Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2010年4月1日(木) | ||||
ガレージの天井のコンクリートはゆっくり乾いた方がいいらしく、曇りがちで、お天気がぐずつくくらいの方がいいのだそうだ。でも皮肉なもので、火曜日に流し込みを完了して以来、とてもいいお天気が続いている。そのため、エドソンが毎日、朝仕事に行く前と、夕方帰宅してから、コンクリートに水を撒きに行っている。エディたちはコンクリートの流し込みが完了して以来、休眠状態。家の作業ができない間の時間を有効に使って、ゲートを完成させたり、シュハスコのかまどをつくる作業をしてほしいと頼んであるのだけれど、日曜日のイースターが終わるまでは仕事をする気はないようだ。 私はこのところ午前中は建設現場に行き、私たちが植えた木の周りの草を抜いたり、根元に培養土を撒いたりという作業をして、昼前後に戻って昼食を食べてから、少し休憩するという日課を送っている。今日は、ゲートの近くの竹などに培養土を撒く作業をしたので、ついでに、ゲートの前の道路に敷地内の砂利を運んでいって、雨が降るとぬかるむ部分を補修する作業をした。そして、家に戻る前にガレージの上のコンクリートに水を撒いた。 明日は、Good Friday、日曜日はイースターで、この週末は三連休になるので、パラナ州からマウリシオの家族が5人遊びに来ると、ドナ クレウザが言っていた。お昼前にゲートのところで作業をしていたら、車で出かけて行ったマウリシオが、すぐに別の車を連れて戻ってきた。家族が到着したようだ。 | ||||
2010年4月2日(金) | ||||
今日はGood Fridayで祝日。ウィリアムはジウダを伴ってやって来た。4日がパスコア(Pascoa、復活祭またはイースター)なので、ボロ・ジ・パスコア(Bolo de Pascoa、イースター・ケーキ)をお土産に持ってきてくれた。次の写真の右側がジウダからもらたボロ・ジ・パスコアで、左側はオーヴォ・ジ・パスコア(Ovo de Pascoa、イースター・エッグ)。オーヴォ・ジ・パスコアはジャナイーナからのプレゼントで、昨日、エドソンが職場から持って帰ってきた。
欧米ではイースターには色とりどりに色付けしたイースター・エッグが付き物だけれど、ブラジルでは玉子は玉子でも、チョコレート製のオーヴォ・ジ・パスコア(Ovo de Pascoa)が付き物。イースターの1ヶ月以上前から、スーパーやお店などではこの大きな玉子型をしたチョコレートがこの写真にあるようなカラフルなセロハンのようなものに包まれて、たくさんお目見えする。包み紙を取り除くと中から銀紙に包まれたオーヴォ・ジ・パスコが現れる。
この銀紙を取り除くと、玉子型のチョコレートが出てきて、その中は空洞になっていて、小さなチョコレートが数個入っている。どちらも食べることができる。でも、今年は原料の砂糖が値上がりしているため、販売価格はいつもより高めなのだそうだ。これはアルコール燃料に反対している人たちが言うように、サトウキビなどがアルコール燃料に回っているからではない。去年インドなどの旱魃の影響でサトウキビの生産量が激減したため、アルコール燃料に使うはずのサトウキビも市場価格のいい砂糖の方に回っていて、砂糖の価格だけでなく、アルコール燃料の価格も値上がりしているのが現実なのだ。
| ||||
2010年4月3日(土) | ||||
水曜日、木曜日と、無理をせずに、疲れすぎないように午前中だけ戸外での作業をしたのだけれど、それがどうもよくなかったのか、木曜日の夜中過ぎに頭痛と腹痛で目が覚めた。トイレに行き、鎮痛剤を飲んでベッドに戻ると薬が効いて少し寝ることができた。でも腹痛はだいぶ良くなったけれど、頭痛の根っこは残ったままで、あまり動けない。金曜日からほとんどずっとベッドに横になって過ごした。歳が歳だからおそらく更年期障害のひとつなのだろうと思う。金曜日の午後パウロが来たので、ジャナイーナが掛かっている婦人科の医師を紹介してもらい、彼女が初診の予約をしてくれることになった。パウロとジャナイーナには本当にいつも何から何までお世話になっている。ありがたい限り。 私がこんな状態なのに、今日ウィリアムは「お昼はカンポネーザに行くぞ」と言う。エドソンが「キョウコの体調が悪くて出かけられないから僕たちは失礼する」と言うと、「ああ、そうか」と言ってジウダと二人で出かけていった。エドソンは今日は1日ずっと私の側についていてくれていた。夕方からはお隣のドナ ベティの所に呼ばれていたので、私一人残って、エドソンはウィリアムたちと出かけていったのだけれど、偏頭痛には鎮痛剤は効かないようで、頭痛はひどくなるばかりで、薬のせいで胃が悪くなり、吐き気がしてきて、どうにも我慢できなくなった。我慢も限界ないので、エドソンを呼び返して、深い霧と雨の中、パーディーニョの病院の救急に連れて行ってもらう。 当直は若い女医さんだったけれど、とても穏やかで感じのいい人だった。看護師さんたちも感じがよく、手馴れた感じで血圧を測ったり、体温を測ったりして、医師の指示に従って、私に痛み止めの点滴をしてくれた。針を刺す際、ぜんぜん痛みがなく、点滴が終わった後も針を刺した周りが内出血を起こして青黒くなることもなかった。日本では、血液採取や注射などをするといつも腕が青黒くなっていたのだけれど、ここの看護師さんの方が腕がいいのかな?医師による診断は典型的な偏頭痛ということだったけれど、頭痛持ちでない私が何故偏頭痛を起こしているのかを調べるため、ボトゥカトゥにあるサンパウロ州立大学医学部で精密検査を受ける手配をしてくれることになった。点滴の後、吐き気を止める飲み薬をもらって飲み、少し休んでから帰宅した。 | ||||
2010年4月4日(日) | ||||
昨晩は病院から戻り、シャワーも浴びず、そのままベッドにもぐりこみ、朝までよく寝た。今朝、9時ごろゆっくり起きた時には、頭痛や吐き気はすっかり治まって楽になっていた。 朝起きると、ウィリアムたちは「イースターのランチをサンパウロで家族と一緒に食べるから帰る」という書置きを残して、いなくなっていた。早朝私たちふたりは良く眠っていたようで彼らが出て行ったのに気づかなかった。 それで、ふたりだけでゆっくり朝食を食べていたら、マウリシオが私の様子を見に来てくれた。パーディーニョの町に出かけると言うので、昨夜医師から処方された薬を買ってきてもらうよう頼んだ。 その後しばらくして、様子を見に来てくれたドナ クレウザと何だかんだと私の体調に関しておしゃべりをして、今日はお天気が悪くないようなので、溜まった洗濯をしようと、ぼちぼちと寝室やシャワールームを回って、タオルを集めたりしていると、またドナ クレウザが来て、マウリシオの妹さん(右端、マウリシオによく顔が似ている)と、彼女の16歳(お母さんの隣)と13歳(エドソンの隣)になる娘さんを連れてやってきたので、部屋に入ってもらって少しおしゃべりをした。今日まで私の体調が良くなかったので、顔を出すのを遠慮していたようだけれど、体調が少し戻ったので、お見舞いも兼ねて顔を出してくれてようだった。今回はマウリシオのお父さんとドナ クレウザのお兄さんも来ていたのだけれど、私は正式には会っていない。でもドナ クレウザのお兄さんからは、ティラピア(ブラジルでは一般的な川魚)を冷凍したものをおみやげにもらった。
彼らはパラナ州のホランジア(ここから南西に車で7〜8時間)に住んでいて、親戚には日系人と結婚している人もいるといっていた。さすがに日系人の多い地域だけある。この妹さんの下のもう一人の妹さん(30歳前後と思われる)は、今回は一緒に来ていないのだけれど、近々結婚式を挙げる予定らしく、マテウスが花嫁の指輪を運ぶ役を仰せつかったという。それでマテウスはその大役にとても興奮しているらしい。 | ||||
2010年4月5日(月) | ||||
2010年3月20日付けのニッケイ新聞の「日伯論壇」に、 実業のブラジル社代表の 永田翼氏の「クールな大人の日伯関係を」と題する記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こちらへ。 土曜日の夜、雨の中、私を救急に連れて行ってくれた際、私はベッドに横になって毛布をかけてもらって点滴を受けたのだけれど、私のベッドの横でずっと立っていたエドソンは寒かったのか、昨日から頭とのどが痛いと言い始めた。今朝起きると、さらに具合が悪いようなので、仕事を休ませてもらうことになった。今日もどんよりとした曇り空で薄ら寒い。私の偏頭痛は治まってはいるものの、首が痛く、そのせいで後頭部が痛い。そして、どうも体がすっきりせず、動けない。エドソンにルシアの所に電話をしてもらい、マッサージの予約をしてもらう。今日、午後3時に治療してもらえることになった。 2時半過ぎて家を出て、ルシアの所に行く。首や体全体のマッサージだけでなく、手のひらにお灸をしてくれたり、耳つぼ治療もしてくれた。そして、私の肩がコチコチにこっていると言って驚いていた。そして耳つぼ治療の際、アレルギー反応が出ていると言っていた。その通り。ここに生えているブラキアーリアという牛の飼料になる草に肌が触れると、私はじんましんのようなアレルギー反応を起こしている。2時間近く、ゆっくりと治療してくれ、更年期障害の改善にはここの耳のつぼ。安眠のためにはここのつぼ。毎日の体調を整えるためにはこうやって腹式呼吸をするようにと、いろいろ教えてくれた。治療が終わったら、首の痛みもずいぶん楽になっていて、体が治療の前とは比べ物にならないくらい、すっきりと軽く、楽になっていた。エドソンが治療前と治療後の私の表情が全然違うと言って驚いていた。 エドソンも風邪で調子が悪いので、マッサージを少しと、耳つぼ治療をサービスでしてもらった。治療後、次の患者さんは6時半の予約だから、それまで時間があるので、お茶を飲んでいってと誘われて、少し上のご自宅の方でお茶をいただいて、おしゃべりをした。治療の前だったらこんなおしゃべりをしていられる状態ではなかったので、すごい違いだ。ルシアには心から感謝。次回は来週の月曜日の同じ時間に予約をして失礼した。 | ||||
2010年4月6日(火) | ||||
昨日は1日どんよりとした曇り空で今にも雨が降り出しそうな薄ら寒い1日だったけれど、夜から雨が降り始め、今朝は強い風が吹き、雨も降っていてさらに寒い。長袖の下着(いわゆるババシャツ)を着て、トレーナーを着ていても寒い。このウィリアムの家の窓やドアは密閉性が低いため、外の冷たい空気が容赦なく入って来る、いわゆる隙間風だらけの家なので、今日のような日は家の中にいても体が冷えてくる。午後から雨はあがったものの、相変わらずの曇り空。今日の外気温は14度C、室温は16度C。 昨日のマッサージや耳つぼ治療のお陰で、今日は体が軽く、体調も悪くはないのだけれど、お天気が悪く気温が低いので体がこわばって、肩こりが戻ってきそうな嫌な感じがする。それで、肩をまわしたり、教えてもらった腹式呼吸をしたり、1日1回するようにと言われて貰って帰ったお灸を手のひらにしたり、用事をしていないときは毛布に包まって、体を冷やさないようにして、何とか体調の悪化を防ごうと努力している。 | ||||
2010年4月7日(水) | ||||
今日は降水確率5%ということで、たまった洗濯をしようと思ったら、何故か洗濯機が動かない。故障したようだ。洗濯機は台所の外のベランダにあるため、昨年来の多雨による雨や湿気で、コンセントがいかれたのかもしれない。この寒い日に手洗いか、トホホ・・・と思いながら、手洗いを始めると、ドナ クレウザが部屋の掃除に来てくれたので、洗濯機が故障したと言うと、いろいろ試してみてやはり動かない。それで彼女が普段、モビだちの毛布などを洗うのに時々使っているもう1台のひどく旧式で、小さな洗濯機を使えばいいと言って、使い方を教えてくれた。すすぎや脱水はできないとても原始的な物だけれど、少なくとも最初の洗いだけでもこれでできるので、とても助かった。今日は午後からたまに弱々しい日差しがあったけれど、結局、ほとんど1日曇り空だったので、手絞りの洗濯物は乾かず、明日に持ち越しとなった。 私の体調はほぼ回復したけれど、エドソンの風邪はブラジルに来て初めてという本格的なもので、とてもしんどそう。風邪薬に加え、鼻炎の薬も飲んで、今日も寒いので、いつもよりたくさん着込んで仕事に出かけて行った。私もエドソンも完全に冬の装いだ。今度ボトゥカトゥに行った際、暖房器具を買わなければと思う。ただ、この隙間風の家ではどんな暖房器具もあまり役には立たないかも知れないけれど、ないよりましなのではないかと思う。 | ||||
2010年4月8日(木) | ||||
今日の午後、急遽ボトゥカトゥに用事を済ませに行かなくてはならなくなり、ついでにエドソンの運動靴や暖房器具を見て回ったのだけれど、手ごろな値段でシンプルなデザインの靴がなく、あったと思ったら、エドソンのサイズがない。暖房器具も何だかちゃちなものを2種類見つけたのだけれど、う〜んどうしようと悩んだ末に、結局、今日は収穫なしという結果になってしまった。でも、帰りにウエノとパオン・ジ・アスーカーに寄って、食料品を買って帰ることができた。特に、ウエノではアセロラを1袋1.30レアル(約60円)で売っていたので、2袋買って帰った。これでジュースを作り、ビタミンCをたっぷり補給して、私たちの風邪をやっつけようと思う。
| ||||
2010年4月9日(金) | ||||
ジャナイーナの紹介で、彼女がかかっている婦人科のクリニックに、今日午後1時に予約が取れたと昨日パウロから連絡があったので、午前中、洗濯などをして(洗濯機は相変わらず壊れている)、12時前にエドソンの迎えでボトゥカトゥに向かう。 ブラジルでは公立の医療機関では、誰でも(ブラジルを旅行中の外国人などでも)無料で診察、治療を受けることができる。でも、こういうプライベートのクリニックは全額自己負担。ただ、プライベートクリニックのいいところは、いつ順番が来るとも知れない状態で何時間も待たされることはなく、予約の時間に、時間通りに受診でき、医師は親身になって面倒を見てくれるようだ。ドトー・ジョゼ(Dr. Jose)は感じのいい中年の男の先生で、英語を話すと聞いていたけれど、こちらの言うことは多少わかるようだったけれど、会話はすべてポルドガル語だった。現在の症状を話し、これまでの既往症とその治療はどのようなもので、どのような薬を使ったかなど、詳しく質問された。その後、別室で診察をして、胸とお腹の超音波検査と、血液検査をするように指示された。問診と診察でほぼ1時間近くを私たちのために費やしてくれた。日本のいわゆる3分診療では考えられないゆとりの診察だった。アメリカでも主治医を決めて、最初に受診する際は、家族の病歴までさまざまなことを聞かれ、記録されたけれど、それと同じような感じだった。人それぞれにさまざま歴史があるので、それらをできるだけ把握してからでないと、目の前の患者のことはわからないと考えているような印象だった。日本とはずいぶん違う。 ブラジルではアメリカ同様、このようなクリニックでは自前で検査などはせず、検査専門の施設に行って、医師の指示した検査を受ける。それで、そのクリニックの近くのそのような施設で、まず超音波検査の予約をし、次に数軒先の建物で、血液検査を受けようと思ったら、ブラジルでは血液検査の前12時間は食事をしてはいけないらしく、また日を改めて、朝食抜きで出直すことになった。 | ||||
2010年4月10日(土) | ||||
2010年3月27日付けのニッケイ新聞の「日伯論壇」に、 関西外国語大学教授(元ジェトロ・サンパウロ・センター所長)、桜井悌司氏の「ブラジルとその国民を日本人に理解させるには」と題する記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こちらへ。 昨日も今日もいいお天気になった。気温が低くても太陽が顔を出せば、多少気温が上がるので過ごしやすい。1ヶ月以上も前からパーディーニョの市役所に頼んでいた重機がようやく今朝一番で来てくれた。依頼をした当初はお天気は問題ないのに、重機の手配がつかず、ここ2〜3週間は重機の手配は整っているのに、悪天候が邪魔をして作業ができなかったため、延期につぐ延期で、時間ばかりが無駄に過ぎるという状態だったのだけれど、それがやっと解決した。作業の人には、家の北側の斜面を幅6メートルくらい平らに整地してもらい、シュハスコのかまどや、野菜畑や、花壇などを作る場所を作ってもらった。そして、入り口ゲートを入ったところの道路をもう少し車が入りやすい角度に直してもらったり、雨が降ると水が溜まってドロドロになり、車のタイヤが取られそうになる道路の部分を直してもらった。
朝7時半から仕事を始めても、お昼までに作業は完了しないので、作業の人にお昼を出さなければならない。でも、作業の人を頭数に入れてお昼を考えていなかったので、急ぎ昼食のおかずの材料を増やして5人分くらいにしたので、4人で何とか十分食べられる量になった。と思っていたら、ウィリアムが12時近くなって弟のブルーノ(Bruno)を連れてやってきた。う〜ん・・・5人で食べる量はない。急遽、豆腐があったので、冷奴を追加で出したけれど、焼け石に水・・・ 次の写真は、家の北側の整地が完了した様子。
| ||||
2010年4月11日(日) | ||||
昨日の夜、パウロとジャナイーナが夕食後にふらっとやって来た。イザベラが友達の誕生パーティーに出かけているので、彼女を迎えに行くついでにここに寄ってくれたようだった。彼らはいつもこうやって私たちのことを気にかけてくれている。ありがたい限り。金曜日のクリニック予約についてふたりにお礼を言って、先生の対応についてとても満足していることや、日本との違いなどについて話した。 今朝は朝食が済んで、しばらくすると、ウィリアムとブルーノはサンパウロに帰って行った。昼食を家族と一緒に食べる予定らしい。今日の昼食用にと昨日の夜から解凍していた鶏肉は、今日の晩御飯に回すことにし、ふたりだけのお昼は簡単に済ませることにした。午前中、私の洗濯が終わってから、昨日の整地作業の出来具合をふたりで見て回り、建設中の我が家の周りをのんびりと散歩して歩いた。ここに来ると嫌なことを忘れ、心がとても穏やかになると、エドソンは言う。ここは私たちが愛情をたっぷり注いで、掃除をしたり、木を植えたり、木に水をやったり培養土を加えたりして、精一杯手をかけている土地なので、私たちのプラスの気やエネルギーが溢れているのだと思う。 私たちふたりの体調はまだまだ回復途上だけれど、一時よりもだいぶ楽にはなった。エドソンは夜寝ている間、ベッドの中でひどく咳き込んでいたけれど、だいぶ軽くなり、咳き込む頻度が減ったように思う。昨日は朝早くから、重機のオペレーターの人と一緒に整地作業で忙しかったので、今日の昼食後エドソンは居間のソファーで横になって、音楽を聞きながらうたた寝をして、完全にお休みモード。 | ||||
2010年4月12日(月) | ||||
家の下のガレージの天井部分にコンクリートが入り、それが乾くのを待つ間、ゲートを完成させたり、家のこと以外でできる作業を進めて欲しいと、何度もエドソンがエディに頼んでいたのに、結局、丸2週間、まったく仕事に戻って来てくれなかった。先週エディと何回か話したエドソンの話しによると、彼のトラックが故障して、ボトゥカトゥの整備工場に出していたからということだけれど、トラックが故障したのはコンクリートを入れた翌日ではなく、数日後なのだから、少なくともその間お天気のいい間にいろいろ作業を進めることができたはず。作業に戻るのを先延ばしにしている間に、トラックが故障したのだから、それを言い訳にするのはどんなものだろうか?それにトラックが先週の金曜日に戻って来るから、今日から仕事を再開すると言っていたのに、今日も仕事に来ていない。 確かに、ぺドレイロの人たちの仕事は重労働だけれど、お休みがとても多いのも事実。年末年始に2週間。2月のカーニバルのシーズンに1週間。そして、ガレージの天井にコンクリートが入った3月末から2週間。この時期はちょうどイースターとも重なったのだけれど、これだけ休める仕事というのはそうそうないと思う。ぺドレイロの人たちの働き方も、私の理解を超えている。お天気が悪く平日全然仕事にならなかったとする。棟梁以外の人たちは日当を貰って仕事をしているので、平日お天気が悪く仕事にならないと収入もないということになる。だったら、週末にお天気が良ければ仕事をして、少しでも日銭をかせごうと、私なら思う。けれど、ここの人たちは1週間仕事ができず、収入がなくても、週末は働きたくないのだという。そうするとその1週間まったく無収入になるのに、それでも働きたくないのだという。あくせく働かなくても経済的にゆとりがあるから、というわけでは決してない。彼らの暮らしにそんなゆとりなどはない。まあ、人間らしいといえば、人間らしい生活かもしれない。でも、効率よく仕事をするとか、顧客のことを第一に考えるとかいう発想は皆無のようだ。それにいちいちカリカリしてもしょうがないのだけれど、やはり、時間だけが無駄に過ぎて行くと、情けなくなってくる。ここの人たちは時間もお金なのだということは意識にないようだ。そして時間は無制限にあると思っているのかもしれない。 今日私は午前中、建設現場に転がっている壊れたレンガを拾い集めて、雨が降るとぬかるみになる道路の数ヶ所に細かく砕いて敷きつめる作業をした。ここの土は雨が降るとドロドロになり、数日お天気が続くとカチカチになるというとてもおかしな性質があるため、なかなか手ごわい。 | ||||
2010年4月13日(火) | ||||
昨日は、予定通り午後3時にひとりでルシアのところに行き、再度治療をしてもらった。今回は背中のマッサージの代わりに竹筒を熱で真空にして、背中に吸い付けるというのをやった。6本の竹筒を肩や腰に2度にわたって吸い付けたのだけれど、特に痛くも痒くもなかった。その他、腕、手、脚、足裏、肩、首、頭、顔のマッサージや、お灸、耳つぼ治療と、やはり2時間たっぷり治療してくれた。前回のような体や首の痛みはもうないのだけれど、風邪をひいているので、喉の痛みを軽減するつぼとか、風邪を治すつぼなどを最後に集中してやってくれた。そして、虫に刺されて傷だらけになっている私の手と脚を見て、「かわいそう」と言って、2種類の粉末にハチミツを加えたものをくれ、これに水を混ぜて、傷に塗るとよくなるというものを貰って帰った。治療代は初回が80レアル(約4000円)、2回目からは60レアル(約3000円)で、ブラジルの物価からすると安くはないのだけれど、初回は更年期障害に効くというお灸を5日分くれ、風邪をひいているエドソンにも少し短いマッサージと耳つぼ治療をサービスでしてくれたし、2回目の今回は虫刺されの傷にと薬をくれ、結局、いつも支払っている金額以上のことをしてもらっているように思うので、とてもありがたい。何よりも、治療を受けた後はとても調子がいいのだから、ルシアがここにいてくれて本当に良かったと思う。
エドソンの話しだと、エディが昨日仕事に来なかったのは、注文していたセメントが届かなかったからなのだそうだ。でも、それにしても、ちゃんと予定通りに仕事ができるように前もって注文していたのかどうか怪しい?エディはいい人だけれど、時間の管理がいまいちだなあと思う。 この日曜日の夕方、マウリシオが洗濯機のコンセントを直してくれたので、また洗濯機が使えるようになった。ヤッホー!彼はだいたいのものは何でも直してくれるのでとてもありがたい存在だ。洗濯の後、エディたちにコーヒーポットを持って行くついでに、エドソンが昨日買って来てくれた花の種を整地したところに撒くことにした。まず培養土を全体に撒き、種を撒く部分に筋を作って、少しずつ種を撒き、その上から再度培養土をふりかけ、水をやり作業完了。でも花の種を何種類も買ってきてくれていたけれど、1袋にほんのちょっとしか入っていないため、全然足りない。エドソンにもっと買ってきてもらわないと、整地したところを花いっぱいにすることはできない。将来的にここに花壇を作るつもりなのだけれど、それまでほったらかしにしておくと、またブラキアーリアがはびこってしまうので、それを防ぐために、花の種を撒くことにした。 | ||||
2010年4月14日(水) | ||||
昨日エドソンがぶどうをたくさん持って帰って来たので、どうしたのかと思ったら、事務所の前を行商の人がリヤカーを引いて通ったので、呼び止めて買ったのだと言う。1キロ5レアル(約250円)と安かったし、とても甘くておいしかったからと、言っていた。今日お昼に洗って食べてみると、本当に甘くておいしかった。次の写真は洗う前の、そのぶどうの一部。
エドソンはこういう行商の人を見ると、とても親近感がわくらしく、先月も台所用のふきんを10枚10レアル(約500円)で売って歩いている人が事務所に来たので買った。と言って、ふきんを10枚持って帰って来てくれた。以来、このふきんはとても役に立っている。東京に住んでいるときも亀有に引っ越した後、夕方になると、豆腐屋のおじいさんが自転車で豆腐を売りに来るラッパの音を聞きつけて、急いでアパートの下までおりて行って、おじいさんを呼び止めて豆腐を買うということをよくしていた。彼が家にいない平日は、スーパーの豆腐ではなくこのおじいさんの豆腐を買って欲しいとわざわざ私に言うくらいだった。彼自身10歳の時に、まだ町外れのファームに住んでいた頃、月に一度、そこのバナナを収穫しては、放課後に町の病院の前に行って売る行商をしていたことがあり、その収入で家計を助けたり、読みたいエレクロトニクスの雑誌を買ったりしていたというから、同じように一生懸命働いている人を見ると応援したくなるのだと思う。 | ||||
2010年4月15日(木) | ||||
昨日は夜、パウロのところで夕食に呼ばれて行った。私たち夫婦とパウロの家族だけの普通の夕食だと思っていたら、ジャナイーナの弟のエズマー(Esmar)の誕生日を祝う夕食会だった。お隣の町コンシャスからパウロの仕事関係の人たちも3人ほど来ていた。次の写真はエズマーとマリア・パウラ。二人ともフラッシュに目が反射して赤く写ってしまった。失敗。失敗。
人が大勢集まるときはシュハスコと決まっているようで、パウロの家の裏のシュハスコのかまどの周りでジャナイーナが用意したご飯やフェイジョンやサラダと、パウロが焼いて少しずつ出してくれるお肉に舌鼓を打った。次の写真はシュハスコのかまどで、いろいろな種類の肉を焼いているところ。かまどの火はウィリアムの所では木材を使うけれど、パウロは炭を使っていた。おいしいはずだ。
次の写真は、イザベラとマリア・パウラと私。
| ||||
2010年4月16日(金) | ||||
ガレージの天井のコンクリートが乾き、天井を支えていたスチールパイプなどが取り外され、壁を塗ったり、床にタイルを張ったりする準備が進み始めたので、昨日、エドソンは仕事を休んで私と一緒に、ボトゥカトゥに建築資材の調達に出かけた。いつも車を置くメインストリートの駐車場で、私たちよりもちょっと早く入って車を駐車していたマーセロにばったり出会った。これから銀行に行った後で、ガレージの床に敷くタイルを買いに行くところだと言うと、その駐車場からほど近い所に、私たちが知らなかったいいお店があると教えてくれたので、行ってみた。そこでは比較的安くタイルが手に入り、配達もパーディーニョのことはよく知っているようで、翌日配達が可能だというので、最初に行こうと思っていた店には行かず、そこですべてガレージの仕上げに必要なものを購入した。そして、今朝一番で、建設現場に黄色いトラックが来ていると思ったら、約束通りにタイルなどを配達しにきたトラックだった。店のオーナーにアグアス・ダ・セハのマーセロから聞いてやって来たと言ったからだろうか?とても親切な対応をしてくれた。 今日付けで、中国新聞の海外リポートに、私の17本目のリポート「ドライバーの味方ホドサーブ」 が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。次の18本目のリポートはいつ掲載になるかわからないけれど、先週すでに中国新聞に送ってあるので、昨年の4月末からリポートを中国新聞に送り始めたので、この1年間に18本のリポートを書いたことになる。自己満足ながら、よく書いたと思う。書き始める前はそんなに書くことがあるかなあ?と、ちょっと不安に思ったりしたけれど、書き始めると、身の回りに結構書くことがたくさんあり助かった。次の1年間も同じペースで書けるかどうかはわからないけれど、このリポートを書くことで、ただここで暮らしているというだけではなく、いろいろな事に興味を持ち、いろいろな資料を読み、いろいろな人と出会い、話しを聞き、私自身いろいろなことを学んで来たので、本当に良かったと思っている。私を中国新聞に紹介してくれたフランスの利枝さんと、私にブラジルからのリポートを依頼してくれた中国新聞海外リポート編集担当の西村さんに感謝。 | ||||
2010年4月17日(土) | ||||
昨日の午前中、洗濯を済ませた後で、木曜日にボトゥカトゥに行ったついでに買ってきた肥料を、竹やグレヴィーリャなどに撒く作業をした。小さなスコップに1杯ずつ木から少し離れたところにぐるっと撒いて、水をやった。入り口ゲートのグレヴィーリャとフェンス沿いの竹の半分くらいにも肥料をやったのだけれど、水場から遠いので、ここの水やりは翌日、つまり今日することにした。 2010年4月2日付けのニッケイ新聞の「日伯論壇」に、 日本貿易振興機構(ジェトロ)サンパウロ・センター所長 、佐々木光氏の「アジア型に移行する日本企業の対伯投資」と題する記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こちらへ。 2010年4月2日付けのニッケイ新聞の「コラム樹海」には、次のような記事も掲載されていた。 『『文藝春秋』2 月号に堺屋太一の移民導入論がでていたが、読み終えて少々物足りない感じを受けた。現場を見ていない人がひねった、机上の空論のような印象か。移民を受け入れることに関する実感がこもっていない。移民はどのようにしてその国の人間になっていくのかという部分が空っぽなのだ▼移民の「送り出し」と「受け入 れ」はコインの裏表だ。しかるに、日本における移民大量導入の議論がどこか空回りしたものになっているのは、送り出した過去を、歴史的にきちんと総括していないからではないか。日本移民がブラジルでどのような痛みを感じてきたかを、幅広い日本国民が認知していれば、受け入れる際の苦労も想像でき、どう受け入れるべきかという具体的な議論につながる▼送り出し側はどんな社会的な事情があり、そこから送り出される人々が日本に行くことで生じるメリットは金だけなのか。世界第2位の経済大国の地位を中国に奪われつつある今、日本はいつまでも「一等国」とは言っていられない時代になりつつある▼しかも、移民は「労働力」である以前に人間だ。人口が減ると消費が減って産業が衰退するとか議論する時の、単なる統計上の数字ではない。移民がその国に根付くには最低でも3世代かかる。日本移民がそれを証明している。日本政府は100年がかりの長期的なビジョンで移民政策を考えているのか。移民一世に過度の日本語能力を求め、必要以上の同化圧力をかけていないか▼まずは送り出した過去を見つめ、日本側のメリットだけでなく、移民側にとってのそれも総合的に論じてこその新しい移民政策ではないか。(深)』 | ||||
2010年4月18日(日) | ||||
ずっと以前にエドソンがジャトバス研究所のエリゼウに頼んでいて、マウリシオと一緒に取りに行った際、マウリシオのトラクターに取り付けたカートに積みきれず残したままになっていた7本(または7株)の竹を、数日前にエリゼウが届けてくれた。それで、木曜日の午前中、ボトゥトゥに行く前にその内の2本を植え、昨日3本を植え、今日残りの2本を植えた。木曜日に植えた竹は、エリゼウが持ってくる種類を間違えたのか、孟宗竹のような感じで、私たちがこれまでに植えた3種類の竹とは見かけが全然違うような気がする。でも、もう植えてしまったので、返すわけにも行かず、ありがたくそのままにして置くことにする。実のところ、孟宗竹は他の竹よりも値段が高いので、植えたいと思っても手が出せなかったのだ。もしこれが孟宗竹だったら、棚から牡丹餅というところだろうか?次の写真は孟宗竹と思われる2本の竹。
次の写真は、昨日と今日2回に分けて植えた5本の竹。和名は姫縞竹(ヒメシマダケ)といい、日本原産の竹らしい。
| ||||
2010年4月19日(月) | ||||
丘とか山を示す言葉がポルトガル語にはたくさんある。morro=モホ(丘、小山、貧民窟)、monte=モンチ(山、峰、丘)、serra=セハ(山脈、連山、山)、montanha=モンターニャ(山、山岳、山脈)。モホとモンチはどちらもだいたい丘という意味で、ほとんど同じような使われ方をする。セハとモンターニャは山とか山脈という意味で、これらもほぼ同じように使われている。それぞれの言葉の使い方に何か決まった区別があるのかどうかは、私にはまだよくわからない。 今月初めのリオデジャネイロでの豪雨による土砂崩れで、大きな被害が出た地域の名前はMorro de何とかというところがほとんどだった。モホに貧民窟という意味が入っているのは、リオやお隣の二テロイではファベイラ(貧民街)はだいたい国が所有する丘の上に、不法に作られているから、丘すなわち貧民窟になるのだと思う。サンパウロは大きな盆地で、比較的平らな町なのであまり急峻な丘がない。そのためサンパウロのファベイラは丘の上ではなく、川沿いの空き地とか、道路沿いの空き地とか、やはり国が所有している土地に不法に作られている。サンパウロでは川が氾濫したりすると、こういう地区に被害が続出する。 先月の中旬頃、山つつじのような紫色がかったピンクの花が咲き誇っていると書いたけれど、それから2週間くらい遅れて、4月になってからハナミズキのような感じの花が咲き始め、満開になった。1本の木にピンクや白の異なる色の花が咲き乱れていてとても美しい。ここの森の木はみな野生なのだけれど、去年の6月にアチバイアのデマーコの所に遊びに行った際、彼の家の前の歩道にこれと同じ花が咲いていた。これは秋に咲く花のようだ。でもあいにく名前はわからない。
| ||||
2010年4月20日(火) | ||||
ポルトガル語で、Claro que sim.(クラロ ケ シン)とか、Claro que nao.(クラロ ケ ナオン)という表現をとてもよく耳にする。これらはそれぞれ、Yes, of course.(もちろんそうです)そして、Of course, not.(もちろん違います)という意味。それと、Fica vontade.(フィカ ヴォンタージ)という表現もとてもよく耳にする。これは基本的にMake yourself at home.(楽にしてください)の意味で使われるのだけれど、それ以外にも、Suit yourself.(好きなようにしなさい)とか、That's OK.(構いませんよ)という意味でも使われている。 Pode deixer.(ポージ デイシャー)という表現もよく聞く。これは英語にするとI agree.とか、That's OK.とか、Don't worry.とかいろいろな意味になる。日本語にすると「はい、大丈夫です」とか、「いいですよ」みたいな意味だろうか? それから、日本語の「ええ」とか「ね」とかいう言葉は、ポルトガル語から来ているのではないかと、最近私は疑っている。ポルトガル語のser動詞の「E」(Eの上にはアクセント’ がついている)は、これ一言だと日本語同様「はい」とか「そうです」という肯定の意味に使われる。ポルトガル語の「Ne. (Nao e.の省略形)」も、日本語同様に念押しというか、同意を求めるというか、確認のような言葉で、「きれいね」などと言うときポルトガル語でも「Bonito ne.」などと言い、日本語の「ね」と使われ方がまったく同じなのだ。これらはポルトガル語では文法的に説明がつくのだけれど、日本語ではどうしてこういう言葉が使われているのか説明がつかないように思うので、ポルトガル語から借用しているのではないかと思う。また、「たくさん」という意味で「たんと」という言葉が日本語にはあるけれど、これもポルトガル語に同じく「たくさん、または、とても」という意味のtantoという言葉があるので、これも借用したのではないかと思う。そうしてみると日本語の中にはポルトガル語から借用した言葉がとてもたくさんあることになる。 | ||||
2010年4月21日(水) | ||||
今日は、「Tiradentes(チラデンチス)の日」で祝日。去年のブログにも書いたけれど、ブラジルの独立運動の中心人物だったため、ポルトガルにより裁判にかけられ、公開処刑された歯科医のJoaquim Jose da Silva Xavier(ジョアキン ジョゼ ダ シウバ シャビエー)という人を記念する日。Tiradentesというのは歯(dentes)を抜く(tirar)人を意味する言葉。ちなみに歯科医はポルトガル語でdentista(デンチスタ)。 2010年4月7日付けのニッケイ新聞「コラム樹海」に次のような記事が載っていた。 『自分が見せたいものを相手に見せるのではなく、相手から求められるものを見せるのはかなり難しい。でも、これが今後の日伯関係の鍵だと痛感する。最近の日伯論談でも、伯国で成功する韓国企業を見習って、現地から本当に求められる製品を売る戦略を立て直すべしとの意見が出ていたが、その通りだ▼例えば3月8、9日に聖市内 ホテルで行われた日本総務省と伯国通信省によるブロードバンドワークショップでも、日本が見せたい先端技術と、伯国側が切実に必要としている技術のレベルがあまりにもかけ離れている印象を受けた。例えばLTEという次世代携帯電話の仕様で、100Mバイト以上の高速通信を可能にする技術などを一生懸命売り込んでいたが、当地は未だインターネットどころか未電化地域すらある超格差社会であることが考慮されていない▼伯国の説明を聞き、求められているのは高速通信ではなく、遅くても安定しており、一人の大統領の任期中(4年間)に全伯で普及が終わり、なおかつ現実的な値段のプロジェクトだと感じた▼その翌週11日からは聖市ビエナル館で、経済産業省が日本のゲームやアニメなどを紹介する「国際コンテンツフェスティバル」をやったが、週末にも関わらず閑古鳥が鳴いていたという。マンガ・アニメ関係のイベントに数万人の若者が集まる聖市で、本場日本から乗り込んで数千万円を投じてイベントを実施したにも関わらず、だ。現地の若者が見たいものでなく、日本が見せたいものを持ってきたに違いないと思った。日伯関係を盛り上げるには、このへんのズレを早めに修正した方が良いと思う。(深)』 | ||||
2010年4月22日(木) | ||||
ブラジルの首都はブラジリア。昨日はチラデンチスの日であると同時に、首都がリオデジャネイロからブラジリアに移って50周年の記念日だった。ブラジリアではいろいろなイベントが行われたようで、テレビで50周年記念のニュースをやっていた。 1956年1月から3年10ヶ月の歳月をかけ、ブラジル国土の東西南北のほぼ中心に新首都ブラジリアが建設された。そして、1960年4月21日、ブラジル政府はリオデジャネイロ市からブラジリアへと遷都したので、2010年の今年ちょうど50歳の誕生日を迎えたというわけだ。 ブラジリアは、正式にはブラジリア連邦直轄区(Distrito Federal)と呼ばれ、ゴイアス州から分割された地区にあるブラジル連邦政府が直轄する区(連邦区)。ブラジルには26の州があけれど、ブラジリアはブラジルの地方行政区分における27地方のひとつとして扱われている。26州州知事と同格の連邦区知事(ブラジリア市長を兼務)が置かれている。アメリカ合衆国の首都ワシントンDCと機能が似ている。また、ブラジリアは1987年に、世界遺産に登録されている。 次の写真はブラジリアにある国会議事堂。
| ||||
2010年4月23日(金) | ||||
今朝早くマウリシオと彼の家族は、ここから西に3〜4時間くらい行ったマリリア(Marilia)という町で行われる彼の妹さんの結婚式に出席するために出かけていった。結婚式は土曜日の夜あるので、それが終わって日曜日にこちらに戻るということだった。 一方私は、今日は朝食抜きの血液検査と、超音波検査を受けるためにエドソンと一緒にボトゥカトゥまで出かけて行った。前にも書いたけれど、ブラジルでは血液検査の採血前12時間は食事をしてはいけないという決まりがあるらしく、そのため朝食は抜き。私は日本で採血や点滴をすると、針を刺した周りがほぼ毎回内出血を起こして青黒くなっていたけれど、ここでの点滴や採血では内出血を起こすことはなかった。この違いは何なのだろう?採血の後、超音波の検査まで少し時間があったので近くの店で朝食を食べた。採血の際も超音波検査の際も、それぞれ担当の看護師さん(黒人の男性)とドクター(白人の女性)がとても気さくで、まるで長年の友人のように親しく話すところが、いかにもブラジルだなあと感じた。ブラジルでは価値観や常識の違いで、人とのかかわりで苦労することが多いけれど、その一方で、日本やアメリカではあり得ないほど、とても気さくで暖かい人たちが多いことも事実で、それがブラジルの大きな魅力のひとつでもあるから不思議だ。 これらの検査の後、銀行での用事を済ませ、建築資材のお店で必要な資材の調達をし、パオン・ジ・アスーカーで食料品を買って帰宅。帰宅後、パーディーニョでさらに2〜3用事を済ませ、今日は効率よくたくさん用事を済ませることができた。この3日間エディたちが仕事に来てくれないため家の建設はストップしている。その分せめて自分たちでしなければならないことを今日は効率よく達成でき、少し満足。 | ||||
2010年4月24日(土) | ||||
ニッケイ新聞の2010年4月8日付け「コラム樹海」に、とてもやるせない記事が載っていた。 『戦後移民が始まって間もない1956年、文協に「就職相談部」が設置された(59年に援護協会に移管)。就職斡旋が主なものだったが、今でいう〃心のケア〃も重要な仕事だった。ブラジルや配耕地に適合できず、ノイローゼになってしまう移民も少なくなかった。脱耕、国援法での帰国―。絶望の果てに自らの命を絶った人もいただろう▼親に連れられ、子供の頃に来たからといって順応したとは限らない。アイデンティティに疑問を抱き、コンプレックスを抱えてしまう例も多かったろう。ブラジルで生まれ、小学校を戦前日本で過ごした老婦人。言葉の違いを種にいじめられた。「ポ語は話せないけどブラジルがいい。日本には2度と行きたくない」という言葉が記憶に残っている▼今月4日付けの茨城新聞が、2月に県内牛久市の入管センターで命を絶った25歳の日系人男性について報じた。5歳で訪日。両親の別居、いじめ、そしてお決まりの非行―。道交法違反容疑、覚せい剤取り締まり法違反などで刑務所に。服役中のヴィザ更新は認められない。強制送還されれば、家族のいる日本には2度と戻れない。訴えを起こしながらも、昨年11月に移管された同センターで首を吊った▼家族の写真に書かれた「幸せになって」のメッセージが残った。「もし私が帰れと言われたら…ポ語も分からないし、どう生活したらよいか」と妹。ブラジルに兄弟の知人はいない。犯した罪を悔い、壁のなかで彼は何を思ったのだろう。少なくとも〃祖国〃に帰る選択はなかった。考えるほどに、やるせない話だ。(剛)』 茨城県牛久(うしく)にある入国管理事務所の収容所というのは、人里離れたとても交通の便の悪いところにあると、以前、難民支援をしている人から聞いたことがある。この日系の若者はその収容所に隔絶されて、家族から引き離されて、言葉もわからない、頼る人も誰もいないブラジルへ強制送還されることを毎日恐れ、精神的に追い詰められたのだろうか?この記事を読んで、以前、東京YWCAでかかわったクルド人難民の男性のことを思い出した。国連難民高等弁務官事務所で難民と認定されているにもかかわらず、日本では難民として認められず、裁判に訴えても認められず、月に1度入国管理事務所に出頭する日に強制収用、強制送還になるのではないかと日々恐れ、出口のない、わずかな明かりの一条もない暗闇にいるいるような状態に絶望し、彼も自暴自棄になって自殺しようとしたことがあった。この若者と違い、幸い彼の周りには難民支援センターやアムネスティ日本といった彼を気遣う人たちがいた。その出来事のすぐ後に、正式に難民として第三国への入国を認められて、十数年の日本での不安定な生活から脱して出国し、安住の地を得ることができたからよかったけれど、彼とかかわっている間は、日本の法律の非情さと、日本社会の冷たさに、私自身どうしてあげることもできず、とてもつらかったことを思い出す。 ウィリアムはひどい風邪で調子が悪いので、今週末はここには来ないと昨日連絡があった。金曜日の早朝からマウリシオの家族もマリリアに行っていて留守なので、ここに来て以来初めての私たちふたりだけ(もちろん犬たちはいるけれど)の本当に静かな週末になった。そして、この静けさをさらに増幅するハプニングがいろいろあった。木曜日は風が強かったためか夕食が済んだ頃に停電し、10時頃に停電が解消するまでロウソク1本で暗闇の中で手持ち無沙汰に過ごした。昨日の金曜日は、夕方から降り始めた久しぶりの激しい雨のせいかインターネットがダウンしてしまい、今朝もその状態がしばらく続いたので、何とも陸の孤島に取り残されたような感じだった。 | ||||
2010年4月25日(日) | ||||
昨日の朝、私たちの家の建設現場に散歩に行き、ゲートまで行くと、牛の集団がゲートのすぐ側に集合していた。そして、お隣との境界線からは入って来れないはずなのに、エドソンがゲート付近で牛の足跡を見つけた。彼らの内の何頭かはどうやったら境界線を越えられるか学習したようで、エドソンは、彼らはどうやったらみんなが境界線を越えられるかを話し合っているに違いないという。でも、一緒について来た大きな犬たちが牛を見て、追い払ってくれたので、事なきを得た。エディに早くゲートを作ってもらわないと、いつまた牛たちがやって来て竹を食べるかと心配でならない。 金曜日から留守にするドナ クレウザが、木曜日にウィリアムのために作っておいた大きなパンが5つもある。いつも週末をここで過ごした後、彼はこのパンをサンパウロに持って帰るのだけれど、今週末は来なかったので、私たちだけでは食べきれない。それで、1つは私たちの食べる分で取っておき、1つはドナ クレウザが戻ったら食べてもらうことにし、残りの3つを昨日の午後、いつもお世話になっているパウロの所に持って行った。我ながらいい考えだと思った。パウロの家は彼ら4人と、ジャナイーナの両親とおばあさんの3人で、合わせて7人家族なので、大きなパン3つと言ってもすぐなくなるのではないかと思う。 | ||||
2010年4月26日(月) | ||||
今日はエドソンと私のふたり分の確定申告のことで税金の専門家に相談をするために、サンパウロまでバスで出かけることになった。朝9時にマウリシオに、カステロブランコ上にあるホドサーブ・ソヒーソ(RodoServ Sorriso)まで車で送ってもらった。このホドサーブは海外リポートで紹介したホドサーブ・スターよりも西にあり、カンポネーザというレストランの近くにある大きなホドサーブで、ここもいろいろな長距離高速バスが発着している。次の写真は私たちが利用した、マノエウ・ホドリゲス(Manoel Rodrigues)というバス会社の切符売り場と、私たちが乗るバスが到着したところ。サンパウロまでの料金は35.25レアル(約1700円)だった。
以前にも書いたことがあるけれど、サンパウロ市内を東西南北に走る地下鉄の終着駅(南北線のチエテ駅は終着駅ではないけれど)は、長距離バスが発着するホドビアーリア(バスターミナル)と直結しているため、足の便がとてもいい。私たちのバスは東西線の西の終着駅のバハ・フンダ駅に到着するので、バハ・フンダ駅からは地下鉄に乗り換えて移動できる。税務コンサルタントのタカハラさんの自宅兼事務所はサンパウロ市の南東部にあるため、セー駅で東西線から南北線に乗り換え、さらにビラ・マリアナ駅でバスに乗り換えて行かなければならなかったけれど、バハ・フンダ到着から約1時間で到着することができた。 タカハラさんは両親が岡山県出身の日系2世で、大学で経営学を学び、卒業後に公認会計士の資格を取得。以後、税務の専門家として税務コンサルタントの仕事をしてこられたようだ。おそらく70代と思われるけれど、日本語もポルトガル語も自由に話され、とても親切にいろいろ説明をし、私たちの疑問に丁寧に答え、申告の手続きをしてくださった。彼は日本から帰国した人たちを支援する、俗称、デカセギ・センターと呼ばれるところで、ボランティアで日系の人たちの税務相談にも応じていると聞いた。
タカハラさんのところで無事、確定申告の手続きを済ませ、リベルダージまで戻ると、まだ5時前だったので、明日の朝行こうと思っていたニッケイ新聞に行ってみることにした。でもちょうど明日の新聞掲載原稿の最終チェックで忙しい時間帯だったようで、15分くらい待ってくださいということだったので、私たちは予約をしておいたすぐ近くの安ホテルにチェックインの手続きをしに行き、時間をつぶしてから出直した。昨年7月にペトロポリスの安見さんを取材させていただくのに、ニッケイ新聞の女性記者の方に連絡先を教えていただいて以来、何か疑問なことがあると連絡をしていろいろ教えていただいていたし、イビウーナの香山さんからも以前から「サンパウロに行ったら、一度リベルダージにあるニッケイ新聞に行って、編集長の深沢さんに挨拶しておくといいですよ」と言われていたので、「お世話になっています。ありがとうございます。これからもよろしく」というつもりで顔を出したのだ。次の写真は、編集長の深沢さんと。
この後、夕食を食べようと、リベルダージをうろうろと歩き回ったのだけれど、適当なお店が見つからず、仕方なく、ホテルの近くの「ムサシ」という日系のファーストフード店のようなところで、焼きそばと焼き飯とギョウザのコンボというのを頼んで食事をした。一皿10レアルちょっと(約500円)だった。店名もそうだけれど、メニューがすべてYakisobaとか、Yakimesi、Gyoza、Teppanyakiと言った日本語名で、手巻き寿司のようなものもメニューにあったので、おそらく日系の食堂なのだと思う。
リベルダージは元々日系人の人たちが多く住み着いていたのだけれど、近年、店主の高齢化によるためか、客足が減ったからなのか、日系のお店が次々に店じまいをしていて、その代わりに中華系の人たちが進出してきているため、今ではチャイナタウンと言ってもいいような雰囲気になっているような気がした。去年初めてリベルダージに来たときよりも、中華レストランの数は確実に増えているようだった。 | ||||
2010年4月27日(火) | ||||
昨日ニッケイ新聞での挨拶を済ませたので、今朝はリベルダージでの買い物を済ませれば、予定していたすべての用事が済む。日本と違って、ブラジルのお店は朝の開店が結構早いので、9時頃にはホテルをチェックアウトして、近くの日系スーパー「丸海」に行き、ボトゥカトゥのウエノにはない食料品を買うことができた。そして、お隣の日系の雑貨屋でスリッパを買おうと思ったのだけれど、その店はまだ開店していなかったので、リベルダージの地下鉄の駅の近くの別の店でスリッパを買い、日系の書店でイザベラのお土産にするために、ポルトガル語で書かれた折り紙の本と折り紙を買い、バハ・フンダに向かうことにする。次の写真はリベルダージの地下鉄の駅を上がって地上に出てきたらすぐ目の前にあるブラデスコ銀行の建物。まるで歌舞伎座か何かを真似たようなデザインで、リベルダージには相応しいと思った。
次の写真は、リベルダージの駅を上がってきて、大阪橋のあるガルバオン・ブエノ通りに入る方向を写したもの。日系スーパー「丸海」はこの通りを入ってすぐ、大阪橋の手前にある。
リベルダージから地下鉄でバハ・フンダまで戻り、昨日到着時に買っておいた午後発のバスの切符を早い時間のものに変更してもらうために、切符売り場に向かっていたら、マウリシオとドナ クレウザの長男のマーコス(Marcos)と彼の奥さんのクリシア(Cricia)にばったり出会った。
彼らは今朝3時にパーディーニョを出て、バハ・フンダに5時に到着し、買い物をして10時20分のバスでパーディーニョに戻るところだという。私たちも10時20分のバスに変更することができたので、一緒に帰ることになった。彼らはそれぞれカステロブランコ上にある2つの異なるホドサーブで仕事をしているのだけれど、副業として、パーディーニョの人から頼まれた品物をサンパウロまで買いに行って手数料を取ったり、サンパウロで買って来た品物を販売したりしているらしい。 | ||||
2010年4月28日(水) | ||||
昨日は12時半にバスがパーディ−ニョのホドサーブに到着し、マーコスからの連絡で、マウリシオが迎えに来てくれていたので、みんなで一緒に家まで戻ってきた。帰宅するとエドソンは建設現場に行って、エディと長い間話をしていた。私は荷物や買って来た食料品などを片付けたり、留守中にもらったメールに返事を書いたりして過ごした。夕方からはエドソンとパーディーニョにある窓やドアを作ってくれる工場に行って、以前から頼んでいたガレージのドアや窓のことで、最終的な打ち合わせをした。 今日は、エドソンは仕事に行き、私は午前中は洗濯や、モビやフィオナの体を洗ったりという家事をし、午後からは、中国新聞の海外リポートやブログを書いて過ごした。 次の写真はバハ・フンダの地下鉄の駅で撮った、サンパウロ市内の地下鉄と近距離鉄道の路線地図。サンパウロには地下鉄とバスだけでなく、例えば、バハ・フンダからさらに北西に向かう近距離の鉄道などがあるようだった。
| ||||
2010年4月29日(木) | ||||
今週は、私たちがサンパウロに行っている間も、エディたちが毎日仕事に来てくれていたようで、また少しずつゆっくりと家の建設が前進し始めた。でも、今ここで何が大変と言って、家の建設が思うように進まないことほど大変なことはないように感じている。毎日「何故?」「どうして?」と思わない日はないくらいだ。ニッケイ新聞の編集長の深沢さんに、「ブラジルの生活はどうですか?」と聞かれ、「う〜ん。大変です」とただ一言答えたら、笑いながら「わかります」と言っておられたけれど、最初は誰でも大変なのだろうなと思った。物の考え方とか、時間の感覚とか、常識とか、価値観とかが、ブラジルの人たちの多くと、私たちとではずいぶん違うので、人とのかかわりが多ければ多いほど、その違いに戸惑うことになるのだからしょうがないのかもしれない。 でも、基本的にはこんな田舎町に来てしまったのに、何とか生活して行けているのだし、私たちのことを気遣ってくれる、とても暖かく優しい人たちにも恵まれているのだから、それらをプラスマイナスすると、プラスになる。だからあまり「大変」「大変」とばかり言っていてはいけないのかな?とも思う。 | ||||
2010年4月30日(金) | ||||
先日、サンパウロのタカハラさんのところで確定申告の手続きをし、オンラインで申告書を提出することができたけれど、税金は銀行に行って払わなければならないため、確定申告の最終日である今日、午後からエドソンとふたりでボトゥカトゥの銀行に行き、支払いを済ませた。その後、ボトゥカトゥに行ったついでに、先週やった私の血液検査などの結果が出ているかどうかを検査施設に行って確認すると、どちらもできていたのでもらって帰ることができた。次の手順としては、ドトー・ジョゼのクリニックに予約を入れ、これらの検査結果を持って行って見てもらい、診断を仰ぐことになる。日本では血液検査などは数値の一覧表のようなものを印刷して本人ももらったりするけれど、レントゲンなどの写真類は病院が保有し、本人の手元には残らない。でも、ブラジルではすべて本人の手元で管理することになっているらしい。 その後、建築資材のお店で追加の資材を調達し、パオン・ジ・アスーカーで食料品を買ってから帰宅した。エドソンは仕事が忙しいようで、私を一旦家まで送ってから、また仕事に戻って行った。 |
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |