Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2011年3月1日(火)

モビにまず抗がん剤治療をしてから手術をするという、ペットクリニックのヴィットリア(Vitoria)先生がすすめる治療方針と、抗がん剤治療をせずに手術をする方法を取るけれど、手術の予約は6月まで取れないという大学病院の治療方針とが食い違ったため、エドソンはヴィットリア先生と相談して、セカンドオピニオンならぬ、サードオピニオンを聞くために、今日、再度ヴィットリア先生のペットクリニックにモビを連れて行った。

今日、診てくれたのはやはり30代の若い男の先生でヴィクター(Victor)先生。ヴィットリア先生のクリニックで手術をする際は助っ人で来てくれ、手術をしてくれる先生なのだそうだ。この先生はヴィットリア先生の治療方針を支持した。

彼の説明によると、癌細胞を取り出す手術の際には、癌細胞の回りの健康な組織も3センチほど切り取らなければならないので、モビのリンパ腫はかなり大きく、 首にあるので、このままの状態でたくさんの組織を取ると、筋肉や神経に何か後障害が出るかもしれないし、皮膚の移植も必要になってくる。それらを防ぐために、手術の前に抗がん剤治療をして、癌細胞を小さくしてから手術をした方がいいということだった。それに抗がん剤治療で体力が弱るといっても、現在モビは元気なので、治療をしながら彼の様子を詳細にみて行けば、手術前にひどく体力を落とすこともないだろうということだった。手術の後で後障害が出るのは困るし、大学病院での手術が6月までできないということは、それまでモビをこのままの状態で放っておくことを意味し、リンパ腫がますます大きくなってしまうということなので、抗がん剤治療と手術の両方を、ヴィットリア先生のクリニックでやってもらうことにした。大学病院の方もプライベートクリニックで早く手術ができれば、その方が望ましいと言っていたし、大学病院で行ったモビの検査結果はすべてクリニックの方に送ってもらえるということなので、この方法が一番いいと判断した。プライベートクリニックでの治療や手術は大学病院よりも費用がかかるのだけれど、モビにとって一番いい方法をと考えると、そんなことは構っていられない。

次の写真は、夕方のお散歩をしているモビとフィオナ。左がフィオナ。右がモビ。

2011年3月2日(水)

捨てた種から芽を出し実をつけたスイカは、その後ある程度の大きさになったら成長が止まり、このところ1日1回は降る激しい雨で色が黄色くなり始め、虫が入ったような小さな穴がいくつもできているので、この週末に思い切って収穫することにした。家の中に持って入る前に、外の水場でスイカを切ってみると、やはり中に虫が入っていて、特に大きい方のスイカには虫が開けた穴からアリもたくさん入っていた。それら問題の部分をバッサリ切り落として、きれいな部分だけを残して、写真に撮ってみた。手前のバットの中が大きい方のスイカで、後ろの半分に切ったものが一回り小さい方のスイカ。

この後、小さい方のスイカも悪い部分を切り落とし、バットに入れて家に持って入り、それからさらに皮の部分や白い部分をすべて切り落として、赤い部分だけを タッパーに入れ、冷やして食べることにした。以来、毎日朝食の時に食べている。端正込めて作られ店で販売される糖度の高いスイカには負けるけれど、ジューシーで適度に甘いし、何もしないのに自然にできたスイカを楽しめるのだから、うれしい限り。

2011年3月3日(木)

フィオナの真菌感染は少し良くなったかと思うと、また悪くなったりと、ずっと一進一退を繰り返している。それで、先日モビをペットクリニックに連れて行った際、フィオナの真菌感染を完治させるための薬とシャンプーを買って帰った。これからモビの抗がん剤治療が始まり、彼の体力が落ちて、フィオナの真菌をもらっても困るので、この際、モビの治療が始まる前にフィオナには健康な状態に戻ってもらわなくてはならない。そして、モビが抗がん剤治療に備えて体力を維持するためには、高タンパクの食事をさせるといいというヴィクター先生のアドバイスがあったので、クリニックに併設されているショップでプレミアムのドッグフードと牛肉の缶詰も買って帰った。

次の写真は、お散歩中のフィオナ。

昨日の朝、モビは大学病院で超音波検査を受ける予定だったので、雨の中、マウリシオが予定通りモビを連れて行ってくれた。お陰でエドソンは仕事を休まずに済んだ。レントゲン検査の結果も超音波検査の結果も異常なし。転移はないようなので一安心。モビが帰宅したら、それまでベッドで寝ていたフィオナが起きてきて、「大丈夫だった?」というようにモビの匂いを嗅いで体をチェックしていた。モビは超音波検査のためにお腹の毛を剃られて戻ってきた。大学病院で受けたこれらの検査結果はすべてヴィットリア先生のクリニックに送られ、モビの治療の準備が始まる。

2011年3月4日(金)

先日、サンパウロの大学で大量のクラックなどの薬物が押収されたと、テレビのニュースで報道していた。カーニバルが近いので、ハメを外すために学生が入手して用意していたものらしい。テレビのコマーシャルも2月に入る前からずっと、カーニバルの音楽や映像を使ってムードを盛り上げているし、リオではすでにカーニバルの前哨戦のようなお祭りが週末ごとに開催されているようで、ブラジルの人たちの頭の中は今カーニバルで一杯。みんな気もそぞろといった感じなのかもしれない。次の写真は、ブラデスコ(Bradesco)という銀行の最近のテレビコマーシャルのひとコマ。

ところでこの薬物、日本では厳しく取り締まりが行われているけれど、コカインやクラックに比べて大麻は中毒になりにくく、禁止するから密売などが増えるのだという理由で、ブラジルや欧米諸国では合法化してもいいのではないかという議論がされている。実際合法化された国もある。でも、最近いつだったかニッケイ新聞の記事に、「大麻常用者はそうでない人と比べ精神分裂症その他の精神異常が起きるのが3年近く早いという。通常の発症年齢が18〜22 歳とされる精神分裂症患者2万2千人を対象にした調査では、大麻常用者が8167人おり、大麻が早期発症に影響したと見なされた」とあった。ブラジルでは高校生や大学生の中にも大麻を常用している人が結構いるという。中毒にならなくても精神異常の発症を助長するようなものを合法化してもいいものだろうか? と思う。一方で、病気の治療に大麻を使いたいと希望する医師もいるそうだから、判断はなかなか難しい。どんな薬も使い方を間違えれば毒になるのだから、 基本的に安全な薬というものはないのかもしれないけれど、難しい問題だと思う。

