Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2010年11月1日(月) | ||||
今日は午前中、銀行や郵便局などでの用事を済ませ、買い物をする予定だったのだけれど、お天気の良かった昨日とは打って変わって、用事を済ませた頃から雨が降り出したため、雨の中、傘を持って重い荷物まで持ち歩けないので、買い物はあきらめることにする。今日はお母さんがお昼を作ってくれるというので、お昼過ぎにはお母さんのところに戻ったのだけれど、お料理ができたのが午後3時過ぎだったので、結局、遅いお昼というか、早い夕食をいただくことになった。次の写真は、台所でお母さんとエドソンをパチリ。
食事が終わった頃、エドソンを子どもの頃からよく知っていて、いろいろお世話になったというジャイール(Jair)という名前のおじいさんが、エドソンが 戻っているとお母さんから聞いて、わざわざ訪ねてきてくれた。現在89歳で、半年もすれば90歳になるというのだけれど、目も、耳も、頭もはっきりしてい て、とても元気そうなおじいさんだった。親戚ではないのだけれど、親戚の人以上にお世話になった人だと言って、エドソンはとても喜んでいた。
前回、パラカンビに来た際、ファームで暮らしていたママ犬が子どもを生んだので、キキと3匹でお母さんの家に来て暮らしていたのだけれど、その後、キキも子どもを1匹生んだのだけれど死んでしまい、今はママ犬とキキとで、ママ犬が生んだ子どもを育てているらしい。ママ犬がシャンプーをしに行って留守の間、キ キが子どもの側で一緒にいるところを写真に撮る。
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2010年11月2日(火) | ||||
エリカとデニウソンは日曜日に1日投票所の手伝いをしたので、5日間公休が取れるらしく、昨日からお休みで家にいる。お母さんが作った皮付きのグリーンパパイアの甘露煮をもらったのに、お母さんの家に忘れてきてしまったので、今朝エリカとデニウソンがそれを届けに来てくれた。それで一緒に朝食のテーブルを囲む。
次の写真はその皮付きのグリーンパパイアの甘露煮。
その後、9時頃にエリカとデニウソンとエライニに見送られて、パラカンビを出発。パーディーニョに向かう。今日は、フィナードス(万霊祭または死者の日)という祝日なので、土曜日から4連休にしている人たちも多く、途中、お昼休憩で立ち寄ったいつものフランゴ・アサードというホドサーブは、すごい人でごった返していた。空いたテーブルもなく、ゆっくりお昼を食べられる状態ではなかったので、カウンターでコシニャを立ち食いして、早々にパーディーニョに向かう ことにする。 お昼にゆっくり時間を取れなかったのと、今日はお天気が良かったので、午後4時頃には我が家に無事帰り着くことができた。今回の大統領選の結果を「海外リ ポート」に書こうと思い、荷物を片付けてから、昨日お母さんの家でメモ書きしておいたものを大急ぎでタイプする。投票日の翌日エドソンに買って来てもらっ たジウマ勝利を伝える新聞の写真を撮り、中国新聞にリポートを送る準備をする。夕食を食べてから、リポートを仕上げて、リポートと写真を中国新聞に送信完了。 | ||||
2010年11月3日(水) | ||||
イ ビウーナの中村さんが毎週書いておられるWeekly Note。11月1日付けの「Dilma Rousseff」に続き、11月3日付けの「異色の閣僚」が香山さんから届いたので、ここに紹介しようと思う。これを読めばブラジルの次期大統領につい てとても良く理解出きること間違いなし。ただ、ジウマ女史が銀行強盗を指揮したというのはいろいろ説があって、本人も元同志も否定している。彼女をジャン ヌダークと称したのは軍事政権側とマスコミのようで、実際のところは、その情報が一人歩きしてきたということなのかもしれない。
勝利演説で、Dilmaは「言論の自由による喧騒を独裁者による静寂より好む」として「言論の自由」擁護を掲げた。身体を張って軍事独裁政権と闘った経歴を持つ女性戦士としては当然。往時彼女は、ジャンヌダークの異名を持ち、運動資金調達の為に銀行強盗を指揮し、投獄・拷問されたと伝えられている。面白 いことに、大統領の椅子を争ったSerraも当時、反政府運動でチリに国外追放された。両氏は言わば同士だった。従って、両者には、手法の違いこそあれ、 思想的な相違は少ない、と診た。選挙民もそう嗅ぎ取ったに違いない。 Dilmaの骨太な姿勢は、
勝利宣言には、Dilmaを中に右側にミシェル・テーマ副大統領候補、左側にパロッシ元財務相(Lula第一次政権時の)が舞台に立ったことから、 Dilmaはパロッシを重用するとの見方が強い。パロッシも実務家肌だから、Dilma政権は「仕事をする」政府を目指しているものと思う。今回の選 挙で敗れたSerraの発言にも注目したい。44%もの支持を獲得したこと、敗北宣言に“Adeus(これでお終い)”でなく、“Ate logo(また会う日まで)”だと挨拶したこと、の二点だ。 イビウナ、01/11/2010 中村 勉
異色というのは、同女史には、ブラジル軍事政権時代「ブラジル版のジャンヌダーク」とか「反体制の女帝」の異名をとった若き日々があったことで ある。1969年、都市ゲリラ国民開放軍がサンパウロ州政府(アデマール・デ・バーロス知事)の金庫を襲い2.5百万㌦を奪うという事件があ り、彼女はその金庫収奪を設計したゲリラの知恵袋と目され一躍有名になった。警察に追われる身となったが、コード名をエステラ、ルイザ、パトリシ ア、ヴァンダ、と次々に替え警察の目を逃れた。しかし、歴戦の女戦士も1970年1月16日遂に司直の手にかかり、3年の実刑に服した(サンパウロ 市チラデンテス刑務所)。逮捕直後22日に亘り彼女が受けた酷い拷問のことは、プロジェクト・ブラジル「二度としまい」(Projeto Brasil Nunca Mais)の供述書に詳しい。 1969 年と言えば、軍人コスタ・イ・シルバ大統領が脳溢血で急逝、民間人ペドロ・アレイショ副大統領が大統領に昇格就任すべきところ、三軍の長が3ヶ月間 (8月ー10月)共同合議で大統領職をこなし(Junta Militar)、メディチ将軍に大統領職を繋いだ年である。軍事政権反対の学生運動が活発化したこの時代の雰囲気は、FHCやジョゼ・セーラを含む学者や学生がSP郊外のイビウナで全学連(UNE)の反政府集会を開き、約900人が逮捕され、多くの学者や学生が国外逃亡したこと、或いは都市ゲリラ戦が激しさを増し、逮捕者開放の交換玉として外国の外交官が多数ゲリラに狙われた(日本 のサンパウロ領事も誘拐された)ことなどで、思い出す方もいる筈である。私自身もこの時代をサンパウロで過ごし、軍とゲリラの都市戦争を体験した。銃撃戦が突然身近で始まり、その場に身を伏せたり、しばしば硝煙臭が残る街路を歩いた体験を持っている。当時の銀行はどこも、入口に小窓が一つだけある筒状の小屋があり、そこから銃口が覗いていた。 若き戦士、ディルマ女史が拷問や3年間の獄中経験から学んだことは、「他人に対する忍耐心が養われたことと自分の限界と弱さを知ったこと」であるという。 又、「刑務所は決してよい教育の場とは言えないが、拘束された獄中生活だったからこそ連帯感が培われ、それまでと違う世界観を身につけ、世界の多様性にも 気付かされた」と思い、獄中体験が「今日役立っている」ともいう。RGS州政府長官時代の彼女は猛烈だが、既に他人の意見によく耳を傾ける人になっていた との評判である。又、大臣になった現在、ブラジルに必要なことは、「外からブラジルを見ること、異なる意見を受け入れること、そして、多様な意見を持っ人々との共存の仕方を学ぶこと」という。 彼女がVar-Palmaresの指導者Lamarca(武闘派)と袂を分ったことでも分るように、武装活動には反対だったと言われている。昔のゲリラ仲間は当時を思い出し、彼女は頭脳派であり実戦派ではなかった、という。彼女のもう一つの特徴は、一旦覚悟を決めたら後に引かない点にある。伝説の左翼ゲリラ指導者、Lamarcoとゲリラ戦場を都市にするか、地方に移すべきかで激論をたたかわし、37人のゲリラ兵士を二分、地方派のLamarcoに従ったのはたった7人だった。又、2001年PDTの大御所レオネル・ブリゾーラと決別しPTに移ったが、その時彼女とPTへの移籍を伴にしたのは400人に上り、ブリゾーラをいたく怒らせた。この二っのエピソードは彼女の性格の一面をよく伝えている。 彼女はゲリラ幹部の一人、Claudio Galeno de Magalhaes Linharesと最初の結婚をしたが、離婚。二度目の夫、(ガウショ)Carlos Franklin Paixao de Araujoとの間にパウラという一子(娘)をもうけたがすぐに別居している。経済学を学び、貨幣・金融論で博士号を取得している。サンパウロで3年 の刑を終えて出獄後、1974年にRGS州に移り、そこで出世階段を上っていった。70年代末に人権擁護運動(Anistia、アムネスティ)に従事し、 ブラジル南部の指導者の一人になる。市の財務局長を経てAlceu Collares (PDT)知事の時、RGS州の経済統計所長、次いで鉱山・エネルギー長官を歴任、2001年Olivio Dutra(PT)知事の時に再び同じ職に就任した。 Dilma の思想的背景は多分ドミニコ派修道士ベット(Frei Betto)の解放の神学であろう。彼女の生地はベロホリゾンテ(MG)だが、Bettoが同じ通りに住んでいた。又、彼女がSPの刑務所に入っていた時に、修道士 Bettoも同じ刑務所にいた。このドミニコ僧は現在Lulaの特別顧問である。二人は三度人生の重要な節目で交差している、奇遇であろうか。涙を見せない女傑が大臣就任式で「自由の為に闘った多くの戦友達は亡く、今あるべき姿はここにない」と言って、涙した。「私達の世代が体を張って勝ち取ろうとしたのが、結局Lula政権だったのではないか。それなのに、ここにいるべき人達の多くが最早いない」との感慨を込めての言葉だった。そこで始めて彼女の若き日の前歴が披露されたという。彼女をなめてはいけない、彼女こそ本当の掘り出し物ではなかろうか、とPTも財界も言い出した。 Dilma大臣の夢は「20百万人ともいう電気の恩恵を受けていないブラジルの貧困層に電気を供給すること」という。 リオにて、21/01/03 中村 勉 | ||||
2010年11月4日(木) | ||||
日本への一時帰国から戻ると、以前、五反田に住んでいたときにEQ関連の翻訳の仕事をくれていた知人から、翻訳を依頼するメールが届いていた。彼女からの仕事はいつも大量で急ぎのことが多いので、ここでの生活の中でそれに対応できるかどうかちょっと不安ながら、はるばるブラジルの私のところまで言ってきてくれたのだから、できるだけやってみようと思う。私が「海外リポート」やブログを書くことをいつも応援してくれているエドソンは、今回も「ぜひ、やれ」と言ってくれている。 それで、すべてを締めきりまでに私一人で仕上げることは難しいと思うので、誰か他に手伝ってくれる人はいないか?と、彼女に問い合わせのメールを送る一方 で、昨日は洗濯と掃除を終えてから、昼食休憩をはさんだだけで夕方までずっとコンピュータに張り付いて翻訳作業に集中してみた。何もかもほっぽり出して翻訳に集中しても、そんなに何頁も作業が進むわけではないし、毎日同じようなハイペースで作業を進められるわけでもないので、やはりちょっと厳しい。 今日は、昨日の反動で、翻訳作業が進まない。それで、しばらく更新できていなかったブログを更新する作業をして、気分転換を図る。 | ||||
2010年11月5日(金) | ||||
翻訳を依頼してきてくれた知人から、とりあえずの分量を減らしてくれるという連絡が入り、ほっとする。これならここでの生活の優先順位を変えることなく、ある程度ゆとりを持ってできると思う。そう思うと、心に少しゆとりができて、今日の午前中は家事のあと、翻訳に集中することができた。 お昼過ぎにエドソンが帰宅してからパーディーニョに行き、頼まれていた日本での買い物の品とおみやげを持って、セージオとルシアのところに行く。ルシアは 「ああ、なつかしい日本のにおいがする」と言って、私を何度も抱きしめてくれた。彼らと少しおしゃべりをしてから、ボトゥカトゥに行き建築資材の店の支払いや買い物をする。あちこちボトゥカトゥを走り回り、用事を済ませて、5時過ぎに帰宅。今日は降水確率80%以上だったのに、夕方まで雨が降らなかったのは幸いだった。 6時頃夕飯の仕度を始めると、風が吹き始め、次に雨がザーザーと降り出した。ボトゥカトゥで走り回っている時にこの雨に降られなかったのはラッキー!炊飯器でご飯を炊き始めていたのだけれど、稲光と雷が始まったので、ブレーカーを落として、しばらく夕飯の仕度をストップする。モビは雷が嫌いなので、とても落ち着かない。寝室のコンピュータテーブルの下に避難しようとするので、居間のソファーのすぐ足元に彼らのベッドを移動させて、私たちもソファーに腰かけ、 「ここにこうして一緒にいれば大丈夫」と言い聞かせる。 | ||||
2010年11月6日(土) | ||||
パラカンビから戻って、急ぎ中国新聞に送った大統領選の結果に関するリポートの中で、「協調して」という表現を「二人三脚で」に修正してもらおうと連絡すると、新聞では「二人三脚」という比喩は脚が不自由な人たちにとって不快用語になるとされていて使えないらしく、「協調」のままでも良いと思うという返事が来た。そう言えば、アリアンサ移住地に関するリポートの中でも、「唯一民間の手で」という表現が「唯一民間の力で」と修正されていたりした。比喩としての身体表現に関しても、ここまで神経質にならなくてはいけないものなのか?と、ちょっと驚いた。中国新聞の「海外リポート」を書いていると、知らないこと、 驚くことがたくさんある。文章を書くということは難しいものだなあ・・・と、つくづく思う。 昨日の夕方から降り続いていた雨が、今朝10時頃には止んで、少し太陽が顔を出したので、現在の我が家の状態を写真に撮る。四方の壁が積み上がり、柱と梁ができ、天井を作る準備が始まっている。
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2010年11月7日(日) | ||||
パカラカンビに行く際は、必ず、ここから下りて行ったカステロブランコ上にあるホドサーブ・スターで車のアルコール燃料を満タンにして、トイレに寄ってから出発することにしている。それで、トイレで親子連れなんかのおもしろい会話を耳にしたりする。 この間、若い母親が小さな子どもとトイレに入ってきて、「Vamos fazer xixi.」と言っているのを耳にした。「xixi(シシ、後ろのシにアクセント)」は「おしっこ」のことなので、「fazer xixi」は「おしっこをする」ということだろうと、何となくわかったのだけれど、「fazer」は英語で「make」とか「do」の意味と理解しているので、「Let’s go pee.」ではなく、直訳すると「Let’s make(またはdo) pee.」と言っていることになり、英語では不自然な感じになる。それでちょっと不思議な感じがした。例えば、「Vamos fazer um bolo de chocorate.」と言えば「Let’s make a chocorate cake.(チョコレートケーキを作りましょう)」ということだし、「O que voce esta fazendo?」なら「What are you doing?(何をしているんですか?)」というふうに、英語と対応して理解していたからだ。でも、「fazer xixi」はまさに日本語の「おしっこをする」になるので、日本語の感覚の方が英語の「おしっこに行く」という感覚よりも、ポルトガル語に近いことになる。なあ~んて、変なことに感心してしまった。 | ||||
2010年11月8日(月) | ||||
昨日の午後は久しぶりに外での草取り作業をした。日本への一時帰国やパラカンビに行ったりしてバタバタしていたのと、乾季が終わり、時々雨が降るようになったので、毎日の水やりから解放されたのを幸いに、苗木に水をやる以外は、外での作業をずっとお休みしていたのだけれど、そういつまでも休んでいるわけにもいかないので、作業を再開した。日本に一時帰国する前に、小さなハイビスカスの回りに生えていたブラキアーリアを抜いてきれいにし、肥料をまいておいたので、このところハイビスカスは毎日元気に花を咲かせている。でも、ブラキアーリアも肥料を吸収してハイビスカス以上に元気にはびこり始めている。それで、エドソンとふたりで、再度ハイビスカスの回りと、ついでにヒメシマダケの回りの草取りをした。 この他に、エリゼウから1本もらって、すぐに植えなかったので枯れてしまった(と思っていた)ヒメシマダケの根元から、留守中に芽がたくさん出てきていて、根は枯れていなかったことが判明した。それで、エドソンが今日穴を掘ってそれを植えてくれた。
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2010年11月9日(火) | ||||
今日付けで、私の27本目のリポート『初の女性大統領が誕生』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。 この週末、ウィリアムがサンパウロから来ていた。私たちの留守中に仕事が見つかり、もうすでに新しい職場で仕事を始めているという。めでたいニュースだ!それでマウリシオとドナ・クレウザもここをクビになることはなく、出て行かなくてもよくなった。これはさらにめでたい!!ああ~、良かった。感謝。感謝。でも、カステロブランコ上のホドサーブ・ソヒーソのガソリンスタンドで働いていたマウリシオの長男のマーコスは、休暇から戻ると、もう出てこなくてもいいと言われ、職を失ったということだった。ええ~!そんなことってあるの?彼は正社員ではなく、アルバイト扱いだったのかな?奥さんと三人の娘を抱えて、奥さんのクリシア一人の稼ぎではやって行けないだろうから、早く次の仕事が見つかるといいのだけれど・・・ | ||||
2010年11月10日(水) | ||||
昨日のお昼過ぎにエドソンが仕事から戻ってきたので、どうしたのだろうと思ったら、申し込んでおいたSKYからアンテナなどの設置に来ると連絡があったのだという。SKYというのは日本のスカイパーフェクトTVと同じような衛星放送サービスのこと。我が家のガレージでの仮住まいを始める前に、冷蔵庫などと一 緒にTVも買ったのだけれど、ここでは衛星放送のアンテナなどを設置しないとTVが見られない。そのため、TVはずっと箱の中で見ることはできなかった。 ウィリアムの所では無料で見られる衛星放送用の大きなディッシュアンテナが家の西側にあり、これで見ることができるチャンネルのほとんどは必要のないショッピングチャンネルだったり、宗教チャンネルばかりだったけれど、かろうじて2つまともなチャンネルを受信していたので、毎晩、Globo Newsやノヴェラなどを見ていた。でも、SKYに契約すると、東京で見ていたのと同じように、BBC World News、CNN、Science Channel、History Channel、FOX、AXNなどなど、ブラジルのチャンネルだけでなく様々なチャンネルを見ることができる。契約したのは一番安い基本のパッケージだけれど、私たちが見たいチャンネルは一応カバーしている。そして、さらに追加でNHKを契約したので、日本語のテレビ番組も見ることができることになった。 ま だ、上の家ができていないので、アンテナは家の東側に仮に設置されただけで、家ができたらまた設置し直す必要があるのだけれど、とりあえず、これでガレー ジでの仮住まいも、さらに居心地のいいものになってきた。感謝。感謝。3時頃、アンテナの設置やケーブルをテレビにつなぐ作業が終わり、テレビをつけてみる。完璧!夕方はいつものように大好きな冷や奴をおつまみに、ビールを飲みながら、でも、今日はテレビの前でBBC World Newsを見ながら、エドソンはご満悦だった。
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2010年11月11日(木) | ||||
先週、いつも行くボトゥカトゥの建築資材の店になく、もう1軒の店にも数個しかなかった資材が、これまで行ったことのない別の店にあることがわかったからと、今日の午前中その店まで資材の調達に出かけて行った。上の家の照明は、普通の天井からぶら下げる照明と、ダウンライトのように天井に埋め込む照明の両方を設置する予定なので、天井に埋め込むためのプラスチックケースのようなものが必要で、エドソンはあちこち電話をして調べ、ようやくこの店にあることがわかったらしい。天井に埋め込むタイプの照明は、普通の家庭ではあまり一般的ではないのか、まとまった数の在庫のある店を探すのにエドソンは苦労したようだ。でも、どうしてこういう建築資材のことを彼はこんなによく知っているのだろう?と、時々感心してしまう。
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2010年11月12日(金) | ||||
先週、パオン・ジ・アスーカーに行った際、店の中にパネトーネの箱が山と積まれていたので、「ええ~?もうクリスマスなの?」と驚いたのだけれど、昨日はさらに、クリスマス用の飾り付けや、クリスマス用の食品のギフトセットや、クリスマス用の食器などなどさらに多くのクリスマス用品がたくさん並べられていた。アメリカでは11月下旬の感謝祭が終わると、店や街の様子が一斉にクリスマスの雰囲気になっていったけれど、ここではそれよりも1ヶ月も早い。2ヶ月近く先のクリスマス用のフルーツケーキを今から販売して、賞味期限は大丈夫なのだろうか?と思って、様々なメーカーのパネトーネの箱のひとつを見てみると、2011年の7月までとなっていて、2度ビックリ! 次の写真は、今日現在の我が家。家の天井にレールのようなものが敷かれ、その上にレンガが並び、そのまた上に鉄筋が置かれ、コンクリートを入れる準備が進んでいる。
家の中から天井のレンガの並んだところをパチリ。
家の前の電波塔に一段上がって、天井の上の状態をパチリ。
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2010年11月13日(土) | ||||
今日は、エドソンがアマチュア無線のフェアで講演をすることになっているので、ここから北東に1時間半ほど行ったところにあるインダイアトゥーバ (Indaiatuba)という町に出かけて行く。アマチュア無線のライセンスを持っているマウリシオとエーナーニも一緒に行くことになり、4人で午前9 時半頃出発する。途中、いつものようにホドサーブ・スターで燃料を満タンにし、洗車をしてもらう。次の写真は、そのフェアが開催された円形の建物を上の駐車場からパチリ。
エドソンは講演者なので入場料はもちろん無料。同行の私たちも関係者ということで無料。ラッキー!このフェアはiComやYAESU無線などといった会社が自社製品を展示しているブースが主で、この他にはアメリカーナのアマチュア無線協会のブースがあったり、警察のブースがあったりと、無線を利用している様々なグループのブースがあった。
この広い会場の一部にサンドイッチや飲み物などを販売するランショネッチもあり、そこで簡単にお昼を食べる。ジウダがウィリアムに同行してサンパウロから来ていたので、一緒にビールを飲みながら、男性陣が会場を回って戻って来るまでブロークンなポルトガル語でおしゃべりをして過ごす。その後エドソンが迎えに来て、2階の講演会場に移動し、午後2時からの講演の準備ができるのを見守る。持参したコンピュータやモニターやSDRゼロなどをテーブルの上に並べて、プロジェクターが到着するのを待つ間、会場に集まってきた人たちがテーブルの上を覗き込んでいる。
エドソンが講演のために、前もって頼んでおいたプロジェクターがなかなか届かず、講演は予定の時間より30分も遅れて始まる。でも、聴衆の方も時間通りに来ない人たちも少なくないので、これくらいの遅れでちょうどいいのかもしれない。エドソンの講演は、SDRという技術とそれを使って彼が数年前に作って、アマチュ ア無線の技術の世界では広く知られているSDRゼロという装置について。この安価にできる装置をコンピュータに接続することで、高価な無線機がなくても、 コンピュータに無線機の働きをさせることができるという優れたもので、世界中のアマチュア無線愛好家の技術者の間で、これが利用され、さらにいろいろに応用されていることが、アメリカやイギリスのアマチュア無線の専門雑誌などを見ているとわかるらしい。この技術をブラジルでも積極的に紹介して、いろいろなことに応用してもらおうというのが、彼の講演の意図。
予定通り1時間ちょっとの講演を終え、質疑応答をして、無事講演を終了。聴衆はざっと40人前後だった。終了後は聴衆の中で特に関心のある人たちがまたテーブルを囲み、エドソンに直接質問などをしている。
このSDRゼロを一緒に作ったデマーコ(De Marco)もアチバイアから駆けつけてくれ、講演の様子をカメラに収めていた。
講演が終わり、下のフェアの会場に下りて行くと、エドソンはまたいろいろな人に囲まれて話をしていた。
一 緒に行ったエーナーニ(Hernani)は、難しい技術的なことには関心がないようだったけれど、このフェアはそれなりに楽しんだようで、会場で自分のコールサインと名前を野球帽に入れてもらっていた。左がエーナーニで右がマウリシオ。このイベントの後、私たちはパーディーニョに戻らず、アチバイアに行くので、彼らはこの週末パーディーニョで過ごすウィリアムたちと一緒に帰って行った。
午後5時半頃、デマーコと一緒に会場を後にして、インダイアトゥーバからさらに東に1時間余り行ったところにあるアチバイアに向かう。今晩は、ブウィのご主人の「マーコスの還暦祝いのサプライズ・パーティーをするから来て」と、ブウィから招待されたのだ。ブウィはインドネシア出身だけれど、華僑の家系で、 マーコスは台湾出身なので、どちらも中華系。中華系の人たちには還暦を祝う習慣はないらしいのだけれど、彼らには日系の友人が多く、ぜひ還暦祝いをするべきだと言われ、レストランを借り切りパーティーをすることにしたらしい。招待された人たちが会場のレストランに集合し、マーコスとブウィの到着を待ち、彼らが到着すると一斉に、Parabens para voce. Nesta data querida...と、ブラジル番のハッピーバースデーの歌で彼らを迎えた。その後、マーコスは会場を回りながら、しきりにNao credito!(I can’t believe this! 信じられない!)を連発し、うれしそうに参加者ひとりひとりに挨拶して回っていた。レストランを借り切って、60人くらいの人たちを招待してパーティー をするなんて、お医者さんと医療技術者の高所得夫婦だからできることだと思うけれど、招待者の半分以上は日系の人たちで、とても和やかで、にぎやかな、いいパーティーだった。
次の写真は、デマーコと彼のお母さん。彼女は91歳という高齢だけれど、大学でシニアのために開かれている講座を受講していて、英語も勉強しているということだった。音楽に合わせてダンスのステップを踏んだりして、楽しそうにしていた。この歳ですごいことだと思う。私もこうありたいと思わせる人だった。
このパーティーの招待客の半数以上は日系の人たちなのだけれど、さすがにみんなブラジル人!みんなフレンドリーで陽気。食事の後のダンスタイムでは多くの人たちが半端でない慣れたステップを踏み、ダンスを楽しんでいた。日本人の中高年の夫婦ではこうは行かないだろうと思う。
次の写真は、マーコスと彼の家族。左から、娘のファビアナ、ブウィ、マーコス、そして息子(名前をど忘れしてしまった)。
次の写真は、ブウィのお兄さんのレオン(Leon)と一緒に。彼はカナダのトロントに住んでいて、休暇でたまたまブウィのところに来ているということだった。「実は、今日は僕の誕生日でもあるんだ」と言っていた。彼も60歳になったのだそうだ。カナダに15年も暮らしている人なので、彼とは直接話ができ、 ポルトガル語の海の中で、ほっとできる小さな小島を見つけたような感じだった。ブウィからいつもカナダに住む独身のお兄さんのことは聞いていたけれど、ご本人に会うのは今回が初めて。もの静かだけれど、お話し好きでもあるいい人たっだ。現在「花嫁募集中!」
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2010年11月14日(日) | ||||
昨日の晩は、パーティーの後、ブウィの家に泊めてもらい、今朝は6時半起き。彼らは日曜日は毎週、サンパウロの教会に行くので、朝寝はできない。7時を少しまわってから一緒に朝食をいただき、8時過ぎには教会に行く彼らと一緒に家を出て、私たちは帰宅の途につく。途中、カンピーナス(Canpinas)のショッピングモールに立ち寄る。カンピーナスは、サンパウロに次ぐ大都市なので、さすがにショッピングモールも巨大で、リオのバハ・ショッピングよりも大きくてびっくり。なんでも南米最大のショッピングモールなのだそうだ。ざっと見ただけでも、映画館、クリニック、ペットショップ、ゲームセンター、建築資材の店、衣料品店、靴店、電化製品のお店、家具店などなど、ないのはスーパーマーケットくらいのようだった。実のところ広すぎて、すべてを見てはいない。 いろいろなレストランの他に大きなフードコートが2ヶ所もあった。1メートルくらいの鳥居の模型と雪見灯篭を、鯉が泳ぐ池の側にあしらった日本庭園風の側には日本食の大きなレストランもあった。フードコートには小さな寿司バーもあった。この辺の田舎町はもちろん、リオでも見かけないようなバラエティーに富んで、洗練されたこの巨大モールは、ちょっとブラジルではないような感覚に襲われそうな場所だった。モールの中の飾り付けは、もちろんクリスマス一色。ブウィの家もクリスマスの飾り付けが賑やかにあふれていて、それにちょっと感化されて、クリスマスの飾り用に雪だるまの人形を買ってしまった。
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2010年11月15日(月) | ||||
昨日は、午後5時過ぎに無事帰宅。片付けをして夕食を作って食べて、落ち着いたら何だかどっと疲れが出て、早寝をすることにした。ぐっすり良く寝たのだけれど、今朝はいつも通りに起きられず、起きたらもう8時だった。すぐモビたちを犬小屋から出して、朝食の支度をする。最近、モビは犬小屋から出ると真っ先に寝室に向かい、エドソンを起こしに行く。私が起こしてもなかなか起きないエドソンも、モビに起こされるとご機嫌良く起きてくる。モビの影響力はすごいと思う。 のんびりと朝食を終え、片付けをし、ベッドメーキングなどを終えたら、マウリシオがやって来た。エドソンが彼を家の中に招き入れ、話を聞くと、何と昨日、ウィリアムともめたらしく「辞める」と宣言してしまったらしい。それで、今日の午後サンパウロに帰る予定だったウィリアムとジウダは、8時過ぎにはサンパ ウロに帰って行ってしまったという。もめた原因は、果樹園の仕事に関する意見の相違。ウィリアムの果樹園は広く、マウリシオひとりでは仕事ができないのだけれど、アルバイトのレオナードが家出をしてここに仕事に来なくなって以来、マウリシオが新しいアルバイトを見つけて来る度に、ウィリアムはたいした理由もなく「この人はダメ」と言い続け、今回、3人目の人も「ダメ」と言われたので、この時期、枝打ちを急いでしないといけないんだと説明しても、「ボスは私だ。そういうことは私が決める」と怒鳴られ、堪忍袋の緒が切れたらしい。 今週、パーディーニョで借家を探し、引越すという。ああ~、せっかくウィリアムが再就職して、マウリシオたちが辞めなくてよくなったと安心したばかりなのに・・・ウィリアムの気が変わって、ここに残ってくれと言っても、もうここでは仕事はしないという。マウリシオはウィリアムを尊敬していて、忠実に仕事をしてきたのに、ウィリアムはどうもそのことをあまり自覚しておらず、被雇用者も消耗品のように思っているふしがある。ブラジルでは、雇用者側から被雇用者を解雇すると、退職金のような慰労金のようなものを支払わなければならないのだけれど、被雇用者の方から辞めると言うと、そのようなものを支払う必要がない。どうもマウリシオの方から辞めると言い出させるために、彼の首を真綿で締めていたような印象もあり、何とも嫌な気分になった。ウィリアムは自分の行動がもたらす結果を理解しているようには思えない。そして、彼のために8年も働いてくれたマウリシオたちに対する彼の思慮深いとはいえない、感情的な対応は、決して彼のプラスに働くとは思えない。とても残念だ。What goes around comes around. 情けは人のためならずなんだけどなあ・・・ 台所のテーブルで重たい気分でそんな話を聞きながら、ふと側にいるモビとフィオナを見ると、変な態勢で横になっているので、おかしくなって写真に撮る。彼らがいると、嫌な気分もすぐ吹き飛ばしてくれ、笑顔になれる。不思議な存在だ。
そして、外ではハイビスカスが毎日たくさん花を咲かせている。
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2010年11月16日(火) | ||||
昨日は、ブラジル共和制記念日で祝日だったので、三連休の週末になった。午前中はマウリシオが来たので、私は洗濯をしながら時々、ダイニングテーブルに腰を下ろして彼の話を聞いた。午後からはそれぞれ、エドソンは日本から持って帰った部品で無線機を組み立てる作業に没頭し、私はモビたちの体を洗ったり、ブログを更新したりして過ごす。夜になり風が吹き始めたので、インターネット上の気象レーダーサイトを確認すると、大きな雨雲が西から近づいていた。それで今朝は予想通り、雨。と言っても雨雲はここをかすめて北東に移動したため、ザーザー降りではなく、時々、しとしと、パラパラと冷たい雨が降り、辺りは霧に包 まれている。結局どんよりした1日だったけれど、たいした雨は降らなかった。でも、ここから直線距離で1キロ少ししか離れていないパーディーニョの町で は、結構雨が降ったと、エドソンが夕方帰宅して言っていた。 | ||||
2010年11月17日(水) | ||||
今朝も辺りは深い霧に包まれている。外に出ると、雨は降っていないのだけれど、霧が立ちこめているため、外で草取りをしていたら顔や髪が少し濡れる。午前10時頃には霧が晴れ始め、パーディーニョの建築資材の店のトラックがやって来て、エディが注文していた鉄筋を配達してくれた。その後、エディたちが来て作業が始まった。昨日はお天気が悪かったので、エディたちは仕事に来なかったため、彼らにとっては土曜日からこっち、実質四連休の休みになったので、今日は来てくれるだろうと思っていたら、やはり来てくれた。 お昼を食べて片付けをし、晩ご飯用のラディッシュの酢の物を作っていると、マウリシオがひょっこりやって来た。どうしたのかな?と、思ったら、オーナメント 用の小型の竹を1株と、プリマヴェーラ(premavera、ブーゲンビリア)の苗を1本持って来てくれた。彼の家の側に植えようと思っていたらしいのだ けれど、ここから出て行くので「植えるのを止めたからあげる」ということだった。プリマヴェーラは入り口ゲートの所に植えようと思っていた花なので、ありがたくいただく。
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2010年11月18日(木) | ||||
今日は朝からカラッとした気持ちのいい青空が広がっている。先週一時暑くなり、扇風機を出したりしたのだけれど、翌日からまたすーっと気温が下がり、以来、お天気が良ければ昼間は気温が上がるものの、朝晩は涼しく過ごし易い、ここならではのいつもの気候に戻ったようだ。 我が家でテレビが見られるようになっても、結局、夜のニュースぐらいしか見ないのだけれど、これはひとつには、ガレージでの生活を始めて以来、以前よりも早寝早起きになったため、あまり夜遅くまで起きていられなくなったことと、ひとつには、いつどんな番組をやっているかわからないからでもある。先日、NHKにチャンネルを合わせて何となく見ていると、NHKワールドプレミアムというサイトで番組の時間表などが確認できるというテロップを見かけ、早速インターネットで検索してみると、ありました。ありました。サンパウロ向けの番組表を選び、夏時間をクリックしたら、午前0時から夜24時まで毎日ぎっしりの番組表が出てきた。NHKの海外向けの編成は、朝のテレビ小説とか、朝夕のニュースなどはその通りの時間(もちろん時差はあるけれど)に放送されているのだけれど、すべての番組がそのそまま放送されているわけではなく、NHK教育テレビの番組なども混ざっていて、海外向け独特の編成になっているようだった。そ して、ドラマなどおもしろそうな番組は平日の午前や午後だったり、週末だったりして、こちらが見たい夕方から夜の時間帯に都合良くやっていない。う~ん。 ちょっと残念。 | ||||
2010年11月19日(金) | ||||
時々、雨が降るようになって、木や花が元気にしているのだけれど、何ヶ月も前に小さな苗を植えたアルメイラオンも最近だんだん大きくなってきている。アルメ イラオンを植えた場所は、土があまり良くないため成長が遅く、その上、柵など特に作っていないため、少し葉が成長し始めると、夜の間に野うさぎに食べられてしまうという悲惨な状況を何度も繰り返しているのに、それにもめげず、ここまで大きくなるなんて、強い野菜だと思う。でも、昨日までしばらく無傷だった葉が、また昨晩、野うさぎに食べられてしまっている。野うさぎの方も賢くて、古い葉は食べず、新しい葉だけを食べている。
家の下の三角地帯に植えたシュシュとカラも伸びてきている。シュシュは少し栄養不良のようで、下の葉が黄色くなって、枯れたりしている。牛糞を根元においてやるといいらしいので、また、お向かいの牛の放牧場に牛糞を集めに行かなくては。
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2010年11月20日(土) | ||||
昨日の夕方、エドソンが帰宅して、「ゲートが壊れている」というので、見に行ってみると、本当にコンクリートの門柱にヒビが入り壊れ、埋め込まれたネジが外れかかっている。やれやれ。扉を開けた際、風で扉がフラフラしないように、ストッパーにチェーンで止めるようになっているのだけれど、そのチェーンも壊れている。どうも先日、パーディーニョの建築資材の店がトラックで資材を搬入するためにここに来た際、突風が吹いて、開け放っていた扉が風に煽られ、それで壊れてしまったようだった。
ここには電気が来ていないため、お隣のウィリアムの所から私費で細い電線を引いて、使わせてもらっている。でも、パーディーニョの町からウィリアムの所に来ている電力も、個人の畑の中を横切って細い電線でつないでいるため、電力の容量が小さい。さらに線を私たちの所まで無理して引っ張ってきているので、電気の容量が小さいだけでなく、不安定なので電子レンジなどは使えない。去年の8月にここに来て、すぐにお隣のクラウディオと一緒に、電力会社にここに直接電気を供給してくれるように申し入れをして、今年の7月に電気が来るという話だった。でも、例によって、ここは予定通りに事が運ぶことなんてまずないので、現在も電気は直接来ていない。それが、10月下旬に日本への一時帰国から戻ったその日、2~3人の人たちがうちの近くで穴を掘る作業をしていた。それは電信柱を立てるための作業だった。それから少しずつ電信柱が立ち始め、1週間くらい前に、この道路の入り口の所にあるカロリナソイルの所から、電線を引っ張ってくるための電信柱がうちのゲートの入り口まで立ち並んだ。
そして、今日は土曜日だというのに、お隣のクラウディオのコーヒー園の敷地内で、電信柱を立てる作業が行われている。作業の人の話によると、うちの敷地内での作業も、今日中にやってしまうということなので、ボトゥカトゥへ買い物に行くのは明日にして、今日は午前中、入り口ゲートの所にプリマヴェーラを植えたり、 お向かいの牧場に牛糞を拾いに行ってシュシュやカラの根元に置いたり、草取り作業をしたりして過ごしながら、作業の人たちが来るのを待った。次の写真はお隣の敷地内で電信柱を立てる作業をしているところ。
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2010年11月21日(日) | ||||
昨日は、午後からうちの敷地内に電信柱を立てる作業が行われ、入り口ゲートの所に立っている電信柱から我が家まで電線を通すために、お隣同様3本の電信柱が立てられた。次の写真は家の側で電信柱を立てるための穴を掘っているところ。エドソンは時々雨が降る中、この作業の人たちに付ききりで監督していた。
次の写真は、電信柱の上や下で作業をしている人たち。一番上の人は電線を通す作業をしていて、そのすぐ下の人は変圧器を取り付けているところ。地上にいる人たちもそれぞれ担当の作業をしている。
次の写真は、作業が完了し、うちの敷地内の電信柱が立ち上がり、電線が通った状態。ただし、道路沿いの電信柱にはまだ電線が張られていないので、電気はまだ来ない。でも、ここでは珍しいくらい1日のうちに作業がこんなにはかどったので、とてもうれしい!
この作業が終わった後、シャワーを浴びて、着替え、パウロの次女のマリア=パウラの2歳の誕生日会に行く。私たちが持参したプレゼントは、日本で買った「魔女の宅急便」の中に出てくるクロネコのジジの小さなぬいぐるみ。次の写真は、いっぱいのキティちゃんで飾り付けられたバースデーケーキのテーブルの前でポーズをとるジャナイーナと、主役のマリア=パウラ。パウロたちは何故かキティちゃんはアメリカのキャラクターだと理解していたので、日本のキャラクターだと大いに宣伝をする。
このパーティーには、今まで会ったこともない人たちもたくさん招かれてきていた。何だかマリア=パウラのためのパーティーというよりも、パウロのためのパー ティーのようだった。でも、今まで何度か会っているパウロやジャナイーナの家族や、パウロの会社関係の見知った人たちを見かけれるとほっとする。ホドリゴ君が恋人を同伴して来ていたので、彼をひやかしながら、彼女の名前を聞いたら、デマリス(Demaris)というのだと教えてくれた。そして、「キティちゃんにはどうして口がないの?」の聞かれ、「えっ?キティちゃんには口がないの?」とキティちゃんを見るとやはり口がない。う~ん、どうしてだろう?わからない。
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2010年11月22日(月) | ||||
ここでの生活で、私たちを一番慰め、癒してくれるのは、ミニチュア・ダックスフントのモビとフィオナ。彼らはもともとはお隣のウィリアムの所の犬なのだけれど、1年近くにおよぶ居候生活の間、彼らと一緒に暮らしているうちに、すっかり私たちになついてしまい、私たちがこのガレージに引っ越してきたら、彼らもここに来てしまったため、以来、このガレージで一緒に暮らしている。2匹はたまには喧嘩をすることもあるけれど、生まれたときからずっと一緒なので、切っても切り離せない仲良し兄弟。よくペロペロとお互いの体をなめ合って、ラブラブといった感じ。次の写真は、居間で私たちがテレビを見ていると、ペロペロと音がするので、彼らを見ると、ずいぶん長い間お互いの顔や体をなめ合っていたので、写真に撮ってみた。背中を向けているのがモビで、向こう側がフィオナ。
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2010年11月23日(火) | ||||
ニッ ケイ新聞2010年11月11日付けの「日系社会ニュース」の欄に、「セラードの経験をアフリカに=モザンビーク=日伯共同で大型農業協力=最貧国から穀物輸出国へ農牧公社とJICA参画」という記事があった。以前、イギリスの「エコノミスト」に掲載された「セハードの奇跡」という記事を紹介したけれど、 セハードの奇跡をアフリカでも実現できれば、将来の食糧危機は回避できるかもしれない。果たしてアフリカで同じ奇跡を起こせるか?と言った内容だったけれ ど、この記事はこの奇跡を起こすためのプロジェクトが、日本とブラジルの協力で始まるというもの。日本がこういう意義あることに参画していることをうれしく思う。ちなみに、ニッケイ新聞は「Serrado」のことを「セラード」と表記しているけれど、ポルトガル語の発音に合わせると、単語の中でRがふたつ重なるとHの発音になるので、「セハード」というのが実は正しい。 『日本政府と日系産組が協力して不毛の乾燥地帯を農地に改良し、伯国を世界第2位の大豆輸出国にしたセラード開発の経験がアフリカ大陸に移植される ——韓国でのG20に参加する直前、現役最後のアフリカ大陸訪問としてモザンビークに立ち寄ったルーラ大統領は9日、首都マプトで伯日共同の大型計画「プ ロサバンナ」に関する三国間提携式を行った。日本からは国際協力機構(JICA)、伯国からはブラジル農牧研究公社(Embrapa)が計1340万ドル の投資をする同大陸では最大規模の農地開発構想だ。 1973 年の世界穀物大不作を契機に、時の田中角栄首相の呼びかけでブラジル中央部の不毛地帯を大豆産地にするセラード開発計画(プロデセール事業)が 79年に開始され、日本政府の音頭の下、コチア産組、南伯産組などを巻き込んで多くの日系農業者が入植した。大きな投資が行われ、大規模な土壌改良と灌漑施設の敷設によって、農業不適地を世界有数の一大穀倉地帯に変え、ブラジルを世界第2位の大豆生産国にした。 このセラードの経験を、気候が似ていて飢餓に悩むアフリカ大陸に適用し、新しい農業フロンティアにする計画だ。伯農牧公社は日本側の協力でセラード開発から得たノウハウを、同じポ語圏である現地のモザンビーク農業投資研究所(IIAM)に伝える。同農牧公社サイトの広報によれば「サバンナはセラードに大変気候が似ている。環境を考慮した持続的農業ができ、市場の需要に応えるものになる」と期待している。 モザンビークは17年間も続いた激しい内戦で国土は荒廃し、92年に終結した時には世界最貧国といわれた。その後、ようやく発展の軌道に乗りはじめたが、北部地域発展の鍵は今回の計画の対象地域であるナカラ回廊周辺の農業開発だといわれている。 予定では今後63カ月間(約5年間)で日本側はJICAが730万ドル、ブラジル側は外務省とブラジル協力事業団(ABC)による360万ドルを含めた計1340万ドルが投資される。 JICAブラジルの芳賀克彦所長は「昨年4月から1年半かけて準備してきました。モザンビークの隣国も含めた食糧安保に日伯で協力していくものです」と説明する。 さ らに「とにかく広大な面積ですから、まずは共同研究で土壌特性を解析し、どんな作物が適しているかなどを調べる。最終的には日伯の民間企業に呼びかけ て投資をしてもらい、自国の食糧自給はもちろん近隣の食糧不足国にも輸出できるようになることを目指しています」とのべた。』 | ||||
2010年11月24日(水) | ||||
先日、ホドリゴ君に「キティちゃんには何故口がないの?」と聞かれて、答えられなかったと書いたら、いつもブログを読んでくれている友人が、その回答が掲載されている雑学のサイトを教えてくれた。以下がそのサイトの説明。「へえ~。なるほどねえ」早速ホドリゴ君に教えてあげよう。 『キティちゃんは株式会社サンリオの人気キャラクターで、1974年に誕生!そして、1975年にグッズ販売を開始しました。当初、このキャラに名前は付いていませんでしたが、不思議の国のアリスの続編である鏡の国のアリスに登場するネコ(キティ)の名前をそのまま拝借したと伝えられています。 そんなキティちゃんをよく見ると・・・そうなんです☆口がないのです!何故キティちゃんには口がないのだろうか・・?という疑問を解決したいと思います。実はキティちゃんに限らず、口がないぬいぐるみは数多く存在するのです。何故口がないのだろうか? サンリオの担当者によると、あえて口を描かない方が表情が限定されないので、見ている人が嬉しい時には笑っているようにも見えるし、悲しい時には悲しんでいるようにも見える。という理由で口が付けられていないのです。』 | ||||
2010年11月25日(木) | ||||
今週は、ほぼ毎日お昼前の2時間足らず、外での作業を少しずつ進めている。入り口ゲートの横に植えたグレヴィーリャの周りの草刈り、この2本に加え、さらにグレヴィーリャを3本とプリマヴェーラ(ブーゲンビリア)を3本植えようと考えているので、入り口ゲートに沿ってそれらを植えるための穴掘り、この家の東側で育てている苗木のいくつかを、小さな容器から大き目の容器に入れ替える作業、そしてゴミ拾いなどなど。やることはたくさんあるのだけれど、草刈りや穴堀りといった作業は、お昼前の時間帯でも日差しが強いので、体力を消耗し、あまり長くは続けられない。私には2時間弱が精一杯。汗びっしょりになって家に戻り、シャワーを浴びて着替え、さっぱりしてから、お昼を食べるという日課を繰り返している。 | ||||
2010年11月26日(金) | ||||
リオデジャネイロではドラッグ・ディーラーに対する警察の締め付けが厳しくなったことへの報復として、先週末頃からほぼ1週間連日、ギャングたちがバ スや一般車両を燃やすという事件が相次ぎ、2ヶ所のファベイラ(貧民街)でドラッグ・ディーラーと警察との間で市街戦が続いている。それでテレビでは毎晩のようにそのニュースを大きく取り上げている。今日は、家の中にいた一般人の主婦のお腹に流れ弾が命中してしまい、その主婦が救急車で運ばれる映像を流していた。何とも恐ろしい。リオには住みたくないとつくづく思う。こういう事態に軍隊は導入できないのかと、エドソンに聞いてみると、法律で軍隊はこのような市街戦を行うことは認められていないのだとか。その代わりに、空からヘリコプターでファベーラの監視をしたり、装甲車を出してファベーラを取り囲み、チェックなしにはファベーラを出入りできないようにしたりという協力をしているのそうだ。実際の市街戦でドンパチやっているのは軍警察と連邦警察。と言っても、前にも書いたように、ブラジルの軍警察は軍隊の中の警察ではなく、軍隊のように訓練され、武器を携帯し、社会の秩序を保つのが主な任務。それで、このようなドラッグ・ディーラーの掃討作戦では、彼らの出番ということになる。文民警察も武器を携帯しているけれど、軍警察のような重火器ではなく、彼らの主な任務は事件が発生した際の捜査という違いがある。日本とは警察の組織構成がずいぶん違い複雑なので、ちょっと分かりにくいけれど、ブラジルの軍警察のようなものが日本にないことだけは明らか。 | ||||
2010年11月27日(土) | ||||
昨日エドソンは仕事に出るつもりだったのだけれど、今日の準備でそれどころではなくなり、職場に電話をして1日休ませてもらった。今日予定どおりに天井にコ ンクリートを入れる作業ができることになったので、エドソンはエディたちに付ききりで細かい指示を出し、仕上げを手伝っていた。次の写真は、家の上にコンクリートを上げるために組まれた足場。そして天井の上の状態。
一方、コンクリートを入れる作業はとても大変なので、ガレージの天井にコンクリートを入れた時のように、作業の人たちに食事を出さなくてはならない。前回はコンクリートの会社にミキサー車2台で来てもらったので、お昼過ぎにはコンクリートが入り、昼食にシュハスコを出しただけで良かったけれど、今回は手作業でコンクリートを作って流し込むため、10数人の人手が必要で、しかも丸1日かかるという。それで、お昼と夕飯を出すことになった。お昼はパオンジーニョ・フランセーズにオーブンで焼いたソーセージとレタスとトマトを挟むサンドイッチ。夕飯はローストビーフとビナグレッチ(玉ねぎ、ピーマン、トマト、ネギなどを細かく 刻んだものをオリーブオイルとビネガーで和えたもの。牛肉料理には欠かせない)とガーリックライスとフェイジャオン(煮豆)。フェイジャオンは昨日の午後 ドナ・クレウザにうちに来てもらって作るのを手伝ってもらったので、準備万端大助り。 | ||||
2010年11月28日(日) | ||||
金曜日にパーディーニョの建築資材の店から来るはずだったコンクリートを作るためのセメントや砂利、砂といった材料が夕方になっても来ないという緊急事態が発生。エディやエドソンがあれだけ何度も店に電話をしたり直接店に行って配達してくれることを確認して、確約させていたにも関わらず、「配達します」「も うすぐ出ます」とそば屋の出前じゃあるまいし、ギリギリまで嘘をついていたことがわかり、あきれてしまった。予定どおりに配達できないのであれば、前もって言ってもらわなければ、天井にコンクリートを入れる際は、作業の人手がちゃんと集まるかどうか、その日に作業できるお天気になるかどうか、彼らに出すための食事の用意などなどがあるため、「配達できない」「はいそうですか」というわけにはいかない。たった1日の遅れが何週間もの遅れになることだってあり得るし、こちらにとっては被害甚大だ。エドソンは大急ぎでイタチンガの建築資材の店に電話をして店のオーナーと直接交渉して、何とか2台のトラックで朝 一番に必要なものを配達してもらえることになり、ほっとした。ただ念のため、昨日は朝7時前には起きて、約束どおりに配達してもらえるかどうかを電話で確認していた。エディの話では、パーディーニョの店と違い、この店は約束を違えたことがないのだそうだ。エドソンはもうパーディーニョの店は使わないと言っている。 イタチンガはここから車で30分、重い荷物を満載した大型トラックだと制限時速が遅い上に、坂道などはなかなか上がるのに時間がかかるため、最低1時間はかかる。8時半くらいには到着するかな?と、思っていたら、結局到着したのは9時を少し回っていた。でも、このトラックの運転手さんはとても気転のきく人だったようで、我が家の大きさと、作業に来ている人の多さを見て、これではセメントが足らないだろうからと、その場で店に電話を入れてくれ、もう1台ト ラックを出してセメントを追加する手配をしてくれたのでとても助かった。次の写真は最初の資材の到着後、作業に取りかかる人たち。この作業にはエディと彼の仕事をいつも手伝っている弟さんやアルバイトの少年2人に加え、8人もの人が助っ人で来てくれたので、総勢12人で作業が行われた。この8人の人たちは 普段は別に仕事を持っているのだけれど、土曜日に時々このような力仕事の手伝いをしてくれる人たちだということだった。そして、ようやくコンクリートが天井に入り始めた。
次の写真は、お昼頃追加のセメントが到着し、その荷下ろしをしているところ。
昨日は1日、エドソンは作業の進み具合を見ながら、お昼や夕飯を出すためのピクニックテーブルのようなものを家の側の木の下に、あり合わせの木材を利用して作ったり、注文しておいたパオンジーニョ・フランセーズをパーディーニョまで取りに行ったついでに、追加のビールやソーダに加え、大きなスイカまで買ってきてくれたり、台所で食事の用意をしている私にお昼や夕食を出すタイミングを指示して、料理を外に運び出してくれたりと大忙しだった。作業の手をあまり休めたくないという作業の人たちの希望で、お昼はささっと食べ、すぐに作業に戻り、午後4時過ぎに作業が終了した。お昼に出して少し残ったパンやソーセージやレタスなども再度出して、結局、お昼と夕食で合わせて、約2キロのパン、2キロのソーセージ、レタス4株、トマト8個、ご飯6合、牛肉4キロ強、フェイジャオン大鍋半分、ビナグレッチ約1キロ、缶ビール3ダース、ソーダ2リットルボトル4本、カイピリーニャ1リットル、大きなスイカ丸々1個、そのすべてを見事に完食!食事が終わって、みんなが引き上げて行ったのが午後7時前。エドソンは真っ赤に陽に焼けてクタクタになって戻ってきた。でも、家の天井にコンクリートが入るという大きな前進があったため、彼も私もとても満足な1日になった。 | ||||
2010年11月29日(月) | ||||
昨日は、土曜日の作業で汚れたガレージの前や窓ガラスを掃除したり、簡易のピクニックテーブルの側の散らかったゴミを片付けたり、天井のコンクリートに数時間ごとに水を撒いたりと、やることがたくさんあり、ふたりで手分けしてそれらの作業をした。ここは晴れると日差しが強く、風があり、空気が乾燥しているため、1日に数回コンクリートに水を撒かないとコンクリートが早く乾きすぎてヒビが入り、水漏れする。前回ガレージの天井にコンクリートを入れる際、複数の人たちから勧められてボトゥカトゥのコンクリートの会社にミキサー車2台でコンクリートを運んでもらい、天井に入れたのだけれど、これが大失敗。高いお金を払ったにも関わらず、コンクリートの質がいまひとつだったのか、あちこちヒビが入り、水漏れがひどかったため、結局、その上からさらに防水用のコンクリートをもう 一層塗るという無駄なことをしなければならなかった。その教訓を生かして、今回はエディたちに手作業でコンクリートを作って入れてもらった。セメントと砂などの調合割合が違うのか、何がどう違うのかよくわからないけれど、今回は前回のように水を撒いても家の中が水浸しにはならない。建設作業の進展が遅いために、途中でこのような計画変更も可能なので、進展が遅いことをそんなに恨めしく思うこともないのかな?と、思ったりしている。 | ||||
2010年11月30日(火) | ||||
今日午前中はまずまずのお天気だったけれど、昼過ぎから1~2時間強い雨が降った。こんな日に木を植えるといいらしく、エドソンが夕方仕事から戻るとすぐに、マウリシオがやって来て、パラカンビから持って来て育てていたアバカチ(Abacate、アボカド)の苗を4本と、ジャンボ(Jambo)という果物の苗を1本、一 緒に植える作業をしてくれた。植えた場所は西側の森の近く。この森の近くだと周辺の木々が強い風を防いでくれるため、まだ小さな苗には適した場所らしい。 そして、土も肥えているので、家からちょっと離れているけれど、ちゃんと育ってくれるのではないかと思う。次の写真は、それぞれアバカチとジャンボ。ジャンボという果物はあまり大きなものではないらしいのだけれど、西洋梨のような形をしていて、色は濃いワインカラー。でも中の果肉は真っ白なのだそうだ。私はまだ食べたことはない。今月になってブーゲンビリア1本と竹を一株植えたので、それらと合わせてこれまでに136本植林したことになる。
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