Kyoko Yoshida                                        
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2010年2月1日(月)

昨日の午後降り出した雨は、夜遅くまで降ったり止んだりを続け、今朝はまた昨日のように気持ちのいい青空が広がった。でも、朝食の仕度をしていると、マウリシオがやって来て、今朝はカロリナソイルのところに溢れている水が増水して車は通れないし、反対側のでこぼこ道もさらに侵食が進み、通れないと知らせてくれた。仕方がないので、エドソンはエディのところにコーヒーポットを届けてから、でこぼこ道を徒歩でパーディーニョに向かうことにした。パーディーニョの町まで約3キロ程あるので、こうなるとますます通勤用にマウンテンバイクを買わなければと思う。ここでの生活に一番適している車は、ピックアップトラックやSUVなのだけれど、価格が高すぎて私たちには手が届かないのだから仕方がない。

パウロの会社で一緒に仕事をしている奥さんのジャナイーナは、とても働き者だ。朝、家族の朝食の世話をして、8時には仕事に出て、お昼前に家に戻りお昼の仕度をする。このお昼の食事なのだが、エドソンが頻繁にお世話になっているだけでなく、ハファエル、ホドリゴ、ジュニオーらパーディーニョのオフィスの他のスタッフにも食べさせているので、子どもたちふたりと自分たちのための昼食の用意だけでなく、通常家族以外に4〜5人分の昼食を用意するらしい。彼女が仕事をしている間、まだ1歳ちょっとのマリア・パウラの世話は同居しているお母さんがしてくれているようだけれど、食事の用意まではしてくれないようだ。そして、お昼が終わると、仕事に戻り、夕方5時過ぎに家に戻り、洗濯などの家事をして、夕食の仕度と、休む暇もない。「大変ね」と言うと、「もう慣れた」と言っていたけれど、毎日のことなのでやはり大変だと思う。仕事では経理と財務とスタッフ管理をしているので、その内のスタッフ管理だけでもエドソンが肩代わりすることで、仕事の負担を少し減らしてあげることができるのはよかったと思う。

今日のお昼、マウリシオが果樹園から戻ってきて、コブラ(Cobra、蛇)を捕まえて来たんだけれど、写真を撮るか?と聞くので、容器から外に出したコブラの写真を撮らせてもらう。コブラは蛇の総称なのだけれど、ここではだいたい毒蛇のことを言っていることが多い。この写真のコブラも毒蛇。マウリシオは私がブログを書いていることを知っているので、珍しいものがあると、このコブラのように、写真を撮るか?と持って来て、聞いてくれる。

エドソンは夕方も徒歩で、6時半を回って汗びっしょりになって帰ってきた。職場からここまで50分くらいかかったようだ。今日1日何とかお天気が続いたので、カロリナソイルのところの水も多少減少しているのかもしれないけれど、わからないので、私に電話をして迎えに来させるよりも、歩いてしまおうと思ったようだ。

2010年2月2日(火)

リオデジャネイロの南西にあるアングラドスレイスという有名なリゾート地は、富裕層や著名人の休暇先として知られているそうで、今年の年明けにもサルコジ仏大統領の息子や知人などが休暇を過していたと、ニッケイ新聞にあった。この近くにはエレトロニュークリア社が運営するブラジルの主要原子力発電所の1つもある。ここのバナナウ海岸で、年明けに、昨年末からの豪雨に伴う土砂崩れが発生し、多くの犠牲者が出たため、国際ニュースにもなったようだ。その後はしばらくここのニュースは見かけなかったけれど、ニッケイ新聞の2010年1月19日付け日系社会ニュースにその後のニュースがあったので、以下に転載してみる。ここには日系の人たちがやっていたイワシの缶詰工場があったこと、そして沖縄出身の移民の子孫の人が多く住み着いていることなど初めて知った。

『イーリャ・グランデ 現地取材=掻き入れ時に閑古鳥=復旧活動、目に見えず=悲しみに暮れる被害地

今月16日、最後の被害者となる33人目の遺体が発見された―。元旦未明土砂崩れが発生、日系人3人を含む多くの犠牲者を出したリオ・デ・ジャネイロ州イーリャ・グランデのバナナウ海岸では、ポウザーダを経営する沖縄出身者子弟たちが悲しみを乗り越え、今後の復旧へ向けて、力を合わせていた。(リオ 発=長村裕佳子記者)

イーリャ・グランデの中心地ヴィラ・ド・アブロンを基点に、船で島の周囲を回る。他の海岸のどこにも被害の様子は見られない。この時期、多くの観光客で賑わう同地だが、どの海岸も観光客の姿は見られず、ひっそりと静まり返っていた。同地から島沿いに船で西方へ約1時間移動した場所に事故のあったバナナウ海岸がある。かつて多くの沖縄移民がイワシ業を営み、現在はその子弟らが営むポウザーダが10軒ほど点在する。毎年7月にはアングラ・ドス・レイス日系クラブ主催の「日本祭り」が行われる場所でもある。事故現場は同海岸の西端にある。2週間経った今もなお、ポウザーダや住居が土に埋もれており、復旧活動は進んでいないように見える。取材に訪れた16日、救急隊員による捜索活動により、最後の行方不明者の遺体が発見された。事故で孫の波田間ウェリントンさんを失ったフミ子さん(84、二世)は、「(事故後)サンパウロの親戚皆が心配して島に駆けつけてくれた」と涙を堪えながら話す。同クラブ会長を務める甥の波田間義男さん(52、三世)がそっと寄り添った。同海岸の入口に建つポウザーダ・ド・プレットの経営者で同クラブの同祭実行委員長も務める仲真次キヨシさん(50、三世)は、「現在は事故直後で混乱しているが、同祭が開かれる7月には多くの観光客で賑わえるようにしたい」と復旧に対する思いを語った。

〃誤解〃を招いた報道=地元住人の不満つのる

「イーリャ・グランデで土砂崩れがあり、観光客に直ちに島から退去するよう勧告した」オ・グローボ紙2日付けに掲載されたセルジオ・コルテス・リオ州保健防災局長の発言が地元で波紋を呼んだ。「まるで島全体で事故が起こったかのような報道だ」―。各海岸でポウザーダ、売店の経営者からは不満の声が募る。実際に市当局から、観光客の避難勧告が出されたのはバナナウ海岸だけだったが、まるで全島に出されたかのような報道が大々的に行なわれ、全島のポウザーダにキャンセルの電話が相次ぎ、大変な損害になった。すでに検討会議も開かれ、同紙に再度の報道を求める動きも高まっているという。マガリケサーバ海岸で上地カルメンさん(55、三世)が営むポウザーダも閑古鳥が鳴く。「ここは何も変わってないのに。メディアが驚かせて、客を追い払ってしまった」と表情は暗い。ポウザーダ経営のグラッサ・ブラスさん(44)は「今こそ力を合わせ乗り越えなければ」と協力を呼びかけていた。』

2010年2月3日(水)

外山脩著「ブラジル日系社会 百年の水流」―日本外に日本人とその子孫の歴史を創った先人たちの軌跡― 800ページの大作を先日読み終えた。良書だった。ブラジルの日系社会の100年の歴史が非常に良くわかった。十数年の歳月をかけて調べ上げ、これを書いた外山さんというフリージャーナリストの気力と能力にこころからの敬意を表したい。そして、その初版の出版に力を貸した中村さんの太っ腹な英断にも感謝したい。2002年から翌年にかけて233回、サンパウロ新聞に連載された記事を補筆、書き直ししたものだけれど、これだけの良書・大作も世に出なければ、人々に広く読まれることはなく、版を重ねることもなかっただろう。そして2007年のコロニア文芸賞を受賞することもなかったわけだ。外山さんとイビウーナの香山さんは古くからの友人だそうで(と言っても年齢は20歳くらい離れているけれど)、外山さんのことを「『変人』という人もいるけれど誠実な人」と香山さんは評している。こんな大作を生活に困窮しながらも書き上げてしまうような人なら、そんな苦労をするよりも楽な方に逃げてしまうことを選択する普通の人から見れば、まさに「変人」だろうと思う。叶うことなら一度お会いしてみたいと思う。

かつて日系人が作り、南米一の組織にまでなったコチア産業組合が、どうして90年代にあのようにあっけなく崩壊してしまったのかという疑問に、この本は答えてくれている。うっすらと耳にしていた理由とは全然違った。そして、勝ち組、負け組みに関する世間一般に知られている認識と実際に起きたことがひどく違っていることなど、驚くことばかりだった。口を伝って広がる噂話のたぐいと言うのは、当てにならないものだなあと思う。コチア、スール、南銀が崩壊する過程の詳しい説明を読み、日系の人たちが日本に出稼ぎに出ざるを得なくなる因果関係を読んで、そうだったのか?と、得心した。

「私たちの40年!!あるぜんちん丸同船者寄稿集」というサイトに、「百年の水流」出版に関する外山さんの裏話と後日談が掲載されていた。これもとてもおもしろかった。「私たちの40年!!あるぜんちん丸同船者寄稿集」のサイトは、こちらへ

日本やブラジルの国策や準国策、戦争、世界情勢の変化、アメリカの食料戦略、石油ショック、ブラジルの国政担当者の犯した大「しくじり」による国家財政の破綻などにより、日系人の人たち(だけでなく、ブラジルの普通の人々)は木の葉のように翻弄された。そして、その結果、ブラジルでこの40年間に起こったのは「一部の人間への富の集中、戦場同然の治安の悪さ、弱者の無間地獄、人心の荒廃・・・」だという。そして、近年、ブラジルで「もっとも成長した”産業”は宗教」なのだそうだ。これは犬も歩けば教会にあたるほど、数多くのプロテスタント系の教会がここ10〜20年くらいの間に林立し始めていることでも一目瞭然だ。

2010年2月4日(木)

今週は月曜日から珍しく雨が降らない、良いお天気が続いているのでとても気持ちがいい。ただし、気温は毎日うなぎのぼりで太陽の下は35度を優に超えていると思われる。従って、夜もこれまでのように20度以下に気温が下がることはなく、熱帯夜とまでは行かないけれど、多少暑苦しい。そして虫刺され復活!でも、お陰でエディたちの作業は順調にはかどっている。感謝。感謝。

昨日、エドソンは仕事が休みだったので、午前中は建設現場に行って、エディとこまごましたことを確認したり、相談していた。お昼前には一緒にパーディーニョの建築資材の店に行き、溜まっている支払い金額を確認し、文房具店で書類のコピーをとって、ボトゥカトゥに出かけた。ボトゥカトゥではまず、銀行に行って建築資材の店への支払いを振込みで済ませ、いつものランショネッチでお昼を食べ、電化製品や家具などを売っている店でエドソンの自転車を買った。マウンテンバイクはなかったけれど、それに近い自転車があったので、それを買うことにした。料金は229レアル(約1万1000円)。箱にコンパクトに入っていたので、車のトランクに乗せて帰ることができ助かった。

この後、ガソリンスタンドで車を洗ってもらう。車を修理工場に持って行きタイヤの不具合を見てもらうのにドロドロに汚れたままではまずいだろうと思ったのだ。そのガソリンスタンドで、偶然、セージオとルシアに遭った。車を洗ってもらっている間、少しふたりと話をする。

その後いつもの建築資材の店に行き、エディから頼まれていた資材を購入。そして、車のタイヤをみてもらうために、タイヤ専門の修理工場に行く。昨年末前あたりから、釘か何かを踏んづけたのか、右前輪のタイヤの空気がすぐ抜けてしまうので、調べてもらう必要があったのだけれど、どこに行ったらいいかわからず、いろいろな人に聞いて、一番評判のいいタイヤ専門の修理工場を教えてもらい、今日、ようやく行くことができた。比較的大きくて、きれいなお店だった。すぐに見てくれたところ、やはり釘が刺さっており、それを抜いて、タイヤを修理してくれた。あまり時間がかからず、料金も7レアル(約350円弱)と安くてほっとした。

5時前に帰宅し、建築資材を建設現場のエディのところに届け、家に戻り、エドソンは倉庫で自転車を組み立てて、乗り心地を確かめ、満足そうだ。自転車のロックを買ったり、仕事をしている間はパウロの家に駐輪させてもらう許可をもらわないといけないので、今日の通勤は自転車を使わず、いつも通り私が車で送り迎えをする。

今日は午後2時頃から3時頃まで雨がザーっと降ったけれど、その後はお天気が回復した。今日もお天気なので竹に水をやりに行かなければと思っていたけれど、この雨のお陰でその必要がなくなった。恵みの雨だった。エディたちも通り雨ということがわかっていたのか、雨が降っている間は姿が見えなかったのに、雨が止んで建設現場を見てみると、ちゃんと仕事をしている姿が見えた。

2010年2月5日(金)

昨日の夜は少し寝苦しかったけれど、朝にはその暑さが収まり、今朝は涼しい風が吹いている。そして、青空が広がって気持ちがいい。エドソンは、だいたいいつもパウロの家でジャナイーナの手料理のお昼をご馳走になっているので、お礼に、うちの畑のアルメイラオンを少し持って行こうと思うと言うので、昨日の夕方アルメイラオンとレタスを畑から取って来て洗って、ビニールの袋に入れて、冷蔵庫に入れておいた。今朝はエディのところに持っ行くコーヒーポットに、郵便局から発送するための定形外郵便物に、アルメイラオンやレタスの袋と持って行くものがたくさんあるので、私が車でエドソンを送って行くつもりでいたら、朝食の後片付けをしている時にマウリシオが、今朝マテウスが下痢をしていて、パーディーニョの病院に連れて行くついでがあるのだけれど、エドソンを送って行こうか?と聞きに来てくれたので、お言葉に甘えることにする。