2011年3月5日(土)

今日から火曜日までカーニバルなので、パーディーニョの町はバー以外の店はすべて閉店。エディたちは昨日からすでにお休みに入っている。彼らが来週カーニバルが済んだ翌日の水曜日に作業に戻って来てくれるかどうかは不明。去年、仕事に戻って来てくれたのは金曜日だったから、今年もやはりそんなものかな?と思う。今週エディたちが作業に来たのは4日間で、天井と壁にペンキを塗る前の下塗りが行われ、台所と洗面所/シャワールームの壁に水回りのパイプなどを通す作業が少し進んだ。まだ完了はしていない。次の写真は、今日現在の洗面所/シャワールームの壁の状態。

次の写真は、最近連日やっているグロボテレビの刺激的なコマーシャルの一コマ。夜テレビを見ていると、サンバのリズムに合わせて踊るこのボディーペイントの女性のコマーシャルが繰り返し流される。グロボテレビは大晦日にリオやサンパウロなど各地の花火を中継するように、カーニバル期間中も同様にリオやサンパウロなど各地のカーニバルの様子を中継するので、その特別番組のコマーシャルなのだ。


2011年3月6日(日)

2月4日から19日にかけて10回連載で、戦後ブラジルの日系人社会で起こった65年前の「勝ち負け抗争」について、勝ち組の立場からの証言がニッケイ新聞に掲載された。これまで日系移民史は負け組の立場からの歴史が正史として記されていて、勝ち組の立場を併記したものは、外山脩氏の「百年の水流」の他にはあまりない。興味のある方は、こちら へ

また、ニッケイ新聞2011年2月18日付け「コラム樹海」には、これに関連して次のような記事も掲載されていた。

『最近テレビでジウマ大統領が左派活動家時代に収監されていたDOPS(政治社会警察)の監獄の映像を見て、日高徳一氏は「あっ!自分が入っていたところと同じだ」と驚いたという。勝ち負け抗争は日本に深く根を張るコロニアの出来事であると同時に、実はブラジルの歴史の貴重な一部でもあるから、もっともだ。だからこそ今年公開予定の映画『コラソンイス・スージョス』が制作された▼その主人公タカハシは勝ち組に属し、日の丸で汚れた靴を拭いたという警官に抗議する行動に加わり、農業組合の理事長殺害にも関係する役だと聞くので、日高氏をヒントにした物語といえそうだ▼映画の同名原作が刊行された当時、ブラジルのマスコミは臣道聯盟を説明するために「東洋のゲシュタポ」「日本のKKK」というセンセーショナルな言葉を使っていた。記念すべき08年に刊行された 『スーペルインテレッサンチ』誌(アブリウ社)の「世界の秘密結社」特集号には「アルカイーダ」やら 「KKK」に混じって堂々と「臣道聯盟」が入っていたのを見たときは呆れるを通り越して滑稽だった。南米最大手の出版社から出ても、こうだ▼同映画の中で勝ち組や臣道聯盟がどう扱われるか分らないが、国内外の映画祭を通して大きな影響があるかもしれない。日本でこの逸話が映画化されたことはない。祖国からは半ば忘れられた逸話が、良い意味でも悪い意味でも〃ブラジルの歴史〃として独り歩きを始める瞬間に、我々は立ち合わせている。この映画に関して子や孫から質問された時、貴方はどう説明しますか。(深)』

2011年3月7日(月)

ニッケイ新聞2011年2月23日付けの「コラム樹海」を紹介したい。ブラジルが無視されるよりも注目される方がうれしいけれど、投資の対象としてだけの過剰な注目はやはり望ましくない。日本にはブラジルの持っていないもの(例えば、技術、治安の良さなど)がある一方、ブラジルにも日本が持っていないものが(例えば、資源、食糧、国土の広さなど)たくさんある。深沢編集長が書いているように、お互いの弱点を補い合う良好な関係を築ければと願う。因みに、「カ ウマ」というのはポルトガル語のcalmaのことで、「冷静に」とか、「落ち着いて」という意味。

『最近日本から熱い視線が注がれ、あちこちから特集の来伯取材が増えてきたように見えるが、敢えて「カウマ、カ ウマ」と言いたい。もちろん当地に数年単位で居住する特派員はその限りではない▼マスコミの常で、最初は持ち上げるだけ持ち上げておいて、徐々に様子が分かってくると「期待を裏切られた」などと手のひらを返して叩き記事を連発するパターンがありがちだが、それは避けたい。自戒も込めて書けば、この手のパ ターンは最初の段階での理解が浅すぎて、勝手な期待感を膨らまし過ぎていた部分も否定できない▼80年代に日本企業撤退の嵐が吹き荒れた時には、「日系はもっと国中枢に影響を持つ存在だと期待していたがガッカリした」とか「日本人の子孫だと思って信用したが騙された気分だ」などの怨嗟の声がままあったと聞くが、やはり過剰な期待だった部分もあるだろう▼当時はまだ二世の時代で、ようやく大卒のエリートを輩出した段階。客観的にみて国中枢との関係構築までは無理だった。40年たって三世時代の今でも中枢に関与できる日系は数えるほどだろう▼人に譬えれば「Bさんは最近成り上がって金回りが良さそうだからお近づきになりたい」と考えたら〃金の切れ目が縁の切れ目〃となってしまう。でも「Bさんは気が合う、互いの弱点を補い合える関係になれそう」との動機なら長期的な信頼が築ける。今回はそうありたい▼リオ五輪などを控えて過剰に期待が膨らんでいるようだが、生活が先進国並みになるまでの道のりはまだまだ遠い。かといって悪い点ばかり強調されても困る。極力〃等身大〃の報道をお願いしたい。(深)』

2011年3月8日(火)

先週の日曜日の夕方から降り出した雨は、1週間ほぼずっと降り続き、この日曜日の午前中、ほんの短時間だったけれど久々に薄日が差した。1週間振りのお天道様。それで窓を全開にして掃除、洗濯をすることができたのだけれど、午後からはまた時雨、以来、昨日も今日も雨の状態に戻ってしまった。もう夏も終わろうかというこの時期にこれほど雨が続くのは、ちょっと異常だ。気温も最高気温が17度前後と肌寒い毎日。

こんなに雨降りが続くと洗濯はもちろんのこと、家の外での仕事は何もできないし、モビたちのお散歩にも支障が出るので、相当不自由なのだけれど、それにさらに 追い討ちをかけるように問題が発生した。日曜日のお昼が済んで、翻訳の仕事に戻ろうとしたら、コンピュータは起動しているのにモニターには何も表示されない。エドソンが何度も電源を切ったり入れたりしてモニターの画面表示が戻ってくるかどうか確かめたり、彼のコンピュータから調べてくれたりしたのだけれど、どうも寿命が来てしまい、突然死してしまったようだった。結局、新しいコンピュータを買わなければならないという結論になった。私のコンピュータはモニターとコンピュータが一体化したアップルコンピュータなので、モニターだけ新しくするということはできない。トホホ・・・でも幸い、壊れたのはハードドライブではなくモニターで、デスクトップ上に保存した翻訳やブログのファイルはエドソンのコンピュータから取り出すことができると言われ、ほっとする。

メールやインターネットのブラウズはエドソンのコンピュータからでもできるのだけれど、翻訳作業やブログの更新は、私のコンピュータのファイルを取り出して、 エドソンのコンピュータに移す作業をしてもらわないとできない。やれやれ。でも、人にも物にも寿命というものがあるのだから仕方がない。コンピュータの寿命は5年か6年と言われているところを、8年もの間よく仕事をしてくれたのだから文句は言うまい。それに、世の中カーニバルでお祭り、お休みモードだというのに、 エドソンは昨日も今日も普通に仕事に出て、夕方帰宅してから2日がかりで私の壊れたコンピュータからデータを取り出して、彼のコンピュータに移す作業をしてくれ、使えるようにしてくれたのだから、感謝。感謝。

2011年3月9日(水)

今日は薄日がたまに差す程度で、快晴とはいかないまでも、久しぶりに雨の降らない1日になった。衣類の洗濯に加え、バスタオルやパジャマなど大物の洗濯をする。モビたちのベッドや毛布も長い間天日干しどころか風にもあてていないので、すべて外に出して風にあてる。雨さえ降らなければ、モビたちの朝、昼、夕のお散歩ものんびり、ゆっくりできる。それで、今日はお昼のお散歩がてら、カメラを片手にここに咲く草花の写真を撮ってみた。

この黄色い花は背丈が低く、うっそうと茂るブラキアーリアの中でひっそりと咲いているので、下手をするとそこに咲いていることさえ気づかないような小さな花だけれど、近寄ってよく見ると蘭の花のような形をしている。野性の蘭なのだろうか?蘭の原種か何かなのだろうか?と思う。満開の時は黄色が目立ち(右側)、花を閉じている時は赤茶色っぽい縞々が目立つ(左側)。

ここに咲いている草花は群生はしておらず、草原のところどころにポツン、ポツンと生えている。背丈は十分成長した状態で、だいたい腰の高さ前後。一番たくさん咲いているのが次のピンクの花。次によく見かけるのがその下の黄色い花。

次の写真は、ブラキアーリアの中でスーッと真直ぐに立っているススキのような植物。これを見ると何だか「もう秋?」と、思ってしまう。残念ながら、どの草花も名前はわからない。

2011年3月10日(木)

今日は朝から太陽が顔を出して、気持ちのいい青空が広がる1日になった。それで、今日はベッドシーツや洗面所や台所の足拭きマットなどの大物の洗濯を2回に分けて行い、モビたちの体も洗ってやる。昨日から仕事に戻って来てくれたエディは、この調子で順調に作業を進めてくれるのかと思いきや、今日は半日で仕事を切り上げ、午後からはまたモラエス家具店の方に行ってしまった。

8日振りにマウリシオが仕事に来てくれたので、エドソンは彼に、電信柱から家まで電線を地中に埋めて持ってくるための溝堀りを頼んでくれた。電信柱をもう1本、家のすぐ側に建てれば、電線をすぐに家とつなげることができるのだけれど、エドソンは雷のトラブルを極力避けるために電信柱をもう1本建てることは断り、自費で電線を地中に埋めることにしたのだそうだ。どおりでお隣のクラウディオの所よりも電信柱が家から遠く、いまだに家まで電線がつながっていないわけだ。一応、先週だったか、先々週だったかにようやく電気がここまでつながったらしいのだけれど、家まで電線を引っ張ってくるまでは、電気事情はこれまでと変わらず。

昼食後、モビたちとお散歩に出たついでに、マウリシオが作業している側で、桜の苗木を2本植えた。1本はスイカを収穫した後の穴をきれにした場所に、もう1本は最近マウリシオが用意しておいてくれた場所に。次の写真は、スイカができた場所に植えた桜。

先月植えて、野うさぎに折られてしまった桜は、そのままにしてしばらく様子を見ていたら、根が死んでいなかったので、残った短い幹から葉っぱをたくさん芽吹かせている。でも、背の高さは1年前にイビウーナの中村さんのところからもらってきた時に逆戻りしている。

一方、去年の8月にいただいた苗木は、すでに30センチくらいまで成長したものだったので、すぐに植えたら、この半年余りの間に元気に成長し、今ではこれよりもずっと前に植えたグレヴィーリャなどと変わらない高さになっている。

2011年3月11日(金)

朝起きて、朝食の支度を始めるとすぐに、エドソンが日本で地震があったみたいだからNHKをつけて見たらというので、テレビをつけると宮城県沖でマグニチュード8.8の地震が発生し、津波に見舞われている映像が映し出されていた。何ということだ・・・言葉を失う。

今日はモビを大学病院に連れて行かなければならないので、テレビを少し見ただけでボトゥカトゥに出かける。大学病院ではモビの抗がん剤治療のための数種類の薬の処方箋をもらう。ヴィットリア先生のペットクリニックで薬を手配してくれるはずだったのに、何故か理由はよくわからないのだけれど、入手が難しいということで大学病院に行くことになった。この処方箋でもって取り扱い店に自分たちで注文しなければならないのは何ともおかしなシステムだと思うけれど、他に選択肢がないのだから仕方がない。この後、建築資材の店に行き太陽光温水機を注文し、パオン・ジ・アスーカーで食料品を買って昼過ぎに帰宅する。

昼食後は、ウィリアムのところから引いて来ている電線を取り外し、うちの敷地内の電信柱につなげる作業をエドソンがしてくれたので、午後はずっと停電状態が続いた。でもお陰で、午後5時前にはようやく自前の電気が使えるようになった。ゆっくりだけれど、また一歩前進できたことを喜びたい。その後、メールをチェックしたり、テレビをつけて日本での地震のその後の状況を見る。BBCもグロボニュースも日本の地震と津波のニュースを集中して報道し続けている。電話が通じないので、日本からのリポートはインターネットを通じて行われていた。何だか心がザワザワして落ち着かない。夜になってから兄からのメールで家族全員の安全を確認。少しほっとする。

今日付けで、私の31本目のリポート『建築士からシイタケ事業家に転身』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ

2011年3月12日(土)

昨日の夜から降り始めた雨が、今日もずっと降り続いていることもあり、気が滅入り、何だか何も手につかない。原子力発電所の状況に関する明確な情報が伝わってこないため、海外のメディアは日本政府の隠蔽性や不透明性を批判し始めている。東電本社自体や政府自身も明確な情報を入手するのが難しいのかもしれないけれど、このような災害時には電話などが使えなくなることは自明の理で、無線などの非常時のコミュニケーション手段を用意していないのだろうか?と、不思議に思う。

今回の地震は、ニュージーランドでの地震も含め、ここ2週間ほど活発に続いているsolar storm(太陽風)に関係しているらしい。NASAとハーバード大学の共同プロジェクトであるスミソニアン研究所が、インターネットのサイトでその関連性を指摘していると、エドソンがそのサイトを見せてくれた。この活動は今も弱まっていないので、さらなる地震がどこかで誘発される可能性は否定できないということになる。恐ろしいことだ。

2011年3月13日(日)

昨日降り続いた雨は、午後遅くになってようやく止み、今日は午後少し時雨れたけれど、太陽が顔を出したので、洗濯と掃除をすることができた。昨日の夜、夕食後2〜3時間してフィオナが食べたものを大量に戻し、寝る時間になってもまだ調子が悪いのか、ベッドを出たり入ったりしていた。すると、やはりベッドの毛布の中でまた少量吐いてしまった。それで、モビはベッドに入ることを拒否。仕方なく、エドソンがもう1枚の毛布を持って来て、私たちのベッドの足元にある 敷物の上で、毛布にくるまった状態で寝かせる。今日はそのフィオナが戻して汚れた毛布も洗わなければならなかった。フィオナはお腹は空いているようなのだけれど、朝ご飯を食べなかったため、お昼に挽き肉とジャガイモを炒めた私たちの夕食の残りを少し温めてやると、ようやく食べてくれた。朝のお散歩も、お昼のお散歩も問題なく元気にできたので、どうやらもう大丈夫のようだ。

ここに咲く草花の紹介第二段。次の4種類はどれもあまり目立たず、ひっそりと咲いている。前回同様、名前はわからない。

2011年3月14日(月)

ニッケイ新聞2011年2月25日付けの「コラム樹海」では、ブラジルの笑えない現実の一面について言及していて、私も同感と思った。制度はあってもそれがうまく運営されていないというようなことは、私たちもここでの生活でよく経験する。旅行者にはわからない、ここに住んでみなければ見えてこない現実なので、ここに紹介しようと思う。因みに、「アテンジメント」というのはポルトガル語で、「対応」というような意味。そして、ブラジルの首都はブラジリアで、サンパウロではない。「こんなこと常識」と思えるのだけれど、そんな基本的なことすら間違えるほど日本のブラジル理解は浅いということなのか・・・

『公立医療施設にピストルを持っていって「アテンジメントをもっと良くしろ!」と脅しにいった患者がいるとのニュースを聞いて涙が出そうになった。コラム子も病気の関係で毎月ポスト・デ・サウーデのお世話になっており、その気持ちが痛いほど分かる▼地方のINSS事務所でアウシリオ・ドエンサ(病気で勤務できない人向けの給与補てん制度)の申し込みにいったまま、5カ月も待たされている間に病気が直ってしまい、挙句に職員から「じゃあ、もう働いたら」と言われて逆上し、事務所の機材を壊した人のニュースも聞いた▼いくら共感しても自分自身はそんなマネはできそうもない。でもそうやって当地式に〃主張〃してくれる人がいると、心の中では拍手を送りたくなる▼この国の年金やSUS(国営医療保険)の制度自体は感心するぐらい良い。日本なら最低25年間支払わないと年金は受給できないが、若年人口が多い当地では最低15年間だ。SUSを使えば公立病院での医療が無料になる。おまけに病気によってはタダで医薬品がもらえる▼少なくとも制度上ではそうなっている。実際にしっかり運営されていれば、素晴らしい制度だと誇れる。しかし、冒頭に紹介したような方法に庶民が訴えざるを得ない現実がある▼当国の特集をした週刊『東洋経済』を読む機会があったが、そんな現実の片鱗すらも感じられなかった。実に好意的なトーンであり有難いお話ではあるが、重箱の隅を突付いてしまう天邪鬼な記者の習性が疼く。アウキミン聖州知事の紹介記事に「〃首都〃州のトップとして強い存在感」と小見出しがあるのを見て、こんな初歩的なことが…。(深)』

同じく、ニッケイ新聞2011年3月2日付けの「コラム樹海」は、サッカーから見たブラジル人の国民性を見事に表現していて、とてもおもしろいと思ったので紹介したい。

『「コリンチャンス応援団」からは、今の伯国民を象徴する勢いを感じる。あのW杯の英雄ロベルト・カルロスが東欧のチームに逃げざるをえない圧力をかけ、世界最優秀サッカー選手3回に輝く怪物ロナウドを引退に追い込んだ影響力はただ事ではない▼昨年の同クラブ創立100周年を念願のリベルタドーレス杯優勝で飾れなかったファンの恨みは深かった。年頭のプレリベルダドーレスで負けたことで一気に不満が爆発。〃戦犯〃 追い出しのためには手段を選ばず、監督や選手の車を壊し、チームのバスに石を投げ、観客席から罵倒しまくった。狙われた選手は命の危険すら感じたという▼ コリンチャンス応援団の多くが属する層は、ルーラ政権が景気を良くしたことで金回りが良くなり中流階級に上昇した若者だ。ルーラ自身がコリンチャンスを贔屓にしており、大衆に絶大な人気のある政治家として、その辺の支持を背景にしている部分も明らかにある▼応援団は試合の高い入場料という〃税金〃を払い、 仕事そっちのけで応援に駆けつける。その犠牲にふさわしくない結果しか出せないクラブ運営陣という〃為政者〃や、期待に添わない選手には成果を求めて暴力 的な手段も厭わずに〃抗議〃する。ある意味、理想的な〃有権者〃の姿だ▼問題は方向性だ。その真剣さがサッカーではなく政治に向けられたなら、即時引退を迫られ外国に逃げざるをえない政治家もいるだろう。サッカーでガス抜きをしている民衆の姿に、彼等はほくそえんでいる。勢いのある民衆の目が政治に向けられた時こそ、ブラジルは先進国入りにふさわしい国民を得たといえる。(深)』

2011年3月15日(火)

このところ雨は降らないのだけれど、曇りがちで、南風(日本だと北風になる)が強く、何だか肌寒い日々が続いている。とは言っても、最低気温15度というのは被災した東北の気温と比べたら天国と地獄ほどの差があるので、文句を言っている場合ではない。

1 週間ほど前から、台所の食卓の窓際に置いてあるガーベラが、ひとつだけ可愛い花を咲かせている。このガーベラの鉢は、去年の11月にアチバイアのマーコスの誕生会が開かれたレストランのテーブルに飾られていたのを、もらって帰ったもの。咲いていた花が終わっても、葉っぱは元気なので、毎日水をやっていたら、 今月に入り花の芽が出てきて、それがだんだん伸びてきて、とうとう花を咲かせた。自然の生命力はすごいなと思う。この花を見ていると癒される。

2011年3月16日(水)

これまでテレビは夜しか見ていなかったのだけれど、11日の地震以来、朝起きると必ずテレビをつけて、NHKを見るようになった。被災の状況や、特に、原発の状態が心配で、私たちが寝ている間に危機は回避できただろうか?と思って見るのだけれど、なかなか進展がないので、気がきではない。すると、今日はちょうど天皇陛下がテレビの前の国民に向かってお言葉を述べられるところを偶然、リアルタイムで見ることができた。

その少し後、広島の兄からメールが来て、「横浜ではスーパーが入場制限で、米や牛乳など品切れとのことで、広島から宅急便で横浜(の息子たちのところ)へ送ったりしています」とあった。広島でも懐中電灯や携帯ラジオ、電池が店頭から姿を消したということだった。さらに、「東京電力は絶望的な電力供給力不足で、この回復は1年やそこらでは不可能と思います。戦後にあった輪番停電という最悪の事態が21世紀の日本で始まるとは、思ってもいませんでした。日本は昭和20年8月15日に立ち返って、もう一度立ち上がらなければいけないような事態です」そして、天皇陛下のお言葉については、「まるで8月15日の玉音放送」と表現し、「天皇陛下のもと、ひとつになって頑張れるのが、日本のすばらしいところだと実感します」とあった。がんばれ東北!がんばれ日本!

2011年3月17日(木)

昨日またしても大問題発生。モビたちとのお昼過ぎのお散歩から戻り、ブログを更新する準備をしていたら、突然コンピュータの画面が消えてしまい、何度リブートしても立ち上がってこない。ああ…このコンピュータは東京に住んでいるときに、エドソンが自分で組み立てた大事なコンピュータなのに、、、

エドソンが夕方仕事から帰宅して調べたら、マザーボードが壊れてしまっているという。どうして…?これが日本だったら、秋葉原にマザーボードを買いに行き、修理することができるのだけれど、ここではそんなに簡単にこのような電子部品は入手できない。特に、エドソンが使っていたマザーボードはいいものだったので、同じものはさらに手に入りにくいだろうと思う。ああ…

ブラジルでの生活を始めて2年の間に、これで、日本からバックパックで背負って持参したノートパソコン2台と、引越し荷物として荷造りして持ってきたPC2台のすべてが壊れたことになる。残るはこのガレージでの仮住まいを始めた後で、新しく購入したエドソンのPCが1台あるだけ。このPCに私のファイルを移してもらって、当分この1台のPCをエドソンとふたりで交代で使うしかなくなった。それでなくても地震発生から仕事が手につかず、翻訳作業が遅れぎみだというのに、参った…

2011年3月18日(金)

我が家の車の走行距離が2万キロを越えたので、昨日は、アヴァレにあるトヨタに定期点検に行った。午前10時からの予約で、午後2時頃までかかるというので、アヴァレの町の中心まで行って少し買い物をして時間をつぶす。洗車も頼んだため、予定よりも少し時間がかかり、2時半頃ようやく車を引き取る。帰途、ボトゥカトゥのパオン・ジ・アスーカーに寄って、食料品を買って帰る。家に帰り着いたら5時を少し回っていたけれど、1日ここで仕事をしてくれたマウリシオが、モビたちのお守りをしながら私たちの帰りを待っていてくれた。感謝。

ペトロポリスの安見さんから、12日(土)に始まった広島原爆展の様子を写した写真と、その日に地元テレビ局が取材に来て、同日の夜のテレビニュースで報道された、その動画サイトが送られてきた。この動画サイトは、こちらへ

このペトロポリスの原爆展は、今年になってから安見さんからポルトガル語の資料入手について相談を受けたので、広島平和記念館と連絡を取り、ひとつだけあるポルトガル語の冊子を送ってもらったり、ブラジル被爆者平和協会からも手持ちの資料を送ってもらったりする連絡で関わっていたので、できればペトロポリスに行って取材したいと思っていたのだけれど、何しろ遅々として家の建設が進まないため、期間中に家を空けてペトロポリスまで行くことは無理。それで、この展示会についてのリポートを書くことは諦めていた。でも、日曜日に写真を送っていただいたので、それを紹介しないのはもったいないと思った。ただ、原爆展がありましたというような内容ではおもしろくないので、少し視点を変えて、私が把握している原爆展開催までの様子を書いてみることにした。

これまでの安見さんとのメールのやり取りで理解していた内容で、急ぎ原稿を書き、安見さんにドラフトを送って、修正や追加をしてもらって何とか仕上げた。開催直前に重なったトラブルについても、メールで知らせてくださっていたのでそれらも加え、安見さんたちの苦労のほどがわかるリポートになったのではないかと思う。安見さんの迅速で、全面的な協力に心から感謝。それにしても、ポルトガル語が国語のブラジルに、英語の展示ポスターを送ってくる広島市の感覚というのはどうなんだろう?その神経を疑いたい。でも、そのような批判を書けば、また編集で削除されると思うので、事実だけを書いた。22日に掲載予定と聞いている。もし、この予定通りに掲載となれば、これは原稿送信(17日)から掲載(22日)までの期間としては、今までにない異例の早さなので、驚いている。

2011年3月19日(土)

今日、米国のオバマ大統領が、鳴り物入りでブラジルにやって来た。彼が来伯する数週間前からグロボテレビでは派手にコマーシャルをしていた。オバマ大統領の外国訪問時の常で、リオでも偉大なスピーチをしたいという意向で、コパカバーナの海岸がひとつの候補地になっていたけれど、結局、リオのどこかの建物内で行うことになったらしい。今日はブラジリアに到着後、ジウマ大統領と会談を行った。その後、夜、リオデジャネイロに移動し、月曜日にはブラジルを離れるらしい。でも、国連がリビアへの攻撃を開始したため、そのニュースが大きく取り上げられ、オバマ大統領来伯の影はちょっと薄くなったような印象は否めない。

中国がチベットを侵略しても世界はだまって傍観していたのに、リビアの内戦には軍事介入する。この欧米のダブルスタンダードは理解に苦しむけれど、要するに石油なのだろうと思う。ヨーロッパが輸入する石油の10%はリビアから来ているそうなので、それを確保するための軍事介入なのだ。そして、米国がブラジルに愁眉を送っているのも、やはり、石油。オバマ大統領は、ブラジルが本格的な石油生産を始めたら、一番の顧客になると明言した。つまり喉から手が出るほど、ブラジルの石油が欲しいのだ。そして、石油生産に関して支援するなどと言っていたけれど、ブラジルはそんな支援は必要としていないし、彼の本音は米国の石油メジャーをブラジルに送りこんで、自分たちの自由に石油生産をしたいというのが見え見えなのだけれど、それをいかにも正しいことを言っているように正々堂々と言って見せるところが、如何にも米国らしい。

2011年3月20日(日)

今日は日曜日なので、エドソンもいろいろやりたいことがあるだろうけれど、午前から午後にかけてまとまった時間、彼のコンピュータを使わせてくれたので、滞っていた翻訳の仕事を久しぶりに少し前進させることができた。今月に入り、度重なるコンピュータトラブルに、日本の地震と、気が動転することが重なり、ちょっと気力が低下していたけれど、少し気分が楽になった。その間、エドソンは昨日パウロが持ってきてくれたマザーボードで、コンピュータの修理に取り組んでいた。モビとフィオナの存在もそうだけれど、この1月に満1歳になった真也のところの心春ちゃんと、今年の2月に生まれたばかりの賢志のところのすみれちゃんの写真を眺めていると、心が和む。

2011年3月21日(月)

我が家の建設は、相変わらず超低速で進んでいる。先週末現在で、玄関を含め、すべてのドアの木枠がはめ込まれ、家の外側の窓の窓枠作りは後3つというとことろまで来たのだけれど、これが済んで、窓枠に防水塗料を塗り、その上からペンキを塗る作業が済むまでは、窓の取り付けはできない。そして、台所と洗面所兼シャワールームの壁にタイルを貼る作業が少し進んだ。でもこれもまだ完了していない。そして、もちろん屋根はまだできていない。今週1週間でこれらの進行中の作業がどこまで進むか?これらが完了して、窓が取り付けられると、ずいぶん進展した印象になるのだけれど、今はまだ、外から見た感じは、年末の状態とあまり変わっていない。次の写真は台所の壁にタイルが貼られた状態。

2011年3月22日(火)

今日付けで、私の32本目のリポート『ペトロポリスで広島原爆展』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。ただ、3月15日から中国新聞のHPがリニューアルされ、読者会員限定のサイトになったため、このサイトに行ったら、IDとパスワードを入力してログインしなければ読めなくなった。何故、こんなユーザー・アンフレンドリーなサイトにしたのだろう?今後、取材先の方に、取材の前後にこれまでのように、気楽にサイトをのぞいてもらえなくなったので、困ったなと思う。いつも私のリポートを愛読してくれているイビウーナの香山のおじいちゃんなどにとっては、登録の手続きの面倒さだけでなく、字や写真も小さくなって、読みにくくなったのではないかと心配。

2011年3月23日(水)

今日はまた、ニッケイ新聞の2011年3月11付け、「コラム樹海」の記事を紹介しようと思う。深沢編集長はいつも鋭い目でブラジルの現実を見ているなあ。

『ブラジルの国内総生産(GDP)がイタリアを抜いて世界7位になったことが先週大々的に報道された。これは朗報として伝えられたが、中には複雑な思いで聞いた識者もいた。クリストヴァン・ブアルケ上議(元教育大臣)は、「教育水準が世界88位のまま、どうして経済規模だけ7位を祝うなんて恥知らずなことができるのか」とさっそく釘を刺した。まったくその通りだ▼伯字紙の解説記事を読めば、GDPの60%が家庭消費で支えられているがその多くはクレジットだ。新興中流階級が今まで手を出せなかった持ち家を15年ローンで購入し、新車を月賦払いするようになったことの積み重ねだ▼金融危機後も一般国民の購入意欲が冷え込まなかったおかげでここまでGDPは伸びてきたが、その背景には教育水準の問題がある。国民全般の経済の先行き予測が楽観的だった部分は否めない。教育水準が上がるほど不況時には貯蓄が増え、消費は落ちるという先進国型の反応に将来はなっていくだろう ▼ジウマ政権に課せられた過熱気味の経済発展を軟着陸させる難題は、今のところ着々と手が打たれている感じがするが、まだ安心はできない。パナメリカノ銀行に起きた不祥事発覚と身売り騒動が、伯国金融界全体に関係するような大きな出来事の予兆でないことを祈りたい▼「天気の良い時に屋根を直せ」とはアウキミン聖州知事がよく使う言葉だが、今こそ国民の教育向上に本腰を入れる時だ。新大統領はPACなどの箱モノ行政で手腕を発揮するのも良いが、「米百俵」ならぬ「フェイジョン百俵」の精神で公教育にてこ入れをしてほしい。(深)』

2011年3月24日(木)

モビの抗がん剤治療はこの22日(火)に始まる予定だった。11日(金)にボトゥカトゥの大学病院に行って、処方箋を出してもらい、週明けの14日(月)にエドソンがサンパウロにある指定の販売店に電話をして注文。翌、15日(火)に代金を銀行から振込み、16日(水)にその会社が入金を確認してSEDEX(翌日配達の書留速達)で発送してくれたので、17日(木)か18日(金)にこちらに届く予定だったのだけれど、届かなかった。よく考えると、ここから車でたった2時間余りのイビウーナからでもSEDEXの郵便がここに届くまでには3ー4日かかる。以前、イビウーナの香山さんのおじいちゃんからリオの日系移民100年史を入手したいという相談を受けた際、ペトロポリスの安見さんにお願いして香山さんに送っていただいたことがある。その時はSEDEXで発送した翌日にはすでにイビウーナに配達されたので驚いたのだけれど、このシステム、全国どこでも一律に機能するわけではないという現実をまたまた思い知らされた。

薬は21日(月)にようやく郵便局に届いたので、販売店との合意通りにエドソンが郵便局まで行って受け取り拒否の手続きをした。この薬は保冷箱の中に入れられて発送され、この状態で48時間は大丈夫なのだけれど、それを過ぎると薬は無効になる。だからこそ料金の高い、翌日配達、ないし翌々日配達のSEDEXで発送しているのに、郵便局の方で、パーディーニョに届けるには日数がかかるということを前もって言ってくれないものだから、結局、郵便局は弁償するはめになり、モビの治療開始は遅れることになってしまった。翌22日(火)に販売店の方はこちらの受け取り拒否と、郵便局の弁償手続き開始を確認したので、23日(水)には発送できたのだけれど、また到着が金曜日になると、病院に行くまでに週末が間に入るため、エドソンは28日(月)の発送を依頼した。そして、パーディーニョへの配達は時間がかかるけれど、ボトゥカトゥなら遅くとも2日後には届くので、ペットクリニックのヴィットリア先生に連絡して、配達先を彼女のクリニックにさせてもらった。彼女のところなら、届き次第すぐに薬を冷蔵庫に入れて保管してもらえるし、届いた翌日に大学病院に行く際、途中で薬を取りに立ち寄って、その足で大学病院に行くことができる。今度こそ問題なくスムーズに薬が届きますようにと、祈るばかり。

2011年3月25日(金)

今日は、建築資材の店などでの支払いや買い物など、いろいろしなければならないことがあったため、仕事を休んだエドソンと一緒にボトゥカトゥに出かけて行った。ボトゥカトゥの町は最初の頃はわかりにくく、どこに何があるのかを見つけ出し、そこまでの道を憶えるのにずいぶん時間がかかったけれど、最近ようやく道の不案内も解消し、迷うことなく、効率よく短時間に何箇所も回ることができるようになってきた。まあ、だいたい用事があって行かなくてはならない場所が決まってきているので当然ではあるのだけれど。

午後1時過ぎに帰宅し、エドソンはエディたちの仕事の進み具合をチェックしたり、今日も仕事に来てくれたマウリシオに手伝ってもらって、先日アヴァレに車検に行った際、買ってきた草刈り機を組み立てて、試運転をしてみたりと忙しい。次の写真は組み立てて、試運転をした後、洗って箱に戻したTOYAMAというメーカーの草刈り機。農機具関連の製品も日本製のものの方が壊れにくく、品質がいいということなので、日本製を買った。

2011年3月26日(土)

以前からずっと、英語を教えてほしいと言っていたエドソンの職場のホドリゴ君に、2月の中旬から土曜日の午後2時間ほど英会話を教え始めた。彼は土曜日も午前中は仕事なので、時々残業があったりして、来れないこともあるため、今日でまだ4回目。でも、来れるときはちゃんと真面目に来て、レッスンを受けて行く。最近エドソンの職場で働き始めたヴィトー(Vitor)という高校生の男の子も、今日から加わり、生徒は2人になった。そして、先週からパウロの10歳になる娘のイザベラまで来ることになったので、ホドリゴ君たちのレッスンが終わってから、1時間ほどイザベラのレッスンをするようになり、土曜日はとても忙しくなった。

今日はお昼頃から雷が鳴り始め、モビが怖がってブルブル震えるため、私の膝の上でしばらく抱っこしてあげていたのだけれど、エドソンがウィリアムの倉庫から戻ると今度は彼の膝の上に鞍替えして、眠り始めた。ホドリゴ君たちが来ると興奮してはしゃぎまわり、しばらくすると私たちの側に置いたベッドの中でいびきをかきはじめ、フィオナと一緒におとなしく私たちのレッスンが終わるのを待っていてくれた。

2011年3月27日(日)

今日は、ここからカステロブランコまで降りて行ったところにある、ニーニョ・ヴェージというコンドミニオ(ブラジル版分譲住宅)で暮らすジェラウドとホザ夫婦の家でのシュハスコに招かれて、お昼前から出かけて行った。次の写真は、広々としたニーニョ・ヴェージの中にあるジェラウドたちの家。

台所の前のベランダの奥にあるシュハスコのかまどの側で、男性軍はビールなどを飲みながら、おしゃべりに興じている。このシュハスコにはパウロの家族とお隣のウィリアムも招かれていたので、男性4人と女性3人と、パウロのところの次女のマリア・パウラ(長女のイザベラは友達のところに遊びに行って来ていなかった)、そして、ジェラウドのところのメス犬のフィロに、うちのモビとフィオナも加わり、賑やかな集まりになった。写真に移っている犬は手前はフィオナで、テーブルの下にいるのがジェラウドのところのフィロ。

2011年3月28日(月)

去年の暮れだったか、年が明けてからだったか、いつ頃種を撒いたかはっきりとした記憶がないのだけれど、エドソンがハイビスカスの花壇の背の低いハイビスカスと背の高いハイビスカスの間のスペースにキアボ(quiabo、オクラ)の種を4ヶ所に分けて撒いた。それらが芽を出し、少しずつ成長してきている。背丈はまだ背の低いハイビスカスよりも小さい。そして葉の裏に小さな黒い虫がいっぱいついていて、葉を食べる虫もいるようで、葉は所々食われてしまっている。タバコの葉を水に漬けて、その液をスプレーで吹き掛けるといいと、エディが教えてくれたので先日やってみた。虫が減少したものと、そうでないものといろいろだけれど、1本のキアボに花のつぼみがあるのを発見。写真に撮ってみた。キアボの左側にある緑の草は、2株植えたマーガレットの花が終わり、種が散って、自然に芽が出てきたので、草取りの時もそれらは抜かずに、そのままにしている。

2011年3月29日(火)

フィオナの真菌感染の治療薬は30日間飲まなくてはならないのだけれど、2週間余り飲んだ辺りから食欲がなくなり、食事を拒絶するようになった。エドソンがインターネットで調べたら、これはこの薬の典型的な副作用だということだった。それで、薬を止めたのだけれど、相変わらず食事をしない。ジェラウドのところであったシュハスコでは牛肉を小さく刻んでやると、もりもり食べていたり、生クリームはなめることができたり、水と塩を少し加えて火に通した挽き肉なら食べたりするのだけれど、ドッグフードは牛肉の缶詰と混ぜてあっても一切口にしない。それで、エドソンがヴィットリア先生に電話で相談して、食欲回復のためのお腹の薬を処方してもらい、今日から飲み始めたのだけれど、これでも状態が改善しなければ、ペットクリニックで診察してもらわなければならない。モビも抗がん剤治療が始まったらこんな感じになるのかなあ?私たちの生活はモビとフィオナの健康を心配することを中心に回り始め、まるで小さな子供をふたり抱えているような感じがする。

2011年3月30日(水)

ここの草花紹介第三段。次の白い小さな花は、ブッシュのような背丈の草というか、木にたくさん花を咲かせている。

次のピンクの花は、小さな朝顔のようなつる性の草で、つるを草や低木にからませて伸びて、咲いている。

2011年3月31日(木)

今朝3時を少し回った頃、モビかフィオナが泣いている声で目が覚めた。エドソンが起きて電気をつけ「大丈夫?」と声をかけると、泣いていたのはフィオナだった。フラフラとベッドから出てきたのでオシッコに行きたいのだと理解。外に出してやると、オシッコをした。家の中に戻ると水を飲み、ベッドに戻ったのだけれど、その途端、ゲボゲボッと夕食で食べたものをすべて吐いてしまった。そして、フラフラとベッドから出てきて、また床の上にゲボ。ああ・・・昨日は朝は食べてくれなかったけれど、お昼も午後も夕飯も少量だけれど食べてくれたので、回復基調にあるのかな?と思っていたのに、どうもそうではなかったようだ。

今日は予定通り、モビの第1回目の抗がん剤治療をボトゥカトゥの大学病院で受けるので、フィオナも一緒に連れて行き、大学病院で診察してもらうことにした。その前にヴィットリア先生のクリニックに寄って、サンパウロから届いているモビの治療薬を受け取るついでに、フィオナの状態を彼女にも診てもらった。血液検査のための血液を採取したのだけれど、大学病院で超音波検査もしてもらった方がいいということで、とにかく大学病院に向かうことにする。

11時前に大学病院に到着し、モビとフィオナの受付を済ませ、エドソンはモビを連れて外科に行き、私はフィオナと一緒に受付で呼ばれるのを待つ。最初のトリアージのような問診に呼ばれた際は、インターンの女性が英語を話す人だったので助かった。また少し待っていると、今度は内科に呼ばれ、診察室に行く途中の廊下でたくさんの若いインターンの人たちがいて、みんなが一斉にフィオナを抱えて入ってくる私を見るでちょっとびっくり。今度のインターンの女性は英語が話せないので、エドソンに電話をして彼にフィオナの状態を説明してもらう。血液検査のための採血を別のインターンの女性が試みるのだけれど、うまく採血できない。別の英語を少し話すインターンの男性が採血してようやくOK。そして、少しすると、インターンではないデニス(Denis)という名前のドクターが来て、片言の英語を話しながらフィオナの体をくまなく診察。その後、点滴をするからと、別の処置室に連れて行かれ、そこでフィオナの足の毛を剃って、点滴の針をさして、点滴が始まる。次の写真は受付でエドソンがモビとフィオナの受付をしているところ。

しばらくして、エドソンがモビの血液検査を終えて、私たちのいる処置室に来てくれた。モビの抗がん剤治療は、午後2時に再度外科に戻って行われる。エドソンが売店に行って、お昼のサンドイッチとジュースを買ってきてくれたので交代で食べる。その間もフィオナの点滴はずっと続く。2時前にエドソンはモビを連れて、また外科に行き、モビの抗がん剤治療を受けて、3時少し前に戻ってきた。一番最初の治療が体に与えるショックが大きいらしいのだけれど、治療を受けた後もモビは元気なので、ちょっと安心した。次の写真は、処置室でフィオナが点滴を受けているところ。採血は首の血管から血を取るのだけれど、点滴は前足の毛を剃って、そこの血管に針を通して行われた。

結局、6時過ぎまで、延々と点滴は行われ、その間何本か別の注射をしたり、口から薬を与えたりということが続いた。血液検査の結果肝臓に異常はないけれど、腎臓に異常があることがわかり、尿検査のための採尿も行われた。慢性の腎臓病なのか、急性なのか、詳しい検査結果は明日にならないとわからないということで、6時半過ぎてようやく病院を後にする。他の患者の犬に比べて、モビもフィオナもとてもおとなしく聞き分けが良く、お行儀がいいので、ドクターもインターンの人たちもみんな通りすがりに2匹の頭を撫でたり、投げキッスをしたりして、愛嬌を振りまいて行く。みんな犬が大好きという感じが伝わってくる。



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