはかぼちゃの一種。そのまた右にあるのはオレンジというか、みかんのような果物で、これをたくさん絞って作ったオレンジジュースが右端。
次の写真は、先週半ばに撮った我が家。一応すべての窓に不完全ながら窓枠が入り、ガラスが入った状態。でも、まだ中途半端で完成ではない。先週末までに室内の床のタイル貼りがすべて完了し、洗面所の洗面台やトイレが取り付けられ、玄関の扉が取り付けられた。室内はまだ壁や天井のペンキ塗りなどが残っている。ゆっくりだけれど、少しずつ少しずつ前進している。
| ||||
2011年4月12日(火) | ||||
先週、柵を作る作業をしてくれた人は、土曜日も作業に来て、すべての柵を完成させてくれた。次の写真はうちの南側の柵。柵の左側はウィリアムの土地で、右側がうちの土地。柵の先、つまり西側にある森の向こうは、西隣りのクラウディオのコーヒーファーム。この森には泉が湧いていて、小川が流れている。
この柵を作ってくれた人は義務教育もちゃんと受けていないのか、仕事の合間にエドソンと世間話をしていて、「リオデジャネイロはマトグロッソ州にあるんだっけ?」と言って、エドソンを驚かせていた。後で、エドソンがマウリシオに聞くと、義務教育はちゃんと受けているし、文盲でもないと言っていた。ただ、パーディーニョの町からほとんど出たことがないらしく、一番の遠出の経験は、ここから30分ほどのボトゥカトゥだというから驚いてしまう。広いブラジル、田舎町にはこんな人は山ほどいるのだろうなと思う。でも、アメリカに住んでいた時でさえ、マサチューセッツ州から出たことがないという人に複数会ったことがあるから、ブラジルだけの特徴ではないのだろうと思う。次の写真は、我が家の南側の三角地帯。境界線に沿ってグレヴィーリャを植えているのだけれど、左右に柵ができて、うちの土地がはっきりしてきた。左右の柵の向こう側はすべて隣のウィリアムの土地。
| ||||
2011年4月13日(水) | ||||
今日もまた、ニッケイ新聞の2011年3月30日付け「コラム樹海」掲載の記事を紹介したい。 『一見すると日露戦争とブラジルには何の関係もなさそうだが、実は不思議な繋がりがある。例えばウクライナと日本の関連だ▼ロシアと欧州の境界に位置したウクライナは数々の戦争の舞台になった。不凍港を求めて南下政策を執るロシアは、列強諸国がベルリン条約を締結したことで欧州側での南進が不可能となり、矛先を極東に向けた結果、日露戦争となった。その敗北を受けて矛先を再び欧州に戻したところでロシア革命、第一次大戦に突入し、ウクライナは激動の戦火に焼かれ続けた▼日露戦争をはさんだ1895年から20年代までの間だけで5万人が伯国南部へ移住し、現在では中南米最大のウクライナ系集住地(約100万人)となった。その典型がパラナ州南部プルデントーポリス市で、5万人弱の市民のうち8割がウクライナ系という当国最大の集団地だ▼日本移民も日露戦争直後に笠戸丸が出港し、第一次大戦、関東大震災、昭和大恐慌に押し出されて26年から35年までの10年間に全移民の過半数、13万人余が渡航して〃移民の団塊世代〃を形成した。この世代が持ち込んだ明治気質が二世に伝わり、現在のコロニア気風を形成。世界最大の当地日系社会の1割はパラナ州北部に住む▼つまりウクライナ移民と日本移民には、伯国に来た理由が日露戦争前後のロシアを軸とする国際情勢との共通点がある。ロシアを挟んで東か西かの問題であって歴史的〃双子〃のような存在だ▼そして今回の大震災で残念なことに原発事故にも共通点が生まれてしまった。ウク ライナ人はチェルノブイリ原発事故で伯国に移住を再開した。日本がそうならないことを切に願う。(深)』 次の写真は、オレンジの木の根元で成長しているいんげん。このいんげんが栄養素を吸収してしまっているのか、オレンジの葉はいんげんの葉よりもずっと色が薄く、黄緑色をしている。
次の写真は、別のオレンジの木の根元で成長しているかぼちゃか何か。黄色い花が2つくらい咲いているけれど、まだ実はなっていないので、これが何なのかまだわからない。
| ||||
2011年4月14日(木) | ||||
毎年、夏が終わり秋のこの時期になると、ここの西側にある森に生えている木が、ピンクと白の花をたくさん咲かせ、ともて美しい。花の感じはちょっとハナミズキのようだれど、ハナミズキではない。ハナミズキは春から初夏にかけて咲く花だけれど、この花は秋に咲く。名前は以前植木屋さんで聞いたのだけれど、残念ながら今思い出せない。でも、1本の木で2色の異なる色の花を咲かせるなんて不思議だなあ。
| ||||
2011年4月15日(金) | ||||
今日は確定申告の手続きのため、サンパウロ市の税理士さんのところに出かけて行った。去年初めて確定申告をして、今年は2回目なので、去年よりも手続きが簡単になるのかと思ったら、2年目は初年度よりも複雑だということがわかり、メールや電話だけではどうにもならず、直接税理士さんの所に行った方がいいということになった。さらに、今年から、確定申告はすべてインターネット上でオンラインでしなくてはならず、しかもルールが次々に変わるらしく、わからないことが多すぎて、自分たちだけではとてもじゃないけれど、間違いなくすることはできないからだ。ブラジルでは日本のようにわからないことがあれば、税務署で気楽に相談して申告するなんてこともできない。それで、どうしても専門家の助けを借りることになる。サラリーマンだったら日本と同じように簡単で、よっぽどの高給取りでなければ確定申告をしなくてもいいというのは日本と同じらしい。 私たちにとってサンパウロに行くのは1日仕事で、朝から、夜遅くまで家を留守にしなくてはならないので、モビはマウリシオの家で預かってもらった。以前は、マウリシオやドナ・クレウザがウィリアムの農場に住み込みでいたので、預かってもらうということは必要なく、自由にさせていたけれど、今は、フィオナもおらず、モビ1匹だけで、気遣ってくれるマウリシオやドナ・クレウザもここにはいないので、モビがひどく寂しがったり、アテモイアの果樹園に下りて行って変なものを食べたり、事故にあったりしてはいけないので、家も犬小屋もまだできていない今は、預かってもらう選択肢しかない。現在、モビは抗がん剤治療を受けているので、ご飯やパンや煮豆は食べさせないでと細かくお願いして、まるで、小さな子供をベビーシッターに預けるような感じ。夜くたくたになって、高速バスで戻ってきて、ホドサーブのお隣のガソリンスタンドに預けておいた車で家まで戻る途中、マウリシオに電話をして、モビを家の近くまで送ってきてもらい、連れて帰る。私たちを見て大喜びするモビを見て、私たちも疲れを少し忘れることができた。 | ||||
2011年4月16日(土) | ||||
朝、いつものように7時頃、モビをオシッコと用便のため外に連れ出して、ハイビスカスの花壇を眺めていると、オクラの花が少し開きかけていたので、家にカメラを取りに戻り、写真を撮ってみた。
写真を撮り終わって、モビを見ると、建設現場の砂場で鼻に砂をつけて、座って私を見ているので、彼の写真もついでにパチリ。
| ||||
2011年4月17日(日) | ||||
1日から入院している広島の父の状態があまり良くない。それで万が一に備えて、エドソンの訪日のためのビザを取得しようと先週はサンパウロの総領事館との交渉などでバタバタした。短期滞在査証は、申請時に航空券の提示が必要で、1回限りの訪日しか認められず、再訪日はできない。そのため非常時には対応できない。数次の査証が欲しければ、配偶者査証を申請するようにと、前回短期滞在査証を取得した際、窓口で言われたので、そのつもりでいたら、配偶者査証は日本に行って仕事をする人でないとダメだという。話しが違う。しかも、就職先の内定証明もいるという。アメリカを引き上げて、日本に引っ越す際、配偶者査証を取得した時は、就職先の内定証明など必要なかった。日本での仕事が決まっていなくても、すんなり何の問題もなく取得することができたのに・・・ それで家族の非常事態に備えるために査証を申請したいのに、日本に行って仕事をするのでなければ配偶者査証は出せない。航空券の提示がなければ短期滞在査証は出せない。ないないずくめで、私たちはどうすればいいのかと、訴えたら、内部で協議して、事情が事情だから、特別に航空券の提示がなくてもいいと認めてくれることになった。やれやれ。でも、普通の短期滞在査証の申請には必要のない、父の診断書や、兄の住民票、収入証明書、身元保証書などの提出が必要だと言う。ああ・・・お役所ってどうしてこう杓子定規なんだろう・・・これ以上もたもたしていられないので、急ぎ、兄にそれらを依頼したのだけれど、それらを用意して15日に発送してくれた同じ日に、父の容体がさらに悪化したので、私だけでもすぐ帰れという連絡があり、最速で帰国できる航空券の手配などを始めた。ただ、週末は代理店も休みなので、月曜日にならなければ出発日は決まらない。焦ってもしょうがないことだけれど、気持ちは焦る。 例えEMSでも、ここは郵便が届くのに時間がかかるので、その書類が届いてからのビザの申請では、最速でも、私が日本に出発してから少なくとも3週間以上しないと彼は出発できない。それではあまりに遅すぎる。それに、もうそろそろ屋根の建設が始まるタイミングなので、彼が側にいて、細かな指示を出さないと、とんでもないことになる。そして、モビも明日の3回目の抗がん剤治療が終わったら手術ということになりそうなので、他人まかせにすることはできない。エドソンの仕事のこともある。あれやこれやと問題山積で今は身動きが取れない。仕方なくエドソンはモビとここに残り、今回は私ひとりで日本に行くことにした。そんなわけで、明日からしばらくブログはお休みします。 また、4月22日(金)付けで、私の33本目のリポート『ブラジルの飲み物あれこれ』(タイトルは編集の方で変更されているかもしれない)が、中国新聞の海外リポートに掲載される予定。このサイトは、こちらへ。このサイトの「リポーター発」の中の「海外リポート」をクリックして「ブラジル」のサイトに行くと見ることができる。記事を読むためには、メンバー登録などの面倒くさい手続きが必要になり、ユーザーアンフレンドリーなサイトになったので、不満なのだけれど、私にはどうすることもできない。中国新聞の海外リポートは2009年の4月末から書き始め、月に1本のペースでリポートを書くことを目標にしてきたのだけれど、この2年間に33本のリポートを書くことができ、目標を達成できたことに自分としては満足している。
|
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |