Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年2月1日(火) | ||||
桜を植えるために掘って、台所の野菜クズなどを埋め、堆肥を作っていた穴からスイカの芽が伸びてきたことは以前書いた。スイカの葉というのは見たことがなかったし、スイカを食べた後に捨てた種からこんなに立派な芽が育つなんて思ってもいなかったので、半信半疑だったけれど、何と、何と、小さなスイカの実がふたつ成長しつつあるのを発見!この縞々はまさにスイカ!たくさん咲いていた花の数の割には、実を結んだのは先週末の段階でたったふたつ。大きさはまだピンポン玉より少し小さかった。
でも、昨日見てみると、ほんの数日の間に2~3倍の大きさになっており、他にも小さな実が5つもなっているのを発見!エディは実のなる時期が違うから、おそらく育たないだろうと言っていたそうだけれど、育つか育たないか、「ダメもと」でのんびり見守ることにした。
| ||||
2011年2月2日(水) | ||||
最近、テレビニュースでエジト(Egito)での大規模なデモのことを連日伝えている。 日本語でエジプト、英語でもEgyptと、pの音があるのに、ポルトガル語では何故かpの音がなく、エジトという。でも、エジプト人とかエジプト語というときは、エジプシオ(egipcio)といってpが入るのでとても不思議だ。 また、初めて耳にした際「?」と思った言葉にEUAがある。これはEstados Unidos da America(米国)の略なのだけれど、一瞬、United Arab Emirates(UAE、アラブ首長国連邦)のことかと思い、頭が混乱した。 そして、次の交通標識は何でしょう?日本の標識とは違うけれど、Eがダメと言っているので、Nao Entradaで「進入禁止」かな?とこの標識を初めて見た時に思ったけれど、車道と歩道の際にたくさんあるので進入禁止ではない。これは「駐車禁止」のことだった。Nao Estacione(ナオン エスタシオニ)、つまり、No Parkingのこと。ちなみに、駐車場のことはestacionamento(エスタシオナメント)と言い、駅のことはestacao(エスタサオン)と言う。
![]() | ||||
2011年2月3日(木) | ||||
ニッケイ新聞2011年1月20日付けの日系社会ニュースに、「裸一貫から大農場主に=ウライ=市村さん移民人生語る=世界最高齢市長の一人=一族引き連れ故郷に錦を」という記事が載っていた。ウライ市というのはパラナ州のどの辺にある町なのかよくわからないけれど、記事の内容から、おそらく北パラナでパラグアイとの国境からそう遠くないのではないかと想像する。この市村さん、現在92歳で、現役のウライ市長。そして、世界最高齢の現役市長なのだそうだ。2歳でブラジルに来て、自身は学校に行けなかったけれど、働いて弟たちを学校にやり、子供たちは全員大学まで出したという。それだけではない。様々な農業経営に成功し、現在の資産は何と、5500万レアル(約27億円)だと言う。ブラジルに移住して来たからこその成功例だろうけれど、それにしてもブラジルには日本では見かけないスケールの大きいすごい日系人の人たちがたくさんいるのには感心してしまう。それからこの記事の中にあるラミーというのは、麻のことではないかと思う。この記事のサイトは、こ ちらへ。 | ||||
2011年2月4日(金) | ||||
家の南側の三角地帯に植えたカラのつるに、最近小さな実がなり始めていることを発見。写真に撮ってみた。このカラはだいぶ前に、マウリシオが収穫したものをいくつかいただいて、少し料理して食べ、料理せずカゴに残っていたものから芽が出てきたので、エドソンがそれらを植えてみてくれたもの。その後、つるは元気にひょろひょろ伸びて来ても、葉が虫に食われたりしていたので、ちゃんと実がなるかどうか?と思っていたら、とうとう実がつき始めた。つるがつたって伸びて行けるようにエドソンが棚を作ってくれたお陰だろうと思う。
昨日の夕方、お隣のカゼイロのジョアオンが、彼のお母さんのファームからトラクターの後ろに取り付けたカート一杯に牛糞を運んで来てくれた。それで今朝は太陽が顔を出していない曇り空をこれ幸いに、先週マウリシオが草を除去してくれた木々の回りに、牛糞とカロリナソイルを混ぜてまく作業をした。ご近所の放牧場から私が時々拾ってくる牛糞は、排泄したときそのままの形で固くなっているのだけれど、ジョアオンが持ってきてくれたものは細かく砕いてあって、さらさらしていてとてもいい。こんなに山になっていても牛糞というのは臭くなく、ショベルでバケツに取っていると、熱を感じるので、何だかとても不思議な感じがした。
| ||||
2011年2月5日(土) | ||||
次の写真は今日現在の我が家の居間から玄関(中央)とダイニング(左側)の方を向いて撮った室内写真。家内部の窓枠、柱、梁などすべてにコンクリートを塗る作業がようやく完了。玄関の扉はまだ取り付けられていない。これから台所とシャワールームの水回りの工事をして、それが済んだら台所とシャワールームの壁のタイル張りという段取りになるのかな?と思う。でも家の外側の窓枠や柱にコンクリートを塗る作業もあるので、タイル張りはまだまだ先かもしれない。
家の下のガレージ部分の窓や扉を作ってもらったジョゼ・オリベイラの工場が、去年の中頃、工場拡張のためにパーディーニョの町中からご近所に越してきたので、エドソンが仕事の行き帰りに立ち寄り易くなり、便利になった。先週エドソンが窓作りを注文してから1週間ほどしてようやく、昨日の朝スタッフをふたり連れて来て窓の寸法を計ってくれた。ガレージの窓作りは計測を間違ったのか、何があったのかよくわからないけれど、窓が出来上がって、取り付けに来たらサイズが違っていて、作り直すというアクシデントがあった。そのため、窓が入るまでに2倍の時間がかかったけれど、今度はそんなことがないようにと願いたい。 | ||||
2011年2月6日(日) | ||||
今朝、NHKスペシャル「ホットスポット 最後の楽園」第2回ブラジル・セラード~光る大地の謎というテレビ番組をエドソンとふたりで見た。(くどいようだけれど、日本ではセラードと言っているけれど、ブラジルではセハードと発音する。)ブラジル中央部に広がるセハードは日本の5倍の広さで、その中の国立公園の部分だけでも東京都の23区を合わせた大きさに匹敵するのだそうだ。そのセハードの80%は農地開発で失われたとこの番組では言っていたけれど、この数字はちょっと信じがたい。現在耕作地になっている部分よりも、まだ手つかずのままのセハードの方がよっぽど広いということを何かで読んだ覚えがあるからだ。でも100歩譲って、その数字が真実に近いとしても、セハードだけでも、まだ少なくとも日本の国土と同じ広さの耕作可能な土地がブラジルにはあるということになる。 このセハードには数百万のアリ塚があり、オオアリクイやアルマジロが暮らしていて、雨季の初めに無数のアリ塚が一斉に光り始めるという現象を、福山雅治が現地で紹介していた。以前、エコノミストに掲載されていた「セハードの奇跡」という記事を紹介した際、パーディーニョもセハードの最南端部分に属していると書いたけれど、福山雅治が紹介していたセハードの生態系が、まさにここにもあるので、実感としてここもセハードの一部ということが感じられた。アルマジロはここではまだ直に見たことはないけれど、オオアリクイと同様ここでも生活しているし、アリ塚もそこらじゅうにある。そして、雨季の初めにアリ塚が光るという現象のことは知らなかったけれど、この光の理由である虫の幼虫が、ここでごく普通に見かける蛍の幼虫だったことを知り、驚いた。ということは、ここでも羽アリが飛び始めたら、その夜、アリ塚が光るところを見ることができるということなのだろうか?今年の9月頃は気をつけて観察してみようと思った。 | ||||
2011年2月7日(月) | ||||
明日生検を受けるための準備で、昨日から薬を飲み始めたためか、今朝、モビとフィオナがガレージ内で珍しく粗相をした。朝起きて、私が台所で朝食の仕度を始めたら、いつもはそんな行動はしないのに、ガレージ内を落ち着きなくうろうろと歩き回っていた。と思ったら、まず、フィオナが出入り口のドアのところでエドソンのサンダルの上にも、 次にモビが車の後輪のところで、大量のオシッコをしてしまった。どうもいつものように朝ご飯が済んでお散歩に行くまで待てなかったようだ。あ~、やれやれ・・・いつもと違うそわそわした行動をしていたのだから、彼らのメッセージに気づいてやるべきだった。失敗。失敗。 うちの入り口ゲートを入った左前方には小さな丘があり、この丘の向こう側(南側)に、現在建築中の我が家がある。この丘の南側、つまり家の前の斜面は草を刈ったり、木を植えたりしているけれど、北側、つまり反対側の斜面は手つかずで、草ボウボウのため歩いてみたこともなかった。それでこれまで気づかなかったのだけれど、先月エドソンが散歩をしていて偶然、松の木がポツンと1本だけ自生しているのを発見した。まだ人の背丈よりも低いけれど、とてもきれいな松なので感激。私たちが植えた木々同様に大切に育てて行くことにした。
次の写真は、その松の写真を撮った後、振り返って、入り口ゲートの方を撮ったところ。
| ||||
2011年2月8日(火) | ||||
今朝、モビとフィオナの生検の予約が8時だったので、7時半前にはマウリシオが迎えにきてくれた。エドソンは仕事があるのでマウリシオにモビたちをボトゥカトゥのクリニックまで連れて行ってくれるよう頼んでおいたのだけれど、直前になってやっぱり心配になったようで、「僕も一緒に行て来る」と言って、大急ぎで朝食を済ませて出かけて行った。私の洗濯や掃除などの家事がもう少しで終わる9時頃、みんなが帰宅したので、その速さに驚いたけれど、モビもフィオナも普通に元気だったのでちょっと安心。瘤に針を射されて怖くて痛い思いをしたのだろうけれど、2匹ともとてもいい子にしていたということだった。 次の写真は、夕方のお散歩時に、上の建設中の家の中でおしゃべりしているエドソンと私の足元で、うつ伏せになっておとなしくしているフィオナ。真菌に感染してあちこち円形脱毛して、黒い皮膚が出ていた部分もだいぶ毛が生え戻ってきている。毛並みも少しずつきれいになりつつある。
次の写真は、夕方のお散歩から戻り、エドソンと私が食卓で、夕食前の一時をビールを飲みながらおしゃべりしている側で、自分たちの夕食までの間、おとなしく寝ているモビ。フィオナは夕方のお散歩から戻ると夕食まで犬小屋に入ってしまうことが多いので、この時間帯はモビがベッドを独り占めにしていることが多い。フィオナは天日干しして犬小屋の中に戻した太陽の匂いのするふかふかのクッションを独り占めするのが好きなのだと思う。2匹の行動には、それぞれの性格が表れていておもしろい。
| ||||
2011年2月9日(水) | ||||
ここではよくトゥカーノ(Tucano、オニオオハシ)の鳴き声が聞こえ、遠目ながら、その姿もよく目にするのだけれど、先日の夕方、エドソンと一緒にモビたちのお散歩をしていると、2~3羽トゥカーノが飛んで行くのが見えたので、その姿を目で追いかけると、西側の森に降りて行く途中の木をめがけて飛んで行くのがわかった。そこにある2本の木を見ると、合わせて9羽も群れて止まっていた。こんなに一度にたくさんのトゥカーノが群れているのを見たのは初めてだったので、急いで家にカメラを取りに戻り、そっと近づいて写真を撮ろうとしたら、こちらの気配に気づいて1羽また1羽と飛び去ってしまい、結局、 何とか写真が撮れる距離まで行ってシャッターを押した時には3羽しか残っていなかった。しかも撮れた写真を見ると、右端の木の枝の先にいたトゥカーノは写真の中に収まっておらず、写真には左端と中央の2羽しか写っていなかった。あ~残念。
ニッケイ新聞の2011年1月27日付けブラジル国内ニュースに、「変化続けるサンパウロ=街の素顔を数字で覗くと=多様性に富む多民族社会」と題して、サンパウロ市に関する興味深い記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こち らへ。 | ||||
2011年2月10日(木) | ||||
ここではブラジルで一般的な太いきゅうりだけでなく、日本の細いきゅうりも、パオン・ジ・アスーカーに行けば手に入るのだけれど、茄子はいわゆる大きくて太い洋茄子しか見かけたことがなかった。でも先日、パオン・ジ・アスーカーでベリンジェーラ・ジャポネーザ(Berinjela Japonesa、日本茄子)と言う名前で細長い茄子を売っていたので、1パック2本入りを買って帰った。次の写真は、左側が和茄子で、右側が小さめの洋茄子。
お肉と一緒に炒めたりという普通の茄子料理を作るには別に洋茄子でもいいのだけれど、焼き茄子はやはり細い和茄子の方が火が通りやすく焼きやすいように思う。それで、これまでレンジに魚焼きグリルが付いていないこともあり、焼き茄子を作ってみたことはなかったのだけれど、最近ウエノで魚を焼く網を買ったので、ブラジルに来て初めて焼き茄子を作ってみた。やはり暑い夏に飲む冷たいビールのお供には枝豆や冷や奴や焼き茄子がよく合う。ここでは枝豆は手に入らないので、もっぱら冷や奴だけれど、今日は目先を変えて焼き茄子をいただく。焼き茄子にかつお節をふりかけて、ポン酢をちょっとたらして、ああおいしい!至福のひと時。
| ||||
2011年2月11日(金) | ||||
ニッケイ新聞の2011年1月28日付けの日系社会ニュースに、『トヨタ・ド・ブラジル新社長に中西氏=ソロカバ新工場12年に稼動=「小型車参入、大きな一歩」』というトヨタ・ド・ブラジルの社長が交代したことを伝える記事が載っていた。この記事のサイトは、こちらへ。 ブラジルでのトヨタ関連のニュースは、ソロカバに新工場ができるので注目している。トヨタは2010年7月16日付けのニュースリリースで、「ブラジルにおけるトヨタ車の製造・販売子会社であるToyota do Brasil LTDA.(ブラジルトヨタ、以下TDB)の新工場を、サンパウロ州ソロカバ市に建設することを決定した」と発表している。新工場の用地は2008年7月に取得。2010年9月に建設を着工し、2012年後半から新開発小型車の生産を開始するという。立ち上がり時の生産能力は年産7万台で、投資規模は約6億USドル。新規雇用は1500名程度を予定しているのだそうだ。この新開発小型車は輸出も計画しているという。この工場ができると、トヨタの関連会社や大学の研究機関などもここに進出してくるはずなので、ソロカバには一大産業地帯ができることになる。そして、この工場は徹底的に環境に優しいエコな工場にする計画と聞いている。 トヨタ初の海外生産拠点として1958年に設立されたTDBは、サンベルナルド工場で部品を生産し、インダイアツーバ工場でカローラを生産している(我が家のカローラもここで生産された)のだけれど、このソロカバ工場(サンパウロ市から西に90キロ)ができると、小型車の生産に着手することになり、ブラジルでのトヨタのプレゼンスは一段と大きなものになる。因みに、インダイアツーバ工場はソロカバから北に40キロの所にある。次の地図はトヨタのニュースリリースにあったブラジルでの生産拠点を示す地図。パーディーニョはこのソロカバからさらに西に110キロほどの所にある。
この2月8日には、トヨタ自動車の大規模リコールにつながったトヨタ車の急加速の原因を調査していたアメリカ運輸省が、急加速の原因は電子制御装置の欠陥ではなく、リコール済みのフロアマットとアクセルペダルの不具合以外に問題はなかったと発表し、トヨタ車の安全性への疑いも晴れたので、これからは失地回復にがんばってほしいと思う。ブラジルのソロカバ工場がトヨタの元気回復のきっかけになればうれしいことだと思う。 | ||||
2011年2月12日(土) | ||||
ニッ ケイ新聞2011年2月1日付け日系社会ニュースに、「世界の穀物生産地を3極へ=日伯農業の新世紀〃開拓〃=プロサバンナ計画明らかに=4月から本格研究開始」という記事が掲載されていた。このサイトは、こちらへ。 同じくニッケイ新聞2011年2月2日付け「コラム樹海」では、セハードの事業に関して深沢編集長が次のような記事を書いていた。物事には光の部分があれば、陰の部分もあり、単純には判断できないものなのだなと思った。 『アフリカにセラード開発のノウハウを移植する壮大な「プロサバンナ計画」の記者会見を聞きながら、心中はどこか虚ろだった。セラード関係者と話していて「良い経験だった」と単純に言い切れる人に出会ったことがないからだ。大なり小なり辛い記憶がある地、そんな印象が強い▼足を使った取材で定評のあるコロニア史のベストセラー『百年の水流』(06年)の著者外山脩氏に尋ねると「コチア産組が崩壊した理由の3分の 1、南伯に至っては100%の原因がセラード開発にあると考ている。あれに踏み出したことでコロニアの歴史が変ってしまった」と一刀両断した▼37年間も中南米の農業開発に技術者として従事した白石健治氏が著した『南米農業開発の回想』(04年)でもコチア、南伯の「どちらも、日伯協力事業であるプロデセールに参加しており、その方面での過剰投資が重荷となって、ついに資金繰りが悪化したといわれる。しかし、経営破綻の原因はひとつやふたつではなく、いくつもの要因があったはずだ」と書いているが、主因の一つであったことは否定していない▼当時勢いの良かった組合員の多くが乗り出し、結果として泣く泣く撤退の憂目に遭ったことは記憶に新しい。JICA研究所の本郷豊客員専門員は「穀物メジャーが〃トンビに油揚げ〃みたいに言われることがあるが、そればかりではない」と再三強調していた。大金を投資した日本政府側としては「失敗だった」とは言われたくないから当然だろう▼アフリカでは零細農の立場を重視し、当地の負の経験も含めて活かして欲しいものだとつくづく思った。(深)』 | ||||
2011年2月13日(日) | ||||
金曜日の午前中、モビたちの生検の結果を聞くために、エドソンとふたりでボトゥカトゥのペットクリニックに行った。エドソンが話していた通り、ペットショップを併設したとても清潔なクリニックで、30代の小柄な女性の獣医さんもとても感じがよく親切な先生だった。幸い、フィオナの瘤は良性という結果だったけれど、モビの方は悪性リンパ腫と判明。しかも瘤に気づいてまだ半年だというのに、彼の状態はすでに5段階中のレベル2だという。ちょっとショックだった。 クリニックでは冷静に先生の話を聞き、いろいろ質問をしていたエドソンだったけれど、クリニックから外に出て、車に向かう途中で泣き出してしまった。「おいおい、うちの大黒柱でモビのパパなんだから泣かないでよ。気持ちは分かるけれど・・・」 これからモビの治療について決断を下さなければならない。しばらく抗がん剤治療をして、癌細胞を縮小させてから手術をする方法が一番いいように思うけれど、もう少し獣医さんと相談する必要がありそうだ。抗がん剤治療は犬の場合、毛が抜けたりはしないらしいけれど、犬にも辛い治療らしく、嘔吐や下痢をするということなので、モビが苦しみ体力を落として行くのを見るのはとても辛いと思う。治療をしても癌細胞が必ず小さくなるとも限らないし、手術は様々な危険を伴い、癌細胞を完全に取り除けたとしても、後障害が残ることもある。でも、私たちにできることは彼にとって一番いい治療を施し、今まで通り、彼に食事を与え、体を洗ってやり、下痢や嘔吐で汚れたらきれいにしてやり、少しでも彼が穏やかに暮らせる環境作りをして、一緒にお散歩をして、常に寄り添って愛情を注いでやることだけ。モビは私たちの大事な家族なんだから、これ以外に私たちに選択肢はない。だから泣いている場合じゃない。しっかりしなくては。 | ||||
2011年2月14日(月) | ||||
次の写真は、ここの日の出直前の東の空を染める朝焼け。朝の来ない夜はない。どんなことがあっても朝は必ずやって来る。生ある限り、Life goes on.
またまたニッケイ新聞「日系社会ニュース」から、2011年2月2日付けの「アマゾンの自然と人間の調和を=パラー=環境活動続けるASFLORA=植樹祭とエコ・クリスマスの祝い」という記事を紹介したい。こういう日本や日系社会のブラジルへの貢献の記事を見るととてもうれしくなり、紹介したくなってしまう。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年2月15日(火) | ||||
今日付けで、私の30本目のリポート『リオデジャネイロ州で未曾有の豪雨災害』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。このリポートはどちらかと言うと季節ものなのだけれど、原稿送付から掲載まで3週間もかかったことに少し驚いている。以前の編集担当の方は、季節ものを優先しているから申し訳ないと連絡をくれ、私のあまり季節とは関係のないリポートは後回しになることが多く、掲載までに3~4週間かかるのはざらだったけれど、今回は掲載予定を尋ねる私の質問には返事がなく、いつ掲載になるのかな?と思っていたら、ようやくの掲載となった。編集担当の方により考え方もずいぶん違うようだ。担当の方が交代して早6ヶ月余りだけれど、正直今だに戸惑うこと多々。 昨日の午後、サッカーのホナウド(Ronaldo)が18年間のプロ生活からの引退を発表した。それで昨晩はどのニュース番組もその会見の様子を流し、とても大きく取り上げていた。さすがにブラジルを代表する選手だっただけあって注目度が高い。幸せなプロサッカー人生だったと回顧していた。そして、ここ数年太りぎみだったのは、甲状腺の病気が原因で、その治療に使う薬がドーピングで禁止されているものだったので使えず、ホルモンのバランスが保てず、体重のコントロールが難しかったのだということを明かしていた。様々な怪我にも泣き、病気も抱えながら、ブラジルの看板を背負って来たのだから、やはりすごい選手だったのだと思う。次の写真はその会見の時の写真で、息子と一緒に。
![]() | ||||
2011年2月16日(水) | ||||
ニッケイ新聞の2011年2月3日付け日系社会ニュースに、『日伯の提携を世界のモデルに=日系農協セミナー=「来るべき食糧危機に備える」=ジャーナリスト池上彰氏が講演』という記事が掲載されていた。池上氏はTPP(環太平洋経済連携協定)について、「入るも地獄、入らぬも地獄」と言っていたという。日伯で進めるモザンビークのナカラ地域開発も重要な意味があるだろうけれど、日伯の農業関係者の協力関係を強化し、日本政府はブラジルにもっと目を向けるべきなのではないかな?と思った。この記事のサイトは、こちらへ。 また、ニッケイ新聞の2011年2月3日付けの「コラム樹海」に、おもしろい秘話が載っていて、「へえ~」と思ったので、ここに紹介する。 『セラード開発は田中角栄首相が1974年9月に来伯したのを機に始まったが、その時の秘話を最近聞いた▼来伯前に立ち寄ったメキシコで田中首相は100 万ドルの手土産をポンと渡し、大統領と会見して日墨学院の早期開設に関する声明を発表、設立が一気に軌道に乗った。同地代表の松本三四郎氏の100万ペソ寄付を呼び水にコロニアだけで50万ドル、進出企業が160万ドルを拠出し、あと80万ドル足りないという時に、干天の慈雨の如く100万ドルが降ってき たわけだ▼その直後に立ち寄った伯国でも、大農場主の市村之氏(92、新潟、現ウライ市長)が代表となって新潟県人会北パラナ支部が「日伯学園構想」を首相に提案しようとしていた、と間嶋正典同支部長(78、新潟)は明かす。新潟県が生んだ田中首相と〃ラミー王〃市村之の対面だ▼しかし、間嶋さんは「事前に田中首相の秘書には面会の約束を取り付けていたのに、当時のサンパウロ総領事館が面会を許さなかった。市村氏は予定どおり首相が宿泊するホテルまで行きながら、門前払いを食わされた」と残念そうにいう▼間嶋さんは「あの時に市村さんの協力で日伯学院を作っていたら今ごろ卒業生からは大臣クラスがゴロゴロ出ていた」と嘆息する。おそらく日伯学園構想はセラード開発推進派に食われてしまったのだ▼日本力行会の永田稠会長は「珈琲よりも人を作れ」との名言を遺したが・・・。この時に始まったセラード〃狂想曲〃により、コロニアは後の2大産組の崩壊と同時に、「大臣クラスの卒業生」をも失ったのかもしれな い。(深)』 | ||||
2011年2月17日(木) | ||||
1月の下旬からマウリシオが週に2~3回来て、草刈りをしたり、木を植えるための穴を掘ったりと、力仕事をしてくれるので、とても助かっている。今朝はどこかでもらって来た、赤かピンクの花が咲くという植物を持ってきてくれ、ガレージの前に置いた大きな鉢に植えた木と入れ替えてくれた。
鉢に植えていた木は大きくなるので地面に直接植えた方がいいということで、丘の上に掘った穴に植え直してくれた。これで、植えた木の総数は200本になった。でも、エドソンが朝仕事に行く前に家の回りを見て回っていたら、10日ほど前に私が植えた桜の苗木が無残にも折れてしまっているのを発見した。昨日の晩、とても激しい風が吹き、ザーザーと雨が降ったので、その風で折れてしまったのだろうか?せっかく小さな苗木から1年ほど育てて、掘っておいた穴の土の準備もできたので、もういいだろうと、植えたばかりで、元気にしていたのに、残念。 昼食後にモビたちを散歩に連れ出した際、家の横の大木の回りの草を除き、きれいにする作業をしていたマウリシオが、桜の木を折ったのは風ではなく、野うさぎだと言って、桜の木の回りにある犬のものとは違う動物の足跡を見せてくれた。ここの野うさぎはアルメイラオンの葉を食べ散らかすだけでもやれやれなのに、食べもしない桜の木まで折らないでほしいものだと思う。次の写真は、木の回りの草を除去してきれいにしているマウリシオ。この木の回りには花壇を作ろうと考えている。
| ||||
2011年2月18日(金) | ||||
今朝10時に、ボトゥカトゥの歯科医院でエドソンの歯を治療してもらうための予約をしていたので、一緒に出かけて行った。出かける前にエドソンの仕事の電話が長引き、ちょっと出遅れて、歯科医院には予約時間に10分遅れて到着。でも、前の患者さんが長引いていて、それから30分以上待たされ、ようやく呼ばれて診察室に入ったかと思ったら、2~3分で出てきたのでびっくり。普通、最初の診察の際は歯のレントゲンを取ったり、痛みを訴えている部分の処置を少しはするのではないかと思うのだけれど、今日1日分の痛み止めの薬をくれただけで、1週間後に来るように言われ、がっかり。ここはハファエルが長年通っているということで、行ってみたのだけれど、別のところを探すことにした。日本でも病院選びはなかなか大変だけれど、ブラジルも同じこと。ピンからキリまである医院のどこに行けばいいのか、いろいろな人に聞いて行くようにしているのだけれど、こういうハズレもある。ハズレだと思ったら、また最初から仕切り直しをしなくてはならない。 この後、モビを大学病院に連れて行くための紹介状をもらいにペットクリニックに行く。モビの抗がん剤治療は、ここのヴィクトリア先生の所でもできるのだけれど、手術は大学病院の別の先生に来てもらわなければならないので、それだったら最初から設備の整った、ガン専門医が2人も常駐している大学病院で、抗がん剤治療と手術の両方をした方がいいだろうという、彼女のアドバイスに従うことにした。ヴィクトリア先生は大学病院の出身で、現在も博士課程を取っているところなので、モビのことはすでに大学病院の方に話を通してくれていて、来週火曜日に、エドソンがマウリシオと一緒にモビを診察に連れて行く予定になっている。パーディーニョは人口5000人ほどの何もない小さな田舎町だけれど、ここから車で30分の隣町のボトゥカトゥに行けば、有名な州立の大学病院があり、人間と動物の両方の病院があるのだから、とてもありがたい。 次の写真は、捨てた種から自然に育ってきたスイカのその後の成長ぶり。少し離れた場所から撮ってもその存在をしっかりと主張している。この他にもう3つ実がなったのだけれど、ひとつはピ ンポン玉くらいの時に萎んでしまい、後の2つも少し大きくなったけれど、形が歪になり、色が黄色く変色してしまい、成長が止まってしまったため、何とかちゃんと育っているのは最初に見つけたこの2つだけ。
| ||||
2011年2月19日(土) | ||||
今晩0時に、10月中旬から続いていた夏時間が終わる。これでまた日本との時差がマイナス12時間に戻る。つまり日本の朝10時は、こちらの前の晩の10 時。そして、今年は3月上旬にあるカーニバルが終わると、ここの夏もぼつぼつ終わる。3月の春分の日は、こちらでは秋分の日にあたるので、3月下旬には暦の上では夏が終わり、秋になる。 家の南側の三角地帯に植えたオレンジの木の間に、マウリシオがとうもろこしを育てる場所を用意してくれたので、先週の日曜日にエドソンがとうもろこしの種を蒔いた。今朝、モビたちを連れてお散歩に出たエドソンが、「とうもろこしの芽が出てきたよ」と言うので、写真に撮ってみた。まだ回りのブラキアーリアと区別がつかないほどの小さな芽だけれど、この写真の中には ちゃんと8つの芽が出ているのがわかる。このとうもろこしの種はマウリシオがご近所の日系コーヒー農家のタケイシさんのところでもらってきてくれたもの。
そして、次の写真はドングリの実。左側の大きいものはクヌギで、右側の小さいものはナラのドングリ。先週の土曜日にソロカバでシイタケの菌床作りをしている日系2世の赤松さんの工場を訪ねた際、工場の施設と共に、そこで育てていたクヌギの木なども見せてもらったのだけれど、たくさんドングリが地面に落ちていたのでもらって帰ったもの。これらは直接地面に植える前に、ポットに植えて、苗木を育てた方がいいということだったので、ポットに土や牛糞やいろいろなものを混ぜたものを入れ、植えてみた。芽がでるといいのだけれど・・・
| ||||
2011年2月20日(日) | ||||
インターネットのYahooニュースのサイトで、読売新聞2月19日(土)11時46分配信の次のようなニュースを見かけた。
『シンガポールの有力紙ストレーツ・タイムズ(17日付)は日本が技術革新を続け、優れた製品やサービスを生み続ける限り、「今後もずっと尊敬される国であり続ける」との東京特派員のコラムを掲載した。 コラムでは、「GDPの順位だけで国の全体像は語れない」と指摘した上で、世界の音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を日本人4人が同時受賞したことに触れ、「音楽でも経済でも日本がこの先見限られることはないと思い知らせた」と評価した。 そして「世界レベルの成果」を生む要因として、勤勉さや仕事への誇り、秩序感覚など数字では表せない日本の国民性をあげた。』 さらに、同じYahooニュースのサイトで、Record China 2月19日(土)17時38分配信のニュースに次のようなものもあった。
『2011年2月18日、環球時報は、このほど英BBCで放映されたドキュメンタリー・シリーズが、海外における中国人のイメージを著しく損ねているとしてBBCを非難した。 BBC製作のそのドキュメンタリーは「中国人が来た!(The Chinese are coming)」。経済成長著しいBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)にレポーターを派遣し、中国人による投資状況や移民した中国人の生活などを紹介するという番組だ。だが記事によると、「中国人による原材料の買い占め」「現地経済と環境を無視(した投資)」などの調子で中国を批判する内容となっているという。 同シリーズは午後8時のゴールデンタイムに放映される。放映済みの第1回と第2回は、ブラジル・リオデジャネイロの鉱山などで、中国人が現地の有力者と結託し鉱物資源を大量に買い叩き、無秩序な採掘で環境を破壊、安価な中国人出稼ぎ労働者を使って競争し現地同業他社の経営を逼迫(ひっぱく)させている、などと中国を批判。十数人の女性従業員に裁縫をさせ、細々と商いを続けてきた服飾店の女性経営者は番組の中で、「3年前に中国人が来てから同業者の多くが店をたたんだ」と話した。(翻訳・編集/津野尾)』 | ||||
2011年2月21日(月) | ||||
先々週の12日の土曜日、ここから東南に1時間半ほど行った所にあるソロカバに行ってきた。イビウーナの香山さんのおじいちゃんの紹介で、日系2世の赤松巌(アカマツイワオ)さんのシイタケの菌床工場を訪ねた。これは中国新聞の「海外リポート」の取材が目的。赤松さんは日本に行ってシイタケの菌床作りとシイタケ栽培を学び、ブラジルに戻り本格的に生産を開始した人で、今ではブラジルで流通しているシイタケの約8割余りは赤松さんの菌床から作られているのだそうだ。赤松さんと彼の工場のことはリポートにまとめたので、詳しくはそのリポートが掲載された際に読んでいただくとして、ここでは撮ってきた写真の説明を簡単にするだけにする。 赤松さんの工場の敷地内のユーカリのおがくずが積んである場所。常に湿らせておかなくてはいけないため、自動で散水機が動いていた。
製造された菌床がカゴに入れられ、積み上げられ、出荷を待っている倉庫。
アカマツさんの工場は見学者が絶えないようで、この日は私たちの他に2組の見学者があり、その人たちと一緒に見て回った。1組はブラジル人の男女3人連れで、もう1組は日系の2人連れだった。その日系の年配の人は、、在伯40年になる戦後の技術移民の1世で、カンピーナスから見学に来ていた。まだ今は会社勤めをしているのだけれど、退職後の事業の可能性を考えているようだった。左側が説明をしている赤松さん。
赤松さんの工場では菌床を作って、シイタケ農家に販売するだけでなく、自分のところでもシイタケを栽培していて、リオデジャネイロに出荷していると聞いた。この写真は菌床を育てる培養室。
次の写真は発生室で育つシイタケ。
次の写真は、収穫して、出荷される前のシイタケ。日本では国産は価格が高めで、安い外国産は国産に比べ小さく味も落ちるけれど、赤松さんのところのシイタケは日本のシイタケ菌を使っているので、とても立派な肉厚のおいしいシイタケができる。そして、赤松さんのシイタケは有機栽培のユーカリのおがくずしか使わず、独自の厳しい品質管理をしているので、とても安心で、価格も手頃。
ブラジルでは干しシイタケは中国からの輸入品が主流らしいけれど、生のシイタケは鮮度が落ちやすい食材なので、長時間の輸送に向かないため、中国から持ってくることができないらしく、ブラジル国内産のシイタケと競合できないので、住み分けができているらしい。何でもかんでも中国の安いものが市場を席捲しているけれど、そうはいかないものもあるわけだ。 | ||||
2011年2月22日(火) | ||||
難しい経済のことはよくわからないけれど、イビウーナの中村さんの随筆は、経済のことを分かり易く説明しているものがよくあり、それを読むと「ふ~ん、そういうことか?」と、少し理解できたような気になる。以下は今週の随筆。
そんなことをつらつら考えていたら、自国通貨が割高(日本では円高、ブラジルではレアル高)では悪いのか良いのか、或いは食料自給率の向上は誰の為に良くて誰の為には悪いのか、デフレは果たして悪いのか、等々が気になり出した。以下「おさらい」をしてみた。 円高:20世紀は石油の世紀、21世紀は水の世紀と言われる。石油に関しては、1974年10月に所謂第一次オイルショックが起き、原油価格(バレル当 り)が3ドルから5ドルに、更に12月に12ドルに引上げられた。一挙に4倍になったと言われる所以だ。4年後の1978年12月イラン政変を契機に第二次オイルショックが起き、原油価格は30ドル時代に突入したが、1983年に値下がり始め、2001年の同時多発テロ事件(米国9.11)まで 11~28ドルと安定した時代を経た。29ドル(2002年)→32(03 年)→43(04)→59(05)→62(06)→91(07)→41(08)→74(09)→89(10)がその後の原油価格の経過で、現在は100 ドル時代と言われる。一方、円貨の対米ドル為替相場は\360(戦後)→\260(1985年9月25日プラザ合意)→\100時代(1994 年)→\90時代(2009年)→\80時代(2010年)となっている。どう評価すべきか?大まかに、原油価格は、紆余曲折があったが、一貫して上昇し、円貨は一貫して切上げ(円高)られてきた、と言える。即ち、円建て原油価格上昇のインパクトは円高のお陰で、比較的軽く済んだ、ということだ。3 ドルのものが100ドルと33倍になる処、日本は3x360=\1080→100x80=\8000、詰まり7倍強で済み(円高に助けられて)、日本丸は石油の世紀を上手に乗り切れた。円高なくしては高度経済成長期もなかっただろう。輸出競争力云々以前の問題だ。経済が自由化される以前の日本は世界の中で超高物価国として悪名を馳せてきた。輸入の自由化が物価水準を引下げ、最近漸く世間並の物価になってきた。デフレは消費者、特に高齢者(年金受給者)にとって悪くない。働き盛りに高物価を耐え抜いて来たご褒美だ、と言ってもよかろう。黄昏に並の物価になっても嬉しくも何ともない、と不平を鳴らす者もいる。 食料:低カロリーの和食がヘルシーだと世界で好評だ。その一方で、日本では「カロリー・ベースの食料自給率が40%を割った、心配だ、自給率を向上しなけ ればいけない」と喧しいが、数字遊びではないか?世界の飢餓人口は9億人、メタボ人口は10億人超、中でも日本はメタボ国の代表格だ。何故カロリー・ ベースで不足だと言うのか、不思議でならない。中近東・北アフリカの最近起っている騒擾の原因は主食(小麦)の急騰だと言っては、日本の食料自給率、経済躍進著しい中国人の胃袋、バイオメタノールと食物との競合、等々と心配の種は尽きない。しかし、日本は水(淡水)に恵まれているし、放置された農地の面積が埼玉県より大きい、と言われる。食べ残し(廃棄食物)率も高く、メタボ人口も大きい、更に人口減少を悩んでいる。水=食料であり、技術立国を標榜 している国にあっては放置された農地は食料増産予備軍(=供給余力)だ。食べ残しを減らし、メタボを改善すれば、人口減と相俟って、食料需要総量が減 る。本来の勤勉な国民性、「頂きますと勿体ない」の文化(思い起こせ!)を味方につければ、食料不足を心配する必要はない。輸入食料も円高のお陰で、買い負けしないで済んでいる。日本の食料不足懸念論は根拠薄弱だ。 貿易依存度:よく誤解され、日本の貿易依存度は高いと思われているが、実際は、日本の貿易依存度は31.7%、2008年と低い。日本より低いのは、ブラ ジル(24.1%)と米国(24.3%)位で、例えば中国は59.2%、印度38.3%、ロシア46.9%だ。言うまでもなく、世界が保護主義に陥った時に困る度合は貿易依存度の高いほど厳しい。海外依存の小さい日本が困るという論拠はみつからない。又、「自国民は頼れるが、外国人は頼れない」と信じている人は多いが、案外「近い親戚より遠い友人」の方が頼りになるかも知れない。ブラジルは、水に恵まれ、農地可能面積が大きく、平和を愛好し、政治が比較的安定している民主主義国家、日本との間に紛争問題もなく、1~2百万人の日系人を擁している。ブラジルは日本が友とすべき条件に恵まれた類稀な国、仲良くすべきだ。 空洞化論:定義はハッキリしないが、「製造業は、日本の生産コスト(税金等)が割高、或いは国内市場が縮小すると見たら、有利な海外に出て行き、日本経済は空洞化する」その結果、「国内の雇用が減り、日本経済は衰退していく」という議論と理解している。事実、BRICsへの企業進出は顕著だ(製造業の海外生産比率:4.6% 1990年度→17.8% 2009年度)。それに伴い、海外直接投資の収益も増大している。IMFの資料によると、日本は19年連続で世界最大の対外純資産国だ(2009年末で 266兆円)。その純受取額も、GDPの3%、企業の経常利益の12%に達している(資本金10億円超の大企業の経常利益を分母にとれば24%)-日経 「経済教室」30/08/201。即ち、所謂「空洞化」した分だけ海外の資産が増え、その資産が稼ぐ利益は日本に還元されているわけだ。海外の現地法人 も雇用を創出していることは言うまでもない。企業が、海外と国内とを問わず、生き残っていく限り、雇用は必要だ。逆に、国内に留まっても、死んで(倒産)しまえば、雇用は不要になる。「空洞化=雇用減」論は短絡し過ぎだ。今や日本企業は生産額の2割を海外で生産していると言われる時代、心を開き、偏見を越えようではないか。 ブラジルもレアル高で、レアル安を求める声を聞くが、ブラジル経済の将来の為に技術輸入を重視するなら、輸出振興を理由にレアル安操作をする愚をおかしてはならない。日本の経験は、市場に任せた為替は成功、保護した農政(米)は失敗だった、と教えている。 イビウナ、21/02/2011 中村 勉 | ||||
2011年2月23日(水) | ||||
昨日の朝8時半頃、エドソンはマウリシオと一緒にボトゥカトゥの大学病院にモビを連れて行くため出かけて行った。ボトゥカトゥにはサンパウロ州立大学 (UNESP)の医学部のキャンパスと農学部のキャンパスが別々の所にあり、医学部のキャンパスには人間のための附属病院と、動物のための附属病院がある。私はフィオナと家でお留守番。 大学病院でモビが診察を受けるのは初めてだったので、昨日は初診の手続きを行ってから受診し、血液検査や2種類のレントゲン検査などを行ったということだった。レントゲンの検査が午前と午後に別れていて、長く待つ時間があったので、その間、家のレンガを買った店に行き、屋根瓦の見積りをしてもらったり、苗木屋に行って、リグストルン(ねずみもち)やユーカリの苗木を買ったり、モビが一緒なので、レストランなどには行けないため、マクドナルドのドライブスルーでお昼を買って、近くの公園で食べたりと、時間を有効に使ったようだ。でも、あちこち忙しく走り回ったので、エドソンは私のバースデーケーキを買って帰るのをすっかり忘れてしまい、ケーキなしで午後4時を少し回って帰宅した。エドソンの誕生日の際も忘れたのだから、まあしょうがないと、夕食の仕度を始める前に、ふたりでワインを飲みながらおしゃべりしていたら、家に帰って行ったはずのマウリシオが戻ってきて、ケーキを持ってきてくれた。私の知らないところで、エドソンがそっと彼にお金を渡して買ってきてくれるように頼んだのだった。ありがとうエドソン。ありがとうマウリシオ。 去年の誕生日の時は、マウリシオに頼んで、パーディーニョの町で注文に応じて手作りケーキを作ってくれる人にケーキを作ってもらった。でも今年はパーディー ニョの町にいくつかあるスーパーマーケットのひとつに、いつもケーキを販売している店があることをエドソンが発見したので、そこで買うつもりにしていた。 けれど、昨日はボトゥカトゥからパーディーニョの町に寄らず、真直ぐ家に戻って来てしまい忘れてしまったというわけ。帰宅して「しまった」と気づいたエドソンも、マウリシオのお陰でセーフ!次の写真は、マウリシオが買ってきてくれたチョコレートケーキ。中はチョコレートとココナツクリームの2層になっていて、甘ったるくなくおいしかった。昨日買って帰った苗木を植える作業をするために、今日仕事に来てくれたマウリシオに、ケーキのお裾分けをするべく、彼とドナ・クレウザとマテウスの3人分をタッパーに入れて、夕方仕事を終えて帰る際、持って帰ってもらった。
| ||||
2011年2月24日(木) | ||||
昨日は火曜日に買ってきたリグストルン(ねずみもち)の苗木15本と、ユーカリの苗木6本を植える作業をマウリシオがしてくれたので、先日植えた小さな竹と合わせて、植林総数は222本になった。 次の写真は今回新しくリグストルンを植えた後、以前植えたリグストルンの回りに生えた草を取り除いてくれているマウリシオ。側にいるのはクリスタルとモビ。この写真では見えないけれど、右側の草むらの中にはセシリアもいる。確かジェニファーも来ていたはずだけれど、この写真を撮った際は、側にいなかった。マウリシオがここで作業をしていると、この子たちはここに来てマウリシオの側に張り付いていることが多い。
次の写真は、リグストルンの列の前に植えたユーカリの苗木の1本。
次の写真は、買ってきた状態のアメンドイン・フォハジェイロの苗。
次の写真は、アメンドインの苗を1本ずつ植えた後の状態。アメンドインはブラキアーリアと同じようにとても強い草で、根から毒素を出して他の植物の成長を妨げるブラキアーリアと違い、アメンドインは根からチッソなどの栄養分を出して、土を肥沃にしてくれるので、こうやってここにアメンドインを植えて、 ブラキアーリアを駆逐する予定。さらに、虫はアメンドインが嫌いらしいので、家の前にアメンドインを植えることで、虫除けの効果も期待している。
| ||||
2011年2月25日(金) | ||||
2月に入り、我が家の建設は、また足踏み状態が続いている。エディは去年の7月にモラエス家具店の方を仕上げるから2週間ほどここの仕事を休ませてくれと言って、結局4週間以上モラエス家具店に行ったきりで、ここの仕事に戻ってきてくれなかった。今回もまた、モラエス家具店で他の人が作業した天井から雨漏りがするのでそれを直すために、2月の第2週目から2~3日ここの仕事を休むと言っていたのが、もう3週間になる。そう、モラエス家具店はいまだに完成していないのだ。どうしてそういうことになるのか、私にはどうにも理解できない。エディたちは、2月の第2週目はお天気が悪くモラエス家具店の方の仕事ができない1日だけ、ここに来て仕事をし、3週目は月曜と木曜の2日だけここに来て、今週は結局1日も来なかった。それで、北側の窓枠(外の部分)が4つでき、 お勝手口のドアが取り付けられただけで、作業はストップしてしまっている。 エディには嘘をつくつもりはないのかもしれないけれど、どういった作業にはどれだけの時間が必要かという予測というか、見積りというか、時間の管理が信じられないくらい甘いというか下手なのだと思う。それとも、ブラジル人によくある思考形態なのかもしれない。現金一括払いで払えば500レアルの商品を、月々90レアルの12ヶ月分割払いにするということがどういうことか、普通に計算できる人なら絶対そんなばかな分割払いはしないと思うのだけれど、ブラジルでは目先の金額である500レアルと90レアルを比較して、月々90レアルなら安いと考えてしまう人がごく普通にいるということを、以前書いたことがあるけれど、 それと同じことなのかもしれない。つまり、最初に正直に少し厳しい見積りをされると、そんなにお金がかかるのは困るとか、時間がかかるのは困ると、ひどく文句をいうのだけれど、最初の見積りが非現実的な甘い見積りであれば、後からあれもやらなければならない、これもやらなければならないと付け足して、結局、時間もお金も最初の見積りよりもかかってしまっても、損をしていることに気づかないという思考形態があるようなのだ。教育?文化?何故なんだろう?不思議でしょうがない。 | ||||
2011年2月26日(土) | ||||
ニッケイ新聞2011年2月12日付けの日系社会ニュースに、「防衛大校長が初来伯=国防省、士官学校など訪問=広島会館で26日夜に講演」という記事があり、それを読んでびっくり。防衛大学の校長先生の名前が五百旗頭真とあったからだ。これは「いおきべまこと」と読む。この先生がまだ学者の玉子で、広島大学の講師だった頃、私が通っていた鈴峯女子短大に非常勤で短期間教えに来ておられたことがあり、私は1学期間だけ彼の憲法(?)のクラスを取った憶えがある。どんな授業を受けたかはまったく記憶にないけれど、彼の頭脳明晰でとても分かり易い語り口に引き込まれ、そのユニークさに、とても好きな先生のひとりだった。そして、彼のクラスは期末試験などなく、課題図書を数冊あげて、その中からどれでもいいから1冊読んで、読書感想文を書くというのが試験だった。確か、私は「恍惚の人」を読んで感想文を書いたように思う。 それから数年後、新聞で先生がアメリカに研究に行かれ、ワシントンD.C.の国立公文書館で、戦後の占領政策を調べていて、日本をアメリカとソ連で2分割するという案があったという公文書を発見したというニュースを見た。彼の専門は確か政治外交史で、主に戦後の日米関係だったように記憶している。その後また数年して、神戸大学の教授になっておられることを何かで知った。その後、この分野では一目置かれる存在になっていたからだろう。たまにテレビの討論番組だったか報道番組だったかに、専門家として出演してコメントされているのを見かけることがあった。その都度、お名前やお顔を拝見するとうれしく思ったものだった。でも、これまで様々な政権のアドバイザー的な役割を担ってきておられ、小泉元総理の依頼で防衛大学校長になっておられたということは知らなかった。
今回のサンパウロ市での講演会は「国際社会の中の日本」と題され、約1時間半ほどの予定で、質疑応答の時間も設けられるとあったので、「参加したい!」と思ったけれど、この記事を見たのが木曜日の夕方。土曜日の夜の講演会に参加するためには、その晩サンパウロに1泊して日曜日にこちらに戻ることにしなければならないのだけれど、サンパウロにいまだ不慣れな私たちはどこに宿泊したらいいかもわからない。今からそれを調べて予約をしたりするのは時間的に難しい。1泊するとなるとモビとフィオナをどうするかも考えなければならない。そして何よりも、今日、土曜日はすでに予定がある。ああ、もっと早く分かっていたらゆとりをもって準備できたのに・・・な~んて言っても始まらない。サンパウロ市内ではなく、サンパウロ市から離れた田舎町に住んでいるのだから、こういうことはこれからもあるだろうな。残念だけれど、仕方がない。 | ||||
2011年2月27日(日) | ||||
2週間ほど前にソロカバに行った際、遠出をする前に、いつものようにカステロブランコ上のホドサーブ・スターで燃料を入れたり、洗車をしてもらった。その間、エドソンが駐車場から北側を向いて、我が家のある丘の写真を撮ってみた。この写真の下側中央から右に3本の木が見えるけれど、左端の木から視線を上に向けると、山に森の緑がない部分がある。これはお隣のウィリアムのところのアテモイアの果樹園。この緑のない部分に沿って、視線を左に持って行くと、四角く茶色っぽい建物のようなものが見える。これはウィリアムのところの倉庫。この倉庫から山の稜線に沿って、視線をさらに左に移動させると、ぽつんと1本の木が山の稜線からはみ出しているのが見える。この木は現在建設中の我が家の西側にある木。我が家は森の影になっていて見えないけれど、家の横の木はこうしてわずかに見えている。赤い矢印を入れてみた。
視線をまた右下の木に戻し、左から3本目の木から視線を上に向けると、やはり、山の上の辺りに森の緑のない場所が斜め右に広がっている。これはドナ・ベティの所有地。下から見ると私たちが住んでいる場所は山の上なのだけれど、上に上がってしまうと、台地になっていて、なだらかな起伏がある丘陵地帯なので、山の上に住んでいるという感じはしない。ただ、標高が1000メートルなので、紫外線はとても強い。 | ||||
2011年2月28日(月) | ||||
お隣の新しいカゼイロのジョアオンは若い(30代)だけあって、元気なのでよく働く。朝7時くらいにはすでに仕事をしているところを見かけることがあるし、平日の5時を過ぎても草刈りをしていたり、仕事はお休みのはずの週末にも、丸1日ではないけれど、午前中などはよく仕事をしている姿を見かける。先月、道路沿いの柵の内側と外側の草刈り作業をしていて、ついでにうちの敷地の道路沿いの草刈もしてくれた。彼の親切に感謝。とても助かった。次の写真は、うちの入り口ゲートの前からお隣の入り口ゲートに向かう道路。右側の柵沿いの草が刈られている。
次の写真は、入り口ゲートの東側の草が刈られた状態を撮ったもの。柵沿いに3本のグレヴィーリャの木が見えるけれど、手前の2本は植えて3ヶ月ほどしか経っていないので、まだひょろひょろしている。
|
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |