Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2010年8月1日(日) | ||||
今朝、7時になっても私が寝ていたら、エドソンが起き出して、モビとフィオナを犬小屋から出して、外に出してくれた。珍しいこともあるものだ。でも、このガレージに引っ越して来てから、夜よく眠れるので、彼も朝の目覚めがいいようだ。その上、モビたちがすぐ側にいるため、朝からとてもご機嫌がいい。そして、ついに自らもモビたちの世話をするようになった。これはすごいことだと思う。予期せぬモビ効果。 朝食の後で、部屋の掃除などをしていると、エドソンがつけっぱなしにしている無線機から時々日本語が聞こえてくるので、誰が話しているのか聞くと、南極の昭和基地の人がいろいろな国の人と交信していて、時々日本の人と交信する際、英語から日本語に切り替えて話しているから、日本語が聞こえて来たということがわかった。アマチュア無線というのはそんな遠くの人たちとも交信が可能だったり、他の人がそれらの交信を聞くことができることに、妙に感心してしまった。次の写真は、寝室のテーブルの上に置いて、エドソンが使っている無線機。
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2010年8月2日(月) | ||||
またまた今日届いたイビウーナ在住の中村さんの「国内総生産etc.」と題する随筆を紹介したい。私は、「ふむ、ふむ、同感」と思いながら読んだ。
『鳩山政権末期に訪日した中国の温家宝首相が、経済大国=中国を恐れる日本に驚いて、「一人当たりGDPが4万ドルの日本が3千5百米ドルの中国を脅威に感じるとは」とても信じられないとコメントしていた。 人口が日本の10倍以上の中国が国内総生産の規模で日本を今年中に追越す、とよくマスコミが話題にするが、追抜かれることに拘っている日本は、世界の目に奇異に映るに違いない。又、中国経済の成長率の速さを羨む報道を目にするが、赤子の成長は大のおとなより速いのは当り前だ。成熟した先進国と育ち盛りの新興国では成長のスピードは違う。嘗て日本にも高度成長期があった。 ブラジルの家電製品でサムスンとLGが元気だし、自動車でもHyundaiが勢いを増している。韓国は国内マーケットが小さく、海外市場で生きるしかない。それに比べ、日本は随分おいしい国内マーケットを持っている。ハングリー精神に乏しい所以だ。国際市場で競争することを避けていては、やがてガラパゴス化して行くのが道理だ。 日本には、技術大国を鼻に掛ける風潮があるようだが、過信ではないか?現実は、航空機製造技術ではブラジルの後塵を拝しているし、バイオ・エタノール技術では、生産面でも、応用面でも、ブラジルが先を走っている。銀行・証券等の金融サービスに於けるIT技術も、うっかりしていると、日本はブラジルに学ばねばならなくなるかも知れない。伯国の納税システムや選挙投票システムは世界の先頭に立っている。 一人当たりGDPが1万米ドルのブラジルから眺めると、4万米ドルの日本は羨ましい限りだ。恐らく中国や韓国から見ても、ロシアやインドから見ても同じだろう。だから彼等は頑張る。日本の格差も他国に比べて小さいが、不幸だと感じている人は多そうだ。平均100人/日の自殺者がいる豊かな国=日本は傍目には不可解だ。キリスト教文化からすると、「殺すな」(モーセの十戒の一つ)という神の言葉がないからだろう、と受取られている。善し悪しの問題でなく、異質だと見られている。 日本の首相のローテーションは驚きの目で見られている。短期ローテーションは日本の文化だ、と説く知日派ブラジル人も出てくる始末だ。事実、日本の外交官も、進出企業の派遣社員も、短いローテーションで働いている。任期中に広いブラジルの国土をホボ隈なく歩いたと自慢げに話していた大使もいた。進出企業の駐在員の多くはレストランで注文出来るようになったら帰任命令がくる、と自嘲気味に話す。現地に任せない(本社中心)経営スタイルと駐在員の短期ローテーションは密接に結び付いているようだ。イビウナ、02/08/2010 中村 勉 』 | ||||
2010年8月3日(火) | ||||
この日曜日からお天気が崩れる予報だったけれど、日曜日はその予報に反していいお天気になり、気温がぐんぐん上がり暑いくらいだった。でも水曜日くらいまで雨が続くという予報だったので、それに備えてエドソンが、ガレージの扉の下に、買って来ておいたビニールを取り付けて、ガレージの中に水が入ってこないように準備をしてくれた。そして、夜になり強い風が吹き始めたので、いよいよ雨が降り出すのかと思ったのだけれど、翌朝の月曜日は厚い雲に覆われてはいたものの、雨雲はここの南をかすめて行き、雨を降らせることはなっかった。今日も、予報では雨なのだけれど、早朝は濃い霧に包まれていたものの、その後霧は晴れ、曇りがちながら雨の降らない1日になった。 先月、エディはモラエス家具店の仕上げ作業をするので、2週間ほどここの工事を休ませてもらうと言って、ゲートを作ったりする必要最低限のことだけをして、結局4日ほど作業に来ただけで、もう5週間以上ここの工事を中断している。先週はこの月曜日に工事を再開すると言っていたけれど、結局現れず、昨日はエドソンに今日から仕事に来るとわざわざ電話をして来たのに、やはり現れない。一体、どうなっているのだろう?ガレージでの仮住まいは、あくまでも仮住まいであって、最終目標は完成した我が家に移り住み、生活を始めることなのだから、あまりのんびり構えてもらっても困るのだけれどなあ・・・ | ||||
2010年8月4日(水) | ||||
今週末、イビウーナの中村さんご夫妻と一緒に、ここから北西に400キロほど行ったところにあるアリアンサという日系コロニアの、弓場農場に2泊3日で行く予定なので、それまでに香山さんから送っていただいた「アリアンサ通信」を読み終えなければと、毎日、家事やモビたちの世話や外の作業の合間にメモを取りながら読んでいるのだけれど、量が多くてなかなか読み終わらない。 このアリアンサ(Alianca)という日系移住地は、「子どもの教育をはじめとする生活文化を確立するには移住者自らが移住拠点をつくらねば」ならないという考えに基づき、「それまで出稼ぎ中心だったブラジルへの移住を定住移住へと大きく転換させるきっかけとなった」と言われている。そして、ブラジルで唯一民間人が作った「ブラジル社会との共生」をうたった移住地。「『自治と共同の理想』を揚げ、全県から入植者を集め」「その運営も組合方式」で「当時としては珍しい選挙によって選出された役員が運営に当たっていた」という。中流階級の人たちが多かったため、国策移民の会社が多数派の移民社会からは、「銀ブラ植民」とか、そんな植民地が長続きするわけがないなどとかなり非難されたらしい。 しかし、アリアンサに移住した人たちはブラジルの日系社会に文化をもたらし、お金持ちは排出しなかったそうだけれど、多くの文化人や専門家などを排出したことで有名。そして、国策で移民会社が作った植民地は、その後日系移民がサンパウロの都市部周辺に出て行くケースが多く、ごくごく普通のブラジルの都市になってしまい、日系人の町の面影は失われてしまったけれど、アリアンサは今も日系人の村としての面影を残している数少ない場所なのだそうだ。その中にある弓場農場は、当時理想に燃えた弓場勇を始めとする若者7人により作られた農場で、75年経った今も、人間が人間らしくあるための生活を創造する場として、人々が「祈り、耕し、芸術を愛する」共同生活を続けている。動物で言えば絶滅危惧種のような珍しい存在なのだ。ここのユバ・バレエはブラジルではとても有名で、2008年にブラジル政府から文化功労賞を授与されている。 | ||||
2010年8月5日(木) | ||||
明日、イビウーナの中村さん夫妻がパーディーニョに来られるので、弓場にお土産として持参することにしたアップルケーキとバナナブレッドを今日中に作ってしまわなければならない。朝、エドソンと一緒に出てマーケットに行き、必要な材料を買って帰る。 買い物から戻ると、ガレージの中の犬小屋に閉じ込めておいたモビたちが、何故か犬小屋から出ていて、ゴミ箱をひっくり返し、その側や犬小屋の横に置いてあった足拭き用の紙の上にオシッコをしていたので、その後片付けに時間を取られてしまった。この子たちは私たちが側にいると、とてもいい子にしていられるのだけれど、私たちがいないととても寂しいらしく、悲しそうに泣いたり、私たちを探し回る行動を取るので、ちゃんとした犬小屋を作るまではこんなことを何度も繰り返すのかもしれない。掃除をしていると、ドナ・クレウザが大きなアテモイアを6個ほど持って来てくれたので、これも弓場に持参することにする。今日は、お土産に持って行くアップルケーキとバナナブレッドを焼いたり、旅行の荷物をまとめたり、1日バタバタと忙しく過ごした。
このガレージに移ってくる前からいろいろ調べて、テストを繰り返し、検討していた固定電話がようやく使えるようになった。インターネット回線を利用したIPフォンなのだけれど、国内通話の音声が非常に悪かったり、国内通話の問題が解決すると、今度は肝心の海外通話が通じなかったりと、次から次に問題があることがわかり、エドソンがプロバイダーと何度もやり取りをして、調べてもらい、ようやく昨日の午前中連絡があり、テストしてみると、ちゃんと通じた。ここでは携帯電話の電波の受信状態が非常に悪く、かけてもかからなかったり、通話中に突然回線が切れたりして、広島の母も私もフラストレーションがたまっていたのだけれど、これでようやくこの大きな問題が解決する。感謝。感謝。 | ||||
2010年8月6日(金) | ||||
私たちの家がまだできていないので、中村さん夫妻にここに泊まっていただくことができない。それで、パーディーニョの町の入り口にある小さなホテルに泊まっていただくことにした。先日そのホテルに行って予約をする前に部屋を見せてもらい確認すると、小さいけれど清潔な部屋だったので、予約を入れた。今日の晩ご飯はうちで一緒に食べていただこうと思い、午前中エドソンを職場に送り届けた後、家に戻り掃除をしたり、晩ご飯の用意をして過ごす。 お昼少し過ぎに中村さんから到着したという連絡がエドソンに入ったので、私が車でホテルにお迎えに行く。パーディーニョ観光と言ってもそんなに見るところはないけれど、ご近所のタケイシさんの家の少し上にあるスポットからの景色はすばらしいので、まずはそこにご案内する。その後、この高原の東端に行き、ジガンチ・アドメシード(眠る巨人)という名前の山が見える場所までお連れする。パーディーニョは本当に何もないところだけれど、自然環境と景色だけはいいので、とても気に入っていただきほっとする。次に、竹でできたマックス・フェファー文化センターにご案内する。ここは私が書いた海外リポートを中村さんも読んでおられるし、ドナ・ベティの今は亡きご主人や現在スザノグループ社長の息子さんと仕事上関係があったこともあって、とても興味深く見ていただくことができた。 ここまで見終わっても、まだエドソンの仕事が終わる5時までにはだいぶあるので、休憩のためガレージの我が家にお連れする。コーヒーと3日前に作って食べかけのアップルケーキをお出しする。お昼過ぎに私が出かける際、モビたちはアテモイアの果樹園の方に遊びに行っているようだったので、これ幸いとそのままにして出かけたので、中村さん夫妻と戻るとガレージの前でモビが待っていた。私たちが帰って来たので大喜びで、中村さんたちにも飛びついて挨拶するものだから、中村さんのズボンが少し汚れてしまった。 ガレージの中の台所でコーヒーを飲むのも変な感じだろうと思うけれど、澄子さんは箱が積み上がっていたりして、雑然としたガレージを見回しながら「いつまでも新婚みたいでいいわね」なんて言っていた。物は考えようだ。5時前に夫妻をホテルに一旦お連れして、私はエドソンを迎えに行き、マーケットで夕食用に、できたてのパオンジーニョ・フランセーズ(小さなフランスパン)を買い、ホテルで夫妻をピックアップして、家に戻る。午後、お茶をしたばかりだし、夫妻は夜はあまりボリュームのある食事はしないのは知っていたので、ちょっと変な取り合わせとは思ったけれど、きゅうりとわかめの酢の物をおつまみにしてワインを飲み、レンズ豆のスープとパンで軽めの夕食を食べる。お茶の時も夕食の時もモビたちが側でずっとおとなしくしていて、私たちの言うことをよく聞くので、澄子さんはとても感心していた。 | ||||
2010年8月7日(土) | ||||
朝9時頃家を出て、ホテルに中村さん夫妻をお迎えに行き、まずマックス・フェファー文化センターに行く。昨日ここで子ども用の図書館があるのを見て、中村さんの次女が高校生の頃描いたという絵と文章を本(日、英、ポル語)にして、日系移民百周年を記念して自費出版した絵本を寄贈したいということだったので、行ったのだけれど、まだ誰も来ておらず建物も閉まっていたので断念。仕方なく、本は私がお預かりして後で届けることにする。 2台の車で出発。私の運転する車で先導する。ボトゥカトゥからマレシャル・ホンドン(Marechal Rondon)という高速に乗り、ひたすら真っすぐ走るだけ。アップダウンはあるけれど、本当に真っすぐ走るところがほとんどの道だった。サンパウロ州の内陸部は地平線まで広がる田園地帯で、大きな都市がほとんどない。そして、道路沿いにはホドサーブもなければ、ガソリンスタンドもない。それなのにペダジオ(Pedagio、料金所)だけはやたら小刻みにあって、数えてみたら9ヶ所もあって驚いた。 半分くらいの200キロあまり行った辺りで、ようやく小さなレストランを併設したガソリンスタンドがあったので、燃料を入れて、昼食休憩を取る。その後また200キロ近く走り、ミランドポリスの出口を過ぎてすぐ、アリアンサへの出口があり、弓場まで無事走りきることができた。3時過ぎに弓場農場到着。弓場農場の広報担当で、香山さんから紹介していただき連絡をとっていた矢崎さんが来られるまで、食堂の側で裸足で遊んでいたひなたちゃんというよくしゃべる4歳の女の子に少し案内してもらう。次の写真は、ひなたちゃんに連れて行ってもらい、見せてもらった農場内のマンゴーの木。小さな実がたくさんなっている。
ここの子どもたちは5歳で幼稚園に行き始めるまでは日本語だけで育つのだけれど、エドソンが簡単なことをポルトガル語で聞くと、それらしい返事が日本語で帰って来たので、聞くだけなら少しはポルトガル語もわかるようだった。
食堂に戻って少しすると、私たちが宿泊する部屋の準備ができたからと、担当の女性がゲスト用の部屋に案内してくれた。その後、バイオリンのレッスンを終えた矢崎さんが来られ、農場内を案内してくださる。 次の写真は、第一アリアンサからこの農場内に移築した北原・輪湖記念館の中にある永田稠(ながたしげし)の言葉が書かれた掛け軸。永田は日本力行会2代目会長で、輪湖俊午郎、北原地価蔵らと共にアリアンサ移住地を作った人。
次の写真は、農場内の野菜畑で育っているマンジォヵ芋と花梅の木。赤い色をした方が花梅の木。
次の写真は、農場内の野菜畑。ここの新鮮な有機野菜が食堂での食事に出される。
次の写真は、農場内の共同浴場の女風呂。男風呂の方はすでに誰かが入っているようだったけれど、女風呂の方はまだお湯も入っていなかった。
次の写真は、農場内の共同洗濯場。この外に広い物干し場があった。
次の写真は、豚の丸焼きなど大きな物を焼くときに使うというかまど。
次の写真は、農場内にある弓場劇場の舞台を見学中の中村さんとエドソン。ここで毎年行われる弓場のクリスマス公演には近隣の人たちだけでなく、遠くサンパウロからも見にくる人たちがいるという。この劇場は簡素な手作り建造物で、450人から600人収容できるのだそうだ。客席は、公演のときに砂地に椅子を並べるだけで、普段はトラックが止まっていたりする。
舞台裏をのぞくと、公演に使った衣装が並んでいた。
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2010年8月8日(日) | ||||
弓場では、月曜日から土曜日までは朝食が6時から、昼食が12時から、おやつが2時半、夕食は6時15分から。日曜日の朝食は自由で、昼食は11時半、おやつが2時半、夕食は6時半と決まっている。それぞれ食事の時間になると台所担当の人が角笛を吹いて、農場内にいる人たちに食事の時間になったことが知らされる。 みんなが食堂に集まると、食事の前に「黙祷」という声がかかり、1分ほど静かな祈りの時間がある。「なおれ」の声とともに祈りを終え、料理が並んでいるテーブルに行き、皆セルフサービスで好きな物を好きなだけ取って食べるシステムになっている。そして、主菜、副菜、漬け物、みそ汁、ご飯と、おいしい料理の数々が並ぶ。私たちのような訪問者がいつ来てもいいように料理はいつも多めに作るという。どれも手作りで、とてもおいしい。特に、漬け物の種類が多いのに感激。エドソンは納豆が既製品のものよりも優しい味で美味しいといって食べていた。 いつもは食事の前の祈りは「黙祷」なのだけど、朝食の前だけは「主の祈り」を捧げるという。この担当は80代半ばのちょっと痴呆症がきているクマさんと呼ばれるおじいさんがすることになっているのだそうだ。それを聞くために、クリスチャンの中村さん夫妻は朝早起きをして、時間通りに朝食に行ったようだった。後で、クマさんの「主の祈り」は素晴らしかったと言っていた。でも私たちはのんびり目が覚めた7時半頃から支度をして、8時頃になって、ようやくごそごそと食堂に行って、朝食をいただいた。その後、午前中は農場を歩いて見て回った後、ゲストハウスの居間でエドソンとふたりで、その後中村さん夫妻も合流し、弓場農場というのは一体何なんだろうか?と、話し合った。 若い世代の人たちがあまりおらず、いてもほとんどは日本から来て短期滞在している若者だ。私たちが行った時は、カナダ人の青年も1人いた。小さな子どもの数も少ない。学齢期前の子ども2人と小学校に行っている子ども2人、計4人しか見かけなかった。ここの住人の数は約60人。お年寄りが目立つ。住人がもっとも多いときは120人だったそうだ。これまで75年間存続してきたけれど、これからはどうだろうか?と、思わずにはいられなかった。次の写真は農場に広がるグアバ畑のグアバの木。実にはひとつひとつ袋が被せてあった。1年を通して収穫できるグアバはこの農場の主要な収入源。
昼食の後で、矢崎さんといろいろ話していて、最近買ったばかりのノートパソコンの調子がよくないと言うので、エドソンがみてあげることにする。矢崎さんはこの農場で生まれ育った人ではなく、1963年(東京オリンピックの前年)に農業移民としてブラジルに渡り、以来、弓場農場で暮らしている。ここで結婚し、子どもをもうけ、彼の息子さんはアメリカでの農業研修から戻った後、JICAの日本語教師として別の町に来ていた日本人女性と結婚して、この農場で一緒に暮らしている。
弓場の人たちは、皆さん素朴な感じで、外からの人間も気さくに受け入れてくれるのだけれど、それは訪問者としてであって、さて、実際にここに短期間でも住むとなったらどうなのだろうか?と、日本から来てしばらく滞在している青年たちを見ていて思った。何となく目には見えない垣根があって、外の人はあくまでも外の人という感覚があるようにも見受けられた。日本から来た矢崎さんの息子さんのお嫁さんに、その辺のところを聞いてみたかったのだけれど、あいにく話す機会はなかった。残念。 | ||||
2010年8月9日(月) | ||||
午前中に香山さんから勧められていたイーリャ・ソルテイラ(Ilha Solteira)の水力発電所に行こうと思っていたのだけれど、弓場で聞くと、水力発電所までは片道1時間半もかかり、ガイド付きの案内で発電所に入れるのは、午前10時ではなく、午後3時だけということがわかった。発電所の中では日本製のタービンが4基あるところまで見ることができるから、ぜひこの機会に見ていらっしゃいと、香山さんに言われていたのだけれど、断念することにする。イーリャ・ソルテイラに行く途中に、香山さんの故郷のチエテ移住地、現在のペレイラ・バレット市があるのだけれど、残念ながら、そこも見る時間がない。2泊3日のスケジュールでは弓場訪問が精一杯で、他に行く時間的なゆとりがない。また次の機会に行くしかない。 午前9時半ころ弓場農場を出て、今度は中村さんの先導で、帰宅の途につく。250キロ以上戻ったバウルで、燃料補給と昼食休憩を取り、そこで中村さんご夫妻とはお別れし、それぞれの道を行くことにする。バウルよりも西は山がなく、地平線まで続く田園地帯で、高速道路沿いの農地のほとんどはサトウキビ畑だった。でも、ボトゥカトゥやパーディーニョの辺りまで戻ると、2つの大きな製紙パルプ会社が所有する広大なユーカリの林があちこちにあるので、緑が豊かなことを、アリアンサから戻って、あらためて強く感じた。 | ||||
2010年8月10日(火) | ||||
弓場農場では、みそ、しょうゆ、豆腐、納豆、漬け物、ジャム、ケチャップ、マヨネーズなど、ほとんど何でも手作りしていて、その中でもみそやジャム、さまざまな漬け物類を販売していた。みそとグアバジャムをおみやげにいただき、しば漬けのような味のする花梅を漬けたものと、弓場の人は福神漬けと呼んでいたけれど、普通の福神漬けよりもずっといろいろな野菜が入っていておいしい漬け物を買って帰った。花梅の小さな容器のふたにあるプロドゥト・カゼイロ(Produto Caseiro)というのは、ホームメイドプロダクト(Home Made Product)という意味。
弓場で手作りされる物は食べ物だけに限らない。生活に必要なものはほとんど何でも手作りのようだった。食堂にあったこのほうきも手作りだった。
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2010年8月11日(水) | ||||
7月の末からウィリアムのファームの丘に、アリステウの操作する重機が来たり、入れ替わり立ち替わり人がやって来て、何か工事をしていると思ったら、気象観測用の装置を取り付けていたということが先週わかった。ここはこの辺で一番標高が高いので、風の向きや風速、気温、湿度などを計測して、そのデータを自動でどこかに送るような仕組みになっているらしい。ウィリアムは州政府かどこかから頼まれて、この装置を取り付けるための場所を提供することに同意したらしい。次の写真は、東の丘の上の2本の大きな木の横に設置され、銀色に光っている細長い気象観測用の装置。
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2010年8月12日(木) | ||||
このガレージに越して来て以来、お隣のウィリアムのファームの管理人のマウリシオとドナ・クレウザと彼らの5歳の息子のマテウスを夕食に招こうと、エドソンが言っていたのだけれど、弓場から戻った日に、エドソンがモビたちを迎えに行った際、ドナ・クレウザに今週都合のいい日にいらっしゃいと伝え、今晩の夕食を一緒に食べることになった。 6時半少し前に、懐中電灯を持ったマウリシオを先頭に3人が歩いて草原を横切ってやって来た。彼らはウィリアムのファームの使用人だけれど、私たちにとっては良き隣人であり、友人なのだということ、そしてこれまでの彼らの親切に対する感謝の気持ちを伝えるために、彼らを夕食に招くことにした。マウリシオは、ここに来る前はパラナ州ホランジアに住んでいて、日系人農家で仕事をしていたので、日本食も食べたことがあるらしい。ただ、コンニャクだけは好きになれなかったと言っていた。そんなこともあり、変わった物をあまり受け付けない一般のブラジル人と違い、大抵の物は受け入れる寛容さを持っている。ドナ・クレウザも私たちがウィリアムのところに居候している間、私が作るものを美味しそうと言って、よく試食していた。だから何を作ってもほぼ大丈夫だろうとは思ったけれど、今日のところはちょっと中華風で食べ易い、揚げジャガイモと鶏肉、しいたけ、ピーマン、ねぎの炒め物をメインに、カブの酢の物や弓場農場で買って来た漬け物などを出す。みんな出した物をすべて嫌がらず食べてみて、おいしいと思ったものはおかわりをして食べてくれた。 | ||||
2010年8月13日(金) | ||||
今日は朝からとても強い風が吹いている。でも、窓に結露ができておらず、冷たい南風ではなく、西からの風が吹いていて、ガレージの前の建設用の砂などを巻き上げて砂埃がすごい。今日はいつもよりも気温が高く、朝一番の室内の気温も19度で、午前中の外での水やり作業は暑いくらいだった。 先週、中村さん夫妻が、少し大きめの桜の苗木を1本持って来てくださったので、今朝ようやくそれを植えることにする。「鉢に植え替える際、根っこを少し切ったから、ちゃんと育つかどうかわからないけれど、一応植えてみて」ということだったので、パラカンビから持って来て育てているパウブラジルの苗木を植えるために用意していた穴に、桜を植えた。 夕方、エドソンが帰宅するやいなや、カメラを持って来てというので、何を撮るのかと思ったら、「今日は太陽が真っ赤なんだ」と言うので、私も一緒に外に出て見たら、本当に真っ赤な太陽が西の空に沈みかけていた。
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2010年8月14日(土) | ||||
このガレージに越して来てすぐに、次々に電球が切れ、この1か月の間に5個もだめになった。ガレージの中で車を置く側に取り付けた白い色の電球は問題ないのだけれど、私たちの生活スペース側に取り付けた、白い電球よりも健康への悪影響が少ないと言われている黄色みをおびた電球だけが何故か次々にだめになる。今日、ボトゥカトゥのパオン・ジ・アスーカーに行った際、ドイツの技術を導入してブラジルの会社オズラン(OSRAM)が作っている電球があったので、これ幸いとそれを買い、切れた電球と取り替えることができた。でも、箱をよく見ると、これも製造は中国となっていた。GEの電球を買った際もメイド・イン・チャイナだったし、やれやれ・・・どうしてもメイド・イン・チャイナからは離れられないんだ。 今日、ボトゥカトゥの帰りに苗木屋に寄って、アメンドイン・ホファジェイロという草を買おうと思ったら、この冬の時期は苗が育たないから販売していないということで、代わりに家の側に植えようと思っていた芝生を少し買って帰る。帰宅後、小さいハイビスカスを植えている近くに生えているブラキアーリアを取り除き、カロリナソイルと肥料を混ぜたものを撒いて、芝生を植える。アメンドインも芝生も、ブラキアーリアを駆逐するための草で、芝生は家に近いところに植え、アメンドインは家から離れた場所に植える予定。これらがブラキアーリアに取って代わるまでにはずいぶん時間がかかるとは思うけれど、少しずつでも苗を植えて行かなければ、何も始まらないので、少しずつブラキアーリア駆逐作戦を開始することにした。 | ||||
2010年8月15日(日) | ||||
朝一番で、エドソンが起きてくる前に、グアバジュースを作る。例によって、彼が職場で行商に来た人から買って、持って帰って来てくれていた12個のグアバの実の、半分を使って、約1.5リットルの濃厚なジュースを作り、朝食に出す。次の写真は順に、グアバの実、それを半分に切ったところ、そして、できあがったジュース。
午前中、掃除や洗濯の後、8月中旬以降に植える予定にしていた、タケイシさんにもらった梅の木2本を、三角地帯に用意しておいた穴に植え、ついでに大きくはならない種類の小さな飾り用の竹のブッシュを小さなハイビスカスの側に植える。先月、小さなポットから根がはみ出して成長していた別の苗木1本をエドソンが穴を掘って植えてくれたから、これで合計129本植林したことになる。 2か月くらい前から、東京を出て以来ずっと使っていたノートパソコンの調子が悪くなり、いつ壊れるかと恐る恐る使っていたのだけれど、今月初めにもう限界という状態になったため、エドソンが引っ越し荷物から出して設置してくれていた私のマックPCに、必要なファイルを移してくれた。ああ、やれやれ一安心と思ったのもつかの間、私のマックはここ8年近く使っている古いもので、PowerPCの最後のタイプだったらしく、日本を出る前にアップグレードする時間がなく、こちらに来てからもずっと引越荷物の中だったため、もうこのタイプのOSXをアップグレードすることができず、ブラウザを新しいものにすることができない。そのため、ノートパソコンから移したファイルがちゃんと使えないことがわかり、ショック!簡単なメールはできるのだけれど、ブログを更新したりすることができない。それでもう2週間もブログの更新ができないでいる。 エドソンが何か方法はないかといろいろ調べてくれ、どうやら私のマックにUbuntu/LinuxのOSをインストールして使えるらしいということがわかり、今日は朝からいろいろテストをしてくれ、以前日本で買っておいてまだ入れていなかったメモリーを追加で入れたり、Ubuntu/LinuxのOSをインストールできる体勢を整えてくれた。でも、その前に、マックに入っているファイルをすべて移動させなければならない。そのために必要な大きな容量のスティックメモリーがないため、まだテスト段階から前に進めないでいる。ブログを書いたり、海外リポートを書いたり、写真を縮小したり、写真をメールに添付したりすることができないと、ほとんど何もできない感じだ。 | ||||
2010年8月16日(月) | ||||
ニッケイ新聞の8月3日付け日系社会ニュースに、地デジ普及に関する日伯協力の記事が載っていた。「06年にブラジル政府により採用された地上デジタル放送規格の日本方式は、その後、両国の協力により南米、中米コスタリカなど各国で採用が決定している」ブラジルは「デジタル放送技術の導入に対しては、過去のカラーテレビ方式がブラジルでしか通用しないPal-m方式だったことを反省点とし、研究者、企業や製造者側からも意見を集め、『長期間にわたって使える技術』をコンセプトに選定。日本方式が米国、欧州の方式と比べ、他の技術導入が可能であること、デジタル圧縮技術や双方向機能、さらに移動通信(モバイル)に着眼していた点などが評価され、採用に至った」のだそうだ。「日伯方式の南米への普及については、最初一部から『妄想』といわれたこともあったという。しかしその後、日伯方式は中南米8カ国へ普及。ウルグアイ、ベネズエラについても交渉を行っている。そして現在、日本と協力して南部アフリカ14カ国への普及を進めているところだ」とあった。 ブラジルへの日本の新幹線の売り込みに関しても、同じような将来性が見込まれるのではないかと思うのだけれど、日本側はそうは考えないのだろうか?と思う。 | ||||
2010年8月17日(火) | ||||
イビウーナの中村さんが早速、弓場農場のことを随筆に書かれたので、ここに紹介しようと思う。私は、この農場のことをどのようにリポートにまとめたものかと頭を悩ませており、いまだに書き始めることができないでいる。
サンパウロの北西600kmにあるユバ農場を訪ねた。写真で見覚えのある木造家屋に着いたのは午後3時を回っていた。誰も迎えない、来る者は誰も拒まない弓場流の出迎えの仕方だ。中はガラーンとしていて、巨木を倒して作った食卓が幾つも並んでいた。よく見ると、中央奥のテーブルの左端に白髪・白ヒゲの古老が悠然と何かを食していた。「こんにちは」と声をかけたが返事がない。近寄って、もう一度声をかけたところ、ゆっくりと立ち上がり、こちらの胸中を覗き込むように見つめチョット首を傾げた。必死に記憶を辿っているように見えた。通称「クマさん」との出会いだった。 75年の歴史を持つ弓場は、現在60人が住むユニークな共同農場で、貨幣が通用しない。設立の精神「耕し、祈り、芸術する」が今も生きている原始共産社会だ。私のような俗物には、このような社会が75年も生残ってきたこと自体が奇跡に思える。ここで働いても賃金報酬はない、来る者は拒まない、衣食住は無料で支給され、訪問者からもびた一文とらない。会員は労働しているから良いものゝ、私のようなビジターはただ食い只寝だ(少々こころ苦しい)。 食事は朝・昼・2時・夕の4回、角笛が知らせる。会員と訪問客が一堂に会食する。朝は、食前にクマさんが「主の祈り」(マタイ6:9-13)を唱え、朝食以外はマサカツさんの号令で黙祷する。黙祷は個々人の宗教・習慣で「感謝」すると言う趣旨だ。朝食時の「主の祈り」は例外で、どの宗教も強制されない。大地とともに生き、自然の恵みに感謝し、芸術に励む、という精神を大切にしている。 パンフレトYubaには 1)訪問者を大切にし 2)働き 3)感謝し 4)芸術し 5)学び 6)交流し7)スポーツする、と言う7つの顔が紹介されている。半世紀に亘ってユバ・バレエ団を率い農場内外・国外公演を約900回も行ってきた小原明子さんがアキレス筋の手術の為に不在だったが、夫君の彫刻家:故小原久雄氏の作品(石の彫刻)にお目にかかり写真に収めることが出来た(2001年「北原・輪湖記念館」広場に野外展示場を建設)。アリアンサ村球場で60歳超の(現役)野球選手達の練習を観たが、2時間たっぷり汗を流す元気印に圧倒された。実は、練習後の素晴らしい懇親会がお目当てで野球の練習に励むのだ、とのことだった。仲間内の遠慮のない雑談は、聞いていて本当に楽しかった。 貨幣なしのコミュニテーには会計帳簿はないのだろうが、好奇心をそそられた。「農場内の貸し借りはご法度」だが、対外債務は別で、弓場の歴史では2度モラトリアムを宣言している。犠牲になった銀行は、最初は南米銀行、2度目はBradescoと聞いた。最初の倒産は1956年で、ユバ農場は第一弓場と第二弓場(新生農場)に分かれたが、新生農場は現在数人の老人だけが細々と暮らしているとのことだった。その違いは何だったのか、と質した処、「祈り・芸術する第一弓場と祈りもしない芸術もしない新生の違いだ」との答えだった。第一弓場は無借金、衣食住は自給自足、共同風呂、豊富な井戸水、1万冊の図書館、500席の劇場、バレーと演劇、有料の外部調達は燃料(電力と重油とガソリン)しかない。創立者:弓場勇氏の描いた「新しい村」が行き着いた75年目だ。イビウナ、16/08/2010 中村 勉 | ||||
2010年8月18日(水) | ||||
エディはこの月曜日から作業に戻って来てくれるはずだったけれど、風が強く、気温が低く、とても冷え込んだからか、現れなかった。ガレージに移って来る前ほど私たちは焦っておらず、イライラもしないけれど、やや諦めぎみに「来てほしいなあ」と思っていたら、昨日の午後やって来た。ガレージの回りに積み上がった板や足場を上に上げたり、下水パイプを通すために掘ってそのままになっていた穴を埋め戻したりという作業を始めたので、急いでその足場などを利用して外に干してあった洗濯物を取り込み、エドソンに電話をする。 エドソンが急ぎ帰宅し、買っておいた材料をエディに見せ、夕方までずっとエディと一緒に動いていろいろ指示を出していた。夕方、エディたちが仕事を終え、引き上げて行くと、エドソンが戻ってきて、「エディがキョウコのために物干しを作ってくれたよ」と言う。外に出て見に行くと、ガレージの東側の草地にちょうどいい感じの物干しができていた。エディも憎いことをするなあ。こういうのが私には一番ありがたいことをよく知っている。それで今日から早速使わせてもらうことにした。
エディたちは今朝は7時半から来て、フル稼働で仕事をしてくれたので、南側の壁のレンガが少し積み上がってきた。でも、上でレンガを積む作業をしていると、 コンクリートがボタボタ落ちてくるので、洗濯物を干しに出入りするのにタイミングを見計らって、出入り口の真上でレンガを積む作業をしていないときに、出入りしないといけない。午後3時を回って静かになったなと思っていたら、手伝いの男の子たちがガレージの前に敷いたビニールシートを取り除き、こぼれたコンクリートを掃除したり、後片付けを始め、4時頃今日の作業を終えて帰って行った。 | ||||
2010年8月19日(木) | ||||
昨日、今日と、中国新聞からのメールに戸惑ったり、驚いたりしている。ブラジル被爆者平和協会とサンタクルス病院に関するリポート2本を、先週中国新聞に送ったのだけれど、サンタクルス病院に関するリポートを紙面に載せるからと、半分以下の長さに縮小された原稿が昨日送られてきた。先月7月いっぱいで、海外リポートの編集担当の人が移動になり、新しく2人の人が担当になった。人が変われば、やり方も多少変わるかもしれないとは思っていたけれど、メインの ウェブサイト掲載への言及がなく、いきなり紙面掲載なんていうメールをもらったため「えっ?ウェブサイト掲載の方はどうなっちゃったの?」と思ってしまった。これまでは、ウェブサイトに掲載するための修正原稿が届き、次にそれが夕刊に転載されることになると、ぐっと短く縮小された原稿が届いていたからだ。 そこでメールで問い合わせると、被爆者平和協会と病院のリポートを2日間連続して載せる予定だけれど、被爆者平和協会の方は、原稿の手直しに手間取っているという。「日伯毎日新聞の誤報、厚生省や外務省、広島県の対応の不備など、いくつか問題となりそうな表現」があるのだそうだ。「在外被爆者の問題は非常に デリケートで」「当事者や家族だけでなく、行政側にも配慮しないと大問題に発展」するということだった。その後、徹底的に削除、訂正された原稿が届いた。 その一方で、病院のリポートの方は何も問題はないので、そのまま原文を掲載するという。送った原稿が、これほどまでに削除、訂正されるのも初めてなら、 まったく修正されないというのも初めてで、その落差に驚き、面食らってしまった。う~ん。インターネット上とは言え、新聞に記事を載せるということは難しく、大変なことなんだなあと、あらためて実感する。 | ||||
2010年8月20日(金) | ||||
ここでの仕事を再開したはずのエディたちは、またモラエス家具店の方に行ったのか、昨日は仕事に来なかったけれど、今日は8時半に来て仕事を始めた。ガレー ジの前のスペースの資材保管用の物置小屋を解体して、上に移動させる作業が行われた。このガレージの前が少しずつきれいになって来ている。後、積み上がっている砂と砂利の山を上に移動してくれると、すっきりとして、車の出し入れも楽になるのだけれどなあ。
一 昨日、エドソンが郵便局に行って届いている郵便がないかを確認してくれたら、何通か届いていた。お隣のウィリアム宛の郵便も預かって来たので、今日、午前中にその郵便をお隣まで届けに行くと、ちょうどアテモイアの果樹園から上がってきたマウリシオと出会ったので、彼にその郵便を渡す。すると、「アルメイラ オンやレタスを持って帰りな」と言われ、たくさんいただいて帰る。写真の中央手前が普通のレタス。左側はアルメイラオン・パオン・ジ・アスーカーという名前のレタスで、後ろの紫色のような葉っぱがアルメイラオン・パウリスタ。アルメイラオン・パウリスタは生食よりも油で炒めた方がおいしいけれど、パオン・ジ・ アスーカーは、普通のレタスと同じようにして食べるのだそうだ。
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2010年8月21日(土) | ||||
テレビで日本の魚料理の番組を見たとかで、先日来パウロが日本の魚料理を食べてみたいとしきりに言っているとエドソンが言うので、今晩、彼と彼の家族を夕食に招待することにした。ただし、普通のブラジル料理以外食べ慣れていない彼らが、いきなり甘辛い煮魚などの日本料理は絶対無理なので、無難なところで魚のフライを作ることにした。ブラジルの人は、料理に砂糖を入れる日本の調理法に違和感を感じる人が少なくない。例えば、煮豆。ブラジルの煮豆はソーセージや肉と一緒に煮込んだ塩味なので、日本の甘い煮豆を食べると想定外の味にショックを受ける。エドソンもフライやムニエルや塩焼きの魚料理は好きだけれど、砂糖としょう油で煮た煮魚や、味噌漬けや西京漬けなどで甘みのある魚はダメ。でも、砂糖としょう油で調理したすき焼きやテリヤキチキンは好きなので、砂糖としょう油のコンビネーションがすべてダメというわけでもない。 それで、お昼前に鮮魚売場のあるボトゥカトゥの大きなスーパー、パオン・ジ・アスーカーに買い物に行く。1キロ21レアルのセイント・ピーター(Saint Peter)という魚のフィレを、1キロあまり買う。大きく肉厚のフィレが7枚入り、25レアル(約1300円)だった。パラカンビには魚屋があり、毎日ではないけれど、リオから新鮮な魚が届くので、手頃な値段で魚が手に入ったけれど、海から遠いパーディーニョやボトゥカトゥには魚屋はなく、普通のマー ケットの肉売り場に、時々冷凍のいわしなどがあるだけで、鮮魚売場のあるパオン・ジ・アスーカーはこの辺では珍しく、値段は肉よりも高い。例えば、ステー キ用の牛肉なら1キロ15レアル(約800円)くらいで買えるけれど、比較的手頃な値段だったセイント・ピーターですら1キロ21レアルで、トラウトや他の種類の魚は30レアル以上していた。そんな訳で、ここでは魚はあまり頻繁には食べられない。 ちなみに、セイント・ピーターという名前の魚はエドソンも聞いたことがなかったので、売り場の人に聞いてみると、川魚のティラピアのことだった。ブラジルの川魚はまるで海の魚のように大きく、臭味がないのでおいしいのだけれど、それでも敏感な人の中には臭味を感じる人もいるらしく、川から獲ってすぐマーケッ トに出されたものはティラピアと呼び、稚魚の時に獲って、養殖池で綺麗な水とおいしいエサを与えられ育てられたものをセイント・ピーターと言って区別しているということだった。 パウロたちも食べ慣れているティラピアのフライなので、何の変哲もないのだけれど、違いはブラジルの細粒のパン粉ではなく、日本の荒いパン粉を使ったところが、彼らには珍しく、おいしさの秘訣。予想通り好評だった。それにお米に何も混ぜずに炊いた日本米の普通のご飯と、キャベツと玉ねぎとケイパーをマヨネー ズと酢で和えたサラダと、口直しにカブの酢の物を出したので、拒否反応を起こさせるようなものはほとんどないものの、一応すべて彼らにとっては少しずつ変わったものを食べたという印象にはなったように思う。ちなみに、ブラジルのご飯のことを初期の日系移民の人たちは油飯(あぶらめし)と呼んでいたようで、その名の通り、油で炒めて塩を加えて炊いてあるので、まったく何も味付けしていないご飯は物足りないと感じる人たちもいるようだ。 | ||||
2010年8月22日(日) | ||||
私のマックPCでは、当分ブログを更新できない状況なので、エドソンが彼のPCにLinuxの日本語ソフトを入れてくれ、私も彼のPCでブログの編集や更新が出きるようにしてくれた。それで、今日の午後、彼のPCからブログを更新するやり方を、私に教えながら、一緒にやってくれたため、ようやく何とかたまっていた2週間ほどのブログを更新することができた。今回のエドソンのPCからのブログの更新も、単純には行かず、エドソンが試行錯誤しながらの操作だったため、次回は私一人でも簡単に出きるように手順を簡略化してくれるという。ブログを書き始めたばかりの頃は、つまりパラカンビに住んでいる頃は、ブログの更新はエドソンがしてくれていたのだけれど、その後、パーディーニョに来る前頃から手順を教えてもらい、写真をカメラからPCに取り込み、その編集から、ブログの更新まですべて一人でやれるようになったのが、ちょうど一年前頃だったんだなあと、ちょっと感慨にふけったりした。 | ||||
2010年8月23日(月) | ||||
今日付けで、私の22本目のリポート『在ブラジル被爆者<上>「生かされている」を全うする人生』が、中国新聞海外リポートに掲載された。このサイトは、こちらへ。 このリポートはいつもよりも随分長くなってしまったこともあり、バッサリ削除された部分が多いのだけれど、ブラジルに何故多くの日系人が暮らしているのかすら知らない人たちが少なくない現在の日本の人たちに、ブラジルにも広島、長崎の被爆者が少なからずいることを知ってほしいと思い書いたものなので、没になった次の情報だけは、ここに書き留めておこうと思う。 「現在の協会会員数は132名(設立から現在まで協会員として登録した人数は約260名だが、その内約半数は亡くなったと通知があった人、連絡が取れなくなった人、日本に帰国した人、北米に行った人だという )」 | ||||
2010年8月24日(火) | ||||
今日付けで、私の23本目のリポート『在ブラジル被爆者<下>日系人の誇りサンタクルス病院』が、昨日に続き中国新聞の海外リポートに連載された。このサイ トは、こちらへ。このリポートは長さが3分の1くらいに縮小されたものが、今日付けの夕刊にも転載されると聞いている。これで夕刊掲載は6本目になる。 昨日付けで掲載されたリポートの掲載写真の順番が間違っている箇所があり、説明と写真が一致していないというハプニングがあった。そして、森田さんに関する記述で、削除された箇所の一部を復活してもらったら、おかしな内容になってしまったため、慌てて中国新聞にメールを送って知らせ、再度の修正を依頼した。 今回は編集の人が変わって初めて提出したリポートだったせいか、お互いに勝手が違い戸惑うことの多いリポート掲載までのプロセスになった。まあ、何事も経験。そのうち慣れるだろう。 モビとフィオナはいつも仲良し。台所と居間の間に置いた彼らの昼間用のベッドの中で、シンクロナイズド・スイミングならぬ、シンクロナイズド・スリーピングの状態にあるところをパチリ。向かって右がフィオナで、左がモビ。
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2010年8月25日(水) | ||||
昨日、掲載された24日付けの海外リポートをよく見ると、原文のまま掲載すると聞いていたのに、あちこち修正されていたので、問い合わせてみると、夕刊用に 縮小編集する途中で保存した原稿を間違って掲載してしまったと返事があり、今朝、再度リポートのサイトを見ると、原文のままの状態の記事に差し替えられていた。こちらが送ったリポートに編集の手が入り修正されることは全然かまわないし、これまでずっとそうして来ていたのでいいのだけれど、原文のまま掲載と聞いていたのに、変だなと思ったら、そういうことだったのか。何だか連日あたふたしてしまった。 エディたちは今週は連日、朝7時半前にはやって来てレンガを積む作業をしてくれている。そのお陰で、家の輪郭が少し見えてきた。
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2010年8月26日(木) | ||||
パー ディーニョの町で建築関係の商品を販売する店を経営しているジョゼと彼の家族を、昨日の夕食に招待した。ただ彼の店は、エディがセメントや砂や砂利をいつ も調達している建築資材の店とは競合しない品物を扱っているので、時々お世話になる程度なのだけれど、彼もロータリークラブのメンバーだったので、エドソ ンは親しくしている。イタリア系の人で、このパーディーニョの出身なのだけれど、大学はサンパウロの大学を卒業して、フォードで働いていたらしく、アメリ カ本社にも研修で行ったことがあるので、多少英語を話すことができる。でももう20年も前のことだから忘れてしまったと言って、残念ながらあまり英語では 話してくれない。サンパウロは治安や環境がよくないので、家庭を持って子供を育てる場所としては相応しくないと考え、故郷にUターンして、以来20年だそ うだ。娘がふたり、息子がひとりいる。長女はここから北西に1時間半ほど行ったバウルの大学で音楽の勉強をしているので、お休みの時しか戻って来ない。そ れで普段、家にいるのは高校生の次女と中学生の息子だけ。彼らはボトゥカトゥのレベルの高い私立の学校に通っている。次の写真は、左からジョゼ、奥さんの マリナージ、次女(名前は聞き忘れた)、エドソン、そして長男のニコラス。
パ ウロのところのイザベラは野菜を一切食べないひどい偏食なのだけれど、ジョゼの子供たちもキャベツのサラダは食べたけれど、ポットローストで牛肉と一緒に 蒸し焼きにした野菜(ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、パプリカ)は、ジャガイモしか食べなかった。次女に「Nao gosta do sabor de legumes?(野菜の味が嫌いなの?)」と聞いてみたら、「Nao sei.(どうしてだかわからない)」と言っていた。でも、少なくともエドソンが勧めるふりかけをご飯にかけて食べてみる勇気は持ち合わせていて、ニコラ スは結構気に入ってくれ、何度もご飯にふりかけて食べていた。ふたりともとても気立てのいい子たちだった。 | ||||
2010年8月27日(金) | ||||
こ のところエドソンは、家の中の一部の壁に使う質のいいタイプの赤レンガを調達しようと、パーディーニョの建築資材の店やボトゥカトゥの店などの値段を比較 したりしていたのだけれど、エディの勧めで前々から行ってみようと思っていたイタチンガ(Itatinga)の建築資材の店にエドソンが連絡してみると、 思うような値段のレンガがあるようなので、昨日の午前中、仕事を半日休んでイタチンガまでレンガを調達しに行くことになった。イタチンガはここから南西に 30分程のところにあるパーディーニョよりも少し大きな町で、パウロの会社はここにも支店を持っている。 昨日イタチンガの店で注文した赤レンガが、予定通り今日の午後一番で配達されたので、エディたちは早速そのレンガを積み上げる作業も始めてくれた。 | ||||
2010年8月28日(土) | ||||
先 週後半くらいから気温がぐんぐん上がり始め、昼間は30度を超えるようになった。ついこの間まで寒かったのに、突然冬が終わり、夏が来たような日が続いて いる。昼間は半袖シャツ姿でも日向では暑い。夜はパジャマを冬物から夏物に替え、掛け布団も取り払い、夏用の肌がけ布団1枚でちょうどいい。何だかこの突 然の季節の変化に驚いている。もうこのまま春を飛び越して、季節は夏になるのか、また寒さがぶり返したりするのか、まったく予測がつかない。 犬 は汗をかかないと聞いたことがあるような気がするのだけれど、モビたちの寝床の毛布やクッションは、毎朝ちょっと湿気を含んでいるので、毎日外の赤レンガ が積んであるところに広げて風を通して、陽に当てることにしている。午後これらを家の中に取り込むと、モビとフィオナは我先に暖かくフカフカになった太陽 の匂いのする毛布にくるまることを楽しんでいる。
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2010年8月29日(日) | ||||
だ いぶ前にドナ・クレウザからもらったシュシュのうち、まだ食べずに残っていた1つから芽が生えだしたので、これを野菜畑にする予定の下の三角地帯に植える ことにした。朝食の後、エドソンが穴を堀り、培養土や肥料を混ぜて土を用意し、植えてくれた。つるが伸びて育って行けるように、側に棒も添えてくれた。本 格的に成長してきたら、つるが成長できるように木を組み立てて棚を作ると言っている。その後ふたりで手分けして、すべての木に水をやる作業をする。もう1 月半もまったく雨が降っていないので、毎日の水やり作業は欠かせない。でも、これまでの寒さのせいか、グレビーリャ以外は葉が枯れたり落葉して、みなあま り元気がない。それに比べるとグレビーリャは葉を茂らせ、背丈も伸びてきている。強い木だなと思う。 午 後からは家の内装に関して、エドソンと二人でどのようにするか話し合い、寝室と納戸と台所に関しては何とか考えがまとまった。それに従い台所の窓の位置や 大きさにも少し修正を加えた。照明の位置や、電気のスイッチの位置なども決めたので、それに従い図面を修正し、エディに渡す準備をエドソンがしてくれた。 エディは作業の途中でこちらがいろいろ変更を加えても、嫌な顔をせず、柔軟にこちらの希望を入れてくれるので、その点ではとても助かっている。 そ の後、ブログの更新をエドソンが手伝ってくれたので、約1週間分のブログを更新することができた。私がひとりでもできるように、一緒にやりながら、手順を 簡素化したソフトを書いてくれているので、後何回か一緒にやってもらえばソフトが完成し、ひとりでできるようになるのではないかと思う。 | ||||
2010年8月30日(月) | ||||
お 隣のウィリアムは、最近失業してしまった。それで、11月までに再就職先が見つからなければマウリシオを雇い続けることができなくなるから、次の仕事を探 すようにとマウリシオに言い渡したらしい。でも、今年のアテモイアの収穫は去年の3倍もあったのだから、財政的に苦しいはずはないのにと、マウリシオはい ぶかっていた。例え、アテモイアの栽培を止めても、彼は毎日ここに住んでおらず、週末しかここに来ないのだから、留守を守る人はどうしても必要だし、週末 ここで過ごすのに食事の支度や、掃除、洗濯をしてくれるドナ・クレウザがいなくなったら、一番困るのは彼自身なのに・・・ 3ヶ 月ほど前に、彼はアテモイアをサンパウロに運搬中、トラックの故障で車を降りて高速を横切ろうとした際、道路の穴に足を取られて怪我をする事故に遭った。 ひどい怪我ではなかったので、その足を手術する必要があると医師に言われても、それを無視しているうちに足の状態はどんどん悪くなっており、その上、失業 までしてしまった。だから11月までの2ヶ月の間にアテモイアの収穫を終え、手術をして、その上、次の仕事も見つけるなんてことは時間的にとても無理なよ うな気がするのだけれど、本気なのだろうか?マウリシオやドナ・クレウザが首になり、ここからいなくなったら、いつも私たちのことを気にかけてくれる良き 隣人と友人を、私たちも失うことになる。何とも残念で、気が滅入る話だ。 | ||||
2010年8月31日(火) | ||||
昨 日の夕方から強い風が吹き出し、気温が下がってきたので、昨日の夜は掛け布団を復活させたのだけれど、少しも暑くなく、ちょうどいい感じだった。今朝もこ れまでと比べて少し気温が低いので、半袖Tシャツ1枚だけではちょっと寒いからと言って、エドソンは長袖のシャツを上から羽織って仕事に出かけて行った。 やはりこれが普通の状態で、この1週間あまりの暑さの方がおかしかったのだろうと思う。 日 本の木造の家は、基礎工事の後、まず柱が立ち、屋根ができ、最後に壁ができるけれど、ブラジルのレンガの家は、基礎工事の後、まず壁が半分あまりの高さま ででき、次に柱が立ち、さらに壁が積み上げられ、天井ができ、最後に屋根ができる。ずいぶん順番が異なる。ブラジルは固いクリスタル岩盤の上にある国なの で、地震がないからこういう家が建てられるのだけれど、日本ではこうは行かないと思う。次の写真は、今日現在の我が家。
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