Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2010年3月1日(月) | ||||
今年ブラジルは大統領選挙の年。まだ選挙戦は始まっていないのだけれど、昨年末あたりから、各政党のキャンペーンコマーシャルをテレビでよく見るようになった。サンパウロ州知事のセハ(Serra)氏(ニッケイ新聞ではセーラ知事と表記しているけれど、Rがふたつ重なるとHの発音になるので、Serraはセーラではなくセハと発音する方が正しい)と、現ルラ政権の官房長官を務めるホウセフ(Rousseff)女史(これもニッケイ新聞ではロウセフ官房長官と表記しているが、単語の先頭にRが来たらHの発音になるので、ホウセフが正しい)が一番の有力候補と言われている。でも、カルドーゾ前大統領は、「ロウセフ官房長官は、ルーラ大統領の腹話術で演技をする人形に過ぎない。同候補の支援者は、人形に疑問を抱いている。官房長官は指導者の器ではなく、ルーラ大統領の影である」と酷評していると、ニッケイ新聞に載っていた。ホウセフ女史ががん手術後の化学療法で、髪の毛を失いながら、しばらくかつらをつけて政務に励んでいた姿は、個人的には同じようなサバイバーとして共感できる部分もあるけれど、指導力や政策面ではやはり不安の方が大きい人らしい。ブラジルが国家的破綻から今の状態まで盛り返すことができたのは、前のカルドーゾ大統領の政策が正しかったからで、その同じ党で、実績があり、真っ当な政策を掲げるセハ知事の方がこの国を正しい方向に導けるのではないかと、知識層の人たちは考えているようだ。でも、文字は読めても文章読解力がないという多くのブラジル国民が、そのことを正しく理解できるかどうか?ブラジルも日本同様、大多数の人は文句を言うだけで、では、どうすればいいかということを本気で考える人は少ない。そのような社会環境で、国民が正しい選択をすることは至難の業かもしれない。 次の写真はそれぞれサンパウロ州知事のジョゼ・セハ(Jose Serra)氏と、ルラ政権下の官房長官のジウマ・ホウセフ(Dilma Rousseff)女史。
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2010年3月2日(火) | ||||
ここのファームの管理人さんのマウリシオとドナ クレウザ夫婦の二男のマテウスは、昨日から学校(午後の部)への登校が始まるはずだったのだけれど、午前中に学校から電話があり、この町外れの地区から登校するのはマテウスだけなので、ひとりのためだけにスクールバスを回すことはできないと連絡が入ったらしく、ドナ クレウザはムイト シャト(Muito chato. つまり、「困った」)と言って、がっかりしていた。この町外れの地区から学校に通うのはマテウスしかいないのは、ずっと以前からわかっていたことで、今始まったことではない。それに、そのことを理由にこれまで学校(幼稚部)への入学が遅れていて、ようやく手配がついたから、今年から通学することになったのだとばかり思っていたけれど、新学期が始まるその日にこんな連絡をしてくるなんて、この学校の対応は何だかとても理解しがたい。公立の学校なのだから、もっと別な対応があるのではないかなあと、思えてしょうがない。 この連絡を受け、昨日の午前中の仕事を終えて、お昼の休憩で戻ってきたマウリシオが学校に出向き交渉した結果、午後の部ではなく午前の部に通学するということを条件に、スクールバスを回してもらえることになったらしく、マテウスは、今朝6時半に迎えのスクールバスで出かけて行ったようだ。午後の部を午前の部に変えたところで、この地区から通学する生徒が他にいるわけではないので、何がどう違うのか良くわからないけれど、とにかく、学校に行けるようになったことは良かった。学校が終わるのは正午だそうで、今日は登校初日で緊張しているだろうから、帰ったらきっと疲れてお昼寝をするだろうと、ドナ クレウザが言っていた。 今日はお昼前に、ガレージの天井部分(上の家の床部分)用のレンガや資材が届いたので、エドソンは1日仕事を休み、その配達に立会い、支払いなどをした。家の建設はゆっくりながら、少しずつ少しずつ前に進んでいることはうれしい。その後、お昼過ぎにボトゥカトゥに用事を済ませに行く。私たちの車はリオで買ったので、パラカンビを居住地として登録し、保険もパラカンビ在住としてかけている。そして、リオデジャネイロ州では年に1回の車検が義務付けられている。でも、サンパウロ州のパーディーニョに引っ越してきて、これからずっとここに住むのだから、リオまで車を持っていって車検を受けるわけには行かないし、いろいろな手続きをこちらで簡単に出来るように、パーディーニョを居住地として登録し直し、保険もパーディーニョ在住でかけ直す必要があるため、その手続きをするために、まず車検を受けに行くことになったのだ。教えてもらった場所はボトゥカトゥのメインストリートに近く、とてもわかり易い場所で、待たされることなくすぐにやってもらえ、40〜50分ですべて完了した。車検結果の書類を受け取り、50レアル(約2500円弱)を支払い、車検完了。この書類を登録代行のサービスをしてくれる行政書士のような人の所にもって行けば、後はその人が手続きをしてくれることになっている。サンパウロ市在住なら、リオと同様、年に1回の車検が義務付けられているらしいのだけれど、サンパウロ州の他の町ではそのような車検が義務付けられておらず、パーディーニョはパラカンビよりもさらに小さな田舎町なので、保険料も安くなるという利点もある。 | ||||
2010年3月3日(水) | ||||
2月は毎日お天気の良い暑い日が続いていたけれど、月末辺りからお天気が崩れ、南から寒冷前線が上がってきているらしく、曇りがちで時々雨がしとしと降ったりする日々が続いている。気温も急にがくんと下がり、あっという間に夏が終わり、秋が来たという感じだ。昨日、ボトゥカトゥに出かけたときに車に搭載された温度計を見ると、昼間なのにしとしと雨が降っていたせいもあって、外の気温は19度しかなかった。薄ら寒いはずだ。ボトゥカトゥの町でも半袖のTシャツ姿の人がいないわけではないけれど、大多数の人たちは長袖のシャツやトレーナーを着ていた。 2010年2月16日付けのニッケイ新聞の日系社会ニュースに『今年も日系人がたくさん参加=盛り上がる聖市カーニバル=日本移民テーマの隊列も=「中国の存在感増した」』と題した、記事が載っていた。この記事のサイトは、こちらへ。 この記事で紹介されているサブリナ・サトウ(Sabrina Sato)というモデルの日系人女性は、お父さんがレバノン系で、お母さんが日系なのだそうだ。「セクシーでかわいい日系人」が彼女のキャッチフレーズで、明るくて素朴で、額のほくろと、腰の上にあるハートのタトゥーがトレードマークなのだそうだ。と言っても、私は彼女の名前は以前から何かで見かけて知っていたけれど、まだテレビで彼女をじかに見たことはない。ちなみに、ブラジルには彼女のお父さんのようなアラブ系の人たちが結構いる。ただ、彼らはブラジル社会にうまく溶け込んでいるようで、例えば、女性がイスラム教の教義に従い頭にスカーフやブブカを被っていたりはしないので、外見からだけでは、アラブ人かどうかはよくわからない。食べ物にしても、例えば、ランショネッチなどではもともとはアラブの食べ物である、キビ(ひき肉を香辛料で味付けして、小さなラグビーボールのような形に整えて、揚げたもの)などが、パステウやコシニャなどと並んで販売されていて、ブラジルの人たちはそれがアラブの料理だなどとは特に思わず食べているような気がする。
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2010年3月4日(木) | ||||
今日は午前中久しぶりにお天気が回復し、太陽が顔を出したので、衣類の洗濯の他に、ベッドシーツやタオルなどの大物の洗濯に精を出す。今週、エドソンは車のアルコール燃料を節約するために、私に送り迎えをさせないで、自分で車を運転してパーディーニョの町まで出かけ、パウロの家に車を置かせてもらって、そこからほんの3ブロックほど歩いて、仕事に出ている。1月中旬からパウロの会社で仕事を始めたので、月々わずかながらお給料がもらえるようにはなったものの、家の完成までには、まだまだお金がかかるので、無駄遣いは極力避けて、削れるところは削る経費節約の努力をしているのだけれど、これもその一環。 今日、中国新聞からのメールで、先々週掲載されたカーニバルのリポートが短縮されて、9日付けの夕刊紙に転載されることになったという連絡があった。これで私のリポートが夕刊紙に転載されるのは3度目。うれしい限り。感謝。感謝。次のリポートは来週末までに送ろうと考えている。 エディたちの建設作業は、昨日、ガレージの上の天井にレンガを並べるために作った枠に、コンクリートを流し込む作業が終わったので、そのコンクリートが乾くのを待つ必要があるらしく、今日はどうも作業はお休みのようで、誰も作業に来ていない。天井にレンガを並べ終わると、次に、その上からさらにコンクリートを流し込み、平らにする作業をする。そして、そのコンクリートが乾くのをまた2〜3週間待つという手順を踏むらしい。そのコンクリートが乾くのを待つ間は、下水処理の浄化槽の設置をするのだと思う。去年はここの市役所が町外れのファームを対象に、下水処理の浄化槽の設置を推進する事業を行っていて、それを利用すると費用が安く出来たらしいのだけれど、先月、エドソンが市役所に行って問い合わせてみると、その事業は去年で終わり、今年はやっておらず、自分たちで浄化槽を購入して、設置しなければならないということだった。それで、エドソンはいろいろ調べたり、エディたちとも相談して、今週ようやくその手配を完了した。 エディは口数の少ない寡黙な人だけれど、正直で、バランス感覚に優れ、人の意見にちゃんと耳を傾け、それを尊重しながらも、自分の意見もはっきりと言うことの出来る人なので、エドソンはとても信頼し、頼りにしている。エディの人柄に好意を寄せ、一目も二目も置き始めている。 | ||||
2010年3月5日(金) | ||||
以前、ここには「ハーハーハーハー」と、まるで笑っているように聞こえる鳴き声の鳥がいると書いたことがあるけれど、たぶんその鳥と思われる鳥の写真を撮ることができた。この鳥は飛びながら鳴いて、地上にいる時は鳴かないため、100%の自信はないけれど、色といい、大きさといい、たぶんこの鳥だと思う。鳥までちょっと距離があるので、良くわからないかもしれないけれど、緑の草の中を歩いている中央のねずみ色の鳥がそう。
今週から学校に行き始めたマテウスは、吃音があるため、それを直すための特別な訓練を受けることになったらしい。でもその前に、その吃音の原因が精神的なものなのか、神経的なものなのかを検査確認するように学校から言われたらしく、今日は朝6時に家を出て、ボトゥカトゥの耳鼻咽喉科に検査に行くことになったらしい。お昼過ぎに一家が帰宅するまで、ここで私は犬たちとたったひとりで過ごすことになった。明日からパラカンビに数日行く予定なので、洗濯をしたり、朝食用に持参するバナナブレッドを焼いたり、荷造りなど旅行の準備をして過ごす。 | ||||
2010年3月6日(土) | ||||
朝、いつも通りに起きて、朝食を済ませ、荷物を車に積み込み、9時半頃パラカンビに向けて出発する。途中、舗装道路に出るまでに、トゥカーノが何羽も飛んでいるのを見かけた。そして、前方のちょっと離れた木の上にトゥカーノが一羽止まっていたので、車を止めて、エドソンが窓を開けて写真を撮った。やっとここの生のトゥカーノの写真を撮ることができた。
高速道路のカステロブランコまで降りる途中の道路は、まだ地滑りと陥没の補修が行われておらず、相変わらずひどい状態のまま放置されており、カステロブランコに上り下りするアクセス道路も、陥没したまま手付かずで、陥没の状態がさらに広がってひどくなっていた。パーディーニョの市役所は一体何をしているのだろう?そのため、また少しカステロブランコを後戻りして迂回しなくてはならなかった。そして、いつものように、カステロブランコ上のホドサーブでアルコール燃料を満タンにしてもらい、燃料を満タンにした際、サービスでしてくれる洗車もしてもらう。その間、売店で水やお土産のチョコレートを買って時間をつぶす。今日は何故か、ガソリンスタンドとホドサーブの建物の間に戦車が止まっていたので、写真に撮った。
次の写真は、ここのホドサーブの建物の外観。ここにはサンパウロ市とサンパウロ州の西部の都市を結ぶ長距離高速バスの発着場がある。この写真の右側に見えるのは高級家具店。どれもこれも値段が高く、私たちには手が出せないものばかりだけれど、結構センスのいいものを置いている。
次の写真は、カステロブランコをサンパウロに向け走っている車窓の風景。カステロブランコはソロカーバを過ぎた辺りから交通量の増加とともに片側3車線になり、サンパウロに入ると4車線になるのだけれど、この辺りはまだ2車線だけ。それでも交通量が少ないので、とても楽に走ることができる。上りの道路と下りの道路の間に、4車線以上の道路を造れそうな広い緑地帯がある。
パーディーニョから約1時間ほど行ったソロカーバの辺から雨が降り出し、その後は延々リオまで500キロにおよびこれでもかと言うほど雨が降り続いた。途中、サンパウロ市内など、ひどい土砂降りの所がいくつもあり、交通量の多さと相まって、制限時速120キロのところを60キロで走行しなければならない所もあった。そして、フロントガラスに吹き付けるひどい雨と、前を走る車が巻き上げる水しぶきで、前の車のテールランプもよく見えないような状態の所もあり、パラカンビまで8時間足らずで到着するはずが、今回は9時間近くかかってしまった。でも途中、何台もトラブルで止まっている車や、リオデジャネイロ州内に入って、反対車線では事故があったようで、ひどい渋滞を横目に、私たちは事故なく無事にパラカンビに到着することができ、感謝。感謝。 でも、パラカンビは雨だというのに暑く、扇風機なしではやっていられない蒸し暑さだった。そして、ファームの家に落ち着くなり、早速ふたりとも蚊の襲来に遭い、あっという間に、何箇所も刺されてしまった。やれやれ・・・ | ||||
2010年3月7日(日) | ||||
去年9月末にエドソンのお父さんが亡くなり、そのお葬式でここに来た時は、この家の掃除がしばらくされていない状態で、寝室のクローゼットは相変わらずかび臭い状態だったけれど、今回はきれいに掃除が行き届き、クローゼットのかび臭いにおいはドアを開けるとまだ多少におうものの、ドアを閉めていたらにおわないため、ずっと住みやすくなっていた。どうやらエドソンの助言に従って、妹のエリカたちが週末などをここで過ごしているようで、タンスには彼女たちの着替えのシャツなどがあり、冷蔵庫にも飲み物や食べ物がいろいろ入っていた。 看護士をしているエリカは昨晩、夜勤だったため、仕事に出るぎりぎりまでここで私たちを待っていたようだけれど、雨のため私たちの到着が遅れたので、待つのをあきらめて仕事に出たようだった。けれど、夜勤明けに、ご主人のデニウソンの車でここに来て、彼ら持参のパンとコーヒーに、私たち持参のバナナブレッドとヨーグルトなどを一緒に食べながら、いろいろと積もる話をした。 お昼はここから南西に40分ほど行ったイタグアイ(Itaguai)という町にある、人気のレストランDom Zelittu's(ドン・ゼリッツ)に行こうということになり、1時頃から4人で出かけて行く。
ここではブラジル風バーベキューのシュハスコが食べられるレストラン(ここのサラダバーには、すしなどもあるらしい)と、コミダ・ミネイラ(Comida Mineira、つまり、ミナス・ジェライス州の郷土料理)が食べられるレストランがあるというので、コミダ・ミネイラのレストランの方に行くことにする。レストランはちょっと南国風の作りで、入り口には日本語で「Yokoso」というサインも出ていた。
レストランの入り口を入った所に、コルコバードのキリスト像のような大きな顔のある池があり、鯉が泳いでいた。
シュハスコ・レストランは普通、食べ放題だけれど、このコミダ・ミネイラのレストランも同様に食べ放題で、料理が並んでいる所に行って、好きなものを好きなだけ自分のお皿に盛って、テーブルに戻って食べるシステムになっていた。料理が並んでいる場所はちょっと暗く、料理を冷まさないために下にお湯が張ってあるため、湯気で何だかよくわからない写真になってしまった。
次の写真は、私のお皿。黄色いサフランライスのようなご飯と、白いご飯に刻んで炒めたベーコンが入っているような2種類のご飯をよそい、おかずは、煮豆、牛タン(?)とジャガイモの煮物のようなもの、ローストした鶏肉、キャベツのサラダ、オニオンリング、餃子のような肉詰めして揚げてあるもの、そして、コウヴィの炒め物。
次の写真は、エドソンのお皿。彼はサフランライスのご飯の他に、鶏肉の煮込み、豆のサラダ、スパイシーなチョリソー、コウヴィの炒め物、ソーセージ、そして、コーンミルでできたポーレンタのフライ。
次の写真は、テーブルの上に敷かれた紙のテーブルクロスにあったこの店の宣伝。
次の写真は、食後のデザートにとデニウソンがみんなに取ってきたローストバナナ。見た目が黒く、一見何だかおいしそうではないけれど、これがどうして結構おいしいのだ。
このレストランには土産物売り場もあって、ミナス・ジェライス州の人形など、民芸品がたくさん棚に並んでいた。
さらに、ピンガ(サトウキビで作ったブラジルのお酒、カシャサとも言う)のお店もあった。
この写真に写っている男性は、エリカのご主人のデニウソン。私がカメラを構えているのを見て、急いで隠れようとしているところ。
ここでゆっくりお昼を食べて、午後4時頃パラカンビに戻り、お母さんの家に行く。しばらくお母さんと話をして、お隣の従兄弟のベッチーニョとイザベウの家にも挨拶に行く。夜は夜で、お母さんが作った料理をせっかくだからいただくことになり、少量を無理して食べた。今日は何だか朝からずっと食べてばかりの1日になってしまった。 | ||||
2010年3月8日(月) | ||||
昨年9月末に、パラカンビに来た際、パラカンビとリオの間にあるノヴァ・イグアスの連邦警察に行き、私の外国人登録後の正式な身分証明書を受け取ろうとしたのだけれど、まだ出来ておらず、1月か2月に再度出直すように言われた。そのため、今回の旅の主な目的は、この連邦警察で私の身分証明書を受け取ること。 朝、9時過ぎに家を出て、ノヴァ・イグアスの連邦警察に行くと、いつもの窓口はいつになく大勢の人たちが待っていて、1時間以上順番が来るのを待たなければならなかった。でも、さすがに今回はちゃんと身分証明書が交付された。身分証明書を見ると、去年の9月24日の発行になっていた。私が外国人登録をしたのが3月23日。そのちょうど半年後に発行されているのだけれど、ブラジリアからノヴァ・イグアスに届くまでに数日かかり、内部で処理されるのにまた数日。結局、発行から4日後の9月28日では、まだ受け取れなかったのだ。後、1週間遅く行けば、受け取れたのかもしれない。それにしても、日本ではエドソンの外国人登録証は区役所で、即日発行されたのに比べると、何とも無駄に時間がかかりすぎるような気がする。ブラジルでは選挙の投票もすべて電子化されて、アメリカや日本のように1枚1枚票を数えたりはしないし、税金の確定申告も来年からはすべてインターネットでしか受け付けないことになったというのに、何故、こういう仕事もオンライン化して各支部で即日発行出来るようにしないのだろうか?と思う。 でもとにかく、これで今回の旅の一番の目的を達成でき、一安心。お昼前にはパラカンビに戻り、お母さんの所でお昼をいただき、その後、歩いて銀行に行く。ここも前回はスト決行中で、住所変更などの手続きを済ますことができなかったのだけれど、今回はすんなりすべての手続きを済ますことができた。その後、ベトさんのハチミツ店に行き、ハチミツを2キロとプロポリスの抽出液を数本買って帰る。ここのハチミツは良質なので、バナナブレッドを作る際、砂糖の代わりにこのハチミツを使うと、なかなか上品な味になり評判がいいので、私はこれを愛用している。 その後一旦、お母さんの家に戻り、挨拶をしてから、エドソンの友人のフランシスコのオフィスに行き、少し話しをした。そして、フランシスコから紹介された、通信教育の会社を経営しているファビオのオフィスにも寄って、いろいろ話しをして、7時頃ファームの家に戻る。エリカが仕事を終えてファームの家で待っていてくれたので、一緒に軽く食事をする。 今回は、エリカたちとゆっくり話したり、食事に出かけたり、短時間にさまざま用事を済ませたりすることができ、とても有意義なパラカンビ訪問になった。ほぼすべての目的を達成できたので、明日はパーディーニョに向けて帰ることにする。 | ||||
2010年3月9日(火) | ||||
朝ゆっくり起きて、朝食を食べ、私が荷造りをしている間に、エドソンはエライニが育ててくれているフランボヤンや柿の苗木などを、車のトランクや後部座席の床に乗せて準備をしてくれた。車だと、荷物がいろいろあっても、トランクや後部座席に乗せて帰れるのでとても便利だなあと思う。すべての荷物を車に積んで、エライニに見送られてパラカンビのファームを9時過ぎ頃後にする。 土曜日はひどい雨だったけれど、日曜日からはずっといいお天気が続いており、今日もいいお天気。そのため問題なくスムーズにドライブできた。サンパウロ州内に入り、アイルトン・セナ道路まで来て、例によって、フランゴ・アサードで昼食休憩を取る。お昼は軽く、レストランではなく、ランショネッチで食べることにする。次の写真は私たちのお昼のメニュー。左はエドソンのお皿で、フォーリャード(Folhado、つまり、チキン・デーニッシュ)とキビ、右は私のお皿で、鶏肉の串揚げとコシニャ。そして飲み物はオレンジをその場で絞ったフレッシュ・ジュース。
次の写真は、ちょっとピンボケになってしまったけれど、コシニャの食べかけの写真。コシニャはコロッケに似ているのだけれど、ちょっと違うので、その違いを見てもらうために、食べかけのコシニャの中身を写真に撮ってみた。つぶしたジャガイモの中に、調理して味付けされた鶏肉がはいっている。
フランゴ・アサードの入り口のところにサンパウロ州の地図があり、このフランゴ・アサードの場所が、VOCE ESTA AQUI.(You are here.つまり、現在地)と右側に示してあったので、エドソンにパーディーニョの場所(左側)を指で示してもらって、写真に撮る。ここからパーディーニョまでは約3時間の道のり。
昼食の後、グアルーリョス国際空港の近くを通り、サンパウロ市の北部を東から西に貫くマージナル・チエテという幹線道路を行くのだが、チエテ川を挟んで上り車線と下り車線が通っていて、片側4車線にもかかわらず、いつも車が溢れて渋滞している。トラックは右側2車線を通行することになっているため、右側2車線はノロノロ運転のトラックで溢れていて、時々、左側の車線にトラックが侵入してきたりする。
このマージナル・チエテを抜けて、カステロブランコに乗れば、後はスムーズにパーディーニョまで戻れる。でも、途中でだいぶ疲れてきたので、カステロブランコのホドサーブでトイレ休憩をして、運転をエドソンに代わってもらい、無事、4時過ぎにパーディーニョに帰り着くことができた。 | ||||
2010年3月10日(水) | ||||
昨日は夕暮れ前に家に帰り着くことができたので、荷物を車から降ろして片付けた後で、散歩がてら、家の建設現場に行って、留守中の進捗状況をチェックして歩いた。ガレージの天井にレンガを並べるための準備が進んでいた。壁の黄色いパイプのようなものは、電気の配線のためのパイプ。
私たちがパラカンビに向かった土曜日は、ソロカーバから東はずっと大雨だったけれど、ここは土曜日もそれ以後もぜんぜん雨が降らない晴天続きだったようで、植林した木が大丈夫か見に行ってみると、幸いみんな元気にしていて安心した。でも、ご近所の牛たちが昨日、うちの敷地に入ってきてしまって、入り口に近いところの竹の葉を食べてしまったらしく、竹が数本裸になっていた。エディが気づいて、牛を追い払ってくれたので、被害は数本で済んだようだけれど、竹よりも手前にあるグレヴィーリャは夾竹桃のように毒性があることを、牛たちもよくわかっているらしく、そちらはまったく被害がなかったのは驚きだった。ご近所の放牧地からうちの土地には、基本的には牛は入ってこれないようになっているのに、どうやって入ってきたのだろう?こうなると、急いでゲートを作らなくてはいけない。 今回のパラカンビへの旅行は、ちょっと疲れたので、今朝はゆっくりと朝寝をする。エドソンは家の建設の今後の手順をエディと話し合い、先月分の支払いをする必要があるため、午前中は仕事を休んで、ずっと建設現場に行っていた。午後から仕事に出ようと思っていたらしいけれど、午後からはゲートの位置を決める作業をすると言うので、私も朝から続けていた洗濯が終わってからその作業を手伝う。 | ||||
2010年3月11日(木) | ||||
エドソンは今日から仕事に戻り、私は家事の合間に、留守中に届いていた郵便の整理をしたり、メールに返事を書いたり、ブログを書いたりして、1日を過ごした。 今回、パラカンビに行った機会に、高速道路沿いにあるホドサーブ(RodoServ、日本のサービスエリアや道の駅のようなもの)についてリポートを書こうと思い、写真をいろいろ撮ってきたので、その写真の整理をして、リポートを書く準備もする。 2月末くらいから急に涼しくなっていたパーディーニョから、暑いパラカンビに行って、何だかずいぶん疲れたけれど、パーディーニョに戻ってきたら、すっかり夏が戻ってきていて、夜もいつもより気温が高いため、疲れがすっきり取れない感じだ。 | ||||
2010年3月12日(金) | ||||
パラカンビから戻って以来、毎日暑い日が続いているので、外での作業は先延ばしにしていたのだけれど、そうそう先延ばしにもできないので、今日は、木に水をやったり、パラカンビから持って帰ってきた苗木を、少し大きめの鉢に植えなおしたりする作業をした。外で私が作業をしていると、モビとフィオナがずっと側にいて私のすることをおとなしく見ている。彼らの「いつも側にいる」という愛情豊かな行動と、存在にはとても癒される思いだ。犬は本当に人間のいい友達だと思う。 2010年2月27日付けのニッケイ新聞の「日伯論談」に、元伊藤忠ブラジル会社社長、筒井茂樹氏の『日伯の「含み資産」活用を』という興味深い記事が掲載されていた。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2010年3月13日(土) | ||||
去年の3月13日の早朝、サンパウロ国際空港に到着したので、今日で、ブラジルに来て暮らし始めてから丸1年が経過したことになる。いろいろなことがあったので、長かったような、短かったような・・・ 諸手続きを済ませるまでのパラカンビでの4ヵ月半は、なかなか事がスムーズに運ばず、まだかまだかと待っていたので、長かったような気もする。ようやくパーディーニョに引っ越してきてからも、家の建設がなかなか進まず、すでに7ヵ月半も居候生活が続いているため、これも長いような気がするけれど、家の建設が進むのを待ってはいるものの、少しずつ進展が目に見える状態にあり、腰を落ち着けて生活しているので、パラカンビにいた時のような焦りのようなものはない。ただ、できるだけ早く現在の居候生活から脱したいとは思っている。 この1年間、いろいろな事(人)に振り回されながらも、たくさんの出会いがあり、私たちの周りにいる多くの人たちの好意に助けられ、エドソンと二人、何とか元気にやってこれたのだから、「ありがたい」というより他に言葉がない。 | ||||
2010年3月14日(日) | ||||
今日は、アメリカーナ(Americana)という町で、エドソンの趣味のアマチュア無線のイベントがあるというので、朝から一緒に出かけて行った。8時を少し回って家を出て、ホドサーブで燃料を満タンにして出発。ここからカステロブランコを東に向けて1時間くらい走り、ソロカーバ(Sorocaba)でカステロブランコを下り、そこから北に約1時間半ほど行ったところにある。途中の高速道路はよく整備されていて、何の問題もなくアメリカーナまで行けたのだけれど、アメリカーナの町に入ってから、道路標識が不備で、またしても迷ってしまい、行ったり来たり。途中のガソリンスタンドで道を聞いて、ようやく11時を少し回って会場にたどり着く。
去年の5月にパーディーニョに来ているときに、ソロカーバの手前のイペロ(Ipelo)というところであった同じようなイベントに行ったけれど、それよりも会場が少し広く、参加者も多いようだった。けれど、基本的にはサンパウロ州内各地から集まるアマチュア無線愛好家が旧交を温めたり、自分たちのやっているプロジェクトについて参加者に話したり、意見交換したりと自由な催しで、特に決められたプログラムがあるわけではない。前回のイペロのイベントの時に知り合った人たちも来ていた。
今回は、イベント参加者の中の最高齢者と思われる90歳のラズロ(Laszlo)さんと知り合った。彼はハンガリー出身のユダヤ人で、フランスの大学から国に戻っている時に戦争が始まり、4年間の強制収用所生活を生き抜いたというホロコースト体験者。身長が180センチ以上ある大きな人だけれど、強制収用所から開放された時は、体重が50キロしかなかったのだそうだ。その後イタリアの難民収容所で3年ほど収容され、そこで知り合った同じく難民のロシア人女性(非ユダヤ人)と結婚し、小さな手提げかばん2つとわずか10ドルほどを持って、27歳の時に、ブラジルに移住してきたのだという。それから63年。リオ、ベロオリゾンチ、サンパウロと移り住み、離婚と再婚を経験し、次男さんは日系2世の女性と結婚しているという。何とも波乱万丈な人生。ブラジルは移民の国なので、いろいろな人がいて当然なのだけれど、こういうすごい人生を背負った人たちが、ごくごく普通にいる国なんだなあとあらためて思う。彼はブラジルのことが大好きだと言っていた。何ヶ国語も話すことができ、英語は子供の頃から家庭教師について勉強していたそうで、とても流暢だった。年齢が年齢なので、足元が少し危なっかしかったり、補聴器を着けていたりはするけれど、背筋がまっすぐのびて、頭も体も90歳とは思えない元気な人だった。
午後3時過ぎに会場を後にし、パーディーニョに戻ることにする。ソロカーバ辺りまで戻ってきたら、南西の空が恐ろしいほど真っ黒なので、エドソンが車の窓を開けて写真を撮った。
ソロカーバでカステロブランコに乗る少し前くらいから強い南風が吹き出し、雨が降り始めた。カステロブランコに乗ってしばらくすると、台風のような猛烈な暴風雨の中を走る状態になり、周りに走っている車はほとんどいないものの、雨と風がひどく、前が良く見えないため、制限時速120キロのところを70〜80キロに落として走らなければならなかった。約20分程で暴風雨圏を脱し、西に向かうほど、徐々にお天気が回復して行き、ほっと一安心。無事パーディーニョまで帰り着くことができた。カステロブランコを東に向かう反対車線は、週末をサンパウロ州内陸部の別荘などで過ごして、サンパウロに戻る人たちの車で数珠繋ぎになっていた。カステロブランコがこんなに混雑しているのを初めて見た。 | ||||
2010年3月15日(月) | ||||
昨日の夕方アメリカーナから戻り、しばらくすると雨が降り出した。夜の間は降ったり止んだりだったけれど、夜半から雨脚が強くなり、夜が明けても少し雨が降っており、午前中もずっと降ったり止んだりの状態が続いた。でも、昨日のすごい南風が冷たい空気を運んできたようで、昨日の夜は気温が下がり、お陰で気持ちよく眠れ、今日も気温が少し低い。 こんなお天気なので、エディたちは作業に来なかった。その代わりというわけではないけれど、モビが朝から部屋に入り浸り、私がブログやリポートを書いている間、ずっと足元の敷物の上でおとなしく私を見ていたり、お昼寝をしたりして過ごした。最近、モビはお天気が悪いと「部屋に入れて」と、入り口のところで催促をするようになったので、ついつい入れてしまう。夕方、エドソンが帰ってくると大喜びでエドソンに飛びついて大興奮。でも、私たちが食事中はテーブルに来たりはせず、言われたとおり敷物の上でちゃんとじっとしていられる。本当によく言うことを聞く。それなのに、夜、そろそろ犬小屋に行かせようとすると、「まだ、ここにいたいよう」とでも言うように、ごろんと寝転がってお腹を見せて、静かなる抵抗を試みる。なかなかのキャラクターだ。おかしくて、叱ることもできず、つい笑ってしまう。彼と話しができたら楽しいだろうなと思う。 | ||||
2010年3月16日(火) | ||||
エディたちは、今日は朝7時前には来て作業をしていたけれど、お昼頃、柔術をやっているという若い人がコーヒーポットを返しに来て、みんな引き上げていってしまった。後からエドソンに聞いた話だと、エディに何か別の用事があったらしい。午後から建設現場の進み具合を見に行ってみた。ガレージの床がコンクリートで固められ、天井部分にレンガがきれいに並び、天井を支える支柱が何本も立っていた。
何という名前の花か知らないけれど、最近少し濃いピンクの花を咲かせている木をあちこちに見る。ここから見えるお隣のコーヒーファームの丘に何本も咲いている。写真だとよくわからないかもしれないけれど、ここから見ると、ちょっとうっすらピンク色で、山つつじが咲いているような感じに見える。
でも、近くから見ると山つつじとはぜんぜん違うのがわかる。
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2010年3月17日(水) | ||||
エドソンは今日は仕事はお休み。この間の土曜日に、書類にウィリアムの署名がいるとかで、トポグラフィーアの人が再度やって来た。そして、その人と一緒に、この地域で井戸掘りをして回っているという会社の人たちが来た。それで、エドソンはうちの土地の泉が湧いている場所に彼らを案内し、そこから取水できるかどうか確認してもらったところ、できるということで、井戸というか、取水口を取り付けてもらう契約をし、月曜日にその作業をしてもらった。私はこれまでこの森の中の泉まで下りて行ったことがなかったので、今日午前中、エドソンにその場所まで連れて行ってもらった。
泉の奥にパイプを3本くらい通して取水し、その水がタンクに溜まるようになっていた。私たちの現在建設中の家の水は、ウィリアムのところの井戸から汲み上げている水を使わせてもらっている。だから、この装置は今すぐに必要なものではないのだけれど、将来的には必要になると思うので、自分たちの水を確保できて良かったと思う。ウィリアムのところの井戸水同様、この泉の水もとても良質なミネラルウィーターなので、これで水の心配はなくなった。
その後、エドソンは午前中ずっと建設現場でエディといろいろ打ち合わせをしていた。エディたちは今朝は、ガレージの天井に並べたレンガの間に鉄筋を通す作業をしていた。
お昼前からボトゥカトゥに、エディから頼まれた建築資材を調達に行き、ついでにウエノとパオン・ジ・アスーカーにも買い物に行く。ウエノにはあいにく豆腐がなかったのだけれど、パオン・ジ・アスーカーでお豆腐を発見。早速買って帰り、今日の夕食は久しぶりに豆腐ステーキを作る。これにアルメイラオンのソテーを添えれば栄養満点!満足。満足。 | ||||
2010年3月18日(木) | ||||
今日は、衣類の洗濯に加え、いつも使っている肌がけ布団を洗濯し、モビたちの体をシャンプーで洗い、犬小屋の中に敷いてある毛布を2枚、日向に干して、日光消毒したり、居間のソファーのクッションを取り外して、これも日向に干したりと、午前中はずっと家の外で作業をした。 午後からは昨日ウエノで買って来たゴボウで、きんぴらゴボウを作ったり、パオン・ジ・アスーカーで買ってきた日本のキュウリで、キュウリの酢の物を作ったり、バナナブレッドを焼いたりと、台所で過ごす。このところ私もエドソンもパンやお肉料理に食傷ぎみで、朝食もパンは止めて、パパイアなどの果物にしたり、夕飯も鶏肉と野菜を煮込んだものとか、野菜が主で、お肉があまり目立たない料理を作るようにしている。ウエノやパオン・ジ・アスーカーに行くと、パーディーニョでは買えない食材がいろいろと手に入るので、とてもうれしい。 | ||||
2010年3月19日(金) | ||||
ここ3〜4日、フィオナの調子がどうもおかしい。モビもフィオナも、毎朝、私が犬小屋のドアを開けるのを待ちかねて、ドアを開けると勢い良く飛び出してきて、私に飛びついてくるのに、このところ出てくるのはモビだけ。フィオナは犬小屋の中で横になったまますぐには動こうとしない。初めはちょっと寒いから出てきたくないのかと思ったのだけれど、お天気が良く、毛布の中よりも、太陽の下の方が暖かくて気持ちがいいような日も、すぐには出てこないので気になり始めた。昼間も、犬小屋の中にいることが多くなり、私たちが建設現場に行くときは、以前なら大喜びで一緒についてきていたのに、このところ犬小屋から出ては来るけれど、しばらくついてきたらそれ以上は動かず、私たちが帰ってくるのを座って待っている。昨日の朝、シャンプーをした後は、表のベランダのところに寝転がって、日向ぼっこをしていたけれど、午後には、犬小屋の毛布が外に干してあって、中は空っぽにもかかわらず、犬小屋の中に戻って横になっている。食事は食べるけれど、いつもより食べる量が少ない。 そんなわけで、今日は、朝からフィオナを毛布にくるんで、家の中のソファーに寝かせて様子を見ることにした。ドナ クレウザがパン作りの材料を取りに来た際、フィオナは病気なのではないかと思うと言うと、お昼にマウリシオが戻ってきたら、彼に見てもらおうと言う。モビは彼の定位置である床の敷物の上。フィオナは特等席のソファーの上で横になっている。
昼食が終わってマウリシオがフィオナの様子を見に来た。体中を調べてみたけれど、カーラに噛まれた傷痕以外は、どこも新たに怪我をしているわけではない。午前中一度、モビがオシッコに出たがったので、フィオナも外に出して様子を見ると、抱っこして移動する際、腰の辺りに痛みを訴え、芝生に下ろしたら腰が抜けたようになってしゃがみ込んで歩かなかったのだけれど、マウリシオがフィオナを外に連れ出して、ベランダに下ろすと、ちょっとフラフラしているものの何とか歩けた。ずっとソファーで寝ているフィオナの腰をさすってあげていたので、少し楽になったのだろうか?マウリシオの見解は、カーラに噛まれた傷跡からばい菌が入って、腰から下の神経をやられて、こういう状態になっているのではないか?というものだった。この子たちは何故か、大きい犬のリーダー格のカーラーによく吠えついたり、向かって行って噛み付いたりするため、おとなしいカーラも時々やり返すことがあり、そんな時、噛まれて泣きをみるのはこの子たちなのだ。自分たちがカーラに比べて体が小さいのだから、相手が本気になったらとてもかなわないという意識がどうもないらしい。今日、マウリシオは仕事が忙しくて、フィオナを病院に連れて行けないので、月曜日に病院に連れて行ってくれることになった。 | ||||
2010年3月20日(土) | ||||
昨日は午後の一時を除いて、ほぼ1日中家の中で過ごしたモビとフィオナを、夕飯の後で犬小屋に帰した。今朝もやはりフィオナはしばらく犬小屋から出てこなかったけれど、マウリシオが様子を見に来たときには、もう犬小屋にはおらず、外に出てフラフラ歩いていた。今日は、昨日よりも少し調子がいいようだ。その後午前中は、倉庫の無線室で作業をしているエドソンの足元で横になって過ごし、お昼過ぎからはこの家の前のベランダで過ごしていたけれど、午後遅く、開け放した入り口から顔を入れて、部屋に入りたい様子が見えたので、また毛布にくるんでソファーに寝かすことにした。 今朝、マウリシオが畑からピーマンとシュシュ(Chuchu、後ろのシュにアクセント)を収穫して届けてくれた。シュシュは表面がトゲトゲしていて、変な形をしているけれど、中はウリのような感じ。イビウーナの中村さんのところでいただいた野菜スープの中に入っていたのがシュシュ初体験だった。一緒に入っているジャガイモと、味も見かけもあまり区別がつかないような感じだった。
次の写真は、シュシュを半分に切ったところ。ちょっとフラッシュが反射してしまって見えにくいかもしれないけれど、トゲトゲのある皮を剥くと、ウリのような滑らかな果肉が現れる。これをサイコロ状に切って、他の野菜と一緒に煮て、今晩の野菜スープに入れることにした。
ブラジルのピーマンはアメリカ同様、日本のものよりもずいぶん大きいのだけれど、ここの畑で採れたピーマンは日本と同じような大きさだった。左は店で買った小さめのピーマン。右はここの畑で採れたピーマン。小さめとはいっても、店で買ったものの方がずいぶん大きい。
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2010年3月21日(日) | ||||
昨日に続き、ちょっと変わった野菜を紹介しようと思う。カラ・モエラ(Cara Moela、カラのラにアクセント)という名前の野菜で、こげ茶色で変な形をして、大きくて石のように硬い。パラカンビにいるとき、エドソンのお母さんが一度、これに似たカラ・ダ・テハ(Cara da Terra)という種類のものを料理してくれたことがあったけれど、皮を剥くと中はぬるっとして白く、生のままだと山芋のような感じ。試しに拍子木に切った生のカラ・ダ・テハにしょうゆをかけて食べてみると、山芋と言えなくもない。煮ると味も食感も里芋のような感じにとろんと柔らかくなる。マウリシオがどこかからもらって来て、お裾分けしてくれたこのカラ・モエラは、まだ調理していないので、どんな感じなのかよくわからないけれど、エドソンの話しだと、カラ・ダ・テハとほとんど変わらないという。
ただ、カラ・ダ・テハは里芋同様、土の中で育つ根菜だけれど、カラ・モエラはつる性の植物になる実なので、根菜ではない。こんなものがつるになるというのは何とも不思議。どちらも広く出回っているものではなく、田舎でよく見かけるものらしいので、ブラジル人でも知らない人が多いという。
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2010年3月22日(月) | ||||
今朝8時前に、マウリシオがフィオナを毛布にくるんで、大き目のダンボール箱に入れて、ボトゥカトゥのサンパウロ州立大学付属の動物病院に出かけていってくれた。 でも、待てど暮らせど戻ってこないので、どうなったのだろう?と、夕方仕事から帰宅したエドソンと話しながら夕飯の仕度をしていたら、7時近くになってようやく戻ってきた。やはりカーラに噛まれたところから感染して、化膿して腰の辺りにコブができていたため、手術をしたのだそうだ。コブができていたところに大きな手術の傷跡ができていた。 でも、戻ってきたフィオナは、朝出かけたときよりも少し元気になっていた。いつも濡れて冷たくなくてはいけない鼻が、感染症による熱で乾燥していたのも回復して、濡れていた。手術をして、抗生剤を投与されて、熱が下がったようだった。そして、今朝、フィオナに呼びかけるとフラフラと犬小屋から出て来ようとしたけれど、足腰に力が入らないようで、段差があるともういけないという感じだったけれど、戻ってきたときは、まだ足元は少しフラついていたけれど、多少の段差は難なく超えて歩くことができるようになっていた。夕飯にぬるめに暖めた牛乳をドッグフードに混ぜてやると、少し食べてくれた。後は早く元通りに回復するのを待つばかり。ほっと一安心。 マウリシオの話しだと、サンパウロ州立大学付属の動物病院では、午後2時まで待っても一向に診察してくれないので、仕方なく、別のプライベートの動物クリニックに連れて行って診察してもらい、手術を受けたため、時間がかかったらしい。 | ||||
2010年3月23日(火) | ||||
今日付けで、中国新聞の海外リポートに、ここパーディーニョにあるオテル・ファゼンダ(Hotel Fazenda)、アグアス・ダ・セハ(Aguas da Serra)のことを書いた私の16本目のリポート「ブラジルらしさ満点の旅の誘い」 が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。このアグアス・ダ・セハのオーナーのマーセロさんは、とても博学な人で話し好き。ものの考え方や論旨が理路整然としていて、話していておもしろい。ただし、エドソンの通訳付でないと私にはほとんど理解できないところが、ちょっと残念。彼は、パーディーニョ・ロータリークラブのメンバーの中でも一際存在感がある。 手術から一夜明けて、今朝のフィオナの調子はまずまずのようだ。犬小屋の扉を開けてしばらくすると、自分から外に出てきて、芝生の上でオシッコをしていた。熱はないようだけれど、万全を期すため、今日も家の中のソファーに寝かせて様子を見ることにする。午前中はしばらくソファーの上で寝たり起きたりだったけれど、だんだん調子が戻ってきて、起きて傷口をなめたり、周りの音に反応して起き上がったりするようになってきたので、午後からはオシッコがてら外のベランダに出してみる。日向ぼっこをしたり、マウリシオがトラックで戻ってくると、モビのように走っては行けないけれど、ヒョコヒョコと歩いていったりと、だいぶ普通の行動になってきたので、自由にさせることにした。 | ||||
2010年3月24日(水) | ||||
フィオナの腰の、感染症を引き起こしてコブになっていたところは、手術で取り除かれたのだけれど、昨日の午後、マウリシオがフィオナに薬を注射しに来た際、傷の周りを触って調べてみると、また硬くなり始めていることが判明。そんなふうな症状が出たら、再度受診するようにと言われたそうで、今朝またマウリシオがボトゥカトゥのクリニックにフィオナを連れて行ってくれることになった。 エドソンは今日は仕事に出て、代わりに明日休み、ボトゥカトゥへ用事を済ませに行くつもりでいたのだけれど、マウリシオがフィオナを連れてボトゥカトゥに行くというので、急遽一緒に行って今日、用事を済ませることにした。 数週間前から車の登録をパラカンビからパーディーニョに変更する手続きを始めた。車検をしてもらい、一応の登録が終わり、新しい書類を受け取ったのだけれど、車の新しいナンバープレートだけがまだ来ていない。そのためパーディーニョの町の中を走り回るのは問題ないけれど、別の町に行って「たちの悪い」軍警察官に止められたりすると、トラブルになるかもしれないから気をつけるようにと、昨日のロータリークラブの会合で、パーディーニョの文民警察署長のマーセリーノから言われたのだ。登録が済んでいるのに、ナンバープレートが届かないというのはこちらの責任ではなく、警察内の問題なのだけれど、「たちの悪い」のにかかると、そういう道理は通じないらしい。ナンバープレートは金曜日に届く予定らしいので、それまでは忠告に従うことにした。それで、マウリシオがボトゥカトゥに行くと聞いて、便乗することにしたようだ。 ブラジルには連邦警察(Policia Federal)、軍警察(Policia Militar)、文民警察(Policia Civil)、高速道路警察(Policia Rodoviaria)と、4種類の警察組織があり、それぞれ縄張りというか、役割分担が異なるからややこしい。連邦警察ではパスポートの発行、外国人登録と身分証明書の発行などを行い、アメリカのFBIのような広域捜査を行う。軍警察と文民警察はほとんど違いがわからないくらいに似ていて、どちらも武器を携帯し、町の治安維持が主な任務。一番大きな違いは、軍警察は常に紺色の制服を着ているので、すぐそれとわかり、事件が起こる前にそれを未然に防ぐために行動し、文民警察は事件が起こった後、捜査や取調べを行う。例えば、リオのファベイラ(不法貧民街)の中でのドラッグディーラーの捕獲作戦などで、時々、市街戦のようなドンパチがあるけれど、これは軍警察が行っている。また、軍警察は一般道路上で、交通違反の取締りをしたりもする。高速道路警察はその名の通り、一般道路ではなく高速道路上でのスピード違反などの交通違反の取り締まりや、無免許運転や、車の登録書類を調べて盗難車でないかどうかを調べたり、密輸の取り締まりなどを行う。とまあ、こんなところらしい。ただ、ブラジルの軍警察は、英語にするとミリタリー・ポリース(MP)になるのだけれど、いわゆる英語で言うMPとは違う。それはブラジルでは陸軍警察、海軍警察、空軍警察と3つに分かれていて、名称が異なるらしい。 | ||||
2010年3月25日(木) | ||||
昨日、フィオナを再度クリニックに連れて行ってくれたマウリシオは、お昼前に戻ってきた。フィオナの治療をしてもらい、塗り薬とともに、抗生剤を日に2回、5日間打つようにと、注射液をもらってきていた。獣医さんによると、フィオナの状態は普通の治癒の過程を経ていて、悪くなっているわけではないので心配ないということだった。良かった。 一方、マウリシオと一緒にボトゥカトゥに出かけていったエドソンは、まず、一緒にクリニックに行き、フィオナの診察に同席した後、2〜3箇所で用事を済ませ、マウリシオにパーディーニョの職場まで送ってもらい、午後から半日仕事に出た。そして、夕方、頼んでおいたジャガイモや玉ねぎなどを買って、徒歩で戻ってきた。 私たちが居候をしているこのウィリアムの土地の元所有者で、マウリシオの友達のひとりにエーナーニ(Hernane)という、パーディーニョで牧場をやっている人がいる。カロリナソイルの駐車場に置かせてもらっているレンガを、今日、彼のトラックで、うちの建設現場まで運んでくれることになった。彼は最近アマチュア無線の資格試験に合格したらしく、その後のややこしいインターネット上での登録をエドソンがしてあげたお返しに、助けてくれることになったらしい。レンガは当初、ほんの数日間置かせてもらうつもりだったのだけれど、移動にはトラックが必要なため、なかなかその手配がつかず、結局、長々2ヵ月半に亘り置かせてもらうことになってしまった。でも、これでようやくこの問題も解決。カロリナソイルでレンガをトラックに積むのは、カロリナソイルの人に機械でやってもらっても、ここでレンガをトラックから下ろし、積み上げる作業は手作業でしなければならないのだけれど、エドソンとエーナーニに加え、エディと彼のスタッフ、マウリシオとアルバイトの男の子が総出でやってくれたので助かった。エーナーニとエドソンがトラックで3往復して、1日がかりですべてのレンガの移動を完了。お疲れ様でした。
ガレージの天井に鉄筋を通し、セメントを流し込むための木枠を組む作業が完了し、セメントを流し込む準備ができた。
それで、昨日はうちの敷地の入り口のゲートを作る作業が始まった。穴を掘り鉄筋を入れて、柱を作るための木枠ができていた。この木枠の中にセメントを流し入れて、ゲートの柱を作る手順のようだ。敷地の内側から外の道路に向かって撮影。
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2010年3月26日(金) | ||||
今日付けで、中国新聞の海外リポートに、サンパウロ市在住、沢田啓明リポーターの「広島出身、踊って演奏するお坊さん」というリポートが掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。海外で暮らす日本人の数は、総人口に比べればほんのわずかだと思うけれど、とてもユニークで面白い人がいる割合はずっと高いような気がするのは、気のせいだろうか? 今日は、ガレージの天井にコンクリートを流し込む作業をする予定で、セメントとコンクリートミキサー車を2台手配してあったのだけれど、昨日の夜8時半頃から雨が降り続き、朝までにかなりの雨量になった。そして、夜が明けても降り止まないため、コンクリートミキサー車の会社と、エディにそれぞれ電話で相談をして、仕方なく予定を延期することになった。やれやれ・・・このところまったく雨が降らないわけではないけれど、作業の邪魔になるような雨はずっと降っていなかったのに、こういう肝心な時に限って、こんなにまとめて雨が降るなんて、何ともついていない。朝一番で、エドソンが雨雲のレーダーサイトで確認すると、この辺り一帯は大きな雨雲に覆われていて、当分止みそうもない。それで作業を延期したのだけれど、その決断をして、エドソンがいつもより少し遅れて仕事に出かける頃には雨が止み、ずっと霧がうっすらかかってはいたものの、結局、雨は午後の一時を除いてそれほど降らなかった。う〜ん・・・でも、予定通り決行していたら、きっと雨が降ったに違いないと思う。まあこうしたものかな? | ||||
2010年3月27日(土) | ||||
昨日の夜は、パウロ夫婦と子供たち、ジェラウド夫婦、そして、私たち夫婦の、大人6人と子供2人で、パーディーニョとボトゥカトゥの境の辺にあるピザレストランに、ピザを食べに出かけた。途中、ジェラウドの車のタイヤがパンクするというアクシデントがあったけれど、パウロが手際よくタイヤを交換してくれ、事なきを得た。初めて行ったレストランだけれど、なかなか感じのいい、ピザもおいしい店だった。ルッコラとドライトマトのピザは、前回ジェラルドの家でホザ手作りのものを食べたのが初めてだったけれど、今回も一つはこのピザを頼んだ。私はこのピザがとても気に入っている。 以前も書いたけれど、ブラジルではピザレストランは普通昼間は開いておらず、夜だけ開店する。そして、お客さんはだいたい9時頃から来て、11時前後が混雑のピークらしい。私たちが店に着いたのは8時前だったので、お客さんはまだまばらだったけれど、9時半過ぎて店を出る頃には混み始めていた。駐車場を出る際は、到着する車と何台もすれ違った。本当だったらもう少しゆっくりしてもよかったのだけれど、パウロの次女のマリア・パウラがおねむだったので、あまり長居をせずに引き上げることにした。ブラジルもリオやサンパウロの都会なら昼間開いているピザレストランもあるのだろうけれど、それ以外の地域では、お昼に外食するという習慣がブラジルの人たちにはあまりないらしいので、夜だけ開店ということになるのだろうと思う。そして、夜レストランに、子供を連れて行くということはアメリカでは考えられないことだけれど、ブラジルでは夜でも子供を連れている家族を普通に見かける。 今日、エドソンは職場の全スタッフ向けの会議があり、朝、仕事に出て行き、お昼過ぎに戻ってきた。私は洗濯や、モビとフィオナのお守りがあるため、家に残ることにした。でも、洗濯はしたものの、今日も朝から雨が降り出しそうな変なお天気の1日になり、洗濯物はあまりよく乾かなかった。 そして朝、メールをチェックすると、アメリカにいる化学者の友人(出身はポーランド、国籍はカナダ)から、日本語の化学論文のほんの短い数段落を訳してほしいと言ってきていたので、それもあって、今日はエドソンに同行せず、午前中は洗濯や昼食作りをしながら、昼食後もその翻訳をして過ごした。化学のことなんてまったくわからないけれど、実験の手順のようなものだったので、まあ、何とかできた。ボストンにいる彼女とはほとんど時差がないので、翻訳をメールに添付して送ると、すぐにお礼の返事がきた。少し彼女の役に立ててうれしく思った。これで彼女の実験がうまく行くといいのだけれど・・・ | ||||
2010年3月28日(日) | ||||
今朝も少し霧が出て、ぱっとしないお天気。朝食が済んで、それぞれが今日の活動を始めた頃から雨がしとしとと降り出した。お昼前に一旦止み、午後は太陽が少し顔を出したけれど、3時頃からまた遠くで雷が鳴り始め、空模様がおかしくなってきた。そして、夕方頃からまた降り出した。 フィオナの手術後の傷はだいぶ癒え、体調もほぼ元通りに回復してきている。今日の午後、木曜日のレンガ移動作業の後片付けに、建設現場に行った際、モビと一緒に喜々として、走ってついて来た。これだけ元気に走れればもう大丈夫。以前フィオナは家の中でも自由気ままで、私たちの言うことをあまり聞かなかったのだけれど、病気して以降、以前よりも言うことを聞くようになった。病気の時は痛みもあり、ぐったりして動けなかったのだけれど、その間、モビがよく言うことを聞きお手本を示していたので、それをまねするようになったのだ。それで私たちが食事中に、以前のようにテーブルの下をうろついておねだりをするようなことはしなくなり、モビと同じようにおとなしく床の敷物の上で待っていられるようになった。不幸中の幸いか?それを見て、もともとの飼い主のウィリアムはとても驚いていた。 3月13日付けニッケイ新聞の「日伯経済交流」をテーマにした日伯論壇に、住友商事総合研究所代表取締役社長、 坂野正典氏の「豊かな富が誘発するリスク」と題する記事が掲載されていた。この日伯論壇には、ブラジル在住経験があり、ブラジルのことに詳しい経済人が日伯の経済交流のあり方を論じていて、とても興味深い。この記事のサイトは、こちらへ。 | ||||
2010年3月29日(月) | ||||
今朝は太陽が顔を出している。レーダーを確認するとこの辺で雨を降らせている雨雲はない。よしよし。と、大洗濯を始めたら、西の空に怪しい黒い雲が広がりだし、いきなりドカーンと大きな雷が鳴り、ドナ クレウザが飛んできた。そして、今朝一番で彼女が洗って、外に干していたモビたちの毛布を、大急ぎで取り込んでくれた。フィオナが病気になって以来、毎日ほとんど1日中、モビとフィオナがこの毛布に包まって家の中で過ごしているので、洗ってくれたのだけれど、すぐにザーザーとひどい雨が降り出してしまった。でも、この雨を降らせた雨雲は比較的小さなものだったので、1時間ほどで止み、その後は曇りがちながら雨は降らず、風が強かったので、大洗濯したタオルやジーンズはみなすっきり乾いてくれた。 マウリシオが先週、アルバイトの男の子、レオナード(Leonardo)とせっせと畑仕事をしていた。レタスやルッコラなどの野菜を使い尽くして裸になった畑をきれいにして、あらたに苗を植えているのだと思っていたら、それだけではなく、畑を囲っている金網の天井部分にネットを被せて、お手製のスプリンクラーを取り付けていた。これだと水道の栓をひねるだけで、畑全体に一度に水やりが簡単にできる。マウリシオは結構自慢げに、このお手製のシステムを見せてくれた。これから作る私たちの畑にもこういうのを取り付けると便利だなと思う。
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2010年3月30日(火) | ||||
以前、中国新聞の海外リポートにブラジルの音楽について書いた際、パドレ・ファビオ・ジ・メロという若くてハンサムな神父さんが歌うコマーシャルをテレビでよく見ると書いた。彼はとても人気があるようで、今でもよく見るけれど、最近、パドレ・ファビオよりも年の多い、パドレ・ヘジナウド・マンゾッチという神父さんが法衣を着て「Ningen te ama como eu.」と歌っているコマーシャルをよく見かけるようになった。このフレーズを初めて聞いた時、「No one loves you like I do. 」ということ?と理解できたのだけれど、神様に対して「私ほどあなたを愛しているものはいません」と神父さんが歌う感覚が何ともとても不可解で、頭から離れなくなってしまった。「私はこんなに神様を愛しているのだから、神様どうか私を誰よりも愛してください」なんて、聖職者にあるまじき発想、とつい思ってしまった。 ゴスペルというと、普通、アメリカの黒人教会で、コーラスの人たちが集団で歌うにぎやかなものを思い浮かべると思うけれど、ブラジルのゴスペルは、集団コーラスではなく、神父さんや普通の歌手の人たちがひとりで、スローテンポで歌っている。歌詞の内容が神様に関連してはいるけれど、何を歌っているのか、その歌詞がわからなければ、メロディーだけを聴いて、これがゴスペルとは判断しにくい。普通の歌謡曲との違いはほとんどないように私には思える。 | ||||
2010年3月31日(水) | ||||
昨日は、朝からすっぽりと霧に包まれていたけれど、レーダーサイトで雨雲をチェックすると、この辺に雨雲はなく、降水確率は30%。エドソンがコンクリートミキサー車の会社と連絡を取り、予定通りコンクリートを8時から流し込む作業を開始することになった。 1台目のミキサー車が時間通りに到着し、霧の中での作業が始まった。
ブラジルでは、家の建設で、天井にコンクリートを流し込んだり、屋根が立ち上がったりといった大きな作業をして、建設作業がひと山越えると、作業の後でペドレイロの人たちを慰労するために、シュハスコをご馳走する習慣があるのだそうだ。それで、午前中はドナ クレウザに手伝ってもらって、シュハスコのお肉に添えるフェイジョン(ベーコンやソーセージを入れて煮た、煮豆)、ファロファ(マンジョーカの粉にベーコンや玉子、ねぎなどを混ぜたもの)、ビナグレッチ(玉ねぎ、ピーマン、トマト、オリーブ、ねぎなどを刻んで、酢とオリーブオイルでマリネにしたもの)などを作った。 コンクリートの流し込みは順調に進み、2台目のミキサー車の作業もそろそろ終わりそうという頃合いを見て、12時半過ぎに、エドソンが現場から戻りお肉を焼き始めた。それからしばらくして、1時過ぎてやってきたエディと彼のスタッフの人たち合計8人に、シュハスコをふるまった。エディはいつもは4人くらいで仕事をしているのだけれど、この作業には人出が必要なため、初めて見かける10代のアルバイトの男の子たちを4人くらい追加で連れてきていた。みんなで牛肉を3キロ完食。缶ビール2ダース、レモンジュース1リットル、オレンジジュース2リットルを完飲。でも、ご飯とフェイジョンはたっぷり作ったのだけれど、思ったほど食べなかったので、たくさん残ってしまった。次の写真は、この家の前で食事をする作業の人たち。
2台目のミキサー車がここに来る途中の舗装道路の上り坂で、コンクリートを少しこぼしてしまうアクシデントがあり、流し込むために必要なコンクリートが足りなくなり、急遽エディたちが手持ちのセメントでコンクリートを作るという想定外のことが起こったりしたけれど、それで作業が大幅に遅れるということはなく、待ちに待った、ガレージの天井へのコンクリートの流し込みを無事完了した。感謝。感謝。夕方、現場に行って、写真を撮る。
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