Kyoko Yoshida Life in Brazil BLOG 

2010年10月1日(金)

朝食の後、エドソンがモビたちをウィリアムのファームの犬小屋に連れて行ってくれている間に、私は荷物を車に積み込む用意をする。エドソンが昨日、事務所に来た行商の人からグアバとパイナップルを買って来てくれたので、それをパラカンビのお母さんたちへのおみやげにするつもりだったのだけれど、マウリシオがパラカンビに行くんだったらと、収穫が終わった後も、小粒の実をつけているアテモイアを一箱取っておいてくれたので、それもおみやげにすることにする。バスでの移動だとこんなにたくさんのものを持っては行けないけれど、車なので、簡単にいろいろ積み込むことができ助かる。

9時半頃家を出て、カステロブランコのホドサーブ・スターでアルコール燃料を満タンにしてもらい、出発する。1時間ほど行ったソロカバの辺から雨が降り出し、一気に土砂降りになった。パラカンビに行く時は何だかいつもこうやって雨に降られるような気がする。のろのろ運転をしていると、そのうちひょうまで降り出した。側道には停車しているトラックや乗用車が何台もいたけれど、雨だけでなく、ひょうまで降ってきたのでは、屋根のあるところに行かなければあまり意味がない。しばらく走って、道路沿いのガソリンスタンドの屋根の下に避難させてもらう。10分ほどでひょうが止み、雨足が少し軽くなったので、また高速に戻ることにする。途中、雨足は強くなったり、弱くなったりを繰り返しながら、結局、パラカンビまでずっと雨の中を走ることになった。でも、前回ほどは時間がかからず、午後6時過ぎにはファームにたどりつくことができた。感謝。

2010年10月2日(土)

エドソンがパラカンビからパーディーニョに選挙登録住所を変更するのを忘れていたため、不案内なサンパウロ市内の治安の悪い地区の投票所に指定されて行くより も、お父さんが亡くなってちょうど1年になることもあり、お母さんのご機嫌伺いを兼ねて、実家のあるパラカンビで投票しようということになり、はるばるパ ラカンビまでやって来た。お父さんが亡くなって1年と言っても、日本と違い、1周忌の法要とか何か特別なことがあるわけではないのだけれど、私たちの気持ちの上では、1年という時の経過が少し意味があるような気がしたのだ。

朝ゆっくりと起きて朝食を食べ、ファームを散歩してから、お昼前にお母さんの家に向かう。今日は、妹のエリカは鍼灸のクラスがあるため、1日留守なのだけれど、夕飯はみんなで一緒に食べようという約束なので、お母さんと夕飯の相談をし、必要なものをマーケットに買いに出る。街は明日の投票日を前にまるでお祭り騒ぎで、大勢の人たちが支持している候補者の旗などを持って歩いている。次の写真はパラカンビの街の中心にある公園の人混み。

今回の選挙は、大統領の他、上院議員、下院議員、州知事、州議会議員の5人を選ぶ選挙なのだけれど、大統領候補は別として、他の議員候補の情報はみんなどうやって得るのだろうと不思議に思う。日本では新聞に全候補者の情報が別刷で掲載されたページが入ってくるけれど、ブラジルの人たちはリオやサンパウロの大都会の人以外では、ほぼ新聞というものを読まないし、テレビの情報も、大統領候補のことは盛んにニュースで流すけれど、各州の議員候補のことまではそんなに流していない。情報がないと民主主義も機能しないのではないかと思ってしまう。それで、エドソンに投票する候補者はどうやって決めたのか聞いてみると、 彼はインターネット上の質問に答えると、自分の考え方と同じ、あるいは近い主張の候補者を教えてくれ、その候補者のことを詳しく知ることができるというあるNGOがやっているサイトを利用したと言っていた。でも、コンピュータを持っておらず、そのようなサイトがあることも知らない人たちはどうやって情報を得るのだろう?と、やはり不思議に思う。次の写真は、お母さんの家の近くの家の軒先にあったリオデジャネイロ州の州議会議員候補の写真。この人は2000年から2008年までの2期、パラカンビの市長を務めたアンドレ・セシリアーノという人で、エドソンは州議会議員はこの人に投票すると言っていた。

2010年10月3日(日)

昨日の夜は、お母さん、エリカ、エリカのご主人のデニウソン、そして、私たちふたりの5人揃って、お母さんが作ってくれた夕食をいただく。こうやってみんなが揃ってテーブルを囲むことは珍しいことなので、これだけでもパラカンビまで来た甲斐があったと思う。

今日は選挙投票日。お昼前に一旦お母さんの所に行き、すぐ近くの投票所になっている学校に行く。日本も投票所は学校だけれど、場所はだいたい体育館で、どこの地区の人もみな一緒に投票するけれど、ここでは体育館ではなく地区ごとに異なる教室で投票することになっていた。教室の入り口に係の人がいて、1人の人が済むと次の人を入れるというふうに指示していた。次の写真は、教室の真ん中のテーブルで、選挙登録カードや身分証明書を提示して、確認を受けている所。 側に何故が赤ちゃんにおっぱいをあげている女性とその連れの人が数人いた。

これが終わると、前の人が投票し終わるのを待って、機械のところに行き投票する。投票の際は、候補者の番号を入力すると、「その番号はこの候補者ですが間違いありませんか?」というメッセージと共に、候補者の写真と名前が出るようになっているらしい。それで、「間違いありません」と確認ボタンを押すと、1票を投じたことになる仕組みだそうだ。これを1人ずつ、5人繰り返して終了。

次の写真は、メインストリートにある高校が投票所になっている場所。大勢の人たちが投票をした後も何をするでもなくたむろしていて、道路は車で溢れかえっていた。

中国新聞の海外リポートで、投票終了と同時に結果がわかると書いたけれど、ちょっと間違っていた。投票が終了すると、この機械の中のデータを選挙本部に送信できる場所まで持って行き、送信し、選挙本部のコンピュータがデータを集計して、速報を流すらしい。夜は、テレビでデータの集計の進み具合を報じる選挙特番をやっていた。5時に投票が終わり、8時か9時頃にはだいたいの結果がわかる感じだった。ジウマもセハも過半数を取れなかったので、31日(日)に決選投票となってしまった。

2010年10月4日(月)

昨日の夜もお母さんのところで夕飯をいただく。ただ、エリカとデニウソンは選挙投票所の手伝いに1日駆り出されていたので、お母さんとファームのお手伝いのエライニの4人で夕飯をいただく。次の写真は、お母さんの愛情こもったチキンサンドを、マヨネーズを和えたマッシュポテトでケーキのように仕上げたもの。 エドソンはコールド・チキンサンドと呼んでいた。エライニはお母さんと一緒に投票に行き、戻って来てから一緒に食事をして、シャワーを浴びて着替えをして、教会に行くというのだけれど、まるでデートに出かけるように、香水をふって、口紅までしているので、みんなでおおいに冷やかしてしまった。

今回、またもや銀行がストで業務を行っておらず、その上、パラカンビに来てからずっと毎日ぐずつくお天気なので、予定よりも1日早く、今日、パーディーニョに戻ることにする。朝出発前に、家の裏のプールの側にきれいなダリアが咲いていたので、写真に撮る。

2010年10月5日(火)

昨日の午後5時少し前に、パラカンビから無事帰宅。ちょうどエディたちが仕事を終えて帰る仕度をしている時だった。昨日はパラカンビからパーディーニョまでの帰路、ずっと曇り空だったけれど、今日は穏やかないいお天気の1日になった。このところパーディーニョでも、パラカンビに行ってもお天気が悪かったので、こんなにいいお天気で、お日様を拝むのは1週間ぶりのような気がする。お陰で洗濯物がよく乾き、溜まっていた洗濯物がきれいに片付き、すっきり、 さっぱり。今日は、掃除、洗濯、溜まっていたメールへの返信、ブログの準備、海外リポートの修正などで1日が過ぎてしまった。

このところの雨で、8月の末に植えたシュシュが元気に育っている。植えて数週間ほどして強い風に痛めつけられて、つるが弱り、竹の棒につかまっていられなくなり、ヘナヘナと地面にしゃがみ込んでいたけれど、元気を回復し、今では少々の風にはビクともしない感じになってきた。

2010年10月6日(水)

最近、エドソンはJounal do Brasilというインターネット版の新聞の購読を始めた。この新聞は歴史の古い新聞らしいのだけれど、紙の新聞の発行を完全に止めて、インターネットだけに特化した新聞になったらしい。新聞業界はどこの国も厳しいらしい。私がいつも読んでいるニッケイ新聞も紙だけでなく、インターネット版も購読できるのだけれど、私はどちらも購読せず、いつも古くなって無料で読めるインターネット上の記事を読んでいる。申し訳ない。

それで、エドソンがそのインターネットの新聞を読みながら、中国人が日本の土地を買い漁っているという記事が載っていると話してくれた。日本の新聞ではなく、ブラジルの新聞がこのような情報を入手して、問題視して、記事にしているのもおもしろいけれど、日本ではまったく無関心なのだろうか?と、不思議に思った。以前、ブラジルに来る前に、韓国資本が山口県だったか島根県だったかの日本海側の土地を買っているが、これを野放しにしていていいのか?というよ うな記事を雑誌か何かで見かけた記憶があるけれど、どうして日本の政府もマスコミもこういう重大なことに関心を払わないのだろうか?と、思う。

先月、サンパウロに行った際、日本総領事館の最寄り駅から地下鉄に乗らず、一つ先の駅までそぞろ歩いた際、あるオフィスビルの1階に、まるで秋葉原の電気街にあるように極小店がたくさん集まっているところがあったので、のぞいてみると、すべてが中国人の店で、コピー商品を堂々と販売していたので驚いた。サンパウロの中心も中心、高級中心街にこんなものがあるなんて・・・ポルトガル語もろくに話せない、中国語が飛び交うそのコピー街は、まさに小さなチャイナタウンだった。中国という国は国民が許可なく国内を自由に移動することもできないし、海外留学するにしても家族は人質のように国に留め置かれたりするような国なのに、どうしてこんなに大勢の人たちがはるばるブラジルまで出て来られるのだろうか?と、不思議に思う。きっとマフィアと中国政府がつながっていて、国の政策として、中国人を海外に出して、コピー商品の密輸ルートを確立して外貨を稼いでいるのだろうなと想像してしまう。最近の中国のアフリカ進出もすごいけれど、受刑者を送って働かせているという事実もある。中国を普通の国と思っていると、大きな間違いだと思えてしょうがない。

2010年10月7日(木)

今日の降水確率は90%。朝から厚い雲に被われて、強風が吹いている。午前中は何とか風だけで、雨は降らなかったけれど、お昼過ぎから雷が鳴り始め、時々パ ラパラと雨が降る状態がしばらく続き、2時過ぎ頃から本格的に雨が降り出した。雨がまだパラパラしている間は、エディたちは仕事を続けていたけれど、本格的に降り出すと、仕事を止めて引き上げて行った。お昼過ぎに雷が鳴り始めてすぐに、コンピュータの電源を落とし、電器製品のコンセントをすべて抜き、ブ レーカーも落として、完璧な臨戦態勢に入る。

昨日は、午後からモビたちの体を洗ったり、金柑の甘露煮を作ったり、パラカンビから持って帰ったバナナ・ダ・テハで、バナナのフライを作ったりと忙しかったけれど、今日はコンピュータが使えず、外も雨となると、本を読むことぐらいしかできないので、居間のソファーにゴロンと横になって、だいぶ前にイビウーナの香山さんからいただいて、ぼちぼち読んでいた「信ちゃんの昔話」という本の第3部を読む。この本はパラナ州ロンドリーナ在住の沼田信一さんという今年91歳の、パラナ州日系社会の重鎮の方が書かれた実体験に基づいた移民の裏話のような本で、第10部まである。沼田さんやその回りの人たちの泣き笑いの体験談はとてもおもしろく、 当時のことがよくわかる。そして、沼田さんのバランスの取れたものの考え方や価値観がすばらしく、こういう人たちがいたから今のブラジル社会の中での日系社会があるのだなということがよくわかる。

2010年10月8日(金)

昨日の悪天候から一転、今日は穏やかないいお天気になった。昨日の雨で、車のタイヤがドロドロに汚れて帰った来たので、今日はそのせいで泥だらけになったガレージの掃除や、旅行の準備で忙しい1日になった。

午前中、掃除と洗濯を終えて、メールをチェックすると、ユバ農場の矢崎さんに再度お願いしていた海外リポート用に書いたアリアンサに関する原稿の校正が返って来ていた。丁寧に細かいところまでチェックしてくださり、感謝、感謝。それにしても私がリポートの中で引用した「ありあんさ通信」に転載されていた論文や、ニッケイ新聞の記事が、事実と異なる部分があるということに少し驚いた。矢崎さんに指摘してもらわなかったら、そのまま間違った記述のリポートを送るところだった。歴史を正しく記録するということは難しいことだなあと、つくづく思った。そして、このような間違いがそのまま文字として残り、当事者や当事者に近い人たちがこの世からいなくなれば、その間違いがそのまま歴史の事実として一人歩きして行くのかと思うと、ちょっと怖いような気もした。

2010年10月9日(土)

今日は、旅行に出る前に、家や畑に関してしなければならない諸々のことを片付けるために、エドソンは朝から忙しい。マウリシオのところに行き留守中のことを細々頼んだり、シュシュやカラ・モエラが伸びて来たらつたが絡まってさらに伸びて行けるように、長い竹の棒を数本添え木したり、敷地内を回ってこれまでに植えた木々の様子を確認したりしていた。私は掃除と洗濯を終えてから、手荷物で持って行くものとスーツケースに入れて持って行くものとを分け、スーツケースに荷物を詰める作業をした。今日は、また風が強く、昨日とは打って変わって、少し気温の低い1日になった。

次の写真は、今日現在の我が家。北側と東側と部屋の内部の壁が上まで積み上がり、後、西側の半分と南側の壁が積み上がると、天井を作る作業が始まるというところまで来た。

2010年10月10日(日)

明日から26日まで、日本に駆け足で一時帰国するため、こちらに戻るまでブログはお休みします。

2010年10月27日(木)

日本への慌しい一時帰国を終え、昨日の早朝、サンパウロ空港に到着。その足でタクシーと高速バスを乗り継いで、パーディーニョまで無事に戻り、ホドサーブまで向かえに来てくれたセージオの車で家まで送ってもらう。狭くて体の自由のきかない飛行機の座席と違い、高速バスの座席は前後のゆとりがあり、足を床からあげることができ、リクライニングもかなり倒れるので、横になった状態に近い態勢が取れるため、長時間の飛行の後のさらなる移動にもかかわらず、少し体が休まった。お昼前に何とか無事、我が家に戻れたことを、感謝。感謝。

家にたどり着き、私はすぐにシャワーを浴びて、ベッドに横になったのだけれど、エドソンは家の進捗状況を確認したり、マウリシオのところにモビたちを迎えに行ったり、植えた木々や草の状態を確かめて歩いたりと、しばらく忙しく動き回っていた。夕方起きて、ふたりで簡単な夕食を食べ、再びベッドに横になり、ひたすら眠る。

今朝は、早く目が覚め、私は荷物の後片付けや、掃除、洗濯をし、エドソンはパウロたちへのおみやげを持って、仕事に出て行った。午後から、時差ボケで体がだるく、体調がいまいちなので、私はまたベッドに横になって過ごす。夕方、エドソンが仕事の後で食料を買って帰ってきてくれたので、その材料で夕食を作って食べ、夜も早く横になる。寝ても、寝ても、まだ眠たい状態が続いている。

次の写真は、現在の我が家の状態。四方の壁や柱が立ち上がり、天井を作る準備作業が始まっている。

日本に行く前頃から、少しずつ咲き始めていた家のベランダの前の小さなハイビスカスが、戻ってきたら、いくつも元気に花を咲かせていた。留守中、何度か雨が降ったようで、木々や草花が元気を取り戻していた。

日本に一時帰国する前に書き終えて、中国新聞に送っておいた25本目と26本目のリポート2本が、22日(金)と23日(土)付けで、中国新聞の海外リポー トのサイトに連載された。このサイトは、こちらへ。 このアリアンサと弓場農場に関するリポートは、書き上げるのにずいぶん時間がかかったのだけれど、ほとんど修正されることなく、ほぼ原文が掲載された。お忙しい中、細かく目を通してくださり、いろいろ間違いを指摘してくださった弓場農場の矢崎さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。

2010年10月28日(木)

昨晩も8時過ぎにはベッドに入ったのだけれど、今朝は7時になってもまだ眠い。いくら寝ても寝足りない感じがする。旅行中と違い、さすが我が家ではよく眠れる。今回の旅行では、東京の人の多さと喧騒に疲労が倍増したけれど、私たちにはやはりここの静かな環境がとても合っているのだなと再確認する旅になった。

旅行荷物の片付けは、昨日ほぼ済ませたので、今朝はモビたちの体を洗ってから、広島で買ったおみやげを持ってドナ・クレウザのところにモビたちのベッドと預かってもらっていた植木を取りに行 く。ドナ・クレウザは私が持って行ったクッキーの箱を早速開けて、とても喜んでくれた。そして、モビたちは最初の夜は私たちがいないのでしばらく泣いていたけれど、2日目の夜からは慣れて、泣かなかったと言っていた。留守中、苗木への水やりや、モビたちの世話をしてくれた彼女たちには心から感謝。

留守中何度か降った雨のお陰で、植えた木々が元気にしている。今朝、モビたちの毛布をいつものように干していると、桜の木の側にたくさんピンク色の花が咲いているのに気づいたので、写真に撮る。

三角地帯に植えた梅の木2本も、留守をしていた2週間の間にさらに葉が茂り、とても元気にしている。

2010年10月29日(金)

この日曜日に大統領選の決選投票が行われるため、明日からまたパラカンビに行かなければならない。それで今日は家事に加え、荷造りにあたふたしている。でも、いざとなったら、持って行くものは車にそのまま積んで行けるので、カバンに詰め込まなければならないわけでもなく、日本への一時帰国に比べ、何とも楽ちん。

昨日から気温がぐんぐん上がり、今日は室内の気温も25~6度あり、戸外は優に30度を越えているようだ。午後、洗濯物を取り込んだ後、モビたちとお散歩がてら植えた木々を見て回ったら、日差しが強く、気温が高く、どっと汗が吹き出してきた。入り口ゲートから家までの道路沿いに植えた孟宗竹はほとんどが葉を落とし、枯れたようになっていたけれど、その中の数本は緑の葉をつけ始めており、中の1本の根元には元気な芽が出てきていた。

そして、5株植えたヒメシマダケにも芽が出始めていて、その中でも左から2本目の株には、日本に行く前には生えていなかった芽がたくさん出ていてびっくり。 その側にたくさん植えたアメンドインも四方に広がり元気に育っている。冬(乾季)の間、せっせと水やりをしても、何とか生き延びているという風情で、何の変化もなかったけれど、天の恵みの雨の力をまざまざと見せつけられた思いだ。

2010年10月30日(土)

夜明け前から強い風が吹き始め、朝食を食べている頃からだんだん南西の方向の空模様が怪しくなってきた。今日の降水確率は90%なので、またパラカンビへの道中は雨に降られそうだ。エドソンがモビたちをマウリシオのところに預けに行っている間に、私は片付けをして、荷物を車に詰め込む作業をする。エドソンが 戻って来て、いざ出発。9時前に入り口ゲートを出る頃から、雨が降り出す。やれやれ。どうしてパラカンビに行くときはいつも雨なのだろう?

途中、雨足は強くなったり弱くなったりして、サンパウロ州とリオデジャネイロ州の州境の前後は雨が降らなかったけれど、結局、今回もほぼずっとパーディー ニョからパラカンビまで雨に降られる移動になった。でも、幸いにも、今回はひょうは降らず、車のトラブルや事故にも遭わず、だいたい予定通りの時間で無事に600キロを走り抜いた。パラカンビには午後5時前に到着。パラカンビは予想通り蒸し暑かった。エライニとエリカが家の前のベランダで私たちの到着を待ってくれていた。エリカ は私たちがパラカンビに来るときはいつも、必要なものはないかと前もって連絡をくれ、買い物をしておいてくれるので、本当に助かる。感謝。

2010年10月31日(日)

日本から戻り、緊張が解けたのか、2日目の朝からエドソンが少し風邪をひき、私も昨日辺りからちょっと喉の具合がおかしかったのだけれど、薬を飲んで早く寝たせいか、 ふたりとも本格的な風邪の症状が出る前に収まったようだ。朝食の後、エドソンはファームの中を見て回り、たくさん花が咲いているからと、カメラを取りに戻ってきた。 以下は、エドソンが撮ったファームに咲いているいろいろな種類のダリア。

この後、パラカンビの町のお母さんのところに行き、今晩一緒に食べる夕飯の相談をし、食材などを買いに出かける。普通、日曜日はスーパーなど店はすべて閉まっているのだけれど、前回の投票日の際もお昼過ぎまで開いていた。今回も、スーパーと薬局とランショネッチとバーだけは開いていた。そして、前回の選挙投票日ほどではないけれど、通りはたくさんの人で溢れていた。一旦、食料品を買って戻り、再度出かけて、家のすぐ側の投票所で、エドソンは投票を済ませ る。お昼は近所のランショネッチでコシニャなどを買って戻り、お母さんの家で軽く食事をする。

お母さんは前回私たちがパラカンビに来て以来、タバコを吸っていないと言っていた。長年エドソンやエリカがタバコは体に良くないから止めてといくら言っても聞く耳持たず、エリカがニコチンパッドを買ってきて勧めても、使おうとしなかったのに、どういう風の吹き回しだろう?「どうやって止めたの?」と聞くと、胸のところに貼ったニコチンパッドを見せてくれた。タバコを止めたら食事がおいしくなったと言っていた。次の写真はお母さんが使っているニコチンパッド。右側の14mgの方が効くと言っていた。頑張って続けてね。お母さん。

次の写真は、お母さんが作ってくれた晩ご飯。時計回りに上からご飯、里芋の煮物、フェイジョン、コウヴィの炒め物、そして、真ん中に鶏肉の料理。ごくごく定 番のブラジル料理の数々だ。投票所の手伝いで出かけていたエリカとデニウソンも加わって、5人で賑やかに夕食のテーブルを囲む。



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