Kyoko Yoshida                                        
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2010年7月1日(木)

火曜日の午後、約束通りアンドレが避雷針用の電波塔を設置してくれた。次の写真はその高さ18メートルの電波塔の雄姿。パーディーニョの町と高速道路のカステロ・ブランコを結ぶ舗装道路から、ここに入ってくる入り口のところにあるカロリナソイルを過ぎると、この塔の上の部分が見えるとエドソンが言っていた。ウィリアムのところにはこれよりも太くて背の高い電波塔が2基建っているのだけれど、彼の電波塔の色はグレーで、うちのは白なので、どうやらうちの方が目立っているらしい。

今週、来週と2週間、モラエス家具店の仕上げに集中するため、ここの作業は休むけれど、今日、下水処理用のタンクを設置してくれると言っていたエディから、今朝電話があり、モラエス家具店の仕上げが遅れているため、今日は設置作業に来れないと言って来た。明日の午後来るよう努力するということだったけれど、明日の午前中はブラジルの試合があるのだから、1日休みにするに決まっている。ここの人たちの言葉もリオの人たちの言葉に負けず劣らずとても軽い。ただ、幸いなことは、エディはこうして連絡をくれること。そして、遅くなってもちゃんと仕事をしてくれること。それで良しとするしかないのかなあ・・・

そして、当初は5月末に来るはずだったガレージとオフィスの窓が、遅れて6月上旬に来たのだけれど、ガラスのサイズが違っていたようで、窓の設置を中止して帰ってしまった。窓の大きさをちゃんと計測しているのに、どうしてガラスのサイズが違ったのかミステリーとしか言いようがない。それ以来、設置するすると言っておきながら、いつまで経っても窓の設置をしてくれない。今日、一体どうなっているのかと、エドソンが電話をすると、オーナーがおらず、スタッフの人が月曜日に設置すると言ったという。本当かなあ?サンパウロ市のパナソニックに頼んでおいた冷蔵庫やテレビが明日の午後配達されるというのに、窓がない。家電製品が埃にまみれることも問題だけれど、それ以上に窓がないということは、泥棒に対して無防備だということなので、頭が痛い。

2010年7月2日(金)

午前8時頃、マウリシオがやってきて、カステロ・ブランコ沿いのホドサーブのひとつのガソリンスタンドで働いている息子のマーコスから電話があり、サンパウロから来たトラックの運転手さんがエドソンの家の場所を尋ねるので教えたと連絡してきたという。パナソニックで購入した家電製品の配達は今日の午後のはずなのに、もう来てしまったの?ここに来る前に電話をくれることになっていたのだけれど、運転手さんの使っている携帯会社はこの辺をカバーしていないようで、通じなかったようだ。広いブラジルではこういうこともありなのだとは思うけれど、サンパウロ州全域に配達することになっている運送会社の運転手の人に持たせる携帯は、やはり州全域をカバーしている会社を選ぶべきではないのかな?でも、たまたまマーコスの働いているホドサーブのガソリンスタンドに行き、しかもマーコスに場所を聞くなんて、何という幸運。そして、それがエドソンが仕事に出る前で本当に良かった。

今日は、午前中ガレージの床の拭き掃除をして、午後からの荷物の到着に備えようと思っていたのだけれど、そこまで来ていると聞いて、大急ぎでガレージに行き、とりあえず、冷蔵庫を置く場所の辺りだけでもと、ごちゃごちゃと床にあったものを片付けて、掃除をした。

8時40分頃に、トラックがここに到着。荷物を降ろし、製品を箱から出し、電源がちゃんと入り作動することを確認して、1時間後くらいにトラックはサンパウロに向けて戻って行った。今日は11時からW杯のブラジルの試合があるから配達は午後からのはずだったのに、この運転手さん、帰る途中、どこかのホドサーブで試合を見ることができるといいのだけれど・・・

それにしても、パラカンビで暮らしている時に、隣町のノヴァ・イグアスの大きな家電製品の店で冷蔵庫や洗濯機を買ったときとは大違いだ。午前と午後の誤差はあったものの、配達前にいつ配達されるかという連絡がパナソニックからちゃんとあり、配達のトラックも中の荷物が車の揺れで動いたりしないようにしっかり固定できるような特別の構造になっていて、配達後は箱から出して設置して、ちゃんと電源が入り作動するかどうかを確かめるところまでしてくれる。しかも予定よりも早く配達してくれるなんて、うれしい驚きだった。ヤマト運輸による引越し荷物の配達の時もそうだったけれど、日本企業の関連会社の対応は、ブラジルの会社と言っても、やはり純粋にローカルのブラジルの会社とはずいぶん違うなあと、感心してしまった。

2010年7月3日(土)

昨日の午後、ガレージで掃除をしていると、パーディーニョの町の方から花火が上がるのが聞こえたので、ブラジルが勝ったのかと思っていた。午後4時頃帰宅して、インターネットでチャックすると、何と2対1でブラジルがオランダに負けていた。あの花火はただ試合が終わったと言う合図だったのかな?ブラジルが負けたのは残念だったけれど、これでエディたちが仕事を休む口実がひとつ減り、私はちょっとほっとしている。

今日は朝から丸1日、ガレージでの仮住まいの用意をするために、買い物に出かける。まず、パーディーニョのモラエス家具店に行き、タンスや台所の食器棚などを購入し、次にボトゥカトゥに行き、土曜日はいつも行く駐車場がお休みなので、パウロに教えてもらった駐車場に車を駐車して、いろいろな店を歩き回り、ソファーやベッドを購入。これでほぼ必要最低限の家具や家電製品を整えることができた。パラカンビやノヴァ・イグアスの店は、品物の購入から配達までずいぶん時間がかかったけれど、パーディーニョの店も、ボトゥカトゥの店も、遅くとも来週の水曜日か木曜日には配達してくれると言う。これもずいぶん違う対応だなと思う。後は、カーテンを買う必要があるのだけれど、なかなかサイズや色など、希望するものが見つからない。来週また別の店に行って探してみないといけない。

ボトゥカトゥのメインストリートの電気店で買い物をしていると、外を走る車の中から男性がドイツがどうしたこうしたと叫んでいた。今日はドイツとアルゼンチンの試合があったのだけれど、ドイツがアルゼンチンを下したことを喜んでいる「雄たけび」だったようだ。ブラジルにとっては宿敵のアルゼンチンのマラドーナ監督の面目が潰れたことを、ブラジル人は喜んでいるようだった。ということはパラグアイもスペインに負けてしまったから、南米で生き残って準決勝に進出したのは、ウルグアイただ1カ国ということか?今回のW杯はとても番狂わせが多いから、ウルグアイが優勝なんてことになったらおもしろいのにと思う。

2010年7月4日(日)

夜中の2時半に、私の携帯電話がけたたましく鳴ったので、日本からの緊急連絡かと思い、びっくりして飛び起きて、かかってきている電話番号を見ると、日本からではなく、この地域からの間違い電話だった。私の携帯電話の番号を知っているのは日本の家族と、ブラジルではごく少数の日本語が通じる人たちだけ。でも、私の携帯には何故かローカル局からの間違い電話がよくかかって来る。こんな夜中にまったく人騒がせな。この電話で私もエドソンも目が覚めて、眠れなくなってしまった。そうこうしている内に5時頃にはウィリアムがサンパウロにアテモイアを運ぶために起きて、出かける準備を始めたので、その音でますます眠れず、結局、寝そびれてしまた。それで、今朝はふたりともゾンビ状態。

でも、気を取り直して、お昼はパウロたちとの食事に出かけて行き、楽しい時間を過ごした。食事の後、パウロたちと一緒に、彼の行きつけのカステロブランコ上のホドサーブのガソリンスタンドに行き、車を洗ってもらう。最近ずっと雨が降っていないので、みんな車は赤土の埃まみれになっている。このホドサーブに私たちはこれまで一度も来たことがなかったのだけれど、ここもとてもきれいなホドサーブで、私たちがよく行くホドサーブスターやホドサーブソヒーソよりも販売しているおみやげ品が豊富で、レストランもなかなか感じが良かった。ここのガソリンスタンドで燃料を35レアル(約1700円)以上入れると、このホドサーブのパン屋さんで、パンを無料でくれるサービスがあり、大きなイタリアパンをひとつもらって帰ることができた。ここにはたくさんきれいな鯉が泳いでいる池があった。

この後、パーディーニョの北側の町外れにある桜並木のある場所に行き、写真を撮る。

この道路沿いの大きな農園、ファゼンダの以前の持ち主が日系の人だったらしく、その人が道路沿いの500メートルくらいと、敷地内の池の周りなどに、たくさん緋寒桜を植えたのだそうだ。それが今では大きく育って、毎年きれいに花を咲かせているのだった。でも、残念なことにその人の息子さんの代になって、ギャンブルに手を出して負けて、この広大なファゼンダは他人の手に渡り、現在の所有者は日系の人ではないのだそうだ。こんなにきれいな桜がたくさん咲いている場所は、日本だったら桜の名所になり、週末はたくさんの人でにぎわうところだろうけれど、サンパウロの人たちはもちろんこんな場所があることは知らないし、地元の人たちもこういう自然の美しさというものに、あまり感心がないようで、何だかもったいないというか、きれいな花を咲かせている桜も多くの人に見てもらいたいだろうにと思ってしまった。それにしても青空を背景にした、この少し濃いピンクの桜は美しい。

2010年7月5日(月)

今日ようやく、エディたちが下水処理用のタンクや洗面所の洗面台などの設置に来てくれた。そして、ガレージの扉などを作ってくれた会社が、窓ガラスの設置に来てくれた。ようやく、ガレージを仕上げる追い込み作業が始まった。エドソンは急遽、仕事を休み、エディに付きっ切りで、洗面所の洗面台の高さはこうしてほしいとか、鏡はこのように取り付けてほしいとか、下水処理用のタンクはこうしてほしいとか、細々指示を出している。その間、彼自身も台所の流しの組み立て作業をしてくれたり、洗面所のシャワーを取り付けてくれたりと、お昼も食べずに大忙しの1日になった。

午後からは避雷針用の電波塔に避雷針を取り付けるための準備作業の人たちも来て、エドソンを含め12人もの人が同時に作業をするという、かつてない大人数の人たちがこの現場で仕事をするという珍事が出現した。

夕方までに、窓ガラスの設置がすべて終わり、下水処理用のタンクが掘ってあった穴に設置され、洗面所もほぼできたので、エディたちが下水パイプを通して、掘った穴を埋め直し、その他いろいろな細かい部分の仕上げをしてくれ、私たちが残りの必要な資材の買い物をして、それらを設置すれば、ほぼガレージでの仮住まいが可能になる。でもその前に、水曜日に家具や家電製品が届くことになっているので、今日の作業で汚れたガレージの内外を掃除しなくてはいけない。

2010年7月6日(火)

今日も1日エディたちは仕上げ作業をしてくれたのだけれど、残りの細かい部分の仕上げというのは結構時間がかかり、掃除をする端から汚れる感じで疲れた。エディが外の水場の壁にレンガを積んで、コンクリートを塗る作業を始めたため、掃除のための水が使えなくなり、私は午後2時には一旦掃除を切り上げて、家に戻った。また、明日の朝、モラエス家具店からの配達がある前に行って、掃除をすることにした。

夕方、ガレージの周りの砂埃を洗い流しに行くと、エドソンが仕事から戻ってきていて、埃だらけのガレージの扉などを洗う作業をしてくれていた。

2010年7月7日(水)

今日はいつものように朝、洗濯を終えてから、ガレージに行き、掃除をする。お昼に一旦家に戻り、簡単にお昼を食べて、1時前にはまたガレージに戻り、エドソンに電話をすると、今日の夜、配達予定だったボトゥカトゥの店からの配達が、今、ここに向かっているという。しばらくすると、その店のトラックとエドソンの車が一緒に到着した。ベッドやソファーなどを運び入れ、梱包を解いて、手早く組み立ててくれ、帰って行った。その作業で出たゴミを片付けていると、モラエス家具店のトラックが予定通り2時頃到着。この人たちも同じように、配達荷物を運び入れ、梱包を解いて、タンスや食器棚の組み立て作業をして、据え付けてほしい場所にそれらを据え付けて、帰って行った。2人の人たちが手分けして組立作業をしてくれたのだけれど、組み立ての説明書など見ることなく、とても手早くどんどん組み立ててしまい、2時間以内にすべての組み立てが終わってしまった。

ボトゥカトゥの店も、パーディーニョのモラエス家具店も、予定通り、ないし予定よりも早く配達してくれ、とてもちゃんとした仕事をしてくれた。やはり、ここはリオとは違うんだと、再認識。サンパウロ州に引っ越して来たのは正解だったのだと心から思う。

2010年7月8日(木)

昨日、予定通り家具や家電が到着したので、今日から少しずつウィリアムの倉庫に積み上げてある私たちの荷物を移動することにした。荷物の移動には車がいるため、今朝はエドソンを職場に送って行き、私が車を持って帰り、少しずつ車のトランクや後部座席に乗せて荷物を移動させた。重量が比較的軽く大きめの箱を3〜4箱車に積んでは運び、すぐ開ける箱と、上の家ができるまで開けられない箱とに分けて積み上げて行った。お昼に一旦、短い昼食休憩を取り、午後も2時頃まで何往復もして、荷物の移動作業を続けた。

今晩は、タケイシさんを夕食に招待していたのだけれど、私が荷物の移動作業をしているところに彼がやって来て、故郷のミランドポリスに所有するユーカリ林の手入れに、今から行かなくてはならなくなったから、申し訳ないけれど、また来週戻ったら連絡すると言って、大きなバナナ一房とカランボーラ(carambola、英名:スターフルーツ)をいくつも持って来てくれた。タケイシさんを招待した際には予定していなかったのだけれど、今日は3時からボトゥカトゥに買い物に行くことになり、6時の約束の時間までに帰ってきて夕食の支度をするのはちょっと時間的にきつかったので、夕食がキャンセルになり助かった。次の写真はタケイシさんが持ってきてくれたカランボーラの一部。

ベッドが届いたので、ガレージで寝ることはできるのだけれど、仮に設置する台所の水回りや、洗面所のシャワーがまだ使えない。そのためのパイプや細々した部品を今日の午後エドソンと買いに行くことにしていたので、3時に彼を職場に迎えに行き、ボトゥカトゥのいつも行く建築資材の店に行く。台所の流しの横に置いた洗濯機と流し台の水回りをどのようにするかをエドソンが考えて、それに必要な細々とした部品を買い揃えた。その後、ついでにウエノとパオン・ジ・アスーカーにも行き、食料品だけでなく、食器棚に敷く滑り止めマットや、ほうきや、床の掃除をする際に使うモップのようなもなど、毎日の生活に必要なものを買い整えた。

2010年7月9日(金)

今日はサンパウロ州革命記念日で、サンパウロ州限定の休日。それでエドソンも仕事が休みなので、今日は1日、電線をガレージの配電盤につなげる作業をしたり、台所の水回りの取水と排水のためのパイプを取り付けたり、ガスレンジにプロパンガスをつないだりと、電気工事に、水道工事に、ガス工事のすべてを一手に引き受けて、ガレージの内外で八面六臂の活躍をしてくれた。これが日本だったら、みんな専門の電気工事の会社や水道やガスの会社に頼んでやってもらうところだろうけれど、そこを自分で難なくやってしまうところはすごいと思った。もちろんこれらはここでもぺドレイロや電気工事などの専門家に頼むのが普通なのだろうけれど、ここでは人に頼ると何事も時間もお金もかかり、しかもこちらの思い通りにはならないことが多い。そのため、自分でできることは自分でやった方が早くて確実という現実がある。例えば、エドソンがやった電気の配線にしても、エディのやり方は電線を丁寧に1本1本ハンダ付けしたりはしないらしく、エドソンが用意した太い電線の扱いにも慣れていなかったため、エドソンは自分でやることにしたのだと言っていた。

一方、私は日本から持って来た引越し荷物の中から、ウィリアムの家の寝室に出して使っていたプラスチックの引き出しケースを、そのまま車に積んで移動させ、ガレージの横の寝室として使うオフィスに入れ、タンスの中の衣料品はスーツケースに詰めて移動させ、寝室に据え付けてもらったタンスに収めて行った。昨日移動させておいた台所の調理器具や食器などの箱を開けて、台所の食器棚やキャビネットに収める作業も始めた。日本で使っていた食器や調理器具、アメリカ時代から使っていた食器や調理器具などが箱から出て来ると、エドソンと二人で、「ああ〜、なつかしい・・・」と言って、感激しながら作業を続けた。去年の2月末に荷造りをして送り出して以来、1年半ぶりの再会に、なんだか本当にとても懐かしいという思いがわいてきた。

私たちがガレージでこれらの作業を続けていると、この三連休の週末をここで過ごすためにやって来たウィリアムとジウダが、私たちのガレージまでやってきた。でも、彼らのファームの入り口ゲートのところでウィリアムがゲートを開けるために車から降りた際、ジウダの愛犬カピトゥが車から飛び出して行き、ウィリアムがそれに気づかず、車を発進させたため、カピトゥを車でひいてしまったらしく、我が子のように可愛がっていたカピトゥを亡くして、ジウダは大きなショックを受け、泣きはらした顔をしていた。かわいそうに・・・カピトゥはモビとフィオナのお母さんなのだけれど、彼らも何かの異変を感じたようで、いつもは聞かない悲しそうに泣く声がしばらく聞こえていた。

その後、エドソンがこのガレージに電気を通してくれたので、冷蔵庫が使えるようになった。それで今度は、ウィリアムの家の冷蔵庫から私たちの食料品を移動させる作業をする。ウィリアムのところの冷蔵庫は20〜30年前の古いモデルで容量が小さいため、私たちの食料品が一杯詰まっている感じだったのだけれど、我が家の新しい冷蔵庫は容量が大きく、それらをすべて移動させても、何だか中は空っぽ状態。大きさの違いをまざまざ実感。

夕方6時くらいまで作業を続け、くたくたになったので、シャワーを浴びて、夕食はパーディーニョのピザの店にピザを食べに行くことにした。夕食から帰り、まだ9時前だというのにとても疲れて眠いため、すぐベッドにもぐりこむ。

2010年7月10日(土)

昨日は疲れてとても早く寝たのだけれど、11時過ぎにふたりとも目が覚めてしまい、眠くないため起き出して、引越し荷物の箱を開け、中身を片付ける作業を2時間ばかりした。そして夜中の1時過ぎに再びベッドにもぐりこむ。今度は朝まで眠れた。ここはマウリシオの家からちょっと距離があるので、夜中にタマンドアを追いかけてワンワン吠えるセシリアの声もほとんど聞こえず、驚くほど静か。犬たちの遠吠えも聞こえない。そして、ウィリアムの家は東側に森が迫ってきていて、さらに窓はよろい戸を閉めて寝るため、朝になっても部屋の中は暗いまま。そのため朝の目覚めがあまりよくなかったのだけれど、ここは窓にまだカーテンがないこともあって、朝日で部屋がとても明るくなるので、日が昇ると自然に目が覚めるようだ。

朝、我が家に移動して初めての朝食をのんびりと食べる。まだ生活に必要最低限の準備しかできていないガレージでの仮住まいとは言っても、ここは紛れもない我が家。何とも言いようのないうれしい気持ちがわいてくる。自分たちの家で、自分たちの食器を使い、自分たちの食べたいものを食べることがこんなにもうれしいことだったかと再認識。

朝食が済み、それぞれ今日の作業を始めてしばらくすると、土曜日に入り口ゲートを作りに来てくれると言っていたエディが約束通り来てくれた。来るとは聞いていたけれど、土曜日は仕事をしないエディが本当に来てくれるのかどうかエドソンも私も半信半疑だった。でも、でも、約束通り来てくれた。エドソンはエディにゲートの高さはどうしてほしいとか、いろいろ細かい指示を出して、夕方までずっと1日、ゲート作りを手伝っていた。私は家の中で引越し荷物の箱を開封して、片付けるという作業を続けた。

夕方5時頃、ゲートがほぼ完成し、エディたちは帰って行った。ゲートに取り付ける錠前は買っておいたのだけれど、それを取り付けるチェーンを買い忘れたので、まだ鍵はかからない。でも一応、エディがかんぬきを取り付けてくれたので、ゲートを閉めることはでき、ご近所の牛やよその人が簡単に入って来れなくなった。エディに感謝。来週、このゲートにつながる左右の柵を作ってくれると言う。その際、チェーンも買って持って来てくれる予定なので、柵ができて、チェーンと錠前を取り付ければ、ゲート完成。ただ、ゲートのペンキ塗りは、後日自分たちでする予定。夕方、台所のテーブルで、夕暮れて行く空を見ながら、エドソンとふたりでチーズをつまみながらワインで乾杯をする。至福のひと時。次のゲートの写真は、お天気が回復した18日(日)に撮影。背景に避雷針用の電波塔とここに元からある木が見える。ゲートの向こうの右側にいるのは、一緒についてきたモビ。

今晩は、オテル・ファゼンダ・アグアス・ダ・セハでジュニオーのロータリークラブ会長就任を祝うディナーパーティーがあるため、シャワーを浴びて、着替えて、8時前に出かけて行く。エドソンはここのロータリークラブの杜撰かつ不正な経理処理や、それらの問題が発覚した後、前会長が責任を取るでもなく、問題はうやむやのまま、その自浄能力のなさにあきれて、メンバーになって1年にもならないのだけれど、6月上旬にクラブをやめてしまった。でも、今晩は彼が尊敬するメンバーの何人かの顔を立てるために、このパーティーには出かけて行くことにしたようだ。ジュニオーはパーディーニョの市会議員で、市長になることを目指しているため、市長や他の市会議員を招待しての、とても政治色の強いパーティーだった。ロータリークラブを自身の政治的野心に利用するのは、ちょっと違うのではないか?と、私たちはとても違和感を感した。

2010年7月11日(日)

ニッケイ新聞2010年6月26日付けの「日本移民の日特集」記事のひとつに、「サッカーW杯とナショナリズム=ブラジルの歴史探訪=なぜ国技になったのか」というとても興味深い記事が掲載されていた。国の歴史にはさまざまな側面があるものなのだなあと、この記事を読んで思った。この記事のサイトは、こちらへ

今日もまた1日、ガレージでの仮住まい生活を整えるための作業をする。午前中は主に家の中での作業をし、お昼はウィリアムのところでシュハスコをご馳走になり、その後、午後3時頃からは車をガレージ内に入れるために、ガレージの前に積み上がっている砂山を移動させたり、下水浄化用のタンクの横に重機で掘ってもらった溝に砂利を敷き詰めて、下水を生物分解するための排水溝の第一層の準備をする。この砂利層の上に砂を入れ、その次に、材木を入れ、最後に枯れ草などでふたをする予定。

これらの作業をしていると、マウリシオが倉庫にある残りの荷物を運ぶのを手伝ってくれるというので、彼の車の後ろに取り付けたカートに重い箱を積み上げて、3往復してすべての荷物をエドソンと一緒に移動してくれた。感謝。感謝。

この週末、ウィリアムたちが来ていたので、モビとフィオナは私たちについてここに来ることはなかったけれど、私たちがシュハスコから戻って、外での作業を始めてしばらくすると、いつの間にかモビがここに来ていた。そして時間差でフィオナもやって来た。どうやらウィリアムたちがサンパウロに向け帰って行ったので、私たちを探して来たようだった。まだ彼らをここで寝かせる態勢が整っていないのだけれど、仕方なく、今晩から彼らをここで寝かせることにした。

2010年7月12日(月)

マウリシオの所から小さな犬小屋を借りてきて、モビたちの使っていた毛布の1枚を持ってきて、仮の寝床を作り、ガレージに入れた車と、積み上げた箱の間の、出入り口に近い場所で寝かせた。けれど、犬小屋がいつもよりも狭くなり窮屈なためか、夜中にフィオナがモビと喧嘩をして噛み付き、モビがすごい悲鳴をあげるという事態が2〜3度発生した。その都度私たちは起こされて、彼らを叱りに行くということを繰り返した。

朝起きて、彼らをトイレに行かせるために外に出した後、出入り口の足拭きマットがぬれているのを発見。ああ〜、夜中にこの足拭きマットの上でやってしまったか。ガレージの外に彼らの犬小屋を置くスペースを作るまでは寝場所がないので、ガレージの中で寝かせるしかないのだけれど、これは困った。足拭きマットを外の水場で洗うために持ち上げたら、マットの下は水浸しになっていた。やれやれ・・・

エドソンは朝いつも通り仕事に出て、私はひとりで家の片付けや掃除に加え、木々への水やりや食事の支度をして1日過ごす。先日タケイシさんにいただいたバナナとカランボーラ(スターフルーツ)に、エドソンが先週だったかに買って来ていたイチゴを混ぜて、フルーツサラダを作る。カランボーラは洗って、皮など剥かず、そのままスライスして他の果物と混ぜるだけ。ちょっと甘酸っぱい味がした。

このガレージでの仮住まいは一応何とか始まったのだけれど、ここにはまだ直接電気が来ていないため、ウィリアムのファームから電線を引いて使っている。そのため電力の容量が小さく不安定で、電子レンジが使えず、シャワーのお湯もあまり熱くならない。そして、台所の水回りも、流し台に関しては何とか使えるようにエドソンがしてくれたけれど、洗濯機は取水、排水ともにまだつながっていないため使えない。そして、インターネットも電波の受信状態が不安定なので、うちの電波塔にインターネットの受信装置を取り付けるまでは、しばらく不安定な状態が続く予想。さらに、ガレージの扉の両サイドや下に毛のようなものを取り付けて、風や砂埃が入ってこないようにすることも、まだ完了していないので、いろいろ問題があるのだけれど、念願の我が家の一部での生活が可能になったので、少々のことは目をつむって、ひとつずつ改善して行くしかないと思っている。

2010年7月13日(火)

昨日の夜、私たちが寝る前にモビたちを外に出して、トイレに行かせようとしたのだけれど、外で私とエドソンの間をうれしそうに行ったり来たりするだけで、一向にもようしてくれない。仕方なく、犬小屋の側に荷物を開封して出てきた梱包用の紙を何枚か重ねて、足拭きマットをどけた場所に置いておいた。夜中の2時半頃エドソンが起き出して、ガレージでごそごそしているので、何をしているのかと思ったら、モビたちが台所の流しと食器棚の間の辺でオシッコをして、床が水浸しになっていたので床を拭いていたのだった。しかも、エドソンが変な音に目が覚めて寝室から出て見ると、モビたちがソファーの上に座っていて、エドソンの顔を見るなり大急ぎで犬小屋に駆け戻って行ったので、ソファーを見てみると、モビが爪でソファーを引っかいて、傷つけてしまっているのを発見。どうもその音でエドソンは目が覚めたようだった。ああ〜、やれやれ・・・セールで買ったソファーとは言え、新品でまだ私たち自身もほとんどゆっくり腰掛けてもいないのに・・・トホホ・・・

私も起きて、床掃除に参加。また、私たちが寝ている間に犬小屋を自由に出入りして、動き回れないように、モビたちの犬小屋の出入り口を積み上げてある箱の方に向けて、出入り口を塞いでから、寝ることにした。するとしばらくして、今度は嵐が近づいているらしく、稲光と雷が始まったため、また起きて、コンピュータや冷蔵庫のコンセントを抜き、エドソンが配電盤の裏に取り付けたスイッチで電源を落として、雷に備えた。そして雨が降り出し、ようやく眠りについた。

そんなこんなで今日はふたりとも寝不足。そして、エドソンが仕事に出かけた頃から再び雨がしとしと降り出し、雨の1日になった。このところ2ヶ月くらい晴天続きで、ほとんど雨が降っていなかったので、久しぶりの恵みの雨となった。木々への毎日の水やりと、引越し作業の両方で、体がガタピシ言っているので、私にとってはうれしい雨になった。

2010年7月14日(水)

一昨日の夜から降り出した雨は、今日もまだ降り続いている。夜中にずいぶん降ったようで、一度その音で目が覚めた。朝起きてモビたちを外に出そうとガレージの犬小屋に行くと、ガレージの扉から1メートルくらいの幅で、床が水浸しになっている。今回の水浸しはモビたちの粗相ではなく、ガレージの上の家がまだできていないので、屋根もひさしもないため、上から壁を伝って落ちてくる雨が扉の下から入ってきてしまったようだった。朝食前に、床の拭き掃除をして、朝食後エドソンが仕事に出てから、泥で汚れたガレージの床の掃除をして、外にある木材の中から適当なものを持って来て、上からのしずくや雨をガレージの外側にはじくようにガレージの扉の外に置いてみると、水が中にあまり入ってこなくなった。

昨日の夕方、仕事から戻ったエドソンが洗濯機の水回り用のホースを取り付けてくれ、試運転をして、ちゃんと働いてくれることを確認してくれたので、今朝は早速、洗濯をすることにする。日本の洗濯機に比べてブラジルの洗濯機はモーターの音がうるさいのだけれど、パラカンビで買った安物の洗濯機よりも、さらにウィリアムのところの洗濯機よりもいくぶん静かで、使い勝手もそれほど悪くない。今日も雨なので、洗濯物は干しても乾かないけれど、洗濯カゴに汚れた衣類が山になっていたので、とにかく洗濯をする。

次の写真はここで買ったブラジルではごくごく普通の洗濯機。値段的には安からず、高からず、ちょうど中間の値段で、洗濯容量は大きな10キロではなく、7.5キロ。洗濯機の真ん中に芯棒のようなものがあって、そこに洗濯物から出たゴミがたまる仕組みになっているのだけれど、この棒があるために、日本の洗濯機よりも洗濯物が傷み易い原因になっている。真ん中に棒のない洗濯機はドラム式のものしかなく、これはとても値段が高い。

洗濯をしていると、このガレージの後ろに自然空調用に作ってある細長いスペースで、雨が降る音がするので見てみると、雨漏りを防ぐために天井に空いている穴の上に置いてある木材の隙間から、雨漏りしている音だった。降った雨がコンクリートの床にたまり、木材とコンクリートの隙間から漏れ出しているのだった。それで、雨の中、外に出て、ガレージの上に上がって、ビニールシートをその穴の上に敷き、その上に木材を置いてみると、ザーザー降り込んでいた雨がポタポタという状態に改善した。そして、そのポタポタ落ちてくるしずくをバケツや空いたペンキの缶などで受けて、床があまり濡れないようにした。しずくがバケツなどに落ちる音が少しうるさいけれど、仕方がない。やれやれ、何だか次から次にいろんなことがあるなあ・・・

昨日1日雨降りで、モビたちはずっとガレージ内の犬小屋で過ごしたため、夜寝る前に外に出すと、ちゃんとトイレをしてくれた。そのお陰で、昨日の夜は粗相をすることはなかった。モビはとても賢い犬なので、一度失敗しても、こちらがちゃんと叱ってやると、新しいルールを覚えてくれる。天気予報では、この雨は土曜日くらいまで続くらしいので、当分の間、私の戸外での作業はお休みできるけれど、同時にモビたちが外に出て遊びまわることもできなくなるので、ちょっと彼らの運動不足が心配。

2010年7月15日(木)

今日も冷たい雨が降り続いている。月曜日の夜、雨が降り出して以来、気温がガクンと下がってとても寒い。昨日の午後4時の外気温は11度で、寝室の気温は16度だったけれど、今朝は、寝室の中も13度にまで下がってしまっていた。外気温は10度以下なのだろうと思う。こうなると断然、暖房器具を買わなくてはと思う。簡易の台所をしつらえたガレージの向こう半分のスペースに車を置いて、こちら側半分を台所兼居間として使っているのだけれど、まだこのふたつのスペースを仕切る壁がないため、ガレージはさらに寒い。

朝、エドソンが仕事に出た後、例によって泥だらけのタイヤで汚れた床を水洗いした後、拭き掃除をし、その後、ウィリアムの家で使っていて、そのままこちらに持って来ていたタッパーなどをドナ クレウザのところに返しに行くと、倉庫で作業をしていたマウリシオが、野菜がいればいつでもここの畑の野菜を持って行っていいよと言ってくれたので、ありがたく、ネギとレタスとルッコラを少しもらって帰る。パーディーニョの町のマーケットには新鮮な青物野菜がほとんどないので、マウリシオの畑の野菜をいただけるのはとてもありがたい。

さらに、午後7時頃、夕食を食べようと、支度をしていると、今日マウリシオが郵便局に行ったついでに私たち宛ての郵便も取って来てくれ、お隣から真っ暗な草原を横切って、うちまで届けに来てくれた。私たちはもう彼らの雇い主の家の居候ではないのに、引っ越した後もこうして以前と変わらず私たちのことを助けてくれ、世話してくれる。ドナ クレウザもマウリシオも本当に心優しい人たちだと思う。

2010年7月16日(金)

今日でもう丸4日雨が降り続いている。天気予報では明日は止むらしいのだけれど、恵みの雨が一転、やっかいな長雨になってしまった。カラカラお天気も困るけれど、こう毎日湿度100%の状態で、寒い上にガレージの扉や窓が結露でびっしょりという状態が続くと、本当に困ってしまう。

2010年7月2日付けニッケイ新聞の日系社会ニュースに、『グアタパラ=「母が育った地を見たい」=広島から小井手さん来伯=一世紀前の親の原点求め=不思議な縁が歴史変える』と題する記事が掲載されていた。学校法人小井手学園・広島ファッションビジネス専門学校の、学園長の小井出桂子さんの母・伊勢子さんは、第5回移民船・雲海丸で両親に連れられて7歳の時に渡伯したブラジル移民だったのだそうだ。私の母のごく小さい時に家で働いていた若いお手伝いさんが、やはり花嫁移民でブラジルに渡ったということを聞いたことがあるけれど、探してみると、ブラジル移民をしたという人は結構身近にいるのかもしれない。この記事のサイトは、こちらへ

職場で、パウロがひどい風邪をひいているにもかかわらず、半袖Tシャツ1枚で、事務所の入り口も開けっ放しにしているのだけれど、どうしてだろう?と、エドソンは不思議がっている。そして、事務所が凍えるほど寒いので、エドソンはたくさん着込んで暖かくして仕事に出ているのだけれど、火の気のない寒い事務所で体が冷えて、また風邪をひいてしまったようだ。

2010年7月17日(土)

午前中、私が洗濯や掃除をしている間に、エドソンは引越し荷物から出して、ウィリアムの倉庫の無線室で使っていた自分の無線機や部品などの入った引き出しやプラスチックケースを車で3回くらい往復してうちに運ぶ作業をした。昼前にそれが完了した後、ボトゥカトゥに暖房器具やカーテンなどを買いにでかける。

暖房器具は駐車場の近くの家電製品の店で中くらいの大きさのものと、洗面所などで使うのによさそうな小さなものを買ったのだけれど、家に帰って電源を入れてみると、大きい方は問題なくちゃんと作動したけれど、小さい方は温風が出てくるはずなのに、ヒーターが作動せず、風が暖かくならない。どうも不良品のようなので、取替えに行かなければならない。

カーテンは専門店を2箇所回り、寝室の窓用とガレージの窓用に既製品を買った。ちょっと長すぎたり、短すぎたりと、完璧ではないのだけれど仕方がない。カーテンは日本で使っていたものを引越し荷物の中に入れて持ってきたのだけれど、窓の大きさが違うのと、カーテンレールの種類が違うため使えない。サンパウロ州ではカーテンは日本でごく一般的な既製品の、フックでカーテンレールに取り付けるものではなく、カーテンの上の部分に輪っかをつけて、1本の棒に通すようになっている。リオデジャネイロ州の方では日本のようなカーテンレールがあるのだけれど、サンパウロ州ではどこに行ってもこのポールに通してつるすタイプしかないようだ。そして、レースのカーテンと厚手のカーテンで2重にするということもあまりしないようで、薄手のレースのようなカーテンか、厚手のもののどちらかを選ばなければならなかったため、厚手のものを買った。次の写真はその既製品のパッケージにあったカーテンの写真。これがこの辺では一般的なタイプ。

買い物から帰宅し、片づけものや夕食の仕度をしていたら、天井の電球が2個わずかな時間差で次々に切れてしまった。取り付けてまだ間がなく、ここに引っ越してきて使い始めてたった1週間。しかも昼間は電気はつけないので、毎日夜の数時間しか使っていないのに・・・「だからメイドインチャイナはダメなんだ」とエドソン。ブラジルでは裸電球ではなく、省エネ長寿命タイプの電球が一般的なのだけれど、どこに行ってもメイドインチャイナの電球しかないため、しかたなくそれを買って帰ると、その内の2〜3個はジーというノイズがありがっかりしたのに、さらに、ノイズのないものが1週間でダメになるなんてまったく信じられない品質の悪さ。メイドインチャイナの商品は値段は安くても、品質が悪いのは有名なのに、何故このような商品が市場を席巻しているのか不思議でならない。

2010年7月18日(日)

今日午前中、エドソンが寝室のカーテンのポールを壁に取り付ける工事をしてくれたため、寝室にカーテンを取り付けることができた。これでこの寒い時期、外の冷気を多少遮断できるようになった。感謝。

エドソンはカーテンの取り付け工事が終わると、今度は自分の無線機や部品など、ウィリアムの倉庫から移動させたものの整理を始めた。すると荷物の間にたくさんのネズミの糞を発見。荷物をひとつひとつどけて床の掃除をしていると、パラカンビから持ってきた古い手提げカバンの中にピンポン玉のような小さなネズミを1匹発見。そして、次に、カバーのない無線機の中に死んだふりをしているネズミを1匹発見。これらは日本で見かける大きなドブネズミや家ネズミではなく、ここの草原に住んでいる小さな小さな野ネズミなのだけれど、どうもモビたちの餌に釣られて入ってきてしまったらしい。そうしたら、ガレージの中はいろいろなものがごちゃごちゃと積みあがっていて、居心地がいいことを発見し、居座ってしまったのかもしれない。

今朝、モビたちの犬小屋の中の布団や毛布を外の太陽の下で干そうと、犬小屋から少し出ていた毛布を持ち上げると、その下からモビが捕まえたらしいネズミの死骸が出てきたので、外で捕まえて持ち込んだのかと思っていたら、何のことはない、中でうろうろしているのを彼が捕まえてくれていたのだった。これからはモビたちの食事が終わったら、残った餌は捨てて、餌を入れる容器は洗って箱の上に上げておかないといけないと反省。

2010年7月19日(月)

今日も昨日に引き続き、いいお天気で、穏やかな乾いた風が吹いている。すべての窓を全開にしていても、寝室の気温は18度。外気は太陽で暖められて、20度を優に超えているのだろうと思われる。洗濯物を日向に出し、洗面所の足拭きマットも、モビたちの布団や毛布もみな天日干しにする。

午後3時を少し回って、エドソンが帰宅した。温風が出ない不良品の小さい方のヒーターをボトゥカトゥの店に持って行き、別のものと取り替えてもらわなくてはならないため、仕事を早退して帰って来てくれたのだ。ふたりでボトゥカトゥまで行き、店に行くと、土曜日に私たちの応対をしてくれた同じ男性が私たちのことを(しかもエドソンの名前まで)憶えていて、買い物のレシートを見せるまでもなく、何も問題なく別のものと交換してくれた。念のため店で交換してもらう別のヒーターがちゃんと作動するかどうかの確認もしてもらった。サンパウロ州に来てから、いろいろな物をいろいろな店で購入して、時々、ちょっとしたトラブルがあるものの、届かなかったものは問題なくちゃんと後日受け取ることができたし、不良品も苦労なく取り替えることができたりと、パラカンビで経験したことが嘘のように、ここでは後の処理で困ることがないので助かっている。

土曜日も今日も、ここでちょうどいい服装でボトゥカトゥに行くと、ボトゥカトゥは暑いくらいだった。こことボトゥカトゥは車で30分くらいしか離れていおらず、標高もここより多少低いだけなのだけれど、気温がここの方が3〜4度低いことを実感。

2010年7月20日(火)

先週入り口ゲートの両サイドの柵を作りに来るはずだったエディたちは、連日の雨のため来ず、今日、ようやく作業に来てくれた。夕方までには入り口ゲートの両側の有刺鉄線の柵が完成した。

週に1度、イビウーナの中村さんが書いておられる随筆を、香山さんがメールで送ってくださるのだけれど、いつもとてもいい随筆を書いておられるので感心してしまう。今週の「ある親子の会話」というのはとても素直に受け入れられる真理だと思ったので、ここに紹介することにする。

「ある親子の会話」(作者:不詳、翻訳:イビウナ庵主)
“Interview with God”と題した一文(英語)が書斎の引越し荷物にまぎれて出てきた。キリスト教牧師か信者の一人が送付して下さったものだ、と推測する。読返しているうちに、「人の神へのインタビュー」と言うよりは「親子の会話」という題名の方が相応しいと思えたので、題名を変えて翻訳してみた。宗教は、このように親子間の日常会話の中で伝えられ、培われて、行くものかも知れない。
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(翻訳)

父 − 訊きたいことがあるんだって?

息、真剣な面持ちで − 時間あるの?

父、笑みを浮かべながら − あるさ。君の為なら、いつでも充分に。それで、訊きたいことって何?

息 − 人間のことだけど。これまでで、何が一番意外だった?

父 − うーん、「子供時代には早く大人になりたがるくせに、大人になると子供に帰りたがること」「健康を損なうほど金儲けに励み、健康を取戻す為に貯金を使い果たしてしまうこと」「明日が心配でたまらなくて、今日どころではなく、結局、今日も生きられず、明日も生きられないこと」「まるで死ぬことなど考えずに生き、生きたことなどないかのように死んで行くこと」かな。

父が息子の手を取り、二人はしばし沈黙。しばらくして、

息 − 父親として、私に残したい人生訓があるとしたら、どんなもの?

父 − 幾つかあるけどね、「誰かに愛されたいと願っても、愛は強制できない、そして、できることは愛される人になるしかないこと」「決してしていけないのは、自分を他人と比べてはいけないこと」「赦すことを、言葉の上でなく行いを通して学ぶこと」「愛する人を深く傷つけるのは一瞬の不用意な一言だが、その修復には何年も掛ること」「豊かな人とは、物持ちではなく欲張らない人のこと」「心から愛していても、その気持をどう表わしていいかわからない人がいること」「ふたりの人が同じものを見ても、別々の見方をすること」「他人を赦すだけでは充分でなく、自分自身をも赦さなければならないこと」と言ったところかな。

息、率直に − どうもありがとう。

父、笑顔で − 又、その他に訊きたいことがあれば、近くにいるのだから、気楽に、何時でもどうぞ。

イビウナ、19/07/2010 中村 勉

2010年7月21日(水)

どうもまた時間差で私もエドソンの風邪をもらってしまったようで、今日は喉の調子がよくない。幸い、今週は先週のように寒くないので助かっているけれど、今日は、モビたちの毛布やタオルを手洗いしたり、モビたちの体をシャワーで洗ってやったりしたため、シャツの袖口やズボンの裾が濡れて、ちょっと体が冷えたのかもしれない。来週、再来週と、海外リポートの取材に行く予定なので、それまでに読まなくてはならない資料がたくさんあるのだけれど、家事に時間を取られてなかなか読み進められない。気持ちは焦るばかり。その上この風邪なので、あまりひどくならないうちに何とかやっつけなくてはと思い、日本から持ってきた薬を飲む。

2010年7月22日(木)

昨日、モビたちのシャワーに加え、苗木への水やりと孟宗竹への数種類の肥料やりをしたので、今日は午前中の家事を終えた後、お昼前から資料読みに集中する。サンパウロ市から西北に600キロ、ここからでも400キロの奥地にあるアリアンサ移住地の歴史は本当におもしろい。でもこれだけ異色で、いろいろな紆余曲折を経て、今もしっかり生き残っているアリアンサ移住地のことを書くのは大変な作業だと思えてきた。どうしよう・・・ちょっと不安になってきた。

2010年7月23日(金)

今日は午前9時にエディナの美容院に予約をしてもらっていたので、エドソンと一緒に出て連れて行ってもらう。エドソンも散髪する必要があるので、男性の散髪もしてもれえるか彼が聞くと、「しますよ」ということで、私の前にさっさっと手早くエドソンの散髪をしてもらった。彼は散髪が済むと、私のカットとカラーをいつものようにしてほしいことをエディナに伝えて、車を置いて徒歩で職場に向かった。最近引越し作業や片付けで忙しく、散歩をしていないので、運動不足だから、夕方は歩いて帰るからという。

エディナの美容院は、爪の手入れやマニキュアのお客さんがいつも入れ替わり立ち代り出入りして、とてもにぎやか。いつもお世話になっている薬局のパウラも今日は爪の手入れにやって来ていた。私のカットとカラーは11時頃に終わり、エドソンの散髪代と合わせて支払いをし、車で家に帰る。

家に戻り、ガレージの掃除をし、片付けを終えて、昼食を食べていたら、ドナ クレウザがマテウスを連れて、カゴ一杯のアテモイアとレタスとルッコラを持って来てくれた。ドナ クレウザと私がおしゃべりをしている間、マテウスは寝室には入らなかったけれど、寝室の前まで行って、洗面所や寝室の中をチェックしているようだった。私たちがガレージに引っ越したと聞いて、そんなところでどうやって暮らせるのだろう?と、思ったらしく、普通にベッドがあったり、台所があったりするのを見て、ちょっと驚いていた。

2010年7月24日(土)

ここに引っ越してきてから、モビたちを一緒にガレージの中で寝かせているため、週末と言えども、朝遅くとも7時過ぎには彼らを犬小屋から出して、外に出してやらないといけないので、あまり朝寝はできない。彼らは外でのトイレが済むとドアのところに戻って来るので、中に入れてやり、それから朝ごはんとなる。エドソンが起きてくると、モビは犬小屋から出て来て、うれしそうにエドソンに挨拶をする。私たちの朝食が終わると、彼らをまた外に出してやる。

午前中は、下水処理のために掘ってある横長の穴に、家の建設工事で出て、積み上げてある材木のくずを入れる作業をし、家の周りのゴミ拾いをする。まだまだ建設現場の雑然とした殺風景な様子は変わらないけれど、少しでも住み心地良くするために、少しずつきれいにする努力をしている。

午前中の外での作業が終わってから、少し休憩をし、午後から火曜日にサンパウロに行くためのバスの切符を買いに、ホドサーブに行く。昨年暮れの豪雨で地盤が崩れてあちこち片側通行になっていたカステロブランコに下りる道路は、修理をすることなくずっとほったらかしになっていたのだけれど、半年以上経って、ようやく工事をすることになったらしく、数日前から全面通行禁止になったため、何十キロも遠回りをして行かなければならない。ちなみに、パーディーニョの町の壊れた橋は、6月の始めには完全に再建されていた。ホドサーブでは、以前見つけたモビたち用のベッドも買う。その足でまた遠回りをして、パーディーニョの町に食料品を買いに行く。次の写真はモビたちのために買ったベッドの中で毛布にくるまる2匹。左がフィオナで右がモビ。2匹がゴロンと横になってちょうどいい大きさだ。彼らもとても気に入ってくれたようで、この中ではとてもおとなしくしている。これは犬小屋とは別に、私たちが居間や寝室にいる際は、私たちの側にこのベッドを置いて、彼らをこの中にいさせるためのもの。

2010年7月25日(日)

カシューナッツは、ピーナッツやクルミなどと同様、バナナブレッドを焼く際に混ぜたりして、これまでごく普通に食べていたけれど、このクニュッと曲がったナッツが、カジュ(Caju、ジュにアクセント)というフルーツの種だということはまったく知らなかった。次の写真はカジュの豆乳ジュース。カジュの木にこの赤みがかったフルーツがなり、このフルーツの身の中ではなく、フルーツの下にこの種がくっついている。日本ではカジュのフルーツもジュースも見たことがなかったので、ただこういうナッツがなる植物なんだとばかり思っていた。ブラジルでもフレッシュなカジュを見かけることはまれだけれど、カジュのジュースはごく普通にどこでもよく見かけるので、よく飲む。とてもおいしい。カジュだけのジュースはもっと黄色い色をしているのだけれど、この写真のジュースは豆乳と混ぜてあるタイプのジュースなので、黄色身が薄められて、白っぽい色をしている。カジュはブラジルの東北部地方でできるトロピカルフルーツだそうで、皮がとても薄いため、熟れたカジュの輸送は難しいらしく、そのためマーケットであまり見かけることがないのだそうだ。パラカンビのうちのファームにもカジュの木が1本あるので、実がなる10月頃に行くと、フレッシュなカジュを見ることができる。

2010年7月26日(月)

昨日の夕方、6時少し前に太陽が沈む際、東の丘の上(ウィリアムの敷地)に立つ2本の木を赤く染めた。そして、完全に太陽が西の空に沈むと、それと入れ替わりにこの木の間から月が昇ってきた。夕食の仕度をしながらなかなかいい景色だと思い、エドソンにも見せようと彼を呼ぶと、カメラを持って外に出て、写真を撮ってきてくれた。

今日付けで、中国新聞の海外リポートに、私の21本目のリポート「知って味わって楽しい定番の野菜」が掲載された。このリポートのサイトは、こちらへ。このリポートの縮小版が明日27日の夕刊紙にも掲載される予定と聞いている。中国新聞の編集の方いわく「数えてみれば、吉田さんは今回で夕刊掲載5回目でハワイの早坂さんとともに、最多の回数です。それだけ、寄稿が多く、内容もバラエティーに富んでいた 」といううれしいコメントをいただいた。我ながらちょっと乗せられ易い性格だなと思いつつ、このコメントを励みに、これからも身近な素材を見つけて頑張って書いて行こうと思っている。

2010年7月27日(火)

今日はバスでサンパウロ市に行く予定なので、朝食後に私が片付けなどをしている間に、エドソンがモビとフィオナをウィリアムの家の裏にある犬小屋まで連れて行き、ドナ クレウザに彼らを小屋から出さないように頼んで来てくれた。私たちが留守の間、ここのガレージの中の小さな犬小屋に1日中閉じ込めておくのはかわいそうなので、同じように閉じ込めるにしても、せめてウィリアムのところのシュハスコのかまどのある広いスペースで、外には出られなくても、中で走り回れるようにと思ったのだ。

今日はイビウーナの中村さんご夫妻と、サンパウロ市内で待ち合わせをして、ブラジル被爆者協会の森田さんを紹介していただいたり、中村さんが副理事長を務めるサンタクルス病院に連れて行ってもらうために、家を午前9時に出て、ホドサーブ10時発のバスで出発。8時ごろのバスがあればちょうどよかったのだけれど、これより早いバスは午前5時発しかなく、仕方なく10時発のバスにする。このバスはパーディーニョよりさらに西に3時間ほど行ったオウリーリョスというところから来る長距離バスなので、到着が遅れ、さらに出発が30分くらい遅れたため、サンパウロ市到着の時間も大幅に遅れてしまった。バハ・フンダで地下鉄に乗り換える際、中村さんの携帯に電話をしたのだけれど、圏外ということでつながらず、乗り換えのセー駅でも同じく圏外でつながらず、ブラジルでは携帯電話は持っていてもほとんど役に立たないと実感。

結局、南北線のサウージ駅に20分あまり遅れて到着すると、中村さんの奥さんが改札のところで待っていてくださった。ご主人も1時まで一緒に待っていたのだけれど、会議があるため先に病院に行かれたということだった。サウージ駅から徒歩で1〜2分のところにあるブラジル被爆者協会会長の森田さんと娘さんの斉藤さんが経営する「スキヤキ」という日本食料品店と日本食堂に行く。まず、そこの食堂で、オムライス定食をいただき、腹ごしらえをしてから、2階の事務所で待っていてくださっている森田さんを紹介していただき、お話を伺う。

現在86歳の森田さんは年齢よりもずっと若い印象で、お元気でしっかりとした、やさしいおじいちゃんだった。原爆投下当日の市内での被爆体験だけでなく、その後ブラジルに来られ、日本でいわゆる「原爆二法」と言われる被爆者援護法ができたことを80年代に知ってから、ブラジル被爆者協会を立ち上げ、ブラジルに多くの被爆者がいる事実を日本に訴えて、在ブラジルの被爆者援護に奔走してこられたそのご苦労とエネルギーに、頭が下がる思いだった。それにしても、海外に出た日本人はたとえ国籍が日本でも、もう日本人ではないというようなことをおおっぴらに言い、扱いをする日本のお役所の態度には、私自身も憤慨してしまった。

次の写真は森田さんのお店の2階の事務所でエドソンが撮影。右から、協会の会計理事の淳子さん。私と同じ鈴峯の出身とわかり、「(まさかブラジルで)同じ学校の同窓生と出会うなんてねえ・・・」と、とても喜んでくれた。淳子さんの隣は途中から何かの報告に来られた協会メンバーのおひとりで、皆さんからケンチャンと呼ばれていた。お隣は中村さんの奥さん。協会会長の森田さん。そして、私。

この後、サンタクルス病院に移動して、医療管理者の藤村ゆりさんという2世の方から病院のことや被爆者検診のことについてお話を伺う。中村さんの奥さんとゆりさんはとても仲良しの友達なので、私たちをとても暖かく迎えてくださり、気さくにいろいろお話してくださった。サンタクルス病院は戦前日本人が日本人移民のために作ったブラジルでは一番古い日系病院で、去年70周年を迎えたという。戦時中、敵性資産としてブラジル政府に一時没収されたりしたけれど、その後、90年に日系の病院として事業運営を日系人の手に取り戻し、現在に至っているという。現在はゆりさんの働きかけで、被爆者の検診支援も行っている。2004年以降、広島から隔年でやってくる被爆者検診の医師団は、この病院で被爆者検診を行っている。

日本語を話せるゆりさんや彼女のスタッフは、ポルトガル語を話せない日本人や日系人の人たちと、日本語を話せない病院の医師や看護婦との間のコミュニケーションを手助けする大切な役割を果たしている人たちだ。ポルトガル語をあまり自由に話されない中村さんの奥さんは、「事故や病気などの緊急の場合は、私をサンタクルス病院に搬送してください」という内容のポルトガル語のメモを、外出時には必ず持って出られるようだけれど、その気持ちがとてもよくわかる。次の写真は左から、中村さん。中村さんの奥さん。藤村ゆりさん。そして、エドソン。

午後6時前に病院を出て、地下鉄でバハ・フンダまで帰り、軽食を食べて、7時過ぎのバスで帰途につく。パーディーニョのホドサーブ・ソヒーソに9時半頃到着し、そこのガソリンスタンドに預けておいた車で10時過ぎに帰宅。エドソンが懐中電灯を持って、モビたちを迎えに行くと、大興奮で大喜びの2匹がエドソンより一足先に全速力でここに走って戻って来た。長い1日でちょっと疲れたけれど、とても有意義な1日になった。

2010年7月28日(水)

日本の移民政策に関連して、ドミニカ移民訴訟のことをふと思い出して、インターネットで調べていたら、「ドミニカ移民政策に見る 日本棄民の構図」という文章を目にした。その中に移民政策とたわけの論理の関係性に言及した文章があり、「たわけ」という言葉の説明がしてあった。時代劇などでよく耳にする「このたわけ者めが」などというせりふの「たわけ」にはこんな意味があったのかと、驚くやら、納得するやら。以下に、その部分を転載してみる。

『「たわけ」という言葉がある。渡部昇一『アングロサクソンと日本人』が指摘するのは、「農耕民族の特性である排他的メンタリティが、出るものは耕地の分け前が増えるので歓迎するが、逆に「耕すものが増えれば土地が減る」ことを極端に排除する」という「田分け回避の論理」だというものである。

言うまでもなく「バカ・間抜け」と同意語だが、語源はもちろん「田分け」であり、相続で田畑を小さく分けることを戒めた言葉である。これは農耕民族特有のものであって、遊牧民やそれを基盤とした「海洋国家」には無縁の発想である。

結局日本の開拓民や移民は、そうした「田分け」を防ぐことから生まれたものであった。次男三男以下は入り婿になるか、働き口を求めて外に出るしか道がなかった。勿論「武家社会」においても、次男三男は「あぶれもの」であった。明治維新という大革命の主役である武士階級は、心ならずも「秩禄処分」によって主役の座を引きずり降ろされて、当時の人口の10%を占める300万人という失業者となり果ててしまうのだった。

そうした元武士たちもまた、後の北海道の屯田兵や開拓民から、南北アメリカを始め、南樺太・満蒙、そして朝鮮・臺灣という新しい両地への移民という道を選ぶことになる。そうした移民政策の内情を見れば、それは明らかに「棄民」のそれであった。つづまるところ棄民の構造は、農業国の泣き所「たわけ」を避けるために生まれたもの以外のなにものでもなかった。』

2010年7月29日(木)

今日は、家事とモビたちの基本的な世話をする以外は、ひたすらコンピュータの前で、リポート書きに専念する。時々煮詰まっては、昼食休憩を取ったり、午後から日差しが出てきたので、足拭きマットを外に出して干したり、ゴミを出したりして、気分転換をする。私が出たり入ったりする度に、モビたちもすかさず起きてきて、外に出てストレッチをしたり、辺りをクンクン嗅いで駆け回ったりするけれど、それ以外の時間はキッチンとリビングの間に置いてあるベッドの中で毛布に包まってうたた寝をしている。彼らが常に側にいるため、家にひとりぼっちでいてもまったく寂しくないし、退屈しない。そして、私が家事などで忙しくしていれば、彼らはとてもおとなしくしていてくれるので、とても助かっている。

2010年7月30日(金)

ニッケイ新聞の2010年7月17日付けブラジル国内ニュースに「サンタカタリーナ州ルゼルナで初雪観測」と題する以下の短い記事が載っていた。

『南伯では14〜16日と最低気温が氷点下を記録する地域が続出し、サンタカタリーナ州ルゼルナでは15日朝初雪も観測された。降雪は僅か20分だったが地表はうっすらと雪化粧。山間部では18日未明まで降雪を見る可能性が高い様だ。寒波は当初の予想より長びき、13〜15日にはパラナと南大河州で低体温症などによる死者8人と報告されている。』

この週はここも雨が降り続き、寒い毎日だったけれど、こういう強力な寒波が南から来ていたからなのかと納得。どうりでここも寒かったのだ。

2010年7月31日(土)

去年の今日、パラカンビからパーディーニョに引っ越してきたので、パーディーニョでの生活も丸1年になる。丸々1年になる前に、と言っても、ほんの3週間前だけれど、何とか居候生活を脱して、ガレージに引っ越すことができ良かったと思っている。

ポルトガル語にfalar(話す、しゃべる)という言葉がある。英語のspeakと同じ意味の言葉なのだけれど、英語ではspeakだけでなく、sayや、tell、talkと言い分けなければならない場合も、ポルトガル語ではすべてこのfalarで済んでしまう。Fala com 〜. (〜と話しなさい)は、直訳するとSpeak with 〜. ということだけれど、英語的にはTalk to 〜. ということだし、Ele falou 〜. は、直訳するとHe spoke 〜. ということだけれど、英語的には He said 〜. とかHe told 〜. ということになる。

先日、エディナの美容院に行く途中で、偶然セージオに会ったので、エドソンが「Mudamos para a garagem. (We moved to the garage. ようやくガレージに引っ越したよ)」と言ったら、「Paulo falou.」という返事が返って来た。直訳すると「Paulo said that. パウロがそう言ってたよ」ということだけれど、より正しくは「 I heard it from Paulo. パウロから聞いたよ」という意味になるからおもしろい。

To be continued...


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