Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2010年9月1日(水) | ||||
この月曜日に、砂を運んできたトラックが不注意にも、家の建設現場近くに低く積み上げてあった赤レンガの端に乗り上げて、踏み潰してしまうというアクシデン トがあったようだ。数十個のレンガが粉々になっていた。その上、エディが計算間違いをしたらしく、レンガの数が全然足りないことが分かり、今朝、エドソンと一緒にまたイタチンガの店までレンガを調達に行く。 そして今日は、土地の境界線確定のための測量の人たちが来て、うちとウィリアムの土地の境界の所々にコンクリートの杭を打ち込む作業をしてくれた。ブラジル では土地の登記に1年くらいかかると聞いていたけれど、1年以上経た現在もまだ登記が完了していない。土地の境界線の確定は、登記手続きに必要なことなので、その作業が行われたということは、前進ではあるのだけれど、登記が完了するのは一体いつになることやら。
さらに先日、ウィリアムのところの井戸水を汲み上げるポンプの修理をした後、工事の人がパイプの栓を開け忘れたのか、丘の上の水槽に水が汲み上げられていなかったようで、昼前に水が出なくなるトラブルが発生。それで、エドソンは午前中半日だけ仕事を休むつもりが、結局1日休んで、これらに対応してくれた。 | ||||
2010年9月2日(木) | ||||
冬の間、葉がすべて落ちてしまい枯れ木のようになっていた入り口ゲートの横にある木々は、数日前から葉が芽吹きだし、あっという間に葉が生い茂ってきた。次 の写真はそのうちの1本。この木の後ろに見えるご近所の木はまだ葉が生え出していない、枯れ木のように見えるものがある。
同じく、泉がわき、小さな小川が流れる、下の森に下りて行く途中にある、これも枯れ木のような木なのだけれど、やはりここ数日の間に、枝の何本かに緑の葉が茂り始めた。今年の冬の寒さと小雨のため、すっかり枯れてしまったのかと思いきや、どっこい元気に生き延びているその生命力にエドソンとふたり感心しき り。
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2010年9月3日(金) | ||||
今日、エドソンは隣町のコンシャス(Conchas)にあるシステムのメンテナンス作業をしなくてはならないからと言って、午前3時半に起きて、4時に迎えに来たパウロと一緒に出かけて行った。毎朝7時過ぎにガレージの扉の鍵を開けると、モビたちはその音に反応してすぐ起きて来るのだけれど、4時前では、さすがにまだぐっすり寝ているようで、私たちがごそごそ出たり入ったりする音にもまったく反応がなく静かだった。 エドソンがお昼過ぎに戻ったので、セージオのところに電話をして彼が家に居ることを確かめて、彼に写真を撮ってもらうことにする。10月中旬に、急遽日本に一時帰国しなければならなくなったので、エドソンのビザ申請のための写真が必要になったのだ。セージオは自宅のガレージで証明写真などを撮ったり、週末、お向かいのマックス・フェファー文化センターで催しがある時は、来場者向けにパステウやてんぷらや焼きそばを作って販売している。彼らも生活をして行くのに必死なのだ。 セージオのところで写真を撮ってもらった後、ボトゥカトゥに行き、銀行で残高証明を取り、買い物をして戻る。 | ||||
2010年9月4日(土) | ||||
昨日、材木店で入り口ゲートに塗るためのペンキを買ったので、朝食の後で、エドソンは早速入り口ゲートのペンキ塗りに出かけて行った。でも、風が強く、ペンキが風で飛ばされるためうまく塗れないらしく、仕事を中断し、私の水やり作業を手伝ってくれた。 午後からカステロブランコのホドサーブ・ソヒーソに行き、月曜日の朝サンパウロに行くためのバスチケットを購入する。朝6時発くらいのバスがあればちょうどよかったのだれど、9時以前のバスは4時50分発しかなく、仕方なく、その時間のバスチケットを確保する。その後、パーディーニョの町に行き、プロパンガスの配達を頼んでから帰宅する。清涼飲料水やアルコールを扱っている店でプロパンガスも扱っていて、配達をしてくれるのでとても助かる。帰宅後しばらくすると、その店の配達の人がバイクでプロパンガスを配達しに来てくれた。プロパンガスの配達を頼む際、ビールやワインも一緒に頼めば、こちらは頻繁に買いに行かなくてもいいし、店側も一度の配達でまとまった量の販売ができるので好都合なのではないかと思った。 | ||||
2010年9月5日(日) | ||||
この週末は、マウリシオたちが休暇旅行中でいないため、ジウダが娘のブルーナと孫のフィリピを連れてここに来ている。それで昨日の夜、フィオナは夕食を食べにここに戻っただけで、ずっとウィリアムの家の方に入り浸っているのだけれど、モビは昼間は向こうに遊びに行っても、しばらくするとちゃんとこちらに戻ってくる。こちらが自分の家だと思っているようだ。今朝、食事の後で部屋の掃除をしていると、ジウダたちが遠くからモビを呼んでいるので、ドアを開けてモビを外に出してやる。その後、ジウダたちがここに建設中の家を見にきたので、少しおしゃべりする。 今日は、お昼前頃まで霧が出ていたので、入り口ゲートのペンキ塗りは午後霧が晴れてからにするとエドソンは言っていたけれど、午後は霧は晴れたものの、風が強すぎて、結局、風が少し弱まった日没前後の時間に作業をしたため、ペンキ塗りが完了したら、辺りはかなり暗くなっていた。でも一応これで雨が降っても大丈夫な状態になった。 | ||||
2010年9月6日(月) | ||||
今朝は3時半に起き、4時に家を出て、カステロブランコのホドサーブ・ソヒーソに行き、予定通り4時50分発のバスに乗ってサンパウロに向かう。総領事館の業務時間が非常に短く、ビザ申請受付は、月水金の午前9時から11時までのみで、その時間に間に合うように行こうと思ったらこういう時間のバスに乗るしかないのだ。ここよりも遠いところに住んでいる人は、泊まりがけの大仕事になる。そして、ビザの交付は、同じく月水金の午後3時から4時まで。そのため、次回は、朝は10時頃のバスに乗って行けるけれど、帰りは4時のバスにはおそらく間に合わないので、5時か6時頃のバスがあればいいのだけれどと思う。 今朝、バスに乗る前にソヒーソで朝食用にドーナツとコーヒーを買って、バスの中で食べたのだけれど、コーヒーかドーナツが古かったのか、時間が早すぎて私たちのお腹がまだ起きていなかったからなのか、エドソンも私もこれらを食べた後で、何となくお腹の調子が悪くなり、帰宅するまで続いた。私たちが乗ったバスはサンパウロ直行ではなく、途中、ここからあまり遠くないボフェチ(Bofete)とサンパウロに入るすぐ手前のオザスコ(Osasco)に停車したため、サンパウロまで3時間かかり、到着したら8時少し前だった。次の写真は、バハフンダ駅に到着する際に見える、駅近くの高層ビル。バハフンダ駅周辺は再開発が進んでいるようで、とてもきれいな高層ビル群があるかと思うと、開発から取り残されたような場所もちらほら見られる。
バハ・フンダのホドビアーリアで、いつものように帰りのバスのチケットを買い、地下鉄を乗り継いでまず日本総領事館に向かう。日本総領事館が入っているアベニダ・パウリスタ通りのトップ・センターというビルの1階にスターバックコーヒーの店があったので、業務の始まる9時までオレンジジュースなどを飲んで時間を潰す。時間になり、受付を済ませ、総領事館の査証班でビザの申請を完了する。数次のビザが欲しかったのだけれど、短期滞在のビザは1回限りしか出さないのだそうで、数次が欲しければ配偶者ビザを申請するしかないのだそうだ。次回は配偶者ビザを取らなければと思う。 その後、リベルダージに行き、旅行代理店で頼んでおいたジャパンレイルパスを受け取り、リベルダージに行ったついでに、スーパー丸海で日本食材を少し買う。 丸海の中もリベルダージの通りも今日はすごい人であふれていた。明日がお休みなので、今日もついでに休みにして、4連休にした人が多いのだろうと思う。ふたりともお腹の調子が良くなかったので、近くのレストランを併設したパン屋さんのような店で、チキンスープを食べる。お昼を食べてからバハ・フンダに戻ると12 時半だったので、買っておいた4時発のバスのチケットをキャンセルして、2時発のバスに変更してもらい、夕方5時には我が家にたどり着くことができた。朝が早かったので、夕食後は急に眠くなり、7時過ぎにはベッドに潜り込んだ。 | ||||
2010年9月7日(火) | ||||
今日はブラジルの独立記念日なので、祝日。
昨日は7時すぎに寝たのに、今朝目が覚めたら7時を回っていた。ほぼ12時間寝たことになる。それでも、午後、本を読んでいるといつの間にかうたた寝をしていて、今日は何だか眠い1日になってしまった。サンパウロに往復しただけなのに、まるで海外旅行をして時差ボケになったような感じだった。 夕飯は、ルシアとセージオがチーズと牛肉の2種類のパステウを持ってきてくれ、私は野菜サラダときゅうりの酢の物と、ガーリックライスを作り、ここで一緒に 食事をする。セージオがブラジル帰国後、年金の脱退一時金を請求したところ、年金の受給資格があるから一時金は支払えない、年金を受け取る手続きをするようにという文書をもらったという。それで変だとは思いつつ、請求したのだけれど、それから1年も経つのに何の連絡もないのはどうしてだろう?と、先日相談されたので、今日、あらためてじっくり話を聞くことにした。 これまでにやり取りされた文書を確認しながら順序立て話しを聞くと、どうも何故だか年金事務所の方が、書いてあることを詳細に見ることをせず、彼には年金の受給資格などないのに、間違った判断をしているようだということがわかった。今度の木曜日の夜、セージオのところに行って、東京の年金事務所に電話で問い合わせてあげることにする。でも、お役所内でちゃんと分かる人のところに電話が回って行くまでには時間がかかるだろうし、それから説明をして問題点を理解してもらうまでには相当時間がかかるだろうから、電話代がかさむだろうなと心配になる。 | ||||
2010年9月8日(水) | ||||
この土曜日辺りから気温が下がり、昨日は約2ヶ月ぶりくらいに雨が降った。今日も午前中は霧が出て、どんより曇り空で、ちょっと薄ら寒い。お昼前には強い風で霧が晴れ、午後からは少し日差しが出てきたけれど、家の中は相変わらずひんやりしている。 この月曜日にサンパウロに行った際、サンパウロ市内のお天気は曇りがちで少し時雨れていて、気温が低かったため、街行く人たちはセーターやジャケットを着ている人がほとんどだった。中には半袖Tシャツ1枚という人も見かけたけれど、逆に、オーバーを着ている人もいて(さすがにこれはちょっとオーバーだと思ったけれど)、さまざまだった。日本総領事館の入っているトップセンタービルには日系企業もたくさん入っているようで、日系の顔をした人たちを大勢見かけ た。このビルがあるアベニダ・パウリスタ(パウリスタ通り)はサンパウロの中心の、一番のオフィス街なので、東京の丸の内かどこかのオフィス街を歩いているような錯覚を覚えた。 | ||||
2010年9月9日(木) | ||||
明日、ビザの交付を受けるために、またサンパウロの日本総領事館に行かなくてはならないので、今朝、エドソンが仕事に行く前に、一緒にホドサーブ・ソヒーソまでバスの切符を買いに行く。9時50分発の切符を確保する。 ホドサーブに行く途中、エディに頼まれたからと、エドソンが心理学者の倫理に関するケーススタディーを音読し、私の意見を聞いて来た。エディはちょっと変わった人で、ペドレイロの仕事はそれだけで充分大変なのに、今年からボトゥカトゥの隣町のサン・マノエウ(Sao Manoel)にある大学の夜間で心理学の勉強を始めたらしい。建築ないし、技術関係の講座を取りたかったようなのだけれど、そういった講座がなかったらしく、それで心理学にしたらしい。でも何だかちょっと随分な飛躍のように思えるけれど、とにかく心理学を勉強している。それで、アメリカ時代私が修士課程で心理学をかじっていたことをエドソンから聞いたようで、エドソンを通して私の意見を求めて来たようだ。エドソンがお昼に戻って来て、私の意見をポルトガル語で文書にまとめたものをエディに渡していた。 夜は、7時過ぎにセージオとルシアの家に行き、セージオの作った夕飯をご馳走になり、9時になってから、東京の年金事務所に電話をかける。海外からの問合せ番号という番号に電話をすると、何のことはない普通のコールセンターにつながっようだった。でも、対応した若い女性はとても親切、丁寧だったのは、とてもありがたかった。セージオのケースを調べて折り返し電話をくれるということだったけれど、時差が12時間あって、こちらは夜なので、あまり長く待てないことを伝えると、30分もしない内に電話をくれた。どうも時間がかかりそうだから、状況がわかり次第、電話をくれるという。でも、私がセージオの家にいない時に電話をもらっても言葉が通じないので、来週こちらからまた電話をすることにした。コールセンターには200人もの人が働いているのだそうで、彼女の名前を言って要件を伝えれば、彼女の方からかけ直してくれることになった。それで、来週の月曜日の夜、またセージオのところから電話をかける約束をする。 ブラジルに来て以来、ポルトガル語がわからない私は、エドソンという保護者がいないと何もひとりではできない子どものような存在なのだけれど、こうやって少しは誰かの役に立てることがあるとうれしく思う。 | ||||
2010年9月10日(金) | ||||
今朝、家を9時に出て、ホドサーブ・ソヒーソに向かう。9時50分発のバスは20分ほど遅れて、10時10分頃出発。サンパウロに到着後、帰りのバスのチケットを確保して時計を見ると、1時近くになっていた。日本総領事館は3時にならないと受け付けてくれないので、その前にヴィラ・マリアナのアナテルのオフィスに行く。ここはアメリカのFCC(連邦通信委員会=ラジオやテレビ放送、電信・電話などの統制に当たる米連邦政府の独立機関)と同様の組織で、通信にかかわるすべてを管理している。サンパウロ州に引っ越して来たので、エドソンのアマチュア無線のサンパウロ州でのコールサインを取得する手続をしに行った。2時過ぎに無事手続を完了。その足でブリガデイロに戻り、日本総領事館の入っているビルの2階にあるフードコートで遅いお昼を食べる。 3時少し過ぎに1階の受付で登録を済ませ、上の総領事館査証班に行く。月曜日に申請に来た際は私たちの他には数人しかいなかったけれど、今日はすでに10人くらいの人が順番を待っていた。業務時間が3時から4時までの1時間しかないので、人が集中するのだろう。20~30分程待って、無事ビザを交付された。やれやれ一安心。帰りはブリガデイロからすぐに地下鉄に乗らず、アベニダ・パウリスタをパライーゾまで一駅そぞろ歩くことにする。ヴィラ・マリアナの周辺も高級マ ンションや高級オフィスビルが林立していたけれど、みな頑丈な鉄格子に囲まれていたので、治安は決して良くないということが見て取れたけれど、アベニダ・ パウリスタ沿いのビルは日本のオフィス街と変わらず、鉄格子などでは囲まれておらず、そこここにポリスボックスのようなものもあり、リオデジャネイロの町を歩く時のような緊張感は感じなかった。 バハ・フンダに4時半に戻ることができたので、7時発のバスチケットを違う会社の6時発のチケットに変更し、9時過ぎには家に帰り着くことができた。 | ||||
2010年9月11日(土) | ||||
2週間ほど前に、エドソンが植えてくれたシュシュ(発音は後ろのシュにアクセント)が元気に育っている。芽がぐんぐん伸び、添え木した竹の棒に上手に掴まって体を支えている。
次の写真は、今日現在の我が家の状態。四方の壁と内部の壁が半分くらいの高さまで積み上がり、柱の何本かに木枠が組まれ、鉄筋とコンクリートが入った。完成まで、先はまだまだ長いけれど、着実に前進はしている。
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2010年9月12日(日) | ||||
ニッケイ新聞の8月28日付けのブラジル国内ニュースに、「聖市で異常乾燥続く=過去10年でも初めて=体調の管理に注意を」という以下のニュースが載っていた。去年の10月頃から今年の2月頃までは異常なほどの多雨だったけれど、今度は一転、小雨による異常乾燥で、まったく困ったものだと思う。日本もこの夏は異常な暑さで、9月になっても暑さが収まらないようだけれど、どこもかしこも異常気象に見舞われているということか。 『サンパウロ市では湿度が30%を下回る日が8日間にわたり、過去10年でも最も乾燥度が強い年となっている。異常乾燥蔓延により各地で火事が頻発しているほか、大気の汚染も一段と悪化。来月7日まで雨が降る見込みはないなど、今後も続くとされる乾燥状態に懸念が広がり、体調管理の必要が呼びかけられている。26、27日付伯字紙が報じた。 冬の寒さが遠のいたサンパウロ市だが、一方で、8月に入ってから急激に湿度の低下が深刻化。極度の乾燥状態では人体にも害が出ることが心配され、30%以下で注意勧告、20%以下で警告、12%以下で危険信号。国立気象観測所によれば26日まで8日間連日で注意勧告又は警告が出されており、聖市北部では25日に今年最低の13%、26日には14%が観測されている。 警告が出たのは、2000〜09年には計7回。09年に記録された10%が過去10年での最低湿度となるが、今年のように長期間にわたって乾燥状態が続くのはまれだという。今月に入ってから計測された降水量はたったの0・6ミリ。降水量を比較すれば、1945年から2番目に低い数値となっている。 聖州のプレジデンテ・プルデンテ市では26日の湿度が8%まで下がり、24時間受付の医療センターを訪れる患者数は通常の2倍近い。こういった状況では体調管理への注意も必要で、1日2リットルの水分摂取、日中は直射日光を避けること、体内水分量を失わないよう長時間のシャワーを避けることなどの具体的指導が行われている。市場では加湿器の価格が上昇し、小売店では品切れ状態となっているようだ。 また、湿度低下に伴い懸念されるのは大気汚染の悪化。環境浄化技術公社が先週末から今週にかけてモオカ、イビラプエラ、サンパウロ総合大学周辺で勧告を出したように、乾燥状態で浮遊する大気汚染物質が咳や疲労を誘発するほか、目、鼻、喉に痛みをもたらす可能性がある。排気ガス減少に向けて、自動車の利用を減らすよう呼びかけも行われている。 リオ市では19日に今年最低気温の9・2度、25、26両日に今年最高気温の36度を計測。6日間のうちに気温が極度に変化するなど、こちらでも異常気象がみられるようだ。』 | ||||
2010年9月13日(月) | ||||
今日はエドソンのお誕生日。お誕生日は仕事を休もうかなと以前話していたけれど、この金曜日にサンパウロに行くために休んだばかりなので、ちょっと風邪気味ながら、今日はいつも通り仕事に出て行った。以前、私の誕生日にバースデーケーキを作ってもらった人に、今回もバースデーケーキを頼もうと話していたのに、先週はバタバタと気忙しかったので、エドソンも私もすっかり忘れていて、今朝、パラカンビのお母さんからバースデーコールがあって、「しまった!」と思い出す始末。我が家の大黒柱の誕生日を忘れるなんて、反省。反省。 お誕生日にケーキがないというのはどうにもまずいので、冷蔵庫や戸棚を調べて、ブラックとスイートの板チョコがそれぞれ1枚ずつと無塩バターがあったので、チョコレートケーキを作ることにする。レシピーではラム酒を入れることになっているけれど、そんなものはここではまだ揃えていないので、ラム酒はなし。次の写真は、1時間後に焼き上がったチョコレートケーキ。
夕方帰ってきたエドソンは、金曜日にサンパウロから戻ったあたりから症状が出始めていた風邪の状態が悪化しており、グロッキー状態で、お誕生日の食事を楽しむどころではなかっ た。でも、今晩はセージオのところに行って、また東京の年金事務所に電話してあげる約束になっているので、夕食の前後横になってひたすら休んで過ごしていた。8時半にモビたちを犬小屋に入れてから、セージオのところに行く。 年金事務所のコールセンターに電話をして、担当の女性の名字を言って折り返し電話をもらう手はずだったのだけれど、同姓の人が数人いるとかで、なかなか話が通じず、セージオの年金基礎番号を伝えたところ、コンピュータ上に先週対応してくれた女性のフルネームが記録されていて、ようやくかけ直してもらえることになる。 担当の女性の説明によると、セージオは永住許可を取っているので、年金受給資格があるのだそうで、年金事務所の誤判断などではなく、ややこしい年金受給のルールをこちらが知らないだけだということが分かった。今回の問い合わせと相前後して、つい数日前に送られて来ていた年金給付裁定請求書に添付しなければならないものを細々確認して、何とか一応の解決を見た。この間、2度ほどこちらの質問に関する答えを確認するために、電話を一旦切ってかけ直してもらったため、最終確認ができたときはすでに10時半近くになっていた。でも、わずかでも年金が受給できそうなことにセージオもルシアも少し安堵の表情を見せていた。次なるハードルは、年金給付裁定請求書と説明書が100%日本語で書かれているので、私が記入の仕方を読んで、理解し、記入を手伝ってあげることになった。 | ||||
2010年9月14日(火) | ||||
今朝は7時から12時まで、電力会社がメンテナンス作業をするということで、予定通り7時ピッタリに停電になる。エドソンは昨日よりも少し回復の兆しが見えるものの、相変わらず調子が悪いので、パーディーニョの町全体が停電になり、午前中仕事が休みになったのは幸いだった。でも、停電だと、私は洗濯ができないし、コンピュータももちろん使えないので、水やりなどの戸外での作業が済んだら、読書をしたり、エドソンの要望に応えて、夕飯用に具沢山のチキンスープを作ったりして過ごす。停電の回復も予定通りピッタリ12時だったので、ブラジルでもこんなことがあるんだと、エドソンとふたり感心してしまった。 午後から、エドソンは仕事に出て行った。2時頃、エドソンのオフィスのハファエルとホドリゴがウィリアムの敷地内にあるタワーで作業をするのに、マウリシオと連絡が取れなかったのか、エドソンからうちの入り口ゲートの鍵を借りて、作業にやって来た。次の写真は、タワーの上で作業をしているハファエルと、タワーの下で作業しているホドリ ゴ。
3時半頃、作業を終えて車に戻ってきたふたりをパチリ。右がハファエル。左がホドリゴ。
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2010年9月15日(水) | ||||
10日間ほど休暇で、パラナ州のホランジアの家族のところに行っていたマウリシオたちが日曜日の午後戻って来た。昨日の夕方仕事を終えて、ホランジアのお土産のピンガ(サトウキビで作ったお酒)やホランジア産の地鶏の玉子、そして、月曜日から最後の収穫に精を出しているアテモイアをいくつか持って来てくれた。 アテモイアの収穫にアルバイトの男の子を雇う許可が出なかったらしく、ドナ・クレウザが一緒に果樹園に下りて作業を手伝わなければならず、てんてこ舞いしているということだった。こちらからはお返しに、月曜日のエドソンの誕生日に焼いて、まだほとんど手つかずのチョコレートケーキの半分を、ラップに包んで 持って帰ってもらった。ピンガは普通ガラス瓶に入って販売されているけれど、これはまるで清涼飲料水のようにペットボトルに入っているので、知らな いと清涼飲料水のグアラナと勘違いしそうな感じだ。
昨日は降水確率80%という予報だったにもかかわらず、1日いいお天気だったけれど、今日、夜明け前に雨が少し降った。たいした雨ではなかったので、乾燥しきった大地を十分潤すほどではなかったけれど、少なくとも今日の私の水やり作業はしなくてもよくなった。感謝。 | ||||
2010年9月16日(木) | ||||
このところモビたちは外に遊びに出ると、どこで見つけて来たのか知らないけれど、何かの骨を代わるがわるしゃぶっていることがよくある。今日も夕方エドソンが帰宅した際、私と一緒に外にいたのだけれど、モビがその骨をくわえている姿が、まるで葉巻をくわえた中年のおじさんのようでとてもおかしいので、写真に撮る。
今日付けで、私の24本目のリポート『ブラジル大統領選迫る』が、中国新聞の海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。 | ||||
2010年9月17日(金) | ||||
ニッケイ新聞2010年9月3日付けのコラム「樹海」に、大統領選挙の行方に関する次のような記事が掲載されていたので、ここに転載してみる。 『投票日まであと一カ月に迫り、大勢が固まりつつある。大統領選ではジウマ候補が、聖州知事選ではアウキミン候補が過半数を制しそうな勢いだ。とくに政見放送が始まってからの急転具合は、当地のテレビの影響力の大きさを伺わせる〃テレビ民主主義〃的な傾向といえる ▼各候補の政策を知るには、政見放送より各局の単独インタビューの方が適当だが、コラム子程度のポ語力ではジウマ候補の主張は半分も分からない。セーラ候補の方が平易な表現をし、政策提言も多彩で経験を伺わせる落ち着いた語り口だ。これだけ見たら後者に票が集まりそうだが、そうなっていないのは実際の対決がルーラ対セーラになっているからだろう▼秀逸なものを感じるのはマリナ候補の存在感だ。ルーラ人気をジウマに乗り移らせることに見事成功し、セーラが大きく得票可能性を落としているのに、彼女は独歩をゆき、アマゾンの大自然を光背に持つカリスマ感すら漂わせる▼先日、コリンチアンス蹴球団が4年後のW杯の聖市開幕試合会場に名乗りをあげたのも象徴的だった。ルーラ大統領が熱狂的なファンなのは有名だが、同チームが設立当初から大衆を基盤としており、ルー ラの支持者とぴったり重なる▼最初の候補会場だったSPFCのモルンビーは富裕地区だったが今回はゾナ・レステ(東部)。ここ数年間で下流から中流階級に浮上した住民が多く住む地区であり、伯国経済の中で下中流層が膨らんできて、相対的に上流層よりも影響を持つようになってきていることを象徴している。知的な雰囲気のセーラより、時代の勢いは大衆出身のルーラなのだろうか。(深)』
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2010年9月18日(土) | ||||
このところ土曜日は毎週ボトゥカトゥに買い物に出かけていたのだけれど、珍しく今日は建築資材の店やパオン・ジ・アスーカーに行く必要がなかったので、午前中は平日のような感じで家事に勤しんだ。午後からはセージオの家に行かなければならないのだけれど、モビたちをウィリアムのところに連れて行っても、どうしてもモビだけすぐ戻って来てしまうので、仕方なく彼も連れて行くことにする。モビはどうも車が好きなようで、車の中ではとてもおとなしくしている。で も、外出することには慣れていないので、目的地に着いて車から下ろすと不安らしく、しばらく体のブルブルが止まらなかった。 セージオのところで、年金給付裁定請求書を記入するために必要な諸々のことを確認し、添付書類で彼が用意しなければならないものを伝える。年金事務所に電話をして聞かなければならない確認事項は、月曜の夜、うちから電話をして確認してあげる約束をする。 その後、セージオの家のお向かいにあるマックス・フェファー文化センターに行き、イビウーナの中村さんから預かっていた寄贈本をようやく届けることができ、 ほっとする。帰宅してドナ・ベティに中村さんから寄贈された本をマックス・フェファー文化センターに届けた旨のメールを送ると、珍しく、すぐに返事があり、今晩遅くにパーディーニョに行くから、明日都合が良ければ会いましょうということになる。 | ||||
2010年9月19日(日) | ||||
最近、毎日強い風が吹いていて、気温が上下に激しく変化する。今朝も朝早い時間は日差しがあっても風が強く寒かったのだけれど、昼近くなってからとても暑くなり、 外での作業は汗ばむほどだった。でも、午後4時頃になると、日差しはあるものの気温がすーっと下がり始め、しっかり着込んでいても風があるため外は寒いくらいになった。 ドナ・ベティはパーディーニョに来ていてもとても忙しいらしく、3時頃うちに来ると言っていたけれど、仕事が立て込んでいたからと、4時をだいぶ回ってやって来た。7月上旬にウィリアムのところを出て我が家の下のガレージでの生活を始めたと説明したのに、何故かウィリアムの敷地の入り口ゲートに行ったらしい。鍵がかかっていたから敷地の中に入れず家に戻って来たと連絡があったので、私たちの敷地の入り口はウィリアムの入り口ゲートの並びの少し先にある新しいゲートだと説明して、ゲートまで行って彼女の到着を冷たい風の中でしばらく待った。そのため、どうも私は風邪気味の状態から本格的な風邪になってしまったようだ。ドナ・ベ ティが1時間くらいおしゃべりをして帰って行った辺りから、くしゃみを連発し、かんでもかんでも鼻が出てきて調子が悪くなってきた。次の写真はドナ・ベティが持ってきてくれた造花のような木の枝。花の部分がまるで紙でできているように見えるのだけれど、れっきとした生花で、不思議な花だ。名前は聞き忘れた。
せっかく中村さんがパーディーニョに来られたのに、その頃ちょうど海外に行っていて、お会いできなかったのは残念だったということをわざわざ言いに、ドナ・ベティがうちまで来てくれたことはとてもありがたいことだったけれど、風邪をひいてしまったことはなんだか余分だったなあと思う。まあしょうがない。今晩は風邪薬を飲んで、掛布団をしっかりかけて暖かくして寝ようと思う。 | ||||
2010年9月20日(月) | ||||
ニッケイ新聞2010年9月7日付けの独立記念日の特集に、「ブラジル歴史物語=幻の〃黒人共和国〃=逃亡奴隷が自由謳歌したパルマーレス=アフリカ文化守り抜く」と題する、ブラジルの歴史の一面が紹介されていた。ブラジルの一通りではない文化や人種の多様性を垣間見ることができる歴史の一面だ。興味のある方は、こちらへ。 | ||||
2010年9月21日(火) | ||||
8月26日付けのThe Economist(ジ・エコノミストというイギリスの新聞)のインターネット版に、「The miracle of the cerrado(セハードの奇跡)」と題するブラジル農業に関するとても興味深い記事が載っていた。 セハード(cerrado)というのは、ブラジル版サバンナのことで、ブラジル中央部のこの広大な土地は、熱帯性の気候で酸性度が高く、かつては穀物など育たない不毛地帯と考えられていた。しかし、この30年の間に、ブラジルはこのセハードを開発することで、食料輸入国を世界有数の穀倉地帯へと様変わりさせたという内容のことが書かれている。 まず、次の表の青い棒グラフはブラジルで穀物が栽培されている土地の広さを示したもので、茶色の折れ線グラフは穀物の生産量を示している。耕作されている土地の広さはほとんど変わっていないけれど、生産量は右肩上がりに増えていることがわかる。
![]() 世界の食料生産のbig fiveと言えば、アメリカ、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、EUだったのだが、ブラジルがこのbig fiveに追いつき、追い越したということを、次の表は示している。上から順に、オレンジジュースは生産量、輸出量ともに世界1位。砂糖も同じく両方とも世界1位。大豆は生産量、輸出量ともに1位はアメリカで、ブラジルはどちらも2位だけれど、世界の大豆の3分の1の量を輸出している。1994年の時点 で、ブラジルの大豆輸出量はアメリカの7分の1だったのが、現在では7分の6の量にまで追いついている。さらにすごいのは、ブラジルは耕作可能な土地のまだ 6%しか利用していないのに、すでに世界の大豆市場の4分の1の量を供給していることだ。鶏肉の生産量は世界3位で、輸出量は世界1位。コーヒーは生産量、輸出量ともに世界1位。牛肉は生産量は2位だけれど、輸出量はオーストラリアを抜いて1位と続いている。
![]() 今後、世界の人口が70億とか90億とかに増加する可能性が指摘される中、食料供給量を増やす手段は、生産性の向上と耕作地の拡大しかないのだが、ほとんどの国ではこれ以上耕作地を増やすゆとりがあまりないところが多い。次の表の右下の棒グラフは、各国の耕作可能な土地の面積と、現在耕作に利用されている土地の面積を示しているが、アメリカ、ロシア、インド、中国などは耕作可能な土地のほぼ半分をすでに耕作している一方、ブラジルはまだほんの少ししか利用していないことを示している。そして、耕作可能な土地の面積もブラジルは他の国々よりも広い。左側のブラジルの地図の薄ピンク色の部分がセハードと呼ばれる地域で、ここパーディーニョも分類としてはセハードの南端の一部に入っているようだ。ブラジルの従来の穀倉地帯は、セハードの東や南のサンパウロやパラナといった各州だったのが、現在はそれらの州に加えセハード地域内の複数の州が穀倉地帯に変貌し、セハードの北東の緑の点々部分のセルタオン(Sertao)と呼ばれる乾燥地帯も、現在大きな灌漑プロジェクトが実施されていて、それらが完成すると、さらに大きな農業地帯がこの地域に出現することになっている。
![]() ここまでブラジルの農業を激変させたのは、軍事政権時代の1973年に設立されたエンブラパ(Embrapa=Empresa Brasileira de Pesquisa Agropecuaria)という政府の外郭機関の農業研究所だが、政府の助成金をほとんど受けることなく、土地の改良や穀物の品種改良をやってのけたのだという。ブラジル農業の強みは、耕作可能な土地がまだふんだんにあること、そして、豊富な水があること。この記事は、ブラジルの農業を激変させたセハー ド開発を、アフリカのサバンナ開発にも応用することができれば、予想される世界の食糧危機を何とか乗り越えられるかもしれないが、果たして応用できるか? というような内容だった。ノウハウがあっても、それを実行に移すのは地元の農業従事者なので、アフリカにそれが出きる農業従事者がいるかどうか、または、 そういう人たちを育てることが出きるかどうかにかかっているのかもしれない。 もっと詳しく内容を知りたい、あるいは、原文を読みたい方は、こちらへ。 | ||||
2010年9月22日(水) | ||||
この週末辺りから毎日強い風が吹きつけていて、夜は特に唸るような風の音がものすごい。その上、その風が家の建設現場の柱から出ている鉄筋を揺らすため、そ の音がうるさい。時々安眠を妨害されるほどだ。そして、今日はまた特別風が強く、砂を巻き上げて、作業にならないようで、レンガの積み上げはほとんど進ま なかった。 エディは仕事をしながらも、私がガレージを出たり入ったりして水やり作業をしているのをよく見ているようで、重いバケツをいつも1つだけさげていると、体の片側に負担がかかり、体が歪み痛くなるから、水の量を半分にしてバケツを2つにし、両手でバケツをさげるようにとか、このひどい乾期の間は木に毎日水やり をすると根の回りにカビが生えたりしてよくないから、週に2日くらいでいいとか、エドソンを通じていろいろ教えてくれる。 | ||||
2010年9月23日(木) | ||||
昨日から気温がぐんぐん上がり、とても暑い。外よりも涼しい家の中の気温ですら朝も夜も20度を優に越え、昼間の室温は26度だった。外気温は30度を越えているのだろうと思う。でも、今日は昨日までの強風が嘘のように止み、気温は高いものの日差しは雲に隠れがちなので、午前と午後に分けて、外での作業に集中することにする。まず午前中は水やりと、小さいハイビスカスの回りの草取りをし、午後からは防風林用に植えた竹の中で、枯れてしまった2本を、先日エリゼウが届けてくれた新しい2本と植えかえ、桜の苗木を小さなポットから少し大きめのものに植えかえた。 次の写真は、家のベランダから見えるようにと植えた小さなハイビスカス10本と4枚ほど敷いた芝生と小さな竹のブッシュ。この辺一帯に生えている放牧牛の餌になるブラキアーリアという草は、繁殖力がすごいだけでなく、根から何か毒素のようなものを出して、他の植物が成長しないように妨害するらしい。枯れてし まった竹もひょっとしてそれでやられてしまったのかな?と思う。
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2010年9月24日(金) | ||||
昨日は暑い1日だったけれど、今日は一転、Tシャツ1枚ではちょっと肌寒いので、トレーナーを着込む。どんよりとした曇り空で、西から大きな雨雲が近づ いて来ているので、いつ雨が降り出してもおかしくないような状態なのだけれど、なかなか降らず、午後になってようやくしとしと降ってきた。乾ききった大地には久しぶりのお湿りとなり、お天道様に感謝。この先1週間の長期天気予報ではずっと降水確率80%となっているけれど、確立が高くても雨が降るとは限ら ない。でも季節は暦の上では冬から春になり、もうそろそろ乾季は終わるのかもしれない。 今晩は、カステロブランコ沿いの高級住宅地のひとつ、ニーニョ・ベージ(Ninho Verge)に住むジェラウドとホザのところで、フォンデュに呼ばれているので、7時半頃出かけて行く。パンのチーズフォンデュ、鶏肉と牛肉の鉄板焼き、 締めは果物のチョコレート・フォンデュだった。チーズフォンデュの味は日本で何回か作り、食べ慣れていたものよりも、どちらかというとクリームシチューのクリームにチーズがたっぷり入っているような味だった。でも、ジェラウドもホザもとてもいい人たちなので、彼らとの食事はいつも楽しい。次の写真は、パウロの長女のイザベラとホザ。ジャナイーナの体調が悪く、今日はパウロとイザベラだけが来ていたのだけれど、ジャナイーナから電話がかかってきて、どうも具合がよくないようなので、パウロはイザベラを置いて帰宅してしまった。それで、私たちがイザベラを家まで送り届ける約束をする。
次の写真は、テーブルの上の果物と、火の上のチョコレートが入ったガラス容器。
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2010年9月25日(土) | ||||
朝食の前後、マウリシオがうちの目の前の果樹園で農薬を撒いたり、丘の上の気象観測の装置のところで何かしているので、朝食が済むとエドソンは出て行っ て、マウリシオと長い間おしゃべりしていた。だいぶ経って戻って来ると、マウリシオが畑で育てているキンカンと月桂樹の枝をもらって来てくれた。「これキンカンみたい」とエドソンに言うと、「うん、マウリシオはキンカンって言ってたよ」という。これも柿やポンカンと同じく、日系の人たちがブラジルに持って来て、そのまま日本語の名前を使って育て始めたのだろうと思う。キンカンは風邪をひいたときに飲むといいので、もう少しもらって来てもらい、キンカンの甘露煮を作ろうかと思う。
ブラキアーリアを駆逐するためにヒメシマ竹の側に植えたアメンドインが、最近元気にしている。さらに昨日の雨のお陰か、今日は黄色い花をひとつつけているのを発見。斜面に植えたアメンドインは枯れてしまったものが多いけれど、竹の側に植えたものはどれも枯れることなく元気に頑張っている。
防風林用に植えた丘の上のハイビスカスは、冬の間、ほとんど葉を落として裸になってしまい、2本も枯れてしまったのだけれど、何とか生き延びたものには、最近小さな葉が生え始め、代わるがわる花が咲き始めた。
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2010年9月26日(日) | ||||
今日は夜明け前からザーザーと雨が降り出して、雨降りの1日になった。エドソンが4時半頃起き出して、コンピュータなどのコンセントを抜いたりしているので、どうしたのだろうと思ったら、雷が鳴ったので目が覚めて、コンセントを抜き、ブレーカーを落としたようだった。私はエドソンがごそごそし始めたので目が覚めたのだけれど、雷には気づかなかった。昨日はあんなにいいお天気で、周辺に雨雲は全然なかったのに、すごい変わりようだ。金曜日に降った雨はしとしとと、たいした量は降らなかったけれど、今日の雨は結構な量が長時間にわたり降り続いた。 この雨で、洗濯はできないし、外での作業もできないので、今日は1日中家にこもり、ひたすらブログの更新をしたり、海外リポートを書いたりして過ごす。ブロ グの更新はエドソンが、私のMacコンピュータに無事Ubuntu/Linuxを入れてくれ、ブログの更新手順を簡素化するソフトを書いてくれたお陰で、10日くらい前から、以前のように一人でできるようになった。感謝。感謝。 次の写真は、昨日の夕方撮った現在の我が家の写真。ベランダの柱2本が半分ほど立ち上がり、北側の壁が窓枠の上2段くらいまで積み上がってきている。
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2010年9月27日(月) | ||||
昨日の雨は夜明け前くらいまで続き、夜が明けるくらいの時間になりようやく止んだ。サンパウロ州ほぼ全域を被う非常に大きな雨雲だったので、それが通りすぎるのに丸1日かかったようだ。今日、エディたちはいつもの時間に仕事に来たものの、レンガが濡れて、積み上げ作業ができないので、ガレージの前に積み上がっていた砂と砂利を上に移動させる作業をしただけで、10時半には帰って行ってしまった。今日も1日日差しがなく、時々時雨れるお天気だったので、仕 がないことだと思う。でもガレージの前の障害物がなくなったので、これで車の出し入れがずっと楽になった。感謝。 午前中は掃除や洗濯など普通に家事をし、午後からは、グレヴィーリャや竹の回りの草を抜いて、肥料をやる作業をする。マウリシオの話によると、肥料をやるのはカラカラに乾燥している時期よりも、昨日のように雨が降った後というタイミングが一番いいのだそうだ。家の下の三角地帯のグレヴィーリャとセドリー ニョ、家の側のハイビスカスやグレヴィーリャや竹、入り口ゲートからの道沿いに植えた孟宗竹に肥料をやる。丘の上の防風林用の竹、グレヴィーリャ、ハイビ スカスの回りの草取りと、肥料やりは、無理をせず、明日に回すことにする。 | ||||
2010年9月28日(火) | ||||
昨日は夕方からまた雨が降り出し、一晩中降り続き、朝になっても昨日と同じように、厚い雲に被われて、時々、時雨れるお天気が続いている。 先週、記入し終わった年金給付裁定請求書と、添付する文書をセージオのところに持っていって説明する予定だったのだけれど、彼の都合が悪くなったため予定を変更し、昨日、ようやく持っていって説明することができた。その前にセージオとルシア手作りのパルテウの夕食をご馳走になる。後は、セージオが私が記入した通りを、オリジナルの書類に書き写し、年金を受け取る口座のある銀行の認証をもらえば、送付することができるところまでたどり着き、ふたりともほっとしている様子だった。 | ||||
2010年9月29日(水) | ||||
今 日も朝から曇り空で、時々、時雨れるお天気が続いている。月曜日にやり残した丘の上の防風林用の竹の回りの草を鍬で除去する作業を午前中にした。13株の 竹の内、10株ほどの作業を徹底的にしたらへとへとに疲れてしまった。ブラキアーリアは結構根が深く、雨のお陰で土が多少柔らかくなっているとは言って も、なかなか思うように除去できない。この作業で着ていたジーパンもトレーナーも真っ黒にというか、ここは赤土なので、真っ赤にドロドロになってしまった ので、一旦家に戻り、それらを脱いで、シャワーを浴びた後、外の水場でジーパンとトレーナーをゴシゴシ洗い、泥を落としてから洗濯機にかける。 こ れらが済んでからお昼を食べて、午後からは海外リポートの原稿を弓場農場の矢崎さんに送る準備をする。午後3時頃になり、ようやくへとへと状態から回復し たので、また外に出て、草を除去した竹の回りに肥料をまき、グレヴィーリャの回りの伸びきった草を手で簡単に引っ張って除去しながら、肥料をやった。ここ までやってもう限界なので、ハイビスカスの回りの草取りは、また次回に回すことにする。 | ||||
2010年9月30日(木) | ||||
車の走行距離が1万5000キロに迫ってきたので、オイル交換をする必要があり、明日からパラカンビに行くので、その前にまたここから1時間ほど行ったア ヴァレのトヨタに行って、オイル交換と洗車をしてもらうことにした。前もって、エドソンがトヨタに電話をして、午前10時で予約を入れているので、9時少し前に家を出てエドソンと一緒にアヴァレに向かう。 時間通りにトヨタに到着し、手続きをして、作業をしてもらっている間、すぐ近くの建築資材や台所用品などを販売している店や、木の苗木やガーデン用家具などを販売している店をのぞいて、少し買い物をする。次の写真は、エドソンが建築資材の店で買った木製の自動車。これは私たちの生活に必要なものではないのだけれど、とても気に入ったからと買ってしまった。
12時頃オイル交換を終え、徹底的にきれいに洗車された車を受け取り帰宅の途につく。帰宅して、お昼を食べた後、エドソンは、ガーデン用家具を販売している店で買ったアメンドイン、1パック60株ほどを、ヒメシマダケの側に植えたり、台所の片隅に保存していたカラ・モエラから芽が出てきたので、それらを下の三角地帯のシュシュを植えている近くに植える作業をしてくれた。冬が終わり、季節は春から夏へと向かい、雨季になるので、これからいろいろなものを植える作業が忙しくなる。
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