Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2011年1月1日(土) | ||||
Feliz Ano Novo! ![]() ブラジルでは大晦日の午前0時になると一斉にあちこちの町で花火が上がる。でもその中でもリオのコパカバーナの花火はクラシックの曲と共に15分間続き、一番規模が大きいらしく見応えがある。今年は200万人もの人たちが海岸を埋め尽くしているということだった。ブラジルではアフリカから連れてこられた人たちの宗教の影響で、白い服を着て新年を迎えると幸運が訪れると考えられているらしく、コパカバーナのステージで歌っている人たちも、そのステージと花火を見るために集まった人たちも白い服を着ている人たちが多い。 30 日の夕方からお隣のウィリアムのところに入り浸っていたモビが、何故か今朝7時前にひとりで戻ってきた(ジウダがサンパウロに帰って行ったからなのか、 フィオナは夕方になって戻ってきた)。つまりモビが朝帰りをし、私たちの部屋の前でクンクン鳴くので、その声で目を覚ましたエドソンが、彼を家の中に入れてやり、元旦の1日が始まった。お正月のお雑煮にしようと、クリスマスのローストチキンの骨でスープを作っておいたのだけれど、昨日食べ過ぎたエドソンは今朝はお雑煮を食べる気分ではないと言うので、彼の希望でバナナのパンケーキとコーヒーを元旦の朝食にした。でも、その前に一応おちょこについだお屠蘇代わりの東麒麟で乾杯をする。 | ||||
2011年1月2日(日) | ||||
昨日は午後からブラジリアで行われた大統領就任式の中継を見て過ごした。まず、ジウマ新大統領の上院議員会館での演説から始まり、次に陸軍の祝砲に迎えられ、会館前に整列した陸、海、空軍の兵士の前で、三軍の長としての権限を移譲されるという意味合いの儀式があり、その後オープンカーに一人娘のパウラと乗り(彼女は離婚していてご主人がいないので、ご主人を同伴することができない。そのため娘を代役に立てたようだ)、大統領官邸までパレードを行なった。大統領官邸のベランダでルラ大統領から大統領のタスキ(のようなもの)を肩にかけてもらい、国民に向かって演説を行なった。この後は外国高官を招いての晩餐会があり、その前にジウマ大統領がこれらの外国高官のひとりひとりと挨拶している映像がかなり長い間流れた。アメリカからはヒラリー・クリントンが来伯し、日本からは麻生さんが来てジウマ大統領に挨拶していた。麻生さんは元首相ではある(しかもコロニアでは人気が高い)けれど、現政権の民主党ではない。 民主党からは重要人物は誰も来なかったのかな?ちなみにベネズエラのウーゴ・チャべス大統領も来ていた。 昨日の就任式に関連して「ブラジルのツイッター上で一番多くつぶやかれたことは何だったと思う?」と、今朝エドソンが聞くので、「ジウマとヒラリーのこと?」と言うと、何とジウマ大統領のことではなく、副大統領の奥さんのことだったのだそうだ。副大統領(ミシェル・テメー、Michel Temer)は現在69歳。とても若い女性が側にいるので、彼女は奥さんかな?娘かな?と、私たちもテレビを見ながら話していたのだけれど、ジウマが演説の中で「副大統領ご夫妻」と言及したので、「ああ、奥さんなんだ」とわかった。何と彼女は27歳!7年前、つまり彼女が20歳の時に結婚したのだそうだ。 そして彼女は現在弁護士だそうだから、結婚してからも勉学を続けていたことになる。う~ん、なるほど注目が集まるわけだ。
![]() 大晦日の日に、2016年リオで開催されるオリンピックの正式ロゴが発表された。ブラジルらしく黄色と青と緑の配色になっている。ブラジル人はこの3色が大好き。
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2011年1月3日(月) | ||||
元旦のお天気は曇り。太陽は顔を出さずじまい。昨日は午後からとうとう雨が降り出し、今日もずっと降り続いている。エドソンは今日から仕事。私とモビたちは雨で外に出られないので、家に閉じこもって退屈な1日を過ごした。そんな中、イビウーナの香山さんからいつも送ってくださる中村さんの今年最初のウィーク リーノートが届いたので、ここに紹介する。
演説は、飾り気のない、落ち着いたもので、好感を持てた。一職工(前任ルーラ)を大統領に選んだ同じ国民の勇気が、初の女性大統領を誕生させたと国民に敬意を表し、すべての国民の大統領になると誓った。 13回もルーラに触れたが、ルーラを演説の中心にしなかった。内容は網羅的で骨太、表現は分かり易い言葉で、簡潔な表現(外国人の私にも分かる)を用いた。 即ち、政治改革、税制改革、成長と安定経済、農業、輸出、産業、財投、政府出費の質向上、科学、技術、環境、社会計画、貧困撲滅、安全、保健、教育、外交、プレサル、自由と民主主義、文化、及び腐敗の克服について言及した。 例えば、「批判おおいに結構、何故なら、異見を戦わせることこそが民主主義発展の礎だから」「如何なることがあっても、インフレという雑草をはびこらせてはならない。何故なら、これこそが貧困家庭を苦しめる根源だから」「これからは差別、特権、縁故はなくなるだろう」「ブラジルは国民の福祉充実を国是としてきたので、社会的コストの増大をもたらした。今こそ、(政府支出の量的増大だけでなく)公的サービスの質的向上も又、求められている」等々である。 軍との和解(軍政時代にDilmaは拷問を受けた)として、sem rancor(恨みナシ)と演説で述べ、大統領府入口に整列した軍隊の前に立ち止り頭を下げた。因みに、ポ語rancorは日本の文化人が好んで使う仏語ressentimentと同義語だ。 この演説文は誰が書いたのか、興味津々だが、本人の手によるものではないだろうか?読上げるというよりは、話し掛けるという風に見受けられた。手堅い実務家との前評判だが、Dilma=Lula+知性+清潔となるか(Lula疲れの中で生まれた期待の星?)。確かに前政権最後の2年間は知性と清潔さに欠けていた。 余談、①TV解説者は途中でDilmaが赤いドレスに衣替えすることあるべし、と裏情報を披瀝したが、白いドレスで通した。②ヒラリー米国務長官が別途会談を申込んだが、イタマラチ(伯外務省)が時間をとれないと断ったそうだ。ヒラリーは米伯関係の改善の機会を図りたい、と狙っていたのではないか、と想像する。イビウナ、03/01/2011 中村 勉 | ||||
2011年1月4日(火) | ||||
ニッケイ新聞の今日付けのトップニュースに、「ブラジリア=麻生元総理らが就任式出席=2日に新大統領と会談=新幹線と社保協定話す=『もっと伯国に目を』」 と題して、麻生さんのことが載っていた。記事の詳しい内容は新聞の購読契約をしていないので後2週間くらいしないと読めないのだけれど、見出しのまとめには次のようになっていた。 「元旦に首都ブラジリアで盛大に実施された伯国史上初の女性大統領ジウマ・ロウゼフ氏の就任式に出席するために、日本国特派大使として麻生太郎元首相(自 民、福岡8区、衆議、日伯議連会長)のほか、河村建夫衆議(自民、山口3区、同議連幹事長)、中井洽衆議(民主、三重県1区)、黄川田徹衆議(民主、岩手 3区)の3議員が参列した。翌2日にはジウマ新大統領と会談し、高速鉄道構想などについて話し合った。その後一行は聖市を訪れ、3日に日系団体との懇談、イビラプエラ開拓先没者慰霊碑訪問、出身県人会関係者との懇談などを行った。」 麻生さんはジウマ大統領とは以前から友人関係にあるらしいので、日本国特派大使としてはやはり相応しい人選だったようだ。ところでジウマ大統領の名字の読み方は日本の新聞はルセフと表記している一方、ニッケイ新聞ではロウセフだったり、上記のようにロウゼフとなっていたりと、ニッケイ新聞の中でも記者によって表記が変わるのは不思議だなと思う。彼女の名前はRousseffなので、ポルトガル語の発音で読むと、ホウセフ(セにアクセント)が正しいのだけれど、テレビのニュースを聞いていると、セにアクセントがあるため最初のホウの音が弱くなり、フに聞こえ、最後のFの後ろにイの音が入り、フセフィ(セにアクセント)と聞こえる。 ブラジルの人たちの発音には、日本人と同じく子音の後に母音を入れてしまう癖がある。子音の後に母音がなくても日本語ならウやオという母音を入れてしまうように、ブラジルではイの音を入れて発音してしまうことがよくある。例えば、男の子の名前でEricは日本語の発音ではエリックと最後にウの音を入れるけれど、ブラジルではエリキとイの音を入れる。Fordだったら日本語ではフォード、ブラジルではフォージ。New Yorkはポルトガル語ではNova Yorkというのだけれど、発音はノヴァ・ヨーキ。うちで使っているごく一般的な殺虫剤のRaidは日本語英語の発音にしたらレイド、でもブラジルではハイジと発音する。そして単語の最後でなくても、例えば、advogado(弁護士)は最初のdの後ろにi はないのにアジヴォガードと発音したりする。それぞれの言語の癖のようなものがあっておもしろいなと思う。 | ||||
2011年1月5日(水) | ||||
年が明けて以来ずっと悪天候が続いていたのだけれど、今日初めて太陽が顔を出してくれた。そして、エディたちが仕事を再開してくれた。去年の新年の仕事始めは8日だったので、それに比べたらずいぶん早い再開でうれしい。今日はボトゥカトゥに建築資材の調達に行く予定で、エドソンは仕事を休んだのだけれど、エディたちが今日する予定のドア枠作りなどをこちらの希望通りにちゃんとやってくれるかどうかを見届けてからお昼前に出かけて行くことになった。 お昼前にボトゥカトゥに行き、まず銀行で用事を済ませ、ガソリンスタンドに寄ってアルコール燃料を満タンにして、建築資材の店に行く。ここで家の床のタイル、ベランダのタイル、台所や洗面所の壁に貼るタイル、トイレや洗面台、玄関や部屋用の木の扉などなど、これから家の内部の仕上げに必要なものをいろいろ買い揃える。水道の蛇口など小さくてすぐ持って帰れるものは持って帰り、後はまとめて来週配達してもらうように手配する。この店にはたくさん店員さんがいるのだけれど、私たちはエウトン(Elton)という若い店員さんの常連さんになっている。彼はこちらの相談にいつも親切にいろいろアドバイスしてくれるし、この店にない商品が必要なときなどは、どこに行けば手に入るかなどということまで教えてくれる。この店では現金で買い物をすると1割ほど割引してくれるのだけれど、今日はかなりの量の買い物をしたので、エウトンがマネージャーに掛け合ってくれ、さらに割引をしてくれたのでとても助かった。 ボトゥカトゥのガソリンスタンドの売店で、元旦の大統領就任式のことを特集した「Veja」という1月5日付けの週刊誌をエドソンが買ったので、その表紙の写真を撮ってみた。ルラ大統領からタスキのようなものがジウマ大統領の肩にかけられたと書いたけれど、白いスーツの上からかけているのが、その緑と黄色のタスキ。
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2011年1月6日(木) | ||||
昨日、今日と、ほぼ1日太陽が出て、お天気にはなるのだけれど、夕方から雨が降り出すため、昼間せっかく湿度が下がっても夕方からまた湿度100%といった状態になる。そのため心配した通り、キャビネットの裏側や底を調べてみると、カビがはえていた。要するにここはガレージで、人が住むところではないということなんだと思う。それに上の家がまだできていないので、このガレージの外壁もざっと白いペンキを塗っただけで、完成しているわけではない。ここは日本に比べればよぼど平均湿度が低く過ごし易いのだけれど、雨季の連日の雨はこの密閉性のないガレージという環境で、パラカンビほどではないものの、いろいろなものにカビを繁殖させてしまう。それで今日は、3つあるキャビネットの裏側と底を拭き掃除し、先日エドソンが買ってきてくれた液体アルコールとアルコールでできたホワイトビネガーを混ぜて、スプレーで吹き付け、風通しの良いところで、扇風機も回して乾かすといった作業をした。 | ||||
2011年1月7日(金) | ||||
昨日の夕方降った激しい雨は一旦止んだものの、夜中にまたザーザーと激しく降り、今朝は深い霧が立ちこめていた。それから徐々に霧が晴れ、晴れたり曇ったりのあまりはっきりしない、湿度の高い状態が続いている。 こういうはっきりしないお天気だけれど、エディたちは壁塗りなど家の中の作業をしており、天井があるお陰で多少の雨では作業を中断する必要がなく、1日、1日、少しずつでも確実に作業が進んでいるのでうれしい。水曜日からのこの3日間で、寝室、客室、台所の壁にコンクリートが塗られ、各部屋のドア枠が取り付けられ、寝室と客室の壁に電気のスイッチやコンセント用のケースが埋め込まれた。
東京で暮らしている時はいつもお正月明けのこの時期、近所のスーパーで春の七草をパックにして販売していたので、それをいつも作る大根のトリがゆに入れて食べていた。でも、ここでは自分で栽培でもしない限り春の七草なんてものは手に入らない。それにここは季節も冬ではなく夏なので、自分で栽培したとしても季節が違う。 でも春の七草は手に入らないけれど、とりあえず大根は一昨日ウエノに行って買ってきたので、今日は例年通り大根のトリがゆを作ることにする。これに梅干しを添えて食べるのだけれど、エドソンはさらにコショウをふって、オリーブオイルをかけて食べる。食べ方はちょっと違うのだけれど、エドソンはこの大根のトリがゆが大好き。
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2011年1月8日(土) | ||||
エディたちがコンセントのケースを壁に埋め込む作業を始めて、昨年買っておいたケースだけでは足りなくなってきたので、今日はまたボトゥカトゥの建築資材の店に行き、ケースを2ダースほど買い、その帰りにカコ(Caco)という農業関係の機材や肥料、苗などといったものを扱う店に寄り、肥料やシロアリ駆除のための薬を買った。 次の写真はうちの敷地から西を向いて撮った写真。うっそうと茂った草の向こう側に細長く何かが植わっているのは、お隣のクラウディオのコーヒーの畑で、その向こうの丘は放牧場となっているまた別の人の所有地。そこに茶色のこぶのように盛り上がっているものがたくさん見えるけれど、これはこの辺ではごく普通に見られるシロアリの蟻塚。うちの土地にはこの蟻塚はなかったのだけれど、最近数ヶ所、土が盛り上がって蟻塚ができあがってきているので、それを退治するための薬剤を買った。
小さなものは午前中買い物に出かける前に、エドソンが掘り起こしたのだけれど、丘の上のグレヴィーリャの近くにできた蟻塚(次の写真)はちょっと大きくなり過ぎて、全体を掘り起こすことができないため、買った薬を使うことにした。
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2011年1月9日(日) | ||||
この週末は、金曜日にお隣のウィリアムがサンパウロから来ていたので、土曜日の朝モビたちを外に出してやると、しばらく家の側で遊んだ後、お隣に遊びに行ったようで姿が見えなくなった。私たちはその後ボトゥカトゥに買い物に行き、午後戻ってからエドソンがいつものように口笛を吹いてモビたちを呼んだのだけれど、誰も戻ってこない。ウィリアムが来ていることだし、まあいいか?と思っていたら、しばらくしてモビがひとりで戻ってきた。ウィリアムは土曜日の午後遅くサンパウロに戻って行ったようなのだけれど、フィオナは結局夜になっても戻ってこなかった。またドナ・クレウザのところに入り浸っているのだろうとは思ったものの、今日の午後になっても戻ってこないので、何だか心配になり、エドソンがドナ・クレウザのところにフィオナを迎えに行った。1時間あまりしてもエドソンが戻ってこないので、一体どうしたのだろうと思っていたら、しばらくマウリシオとドナ・クレウザとおしゃべりしてきたということだった。フィオナはドナ・クレウザのベッドの下で寝ていたらしい。 ドナ・クレウザの話だと、昨晩フィオナは食事を食べず、夜こちらに戻そうと家の外に出したらしいのだけれど、一向に帰る気配がないので仕方なく家の中で寝かせてくれたらしい。でもエドソンが迎えに行ったらフィオナは大喜びでエドソンに飛びついてきたというから、エドソンが迎えに行くのを待っていたのかな?4時前にエドソンと一緒に戻ってきたフィオナ(左)は、モビ(右)と一緒に居間のソファーの側に置いたベッドでぐっすり眠っている。
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2011年1月10日(月) | ||||
今朝、インターネットのYahoo Newsを読んでいると、 「ブラジル高速鉄道争奪戦入札延期に望みつなぐ日本」と題してダイヤモンド・オンライン 1月10日(月)5時30分配信のニュースが掲載されていた。昨年11月の入札期限に入札を表明していたのは韓国ただ一国だったので、韓国が受注するものと誰もが予想していたのだけれど、突然入札期限が今年の4月に延期されたため、日本の入札受注の望みがセロではなくなったようだ。ブラジル高速鉄道関連のニュースが日本国内で取り上げられているのを見るのは珍しいので、サイトにリンクしてみることにした。このサイトは、こちらへ。 上記の記事では、政権交代したばかりのところに加え、カーニバルの時期も間近に控え、再度期限が延期されるのではないかとの憶測が出ているとあったけれど、今年のカーニバルは3月5日から8日。ブラジルの文化からするとあり得ないことではない。 | ||||
2011年1月11日(火) | ||||
今朝、家事の合間にメールを開いてみると、中国新聞「海外リポート」の編集の方からメールが来ており、年が明け、リポートの原稿ストックがスッカラカンになってしまったので出稿してという内容だった。「ああ、そう言えば今月のリポートのことをどうするかまだ考えていなかった」と思い至る。家事を終えてから、ブラジルの新年と合わせて元旦の大統領就任式のことを簡単に書いてみることにする。 ブログに書いた内容とちょっと重複するけれど、何とか原稿を書き写真を用意し、いざメールに原稿や写真を添付して送ろうとすると、送信も保存もできない。 Gmailのシステム障害に加え、エドソンの話だとインターネットもカンピーナスかどこかの中継地点で問題が発生しているらしく、今日はずっとトラブル続きだったと言う。やれやれ・・・こういう急ぎの時にこういうトラブルが重なるなんて・・・夜11時近くまでスッタモンダした挙句、結局、今日送信するのは諦める。 | ||||
2011年1月12日(水) | ||||
今朝一番で昨日の問題を解決すべく、メールの保存を試みると、短い簡単なメールは保存できるのだけれど、ファイルを添付すると、とたんに保存できなくなる。 メール受信はちゃんとできているのに、一体どういうことなんだろう?エドソンが仕事に行く前にインターネットのアクセス状況を調べてくれた。今朝もまだスピードが遅いという。ということは、添付ファイルを減らせば送信できるのかな?と思い、家事を済ませてからメールにファイルをひとつだけ添付して送ってみると、送信できた。それでファイルの数だけメールを繰り返し送り、何とかすべて送信を完了。ほっとする。 前にも書いたけれど、ここは町外れの農村地帯なので郵便の配達がなく、郵便局に何か郵便が届いているかどうか確かめに行かなくてはならない。私書箱に空きがなく利用できないため、私たち宛てに来る郵便は局留めになって保管されている。それで、窓口まで行って確認しなくてはならない。窓口が混雑していると長く待たされる。そして、私たちが使っていた携帯電話は、パーディーニョの町をカバーするアンテナで電波の受信状態が不安定ながら辛うじて何とか使えていたのだけれど、昨年の11月頃からまったく通じなくなった。エドソンの話だと、アンテナの所有者と携帯電話会社との間の賃貸契約の更新条件が合わなかったとかで、そのアンテナが使えなくなったため、ここまで電波が届かなくなったらしい。でも携帯電話の基本料金は今も払い続けている。このガレージに越してきてからしばらくしてようやく固定電話(IP電話)が使えるようになったものの、これもサンパウロのサービスプロバイダーのシステムが今いちで、使えないことが少なくない。それで、インターネットだけが唯一、いくら使っても料金は変わらず、高速で、安定的に使えるコミュニケーション手段なのだけれど、それでも時々システムその他のトラブルがあり、なかなか思うように動いてくれなかったりする。日本の便利さとはとてもかけ離れた状況の中に私たちはいる。それでも何とか大きな問題にはならず、生活して行けるのだからブラジルという国はおもしろい。 | ||||
2011年1月13日(木) | ||||
年が明けて今日までのほぼ2週間の内、ここで雨が丸1日降らなかったのは9日の日曜日だけ。それ以外は1日降ったり止んだりという日と、昼間は太陽が顔を出して湿度が下がっても、午後3時前後ないし夕方や夜になってザーザーと降り出し、夜明けまで続くという日がほぼ半々の、多雨の状態が続いている。毎年12月から1月にかけてはブラジルでは雨季で、雨がよく降るため、この時期はブラジル国内では川が氾濫したり、土砂崩れなどの被害が多発し、たびたび大きなニュースになる。昨年の雨季の間もサンパウロ市のあちこちで浸水し、リオデジャネイロ市では2~3ヶ所のファベイラで土砂崩れがあり(ファベイラはだいたい丘の斜面にあるため)、たくさんの家が押し潰され大きな被害が出たし、元日にはリオの南の有名な海岸リゾートが土砂崩れで埋まり、日系のポウザーダ (B&Bのような宿泊施設)などに多くの犠牲者が出た。 今年もこれまでにサンパウロ市は何度も浸水して、川になった道路でたくさんの車が立ち往生しているようなニュースを何度も見た。ただサンパウロの水害は、人口増加に市のインフラがついていっていない事も被害を増大させている原因らしい。 そして、昨日はリオデジャネイロ市北東の山間部地域にあるペトロポリス(Petropolis)、テレゾポリス(Teresopolis)、ノヴァフリブルゴ(Nova Friburgo)、サン・ジョセ・ド・バレ・ド・ヒオ・プレット(Sao Jose do Vale do Rio Preto)の4市で局地的な豪雨となり、想像を絶す土砂崩れが発生。多くの犠牲者が出た。犠牲者の数は100数十人から始まり、時間を経るにしたがい、 200数十人、300数十人、400数十人と、100人単位で増加し続けており、最終的には一体何人の犠牲者が出るのかまだ予断を許さない。現地からのニュース映像を見ると、まるで台風と地震と津波が一度に襲ったような惨状なのだ。道路は寸断され、電気も水も食糧もなく、電話や携帯などもちろん機能しておらず、多くの場所で生き残った人々が孤立しているようだ。次の写真はノヴァフリブルゴの惨状。
![]() ペトロポリス市中心部はそれほど雨が降らず被害がなかったようだけれど、市の外れのイタイパバ辺りではかなり大きな被害が出ているので、カランゴーラ地区に住む安見さんご夫妻のことが心配になり、大丈夫ですか?とメールを送ると、うちは被害はなく大丈夫という返事がすぐに来てほっとした。この4都市の中でペトロポリスが一番被害が少なかったようだ。次の写真はテレゾポリスの遠景写真。これら山間部の4都市はどこも気候が穏やかで、風光明媚な高原のリゾートといった風情の比較的豊かな都市。これまで小さな土砂崩れはあっても、これほどまでの大きな被害が出たことなどなかったという。テレゾポリスで代々90年もポウザーダを経営してきた老舗のオーナーが、これまでこんなことは一度もなかったけれど、一度起こったからには、また起こるかもしれない。だから土砂崩れで壊れたポウザーダの再建は諦めると語ったのが印象的だった。
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2011年1月14日(金) | ||||
次の写真は昨日の午後から降った激しい雨が止み、8時過ぎの日の入り後に少し夕焼けが見えたので、家にカメラを取りに戻り、少し暗いけれど8時20分頃の夕焼け空を撮ってみた。
ここは日本と違い、夕焼けが見えたからといって翌日は晴れとは限らない。今朝はどんより曇って、午前10時頃までは時々しぐれていた。その後太陽が顔を出したけれど、何度か雨がパラパラまたはザーッと降り出し、その度に慌てて外に干した洗濯物を取りに駆け出さなければならない1日になった。 | ||||
2011年1月15日(土) | ||||
先週ボトゥカトゥの建築資材の店で注文した壁や床に貼るタイルなどが今朝配達される予定なので、朝食が済むとエドソンはモビたちを連れ散歩を兼ねて、入り口ゲートを開けに行った。9時過ぎに配達のトラックが到着し、3人の人たちが商品を担いでトラックから建設中の家の中に運び入れてくれた。
次の写真は今日現在の我が家を居間から玄関に向かって撮ったもの。居間の壁塗りが終わり、窓枠もきれいにコンクリートが塗られている。台所やダイニングの窓枠はまだ出来ていないので、窓を作る注文はまだできない。
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2011年1月16日(日) | ||||
2011年1月5日付けのニッケイ新聞「コラム樹海」で深沢編集長が書いていることに、「そうそう。そうなのよねえ」と思って読んだ。 『移民は2度年越しをする。10年ほど前にNHK国際放送が開始されてから特に感じるのだが、大晦日の午後1時前には紅白歌合戦が終わって「行く年来る年」が始まり、各地のお寺で鐘を撞く様子の中継を通して、日本独特の静かな年越しを感じるのが、まず1回目▼かつてはNHK短波ラジオで大晦日の午前中に紅白を 〃聞いた〃りしたが、これほどの臨場感はなかった。やはりテレビという媒体だと、まるで自分が画面の中の続きに居るような気分になるのは独特のものがある ▼その11時間後、当地の賑やかな年越しが盛大に行なわれる。天も焦がせと打ち上げられるリオの海岸の花火、パウリスタ大通りの大群衆はもちろん、世界各地の名所で花火が打ち上げられる様子が次々にテレビに映し出される。どの国も判で捺したように派手な花火で祝う中、日本だけが静謐な鐘の音なのが不思議だ。だが、それこそがグローバル世界における「日本の独自性」だ。季節感が繊細な日本では花火を上げるのは夏だけで充分だろう▼大晦日の晩に日本の両親に電話したりするのだが、向こうは元旦の朝、こちらは大晦日の晩で、ちょっと会話がちぐはぐなのがご愛嬌、国際電話が安価になった昨今ならではの出来事か。 20年前なら国際電話も高くて、そう気軽にできるものではなかった。いまじゃあ10レアルのカードを買えば 1時間半はしゃべれるから、時代の流れとしか言いようがない▼大統領就任式に麻生元首相を先頭に国会議員が4人も来伯したのは、日伯関係にとって幸先の良いスタートだ。民主党は早いところ伯国通議員を育てて欲しい。それとも自民の政権奪回の方が先?(深)』 | ||||
2011年1月17日(月) | ||||
家の中に飾っていたクリスマスツリーをこの土曜日にエドソンが家の前の丘に植え、その他にもパラカンビから持って帰って来ていた小さなヤシの木など4本をハイビスカスの近くに植えてくれた。
ここでは台所で出る野菜クズや玉子の殻などはゴミとして出さず、木を植えるために掘った穴に埋めて、堆肥作りをしている。桜を植えるために掘った大きな穴はだいぶ埋まってきたので、最近はここにはもう何も埋めず、他の穴に埋めるようにして、ここをほったらかしていたら、何かの芽が出てきて成長してきているのでびっくり。マウリシオはこれはスイカだというのだけれど、どうなんだろう?今でも半信半疑??
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2011年1月18日(火) | ||||
この土曜日は久々に丸1日いいお天気になり、日曜日もそのお天気が続いてくれたけれど、夜9時過ぎからとうとう雨が降り出し、いいお天気は長くは続かなかった。そして昨日も今日も降ったり止んだり。昨日は午後2時過ぎ頃から一旦回復したけれど、夜はまた雨が降り、今朝はお昼過ぎまで太陽が出てくれたものの、 午後から雨になった。ため息が出る。 リオデジャネイロ州の山間部の豪雨による災害も、雨がしっかり止まないので二次災害が起こったりしているらしい。犠牲者は700人に迫っている。行方不明者はわかっているだけで100数十人いるらしいので、犠牲者の数はまだ増えるだろうと思われる。インターネットの新聞を購読しているエドソンの話だと、まるで火事場泥棒のようにリオからわざわざテレゾポリスなどに出張して行き、泥棒をしている人たちがいたり、ブラジル全土から善意の救援物資が集まっている一方で、その仕分けを手伝っている人たちの中に物資を抜き取って、転売したりする人たちもいるらしい。今晩のテレビニュースでは救援物資を現地に届けるために雇われたトラックの運転手が、物資を届けず自分の家に持って帰って逮捕されたという報道をしていた。商店の略奪なども少し発生していると言っていた。阪神・淡路大震災後の混乱の中でも日本では略奪も暴動も起こっていないことを驚きを持って欧米のメディアが伝えていたのを記憶しているけれど、日本人の感覚から言うと、そんなことに驚いている欧米メディアの感覚の方が驚きなのでは?でも、日本以外の国にはそういう現実があるのは事実なので、 この違いは何なんだろうと思ってしまう。 | ||||
2011年1月19日(水) | ||||
2011年1月7日付けニッケイ新聞の日系社会ニュースに、「森林農法産品の品質認証へ=ベレン=協議会創立準備会を発足=カカオが日本でチョコに=武藤や福原の夢が実現」という記事が掲載されていた。森林農法(アグロフォレストリーシステム)で生産されたトメアスー移住地のカカオ豆を使って明治製菓がチョコレー トを作り、4月から日本で販売するのだという。この記事のサイトは、こちらへ。 同じくこの日のニッケイ新聞の「コラム樹海」では、このチョコレートについてさらに次のように書かれていた。 『拓魂の味がするチョコレート——。トメアスー産カカオ100%使用のチョコレートが4月に日本で発売との朗報を日系社会面で報じた▼その箱の裏面には「アグロフォレストリーは〃森をつくる農業〃と呼ばれ、森林伐採後の荒廃した土地に自然の生態系に習った多種の農林産物を共生させながら栽培する農法です。明治製菓はこのカカオ豆をつうじて森林再生へ貢献する活動を美味しさとともに応援します。ブラジル産カカオ豆の特徴である酸味をいかし、カカオの香りのキレのあるあじわいに仕上げました」と印刷されている▼コラム子も写真でしか見られないのが残念だ。発売された折にはぜひ賞味してみたい。思えば今年はジュート栽培を広めた高等拓植学校卒業生のパリンチンス入植80周年という、アマゾン移民には記念すべき年だ▼普段何気なく食べているチョコだが、カカオ豆一つにいろいろな歴史が刻まれている。通常はアフリカ産のものが多いが、これから森林農法が普及するに従いアマゾン産がどんどん増えていく。たかがチョコだが、従来の収奪農法から環境と共生する森林農法へと移り変わることは、文明の大きな転換点を思わせる▼明治製菓に続いて、日本企業と伯国の日系農業組合が提携した環境志向の新商品が次々と生まれれば、さらに大きな流れになるだろう▼環境保護という観点だけでなく、 アマゾンにかけた幾多の事業主や移民の夢が実現された商品でもあるとの物語性も、明治製菓にはぜひ強調して欲しい。優しい「Milk」風味と苦味の利いた 「Bitter」風味の2種類だが〃拓魂の味〃には、どっちがお似合いだろうか?(深)』 | ||||
2011年1月20日(木) | ||||
この月曜日にここを出てパーディーニョの町に引越して行ったマウリシオとドナ・クレウザ夫婦と入れ替わりに、ジョアオン(Joao)とジレウザ (Dileuza)夫婦がウィリアムのファームのカゼイロとして引っ越してきた。ジョアオンはパーディーニョの人で、ジレウザの出身は北パラナだと言っていた。ふたりともまだ30代と若いけれど、ジョアオンには娘がひとり、ジレウザには娘がふたりと息子がひとりという子連れ再婚同士の夫婦だった。ジレウザ の一番下の息子は北パラナに住む彼女のお母さんと一緒に暮しているので、ここでは3人の娘と5人で暮らすらしい。彼らが越してきて数日経つので、今日の午後作ったバナナブレッドを手土産に夕方エドソンが仕事から戻ってから、ふたりで(モビたちも一緒に)挨拶に行った。次の写真はジレウザと3人の娘たち。彼らのところではジェニファーのような毛の長い黒い犬ドゥキ(Duke)と、犬種は何かわからないけれど、まだ赤ちゃんのとても小さなピング(Pingo)を飼っていた。どちらもオスなので、これまでここで唯一のオスだったモビは複雑な気分かも。
ジョアオンは以前は会社勤めだったようだけれど、環境のいいファーム暮らしがしたいと、仕事を辞めて、ウィリアムのアテモイアの果樹園ファームの住み込みのカゼイロになることにしたらしい。ジレウザはこの2月の新学期からボトゥカトゥにある学校の夜学に通い、レントゲン技師になるための勉強を始めると言っていた。夫婦ともに気の良さそうな人たちだったのでちょっと安心した。 | ||||
2011年1月21日(金) | ||||
今日付けで、私の29本目のリポート『お祭りで明けた新年』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。そしてこのリポートの縮小版が25日付けの夕刊にも掲載されることになっている。 この夕刊用の縮小版リポートは、人名を日本のマスコミで報道されているものに合わせなくてはならないのだそうで、ジウマ・ホウセフ大統領はジルマ・ルセフ大統領に、ミシェル・テメー(Michel Temer、テにアクセント)副大統領はミシェル・チメール副大統領に変更されている。そして、副大統領夫人のマルセラさんに関して編集の方といろいろやり取りし、「元モデルでロースクール卒業生」というロイター通信で出回っている情報を検証。なるべく正しい内容に修正した。ひとつは彼女は元ミスカンピー ナスおよび元準ミスサンパウロというbeauty queenではあったけれど、モデルの仕事をしたことはないらしいことがわかった。もう一つは、弁護士を単にロースクール卒業生とするのはおかしいと思った私の方が間違っていたこともわかった。アメリカでは普通、4年制の大学に行き、その後大学院レベルのロースクールに行き、そこを卒業して司法試験に受かって初めて弁護士と呼ばれる。でもブラジルでは学士レベルの法律専門の大学に5年間行って卒業すると、皆advogado(弁護士)と呼ばれるらしい。 もちろん司法試験に合格しないと弁護士として看板を出して仕事をすることはできないけれど、司法試験にまだパスしていなくても弁護士と呼ばれ、法律事務所などで補佐的な仕事はできるのだそうだ。エドソンが彼女はadvogadaだというものだから、アメリカ的に司法試験に受かって、弁護士として仕事をしているのだと誤解した。それで、エドソンに再確認して、ブラジルの教育事情を説明してもらってようやく納得。彼女はadvogadaだけれど、まだ司法試験は受験していないのだから、ロースクール卒業生で構わないのだ。 ふたりは彼女が19歳の時に出会い、20歳の時に結婚したと、以前書いたけれど、それはその通り。彼女は一時モデルの道に進みたいと考えたようだけれど、結婚後にご主人に勧められて勉学の道に進んだようだ。そして5年後の2009年末にロースクールを卒業し、司法試験を受ける前に妊娠、出産したため、まだ司法試験を受けていないというのが本当のところだった。彼女のことに関して、ブラジル政府が公報しているものをエドソンがインターネットで見つけたので、リンクしてみた。ポルトガル語で読んで見たい方はどうぞ。このサイトは、こちらへ。 | ||||
2011年1月22日(土) | ||||
2011 年1月11日付けニッケイ新聞のブラジル国内ニュースに、「ジウマ大統領=PACの母の面目躍如=今年は60回の竣工式か=大半は前政権の置き土産=新政権下ではどう展開?」という記事が載っていた。この記事のサイトは、こち らへ。 このPACというのは「経済活性化計画(PAC)事業」のことで、水力発電所を造ったり、油田の開発をしたり、空港を整備したり、港を造ったりと、大規模な インフラを整えることが主だけれど、ブラジルのすべての国民に電気を供給するというのもたくさんある事業の中のひとつで、これは私たちの生活にもまんざら関係ないわけではない。日本の約23倍という広大なブラジルには現在も電気が通じていない農村地帯がたくさんある。例えば、私たちが暮している町外れにも電力会社から直接電気は来ていない。お隣のウィリアムがパーディーニョの町から自費で電線を引っ張って来ているのを、彼の所からこれも自費で電線を引いて使わせてもらっている。そのため電力の容量が小さく、電子レンジなどは使えない。去年、ここに越してきてからお隣のコーヒーファームのクラウディオのところと2軒で一緒に、パーディーニョの市役所を通して電力会社に電気を通してもらう申請をした。それから1年以上経った昨年10月から11月にかけて電信柱を建てて、 電線を引く作業が行われた。ただ、11月末がその作業完了の期限と聞いていたけれど、電線はあと少しのところで、舗装道路沿いの工場地帯の電信柱につなげられず作業は中断している。理由はわからない。一体いつこの作業が完了し、電力会社から直接電気が来るのかもわからない。でも、PACのお陰で何とかここまで事が中途半端ながら進んでいるというのが現実だ。PACがなかったら電信柱が建つまでだけで何年も待たなければならなかったらしい。だから私たちはジウマが推し進めているPACの恩恵を少し受けていることになる。 | ||||
2011年1月23日(日) | ||||
昨日までの1週間、少しずつ家の下の三角地帯に植えた桜、梅、グレヴィーリャ、セドリーニョの回りのぼうぼうに茂った草、ブラキアーリアを刈る作業をした。週の前半は曇りがちなお天気が幸いして、午前中の1~2時間に2本から多いときは4本の木の回りの草刈りをすることができたけれど、金曜日は晴天となり炎天下での作業となったため、汗が滝のように流れ、顔に塗った日焼け止めクリームが汗と一緒に目に入るような状態で、体力的に作業を続けることができず、 1本半でギブアップしてしまった。次の写真は三角地帯のグレヴィーリャの回りの草刈り作業の状況を撮ったもの。右側のグレヴィーリャはまだ草刈りを終えていないので、ブラキアーリアに被われている状態。左側及び奥のグレヴィーリャは草刈りをした後の状態。
ブラキアーリアを駆逐することを目的に、そして、土の壁を緑の壁にするために、姫縞竹を植えた後で、その回りにアメンドインという草を植えたのだけれど、乾季の間、今にも枯れてしまいそうだったのが、何とか生き残り、雨季になり元気に育ち始めていることは、以前写真と共に報告した。その後も予想以上に元気良く育ってくれており、緑の壁作りもまんざら夢ではなくなって来た。
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2011年1月24日(月) | ||||
今日からマウリシオが、時間のある時に私たちの土地の草刈りや植林の手伝いに来てくれることになり、今朝8時前にやって来た。彼はタケイシさんのコーヒーファームの手伝いも始めたと言っていたから、ふたつの仕事の掛け持ちで大変だと思うけれど、生活がかかっているので一生懸命なのだろう。でもこれから少しずつでもここの草刈りや植林を手伝ってもらえると、私たちはとても助かる。 私やエドソンだけではなかなか進まない作業も、マウリシオがやってくれるとあっという間に進んで行く。次の写真は、午前中に家の下の三角地帯のすべての木の回りがすっかりきれいになった状態。手前にある木のない所も丸く草が除去されている。これはオレンジやライムの木を植えるために掘った穴に台所から出る野菜クズなどを埋めている最中で、まだ木は植えていないのだけれど、この回りもきれいにしてくれた。フェンスの向こう側はウィリアムの土地で、新しいカゼイロのジョアオンがこの週末、電動草刈り機で草を刈ったので、こちら側よりもずっときれいになっている。午後は家の東側のグレヴィーリャや孟宗竹の回りと丘の上の数本の竹の回りをきれいにしてくれた。私たちではこうはいかない。マウリシオに感謝!
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2011年1月25日(火) | ||||
この土曜日の午後、ボトゥカトゥのパオン・ジ・アスーカーに買い物に行った際、魚売り場でアマゾンの冷凍魚(Sabores da Amazonia)を2~3種類販売していたので、Pescada Amarela(黄色い魚)という種類のものを買ってみた。この袋の容量は800グラムで、中には長方形で肉厚のFile de Peixe Congelado(冷凍魚のヒレ)が4~5個入っていた。アマゾンの魚というのはどうもマグロのように大きいようで、このヒレだけでは原形が想像できない。オーブンでローストしてみたのだけれど、こうして食べるよりもバイーア州の郷土料理のムケッカのように、野菜やココナツスープと一緒に煮込んで食べた方がおいしいだろうなと思える味だった。
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2011年1月26日(水) | ||||
年が明けて以来、雨の降らない日はほとんどなかったのだけれど、この21日の金曜日から今日で連続6日間雨が降らないいいお天気が続いた。この6日間夕方、雷が鳴って雨が降り出しそうになる時もあったけれど、雨を降らせる雨雲はここの南や北をかすめて行き、ちょうどこの上空を通過して行かないようだった。それで昼間はどんどん気温が上がり、朝の最低気温は19度前後、昼間の最高気温は31度前後になった。でも、お天気がいいと、気温が上がるのとは反比例して湿度はぐんぐん下がるので、戸外は日差しが強く暑いけれど、家の中にいる限りは汗ばむことはない。でも、とうとう今日は午後6時前から雨が降り出した。 | ||||
2011年1月27日(木) | ||||
広島の実家の父が、この年末年始体調を崩し、何度か救急で病院のお世話になった。お正月が明けてから再度ちゃんと受診して、前立腺肥大と診断され、昨日手術を受けた。手術の直後はさすがにやつれた感じがあったようだけれど、今日はもう普通に食事をすることができ、あまり食欲がないと言いながら、病人とは思えない勢いで食事をし、ほとんど残さず食べたそうなので、いつもの父と変わらない状態が戻ってきたようで一安心。 そして、「お母さんは、一人のほうが気持ちが引き締まるとともに、うるさい相手がいないのでマイペースで気楽なのか、日頃より行動がすばやく顔色もいきいきとした感じで、絶好調かも」という兄のメールに頬が緩んだ。この4月で85歳になる母と、10月に90歳になる父という老夫婦なので、いろいろあっても不思議はないのだけれど、最後まで穏やかな生活を送り、できるだけ元気でいてほしいものと切に願う。それにつけても兄夫婦が側にいて、両親の面倒を見てくれていることに心から感謝。 | ||||
2011年1月28日(金) | ||||
今月12日、テレゾポリスなどで大災害が発生した同じ日に、ロナウジーニョがリオデジャネイロのフラメンゴと契約を交わした事をファンの前で公表した。その際、競技場には2万人のファンが詰め掛けたという。彼の本名はRonaldo de Assis Moreira (ホナウド・ジ・アシス・モレイラ)だけれど、テレビのニュースではRonaldinho Gaúcho(ホナウジーニョ・ガウーショ)と言っていた。ヨーロッパのチームでプレーしている間はただRonaldinhoで通していたようだけれど、彼はブラジル最南部のヒオ・グランジ・ド・スーウ州ポート・アレグレの出身なので、他のRonaldoと区別するためにブラジルではホナウジーニョ・ガウーショという通称で呼ばれているようだ。前にも書いたけれど、ブラジルではヒオ・グランジ・ド・スーウ州の人をガウーショ(カウボーイ)と呼ぶ。因みに、リオデジャネイロ州の人はカリオカ、サンパウロ州の人はパウリスタ、サンタ・カタリナ州の人はカタリネンセなどと呼ばれている。
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2011年1月29日(土) | ||||
昨日エドソンは仕事を休んで、私とふたりでモビとフィオナをボトゥカトゥのペット・クリニックに連れて行くつもりだったのだけれど、今週1日置きに手伝いに来てくれているマウリシオが昨日の朝も来てくれたので、私は留守番をして、マウリシオと一緒に行くことになった。そしてついでに、前から彼に頼んで一緒に行ってもらおうと思っていたボトゥカトゥのオレンジの木専門の苗木屋にも寄って、オレンジやレモンの木を5種類、2本ずつ、計10本買って帰って来てくれた。
フィオナは私たちがここに来るずっと前から右後ろ足の股間に筋腫のような瘤があり、モビはこのガレージに越してきた辺りから左首横にやはり同じような筋腫のような瘤ができて、だんだん大きくなってきていた。それで、前々から診察してもらおうと話していて、いろいろな人にどこのクリニックに連れて行けばいいかエドソンが聞きまわり、ようやく昨日休みをもらって連れて行くことにした。それに別のクリニックで行ったフィオナの腰の手術後の傷や真菌感染もまだ完全には治癒していないので、それらも含めて診てもらうことにした。診察の結果、2匹ともまずまず健康で、これらの瘤は悪性ではないようだけれど、念のため2月8日に生検をすることになった。そして、フィオナは腰の傷もあって真菌に感染しやすい体質なのかもしれないけれど、ここ数ヶ月続けているココナツ石けんで週に1~2回体を洗うのはとても良いので、これからも続けるようにということだった。診察料は1匹につき50レアル(約2500円)、2匹で100レアル(約 5000円)だった。私たちの大切な家族になったモビたちには元気でいてもらわなくては困るので、こんな支出もなんのその。そして、モビたちを連れて行ったクリニックはとても清潔で、獣医さんは30代の女医さんで、とても親切だったとエドソンが言っていたので、クリニックを変えて良かったと思う。 エドソンとマウリシオは午後1時頃帰宅し、その後少し昼食休憩を取った後、午後からふたりで買ってきたオレンジの木の他、パラカンビから持って帰って来て家の東側で育てていたパウ・ブラジルやフランボヤンなどの苗木の何本かを植える作業をしてくれた。さらに以前この土地の西側の端にある森の近くに植えた4本のアボカ ドの内1本は枯れてしまっていたので、ジャック・フルーツを2本植え、「アボカドと一緒に植えたトマトに実がなっていたよ」と、小さなトマトを2つ持って帰って来てくれた。トマトの小粒さをわかってもらうために、トマトの後ろにティースプーンを置いて写真を撮ってみた。
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2011年1月30日(日) | ||||
今日エドソンはここから北西に1時間ほど行ったサン・マヌエウ(Sao Manuel)というボトゥカトゥの隣の町で、アマチュア無線のイベントがあるというので、ウィリアムや昨日サンパウロから来てウィリアムの所に泊まっ た人たちと一緒に朝早くから出掛けて行った。私は翻訳の仕事があるので、今回は同行せず、モビたちと留守番をすることにした。 この金曜日にエドソンがマウリシオと一緒に植えてくれたオレンジの木の内訳は次の通り。シシリアーノ(Ciciliano)2本。これは日本で普通に手に入る黄色いレモンのこと。でもブラジルではリマオン(Lemao、つまりレモン)というと、ライムのことを言い、私たちが普通にレモンと呼ぶタイプは、ここではリマオン・シシリアーノと呼ばれている。ただ、スーパーなどではライムはたくさん販売されているけれど、リマオン・シシリアーノはあまり見かけない。ヴァレンシア(Valensia)2本。これは日本でも手に入るヴァレンシアオレンジのこと。ナターウ(Natal)2本。これはクリスマスの頃実がなるオレンジで、甘いので絞ってオレンジジュースとして飲む際、砂糖を加える必要がないタイプだそうだ。セハ・ダグア(Serra D’agua)2本。これも甘いオレンジ。そして、アミリン(Hamilin)2本。これは少し酸っぱい味のオレンジだそうだ。 ということで、金曜日に34本もの木を植てくれたので、これまでに植えた木の総数は、一挙に198本にも増えた。 | ||||
2011年1月31日(月) | ||||
日曜日の午後、エドソンが帰宅後しばらくして、5時を過ぎた頃からすごい雨が降り出した。1時間余り強い風と共に激しい雨が降り、6時半を回って止むと、日差しが戻り明るくなった。台所で夕食の支度をしていると、エドソンが虹が出ていると言うので、窓から東の空を見るととても大きな虹が出ていた。水曜日までの数日はお天気が続いたけれど、それ以後はまた以前のように、夕方や夜になると雨が激しく降る日々に戻っている。でもこの雨のお陰で金曜日に植えたオレンジなどたくさんの木に、わざわざ水をやる必要がなく、みんな元気にしているので助かっている。
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