夕方、ミーティングがあるので、退社は6時を少し過ぎるとエドソンが連絡してきたので、6時過ぎまで連絡を待ってから迎えに行き、食料品を少し買って、帰宅する。午前中は涼しかったけれど、午後から気温がグングンと上がり、陽が沈んでからも暑い状態がしばらく続き、昨日よりもさらに寝苦しい夜になった。帰宅後、エドソンとふたりで竹に水をやりに行ったついでに、建設現場の写真を撮る。

2010年2月6日(土)

今日は午前中ボトゥカトゥの建築資材の店に行き、エディが追加で必要なセメントを買い、その店の向かいにある照明器具の店に行き、どのような照明器具があるかを見て、お店の人といろいろ話しをすることができた。その後、苗木店に行き、防風林として植えるためのグレヴィーリャ(Grevilha、和名:シノブノキ、英名:Silk Oak)の苗木を16本と、ハイビスカスの苗木を12本買って、車のトランクに乗せて帰る。グレヴィーリャは1本5レアル(約250円)。ハイビスカスは1本6レアル(約300円)。1本10レアル(約500円)の竹に比べると安くて助かった。帰宅途中、ボトゥカトゥの出口の辺りにあるレストランでお昼を食べて、1時半頃帰宅。サンパウロから到着してお昼を済ませていたウィリアムと少し話して、2時頃から早速、グレヴィーリャとハイビスカスを植える準備をする。

まず、前々から掘ってあった穴に水をまき、石灰と培養土と土を混ぜてグレヴィーリャ10本を植え、次に、同様にして、ハイビスカスを11本植える。そして、最後に今日植えたグレヴィーリャとハイビスカスだけでなく、先週植えた竹にもたっぷり水をやり、作業完了。今日は良いお天気で、気温が高かく日差しが強かったため、途中でへばらないようにポットに冷たいお水を用意して、休み休み少しずつ作業をした。すべて植え終わり、水をやる頃になってようやく雲が出てきて、直射日光を避けることができたけれど、先週竹を植えた時のような曇り空ではなかったので、今日はとても暑い日差しの中でのしんどい作業になった。でも、無事、予定していた作業を完了し、満足。満足。手前から順にハイビスカス、グレヴィーリャ、竹の三列の防風林の植え込み。

家に戻ると6時になっていた。家の前で、マウリシオが私の顔を見て「真っ赤だねえ」と笑っていた。今日もしっかり日焼け止めのクリームを顔や手や首に塗って、首にはタオルを巻き、麦藁帽子を被って顔を覆うようにして、完全防備で挑んだので、日に焼けて赤くなっているのではなく、たっぷりと汗をかいて、暑さでゆでだこ状態になっていただけなのだけれど、顔から汗を流し、髪が汗で顔にへばりついて、疲れた顔をしていただろうから、赤鬼のような顔をしていたのかもしれない。シャワーを浴びて、汗を流してさっぱりして、汚れた服を洗濯したてのきれいなT-シャツとジーンズに着替え、エドソンとふたりでビールで乾杯する。ああ〜、疲れた・・・でも、これで、防風林の植林は完了。明日は、さらに、残りのグレヴィーリャ6本と、ハイビスカス1本、そして、まだ植えずに残している6本の違う種類の竹をどこに植えるかを決めて、植えようと思う。

2010年2月7日(日)

今日も朝からいい天気。ただ、昨日の夜はよく眠れなかったので、今朝は寝不足でちょっとエネルギー不足。午前中は洗濯とお昼の仕度、そして、ブログのアップロードなどをしてのんびり過ごす。お昼を食べて、ウィリアムがサンパウロに向けて帰って行ってから、3時頃、昨日に引き続き植林作業を開始する。3時はまだ日差しが強いのでもう少し後にしようか迷ったのだけれど、余り遅くから始めても疲れるだけなので、とにかく作業を開始する。入り口ゲートの左右に竹を植えようと思ったのだけれど、今手元にある種類ではなく、防風林用に使ったものと同じ種類を植えることにし、入り口ゲートの植林は延期することにする。それで、今、手元にある6本の竹の内の一番大きな60x50センチほどの塊の苗木を家の北側の庭になる部分に植えることにする。

ここ1週間雨が降っていないので、地表がとても硬く、大きな穴を掘るのに悪戦苦闘。仕事を始めてしばらくすると、パウロとジャナイーナが車でやって来た。特に用事はなく、以前も書いたことがあるけれど、サンパウロの田舎では、友達のところにひょいとやって来て、「私たちはあなたたちのことを気にかけていますよ」という気持ちを言葉ではなく、態度で表して、親愛の情を示す習慣があるので、彼らの突然の訪問もこの範疇に入る。彼らに、防風林用に植えた竹、グレヴィーリャ、ハイビスカスの列を見せたり、建設途上の家を見せたりして、しばらくおしゃべりをしてから、彼らは帰って行った。その後、私たちは作業に戻り、大きな穴を掘り終え、竹を穴のところまで持ってくるのにまた一苦労。大きな一塊なのでとても重く、エドソンとふたりで抱えようとしても全然持ち上がらない。鍬やスコップをてこにして、何とかカートに乗せて運び、穴のところまで持ってきて、再び悪戦苦闘して穴に何とか植え終わる。穴を掘るのが大変で時間がかかったので、今日はこの一箇所の作業と、水やりだけで、作業を終えることにする。スコップなどの道具を片付けてから家に戻ると6時半になっていた。今日の作業はあまり進まなかったけれど、竹の一番大きな塊を植えることができたので、大きな前進になった。

2010年2月8日(月)

土曜日4時間、日曜日3時間と、炎天下で肉体労働をしたので、エドソンも私も体のあちこちが痛く、ガタピシいっている。先月までお天気が悪く気温が低かったのだけれど、今月になってお天気が回復し、急に気温が上がった中で、作業をしたので、かなりこたえたようだ。今朝は重い体を引きずってエドソンは仕事に行き、私はエドソンを車で送って行く。途中、エディたちのところにコーヒーポットを届けたついでに、エドソンがエディと話している間、私は作業をしている人たちを写真に収める。

先日からアメリカや日本でトヨタ車のリコールが行われているというニュースだけれど、私たちのトヨタカローラはブラジルで作られたものなので、アメリカや日本のものとは少し違うらしく、同じような問題はないようだ。でも昨日、エドソンがインターネット上のニュースを見て、ブラジルではホンダフィットがリコールになっていると言っていた。去年はトヨタカローラを買うか、ホンダフィットを買うかずいぶん悩んだけれど、ホンダフィットを買っていたら、今頃リコールの対象になっていたのかもしれない。

ブラジルは国が広く、車がなければ他の移動手段はほとんどの場所でバスしかない。と言っても、場所によっては1日に2〜3本だけなんてところもざらだから、とても不便な思いをすることになるので、車はどうしても必要なものだ。しかし、ブラジルで車を持つということは日本以上にお金がかかる。まず、車の販売価格は日本と変わらないので、物価の安いブラジルではとてもとても高価な買い物になる。その上、日本同様保険料も安くない。ただ、ここまでは日本と変わらないけれど、日本と違い驚くことがある。それは車を購入すると税金を別途に払わなければならないこと。去年、車を買った後で、銀行からデトランに向けて1,727レアル余り(約8万円)の税金を振り込んだ。それで終わったのかと思っていたら、とんでもない。この税金は毎年払うのだという。車の年式やモデルなどにより金額が異なり、毎年ほんの少しずつ支払い金額が少なくなるといっても、車を持っている間中ずっと払い続けなければならないらしい。今年は1月末までに1,682レアル余り(約8万円弱)を支払わなくてはならなかった。支払わなければならない金額が減少して行くと言っても、去年支払った額とほとんど変わっていない。この税金は道路の整備などに使われるらしいのだけれど、ブラジルのことだからほとんどは政治家のポケットに入るのではないかなあ?と、私は疑っている。100歩譲って、すべてが道路整備などに使われるのだとしても、車の年式やモデルの違いによって税金を取るのではなく、ガソリン代に税金を上乗せすれば、ガソリンを使う頻度が高いと言うことは、それだけ道路を走っているわけだから、それだけ道路整備に対して責任が発生するという考え方の方が、ずっとフェアなのではないかと思うけれど、そう思うのは私だけか?ブラジルの人はよくこんなわけのわからない税金をだまって支払っているものだと思う。

2010年2月9日(火)

今日も朝からとてもいい天気が続いている。そして、今日は風があるので、家の中にいるとその風が通ってとても気持ちがいい。朝いつも通りエドソンを職場に送り届けて家に戻り、家事を済ませてから、培養土を取りに行き、お正月にイビウーナの中村さんのところからいただいてきていた一鉢の桜の苗木を、ハイビスカスを植えた後に空いた鉢にひとつひとつ植え替える作業をした。4〜5本の苗を一鉢に移植してくださっていると思っていたけれど、よくよく見ると、7本の苗が元気に育っていたので、7つの鉢に分けることになった。そして、ついでに、パラカンビから持って来ていたフランボヤンの苗木も、牛乳のテトラパックでは小さすぎる状態に育っているようだったので、それもハイビスカスの空き鉢に植え替える。次の写真は左端が、フランボヤン。そして桜の苗木7鉢。真ん中の後ろにあるのはキキョウの苗。寄らば大樹の陰。大きな木の根元のところにこれらの鉢を置いているので、日差しや風にひどくさらされることなく、今のところ元気に育ってくれている。

私が日本で見慣れていたハイビスカスは、小さな鉢植えのもので、家の庭に直接植えられたものは見た覚えがないけれど、ここのハイビスカスは地面に直接植えられていて、人間の背丈よりも高く、とても大きい。去年、インターネット上で防風林について調べていたら、沖縄ではよく何列かの防風林の中の一列として、ハイビスカスが使われているという情報があったので、これはいいアイデアだと思った。ジャトバス研究所のエリゼウや他の人たちにいろいろ聞いてみると、やはり、ハイビスカスは育てるのがとても楽で、丈夫な木なので、防風林にするにはいいということだった。次の写真はこの家の横にあるハイビスカスの木のひとつ。人間の背丈よりもずっと背が高いけれど、これでも何度もハサミを入れて、大きくなりすぎないようにしているらしい。ここではハイビスカスはほぼ1年中花を咲かせているので、そういう意味でも庭に植えるには相応しいように思う。

2010年2月10日(水)

今日エドソンの仕事はお休みかと思っていたら、ボフェチにあるシステムのメンテナンスのために早朝から出かけるという。朝5時に目覚ましをセットして、5時半にこのファームのゲートの所でハファエルの迎えを待つことになっているという。5時半頃、外はまだ真っ暗なので、懐中電灯を持って、私も一緒にゲートの所まで行く。大きな犬のクリスタルとカーラが一緒について来た。待つこと10分。パウロから電話があり、ハファエルが出社して来ないので、彼がホドリゴを迎えに行くところだという。さらに待つこと30分。6時を回っても誰も来ないので、エドソンがパウロに電話をすると、ハファエルがまだ来ないので、彼のことはもうあきらめて、パウロとホドリゴがこれからこちらに向かうという。それから約15分。ようやくパウロたちが到着。エドソンは出かけて行った。1時間近く、風が吹く日の出前の暗い中、ゲートの所で待っていたので、体が冷えてしまって寒い。エドソンは半そでのシャツだったからなおさらだ。風邪をひかなければいいけれど・・・今日は昨日までと違って、雲が厚く、強い風が吹き、雨になりそうな雰囲気だ。

でも、結局雨は降らず、午後2時を回った頃からお天気が回復し、太陽が顔を出した。3時半頃エドソンから電話があり、4時に迎えに行く。今朝来なかったハファエルは、携帯電話で目覚ましの時間をセットしたのに、夜の間に携帯のバッテリーが切れてしまったらしく、目覚ましはならず、パウロからの電話も受信することができず、目が覚めたら7時だったのだそうだ。それから大慌てで、バイクに乗ってボフェチの現場にやって来たらしい。先週はホドリゴが会社の車で事故を起こすし、パウロも頭痛の種が尽きない。

2010年2月11日(木)

エドソンは昨日仕事に出たので、代わりに今日がお休み。朝起きて、朝食の仕度をする前に洗濯をしてしまおうと、台所の外にある洗濯場に出ると、南西の方角に虹が出ていた。ここは雨が降ったりはしなかったのだけれど、南西の地域ではシャワーが降ったのかもしれない。急いで部屋にカメラを取りに戻り、虹を写真に収める。そうこうしている内にもだんだん虹が薄くなってきて、この左側にも少しうっすらともうひとつの虹がほんのしばらく見えたりした。朝一番にとてもすがすがしいものを目にすることができ、気分爽快。

エドソンが8時を回って起きてきて、一緒に朝食を済ませ、後片付けを済ませて、メールのチェックをすると、広島の兄からメールが届いていた。1月22日に長男の真也のところに生まれた心春(こはる)ちゃんの最近の写真が添付されていた。生まれたその日に保育器に入って寝ている状態の写真を、「生まれました」という報告とともに、真也がメールに添付して数枚送ってきてくれていたけれど、保育器から出て目をあけている写真はこれが初めて。この子はほんのちょっとだけ私の遺伝子も受け継いでいるんだと思うといとおしい。家族っていいなと思う。早産で2000グラムに少し届かない体重だったようだけれど、幸ちゃんが毎日病院に通って母乳をあげているので、まだ退院はできないものの、元気に育っているということだっだ。

今日は家の下のガレージの部分の天井(これは上の家の部分の床になる)を造る準備で、土木技師の人が来る予定なのだけれど、4時過ぎになるらしいので、その前にジャトバス研究所のエリゼウのところに一昨日作っておいたバナナブレッドを持参し、追加の竹を注文しに行くことにする。ドナ ベティのジャトバス研究所はすぐお隣なのだけれど、ここから東に行く道路は雨による侵食が激しく車では通れないほどひどい状態になっているので、パーディーニョの町に一旦行って、遠回りして行くしかない。2時半前には家を出たのだけれど、途中ドナ ベティのところに近づくほどに道が悪くなり、超低速運転を余儀なくされたため、エリゼウのところに着いたら3時を過ぎていた。持参したバナナブレッドを渡して、追加の注文をしたり、世間話をしていると、南西の空模様が怪しくなってきて、頭上に黒い雲が広がり始めたので、急いで帰ることにする。車に戻って走り出すとパラパラ雨が降り出し、一挙にザーッと豪雨に変わった。ワイパーを動かしてもひどい雨のため車の前が見えない。しかも目の前ですごい稲光がして大きな雷が何度も鳴るので恐ろしい。何とか無事に家に帰り着いて、車を倉庫に入れてから、しばらく倉庫の中で雷と雨が収まるのを待たなければならなかった。マウリシオとアルバイトの男の子も倉庫の中で、雨が収まるのを待って時間をつぶしていた。4時半を回ってようやく雨が小降りになったので、倉庫から家に戻る。倉庫にいる間、土木技師の人から電話があり、ここに来るのは明日に延期するという連絡が入る。まあ、こんなお天気になってしまったのだから仕方がない。家に戻り5時過ぎ頃にようやく雷がおさまり、雨が止んだ。やれやれ、とんでもない雨だったけれど、少なくとも植えた木々への水やりを今日はしなくてもよくなったのは幸いだった。

2010年2月12日(金)

ニッケイ新聞、2010年1月30日付けの「日伯論壇」に、在日ブラジル商業会議所会頭、川上オズワルド氏の「伯日は世紀のパートナー」という日伯経済交流をテーマにした論文が載っていた。日本人のあまり知らない日本とブラジルの経済交流について書いてあり、なかなかおもしろかった。ブラジル産の鶏肉は、亀有に住んでいた時に、近くにあったハナマサという肉専門の業務用スーパーで販売されていて、国内産よりも安いし、ブラジル産は安全性も高いので、いつも買っていたけれど、他では見たことはなかった。でも、ブラジルからの鶏肉の輸入量が多いということは、飲食業界はひょっとしてほとんどブラジル産の鶏肉を使っているのだろうか?興味のある方は、こちらへ。ちなみに、統計的な数字は知らないけれど、ブラジルで養鶏や鶏卵生産を行っているのは日系の人が多いように思う。この辺のスーパーで見かける玉子はSAITOとか日系の人の名前のものをごく普通によく見かけるため、そんな印象を私は持っている。

ブラジルは今年は13日(土)から16日(火)までがカーニバルなのだけれど、テレビでは2月始めからすでに連日カーニバルのニュースで盛り上がっている。今日、12日付けのニッケイ新聞には、『いよいよ「カーニバル2010」が開幕する。一番の目玉であるグルッポ・エスペシャルはサンパウロでは12、3日に14チーム、リオでは14、5日に12 チームが出場し、栄冠を目指す』とあったので、サンパウロでは、明日からではなく、今晩から始まるようだ。

明日から4日間のカーニバルが始まり、リオデジャネイロ州では月曜、火曜と祝日で4連休の週末になるらしいのだけれど、サンパウロ州は15日の月曜日は祝日ではないらしい。それで、月曜日エドソンは仕事に出るのだそうだ。でも、ウィリアムは明日から火曜日まで休みでここに来るらしい。そして、エディたちも火曜日までお休みして、仕事は水曜日に再開するのだそうだ。まあ、エディたちは2月に入り、毎日炎天下で作業を続けて、ゆっくりとではあるけれど、作業を前進させてくれているのだから、まあ、ゆっくり骨休めして、水曜日からまた頑張ってもらいたいと思う。次の写真は今日の夕方撮ったもの。先週とあまり大きな進展はないようにも見えるけれど、ガレージの上の天井を造るための作業が着々と進んでいる。

2010年2月13日(土)

今日からカーニバルが始まる。ウィリアムは奥さんのジウダと、彼女の娘のブルーナ(Bruna)と2歳になる孫のフェリピ(Felipe)を連れて火曜日までここに滞在する予定らしい。私たちは朝からボトゥカトゥの家具屋さんや、インテリアの店に行き、家ができた際、どうしても買う必要のあるものの値段を調べて回る。これらの店を探しながら、今まで通ったことのなかった道を通ったりしたので、また少しボトゥカトゥの町の様子を知ることができた。ボトゥカトゥの町はサンパウロ州ではよくある緩やかな起伏のある坂の町なので、必ずしも碁盤の目のように規則正しく道路が通っておらず、どの道を行くと、どこに出るというようなことがわかりにくく、私たちは相変わらず、あまり道がよくわかっていない。でも、帰りには、例によってパオン・ジ・アスーカーに行って食料品を買って3時過ぎてパーディーニョに無事戻る。

家に戻ると、家の前の芝生の上で、フェリピが持参のビニールプールで水遊びをしており、ジウダ、ブルーナ、ドナ クレウザ、マテウスがお揃いでにぎやかに、フェリピの水遊びに付き合っていた。ウィリアムはひとり倉庫の無線室にいるようだった。その後、ドナ クレウザが揚げたマンジョーカをビールやカイピリニャでつまみながら、みんなでにぎやかに、のんびりと過ごす。その後、エドソンと私はパーディーニョの町のカーニバルを見に行くために、8時前にパウロの家に行く。パウロの所ではイザベラが今年カーニバルデビューをするので、みんなでパレードを見に行くことになったのだ。次の写真はパレードが始まるのを待つイザベラ。髪に少し赤い線が入っているのは、パレードに出るためにスプレーで染めているから。これらの写真は持参したカメラの予期せぬ電池切れで、パウロのカメラを貸してもらい撮ったもの。

9時くらいまで、パウロの所でおしゃべりをして、9時過ぎに町の中心の教会のところまで歩いて行く。パレードは9時半に始まることになっているらしいのだけれど、待てど暮らせど、パレードが始まらない。そうこうしている内にエドソンがおなかの調子が悪いと言い出したので、パレードを見るのは諦めて、11時頃私たちは家路につくことにする。車を置かせてもらっているパウロの家に戻る途中、パレードの出発地点を通った際、ようやく最初のグループのパレードが動き出し、ほんの少しだけ、パーディーニョのパレードというものを垣間見ることができた。音楽はにぎやかなサンバのリズムなのだけれど、リオのカーニバルのように豪華な仮装をしているわけではないので、カーニバルのパレードというよりも、広島のフラワーフェスティバルのパレードのようだった。次の写真は順に、教会前の特設舞台の前の道路の飾りつけ。特設舞台の後ろのライトアップされた教会。そして、クレープやシュホスといった軽食や飲み物を売る屋台。

このカーニバルのことは、中国新聞の海外リポートに少し書いてみることにした。

2010年2月14日(日)

今日のお昼は、ジェラウドと奥さんのホザ(Rosa)、そして、パウロと彼の家族も呼んだから、にぎやかにみんなでシュハスコをしようと、例によってまた、ウィリアムがいいだしたので、女性陣は朝から食事の準備をし、ウィリアムは12時前頃から、お肉を焼き始める。マリア・パウラがお昼寝中で連れて来れないのでと言って、パウロは一人でビールを持参してやって来た。そして、その後ジェラウドとホザがやって来た。お肉が焼けるまでの間、マンジョーカのフライをおつまみに、ビールを飲みながら、ベランダでおしゃべりの花を咲かせる。

火曜日までここに滞在するのはウィリアムだけで、ジウダとブルーナたちは午後3時過ぎにはサンパウロに向けて帰る準備を始め、パウロやジェラウドたちも同じ頃引き上げていった。そして、エドソンと私は植木に水をやりに行く。竹もグレヴィーリャもみな元気にしていたけれど、何故かハイビスカスは1本が枯れたようになっていて、花びらや葉っぱが虫に食べられていた。一体どんな虫がハイビスカスの花や葉っぱを食べるのだろう?同じように植えて、次々元気に花を咲かせているハイビスカスが多いのに、どうしてこの1本だけがこんなことになってしまったのだろう?木曜日の午後大雨が降ったので、金曜、土曜と水をやりに行かなかったから、こんなことになってしまったのだろうか?それとも、もともと弱かったのだろうか?まだ植えずに残っているハイビスカスが1本あるので、完全に枯れてしまったことを確認したら、植え替えようと思っている。

2010年2月15日(月)

いつも通り朝、エドソンを職場に送って行く途中、トゥカーノが数羽大きな木に向かって飛んで行くのが見えた。以前、ここでは時々トゥカーノを見かけると書いたけれど、季節的なことなのか、最近チコチコの声を聞かなくなったと思っていたら、トゥカーノを本当によく、毎日のように見かけるようになった。体が大きく、鮮やかな黄色のようなオレンジ色のような大きな口ばしをしているので、飛んでいてもよくわかる。そして、鳴き声も何だか変てこなグァーグァーというような鳴き方をするので、姿が見えなくても、声だけで側にトゥカーノが来ていることがよくわかる。

私たちが暮らしている地域は、大西洋森林地帯(Atlantic Forest)と、サバンナと呼ばれるブラジルの大草原地帯が、ちょうど重なり合っているような場所なので、ブラジルの固有種の木々が生えている原始林があちこちに点在する一方で、ここから北西に向かって広がる広大な草原地帯もあって、非常に多種多様な動植物を見ることができるとても植生豊かな地域だ。私たちが家を建てている土地は、その昔はコーヒー畑で、その後、牛の放牧地として使われてきた場所なので、ほとんど木が生えていない。だから、いろいろな木の苗を少しずつ植えて、今の裸同然の状態から、緑豊かな状態にしたいと考えている。また、以前牧草地だったので、牛の餌にする草が一面に生えている。見かけは緑のじゅうたんを敷きつめたようで良さそうだけれど、実は、この草は問題のある非常に強くてしぶとい雑草のような草で、ここの大きな犬たち、特に黒い犬のカーラとジェニファーはこの草のアレルギーに悩まされている。ダックスフントのモビたちもよくこの草のせいでクシャミをする。私もこの草の上を歩くと、靴下やジーンズを履いているのに、膝から下の足が痒くなる。そして、マウリシオが草刈をした後は、草の飛沫が飛んでくるため、私もよくクシャミが出る。そんな訳で、この草も少しずつ、虫が嫌うアメンドインや芝生などに変えて行きたいと思っている。家ができた暁には、やらなければならない、そして、やりたい庭仕事や畑仕事が山ほどある。でも同時に、楽しみでもある。

2010年2月16日(火)

昨日の夕方、日の入り前に少し夕立があり、一旦雨は止んだものの、9時頃から雷が激しく鳴り出し、1時間あまり続いたため、コンピュータやテレビのコンセントを抜いて臨戦態勢を取らなければならなかった。そのため、昨日は毎晩のお楽しみのノヴェラをテレビで見ることができなかった。残念。

今朝は7時前に少しシャワーが降ったけれど、その後は天気が回復し、時々雲で日差しが隠れる程度の暑い1日になった。今日はカーニバルの最終日で祝日なので、エドソンの仕事はお休み。でも、会社の仕事は休みでも家の仕事があるので、本当にお休みとは言えないかもしれない。うちの敷地の入り口ゲートの左右に2本のグレヴィーリャを、そして、お隣のクラウディオのコーヒーファームとうちの土地との境界の柵沿いに24本の竹を植える予定なので、朝食が済んでからエドソンとふたりで植林作業を開始する。先日、ジャトバス研究所のエリゼウに追加の竹を24本お願いしておいたら、同じ日の夕方26本届けてくれていた。これらを植えるために、以前マウリシオが機械で穴を掘ってくれているので、午前中、2本のグレヴィーリャと9本の竹を植えたところで、ひとまず家に戻り休憩をする。

2時間半の昼食休憩を取った後、午後から再び植林作業に出かける。残りの竹や培養土を何度にも分けて運び、休み休み植えて行き、最後の穴に行き着くと、石ころだらけなのを発見。その穴には竹を植えても育たないと思われるので、植えるのをあきらめ、結局14本の竹を完植。今日の午前と午後の作業で、合計23本の竹と2本のグレヴィーリャを植え終わる。植たはいいけれど、お隣との境界線は水場から遠いので、ふたりでひとつずつのカートに、大きなバケツをふたつずつ乗せ、3往復してすべての竹に水やりを完了。ああ〜やれやれ、疲れた〜。作業がすべて終わって家に帰り着くと6時近くになっていた。ウィリアムは私たちがちょうど重い体を引きずりながら家路についた頃、サンパウロに向け帰って行った。次の写真の右側がお隣のクラウディオのコーヒーファームのほんの一部。

2010年2月17日(水)

昨日カーニバルが終わったので、今日からエディたちが仕事に戻ってくるかと思っていたら、ここは月曜日が祝日ではなかった分、カーニバル後の今日は半日の祝日なのだそうで、結局、エドソンの仕事も、エディたちの仕事もお休み。

朝食後にエドソンが今日これから「グレヴィーリャを植えてこようと思う」と言って、出かけて行き、2時間足らずで戻ってきた。その短時間に残っていた4本すべてを植えてきたのだそうだ。今日は曇り空で午前中はあまり暑くなかったのと、大きな穴を掘らず、小さい穴で済ませたようで、短時間で穴掘りから植林までひとりで済ませてきてしまったようだ。午後からふたりで昨日植えた竹などを見に行くついでに、今朝エドソンが植えたグレヴィーリャを確認すると、東隣のウィリアムのファームとの境界線となる場所の内側に4本植えられていた。ひょろひょろしているので、長くてしっかりしたつっかえ棒が必要なようだ。

土曜日のパーディーニョのカーニバルについてリポートを書いたのだけれど、持参したカメラの電池切れで、パウロのカメラを借りて写真を撮らせてもらったため、その写真をパウロから送ってもらわなければならず、写真入手に時間がかかった。何度も「送って」とエドソンを通じて頼んだのだけれど、忙しいのか、何日たってもなかなか送ってくれないため、リポートは書いたものの、写真がなくてはリポートを送付できない。この調子だとリポートは結局、没にしなければならないかもしれないと思い始めていたら、今日お昼前にようやくメールに添付して送ってきてくれた。お陰で、今日の午後、写真を選んで縮小したりする作業を行い、中国新聞宛てに写真とともにリポートを送ることができた。感謝。感謝。ここの人たちは約束を反故にすることはないけれど、暢気なので、実行してくれるまでに時間がかかる。今回のことで、急ぐときは人に頼ってはいけないと再認識。今回のカメラの電池切れのトラブルはうかつだった。今後は常に電池のスペアを用意しておかなければ。

2010年2月18日(木)

昨日午後8時半頃から雨が降り始め、今朝になってもまだ降っている。そして、お昼前にようやく雨が止んだ。一昨日植えた竹などにはとてもいい恵みの雨になった。でも、ちょっと降り過ぎで、またカロリナソイルのところの道路は水があふれて通れなくなっているとマウリシオが今朝知らせに来てくれた。昨日はアッシュ・ウェンズデー(Ash Wednesday、灰の水曜日)で、夜、マウリシオは町の教会のミサに家族で出かけたのだけれど、帰りはすでに水深が40センチほどになっていたので、さすがのマウリシオもこの水深では車で通ることができず、反対側のでこぼこ道に回るしかなかったようだ。でも、そちらの道路でも、すんでのところでタイヤが穴にはまって身動きできなくなるところだったと言っていた。今日はジャナイーナに教えてもらった美容院に1時に予約をしてあるので、パーディーニョの町まで歩いて行くことにする。エドソンは「予約を変更して延期したら?」と、言ったけれど、エドソンを通じてジャナイーナに美容院を教えてもらって予約をするまでに何週間もかかっているので、今回のチャンスを逃したら、次回は何日後、何週間後になるかわからない。一緒に行ってもらわないといけないエドソンは仕事があり、時間に制限があるため、どうしてもこのチャンスを逃すわけには行かないという気持ちがあり、往復歩いて行くことを強行する。

今日は、パーディーニョの市制記念日、つまり、この町が市になった記念の日なので、パーディーニョ限定の祝日。要するに、カーニバルからこっちパーディーニョはずっとお休み状態。道理でイザベラやマテウスの学校の新学期が来週の月曜日の22日からしか始まらないのだ。カーニバルの週が終わらないことには、ここは何も平常には戻らないということのようだ。

そんなわけで、12時少し前に家を出た。雨が降り出しそうな空模様なので傘を持って行くことにする。おそらく傘を持って行くと雨は降らないけれど、持たずに行くと雨に降られるような気がしたからだ。昨晩からの雨で今朝はちょっと気温が低く涼しいので、エドソンも私も長袖シャツやサマーカーディガンをひっかけて出かけたのだけれど、10分余り歩いたらすぐに暑くなってしまった。この美容院は町の西の端にあるため、町に着いてからさらに20分余り歩かなければならなかったので、片道1時間10分余りかかってしまった。この美容院をやっているのはエディナ(Edna)という人で、生まれも育ちもパーディーニョという生粋のパーディネンセ。イタリア系の人で、この道19年のベテラン。ご主人が亡くなってしばらくは仕事を止めていたそうだけれど、その後、ここで新たに開業したのだそうだ。ここもエディナ一人でやっているので、一度に対応できるお客さんは一人という小さな店だけれど、とてもきれいな感じのいい店だった。エディナもとても気さくな人で、自由におしゃべりできたら楽しいだろうなと思える人だった。5ヶ月ぶりのヘアカットと、3ヶ月ぶりの毛染めで、すっきりさっぱり。

美容院を出て、帰る頃にはお天気が回復して、少し日差しもあるような状態だったので、途中、アップダウンのあるでこぼこ道を歩くのは暑かった。日差しが出るとエドソンは私の持参した帽子を被り、私は傘を差してトコトコと来た道を歩いて帰った。汗びっしょりになって帰宅すると5時近くになっていた。こんなに歩いたのは久しぶりなので、足が笑っている感じだ。

2010年2月19日(金)

肉体労働の後、夜が暑くて寝苦しいと、体が疲れているのに、良く眠れないことがあるけれど、一昨日、昨日と、夜の間の気温が低かったので、とても気持ちよく眠ることができ、今朝はすっきりと目が覚めた。外は雲が厚いものの、まずまずのお天気。エドソンの仕事は今日もお休みだけれど、エディたちは今日仕事に戻って来てくれた。

でも、ウィリアムの倉庫の横で穴掘りをしたり、何か作業をしているので、我が家の方はどうなっているのだろう?と、思っていたら、朝食の後で、エドソンがコーヒーポットを建設現場に届けるついでに様子を見に行った。我が家の方はいつもの人たちが作業をしていて、ウィリアムの倉庫の横で作業をしているのは、エディが連れてきた別の人たちなのだと言う。ウィリアムがアンテナを立てるための土台を作ってほしいとエディに頼んだらしい。それで、エディは別の人たちを連れてきて、作業の指揮を執っていたようだ。

午後、カロリナソイルのところの水浸しの状態が悪く、うちのレンガを置かしてもらっている駐車場にも水が溢れているらしいと聞き、エドソンは自転車で様子を見に行った。カロリナソイルのゲートのところは水浸しになっていたようだけれど、うちのレンガを置かしてもらっている隅っこのところはまだ大丈夫だったようだ。良かった。でも、今回は半日以上雨が降り続いたとはいっても、晴天が続いた後の雨だったのだから、地面が水分をある程度吸収できたはずなのに、前回、水が溢れた時と同様か、もっと水が溢れているらしいというのはどうも解せない。何故だろう?レンガが大丈夫だったのは良かったのだけれど、帰り道でここのファームのゲートのところの地面の状態が悪かったらしく、自転車のタイヤが滑り、ひっくり返り、エドソンはジーンズの膝の部分が破れて、膝に擦り傷を作って帰ってきた。やれやれ。泥で汚れたこのジーンズを洗った後、破れた部分に布でもあてて繕わなくては・・・エドソンがシャワーを浴びた後、以前、彼がインド人スタッフのひとりからもらったタイガーバームの軟膏を見つけることができたので、傷に塗ることができ助かった。

2010年2月20日(土)

昨日の夜も気温が低く、気持ちよく眠れたので、今朝は朝寝坊をして、朝8時を過ぎて起きた。それから髪を洗ったり、のんびり朝食の仕度をして、ゆっくりとおしゃべりしながら食事をしたので、食事が終わって後片付けをしたら、10時近くになっていた。その後、洗濯をしながら、昼食の仕度をして過ごす。先週はシュハスコでお肉をたくさん食べたので、私の体は野菜が欲しいと言っている。それで、今日は野菜たっぷりの、あっさりとしたエビと夏野菜のビネガー煮と、キュウリといり玉子のサラダを作る。ウィリアムは11時半頃やって来た。

昼食後、夕食のパンに添えるためのかぼちゃのスープを作ったり、明日の昼食の鶏肉をマリネにしたりという台所仕事をした後で、居間でエドソンのジーンズの破れたところを繕っていると、4時前頃になって、ウィリアムの知り合いの人たちが来たらしく、ドナ クレウザが、「ゲストが来たからお茶を入れないと」と言って、お茶とパンの準備を始めた。その準備はドナ クレウザに任せて、私は繕い物を続けていたら、何だかだんだん気分が悪くなってきた。どうももどしそうな感じになってきたので、台所の外のシュハスコのかまどの横の流しに行って、態勢を整えると、やはりもどしてしまった。ドナ クレウザは「お昼のエビのせいじゃない?」と、言っていたけれど、私は別にエビのアレルギーではないし、もしエビにあたったのならこんなものでは済まなかったはず。だから結局、何が悪かったのかよくわからない。ゲストの人たちのお茶が終わるまで台所の外の階段に腰を下ろして待ち、彼らのお茶が終わってから、寝室に胃薬を取りに行き、薬を飲んで、しばらく横になる。

去年3月にブラジルに到着して、翌日、ここに来た夜、もどして以来の2度目の体調不良だけれど、まあ大したことはなく、しばらく横になっていたら、普通の状態に戻った。

2010年2月21日(日)

昨日の深夜0時に夏時間が終了し、今日から通常の時間(日本との時差マイナス12時間)に戻ったので、朝ゆっくり起きても、当然のことながら、まだ7時だった。昨日のお昼以来、オレンジジュースと水以外何もお腹に入れていないので、少し空腹を覚えるくらいに、お腹の調子は回復しているようだった。朝食は、ウィリアムとエドソンはいつも通り、コーヒーにパンだけれど、私はコーヒーの代わりに昨日作っておいたかぼちゃのスープを飲み、少しパンを食べ、ヨーグルトを少し飲む。何も問題なくおいしくいただく。

朝食後、ドナ クレウザが台所の片付けの手伝いに来てくれ、パーディーニョの町では最近、彼女の知り合いの人が2〜3人お腹を壊して病院に行ったといい、私たちに、先日美容院に行った際、水を飲んでいたら、ひょっとして私のお腹の不調もその水のせいではないかと言う。この間の大雨で水道管が破損したらしく、どうやらパーディーニョの町では水に問題が出ているらしい。美容院まで歩いて行ったのでのどが渇いて、到着してから水を飲んだけれど、私だけではなくエドソンも飲んでいるし、2日も前のことなのだから、水のせいでもないように思う。原因は何だかよくわからないけれど、今月は暑い中、肉体労働をして、体調とお腹が、自覚症状なしに、ちょっと弱っていただけなのではないかと思う。

この間の大雨は、ここから出る道路の出口のカロリナソイルのところをまた川状態にしただけでなく、夜の間もずいぶんひどく降ったようで、パーディーニョの小学校がまた水に浸かってしまったらしい。それで、明日からの新学期が1週間延びて、3月1日(月)からになったとドナ クレウザが言っていた。カロリナソイルのところの水の溢れた状態は、昨日、ウィリアムが来て「ぜんぜん問題なかった」と言っていたけれど、本当は水深が深いのに、無理して通ってきたようで、エンジンを濡らしてしまったらしい。今日、サンパウロに向けて帰るのに、車を倉庫からこの家の前まで持って来た際、エンジンが変な音をたてていた。すぐにエンジントラブルを起こして、エンコしたりはしないかもしれないけれど、車は水の中を走るようにはできていないのだから、遅かれ早かれ何らかのトラブルが発生するのではないかなあ?と、思う。

2010年2月22日(月)

今日は私の誕生日。ブラジルに来て初めて迎える誕生日。無事に迎えることができ、感謝。感謝。去年は引越しの準備におおわらわで、誕生日どころではなかったけれど、ブラジルに来て1年近くが経とうという現在も、仮住まいの居候生活が続いているため、特別なことをする予定はない。でも、エドソンがドナ クレウザを通じてバースデーケーキを注文してくれたので、夕方マウリシオが町までケーキを取りに行ってくれることになっている。

先月マテウスの誕生日の翌日、お裾分けと言って、ドナ クレウザが私たちにも切り分けたケーキを持って来てくれたのだけれど、そのケーキがとてもおいしかったので、エドソンがこれは誰が作ったのかと聞いてみたら、パーディーニョの町でケーキを作ってくれる人がいて、その人に作ってもらったと言っていた。それで、エドソンは私の誕生日にその人にケーキを作ってもらうことを思いつき、ドナ クレウザを通じて注文してくれたのだ。

今日は自転車で仕事にでかけたエドソンが汗びっしょりになって、6時頃帰宅した。そして、夕飯の仕度ができた7時前頃にマウリシオがケーキを持って帰って来てくれた。縦20センチ、横30センチ、高さ8センチくらいだろうか?値段は35レアル(約1700円)と、ブラジルの標準から言うと高いのだけれど、日本だったらこの4分の1の大きさで2000円くらいするのではないだろうか?それに、アメリカのスーパーで売っているようなバタークリームの甘いばかりのケーキではなく、生クリームやカスタードクリームなどをたっぷりと使い、しっとりとした甘さ控えめの大きなケーキなので、35レアルの価値はあるように思う。夕食後、4分の1をマウリシオのところにお裾分けして、4分の1を明日パウロのところに持っていってお裾分けするために、タッパーに入れて冷蔵庫に入れて置く。そして、最後に私たちも一切れずついただく。ああ、おいしい!ブラジルでもおいしいケーキが食べられるなんて、何と言う幸せ!

2010年2月23日(火)

今日付けで、中国新聞の海外リポートに、先週送った私の14本目のリポート「田舎町を挙げて ゆる〜いカーニバル」 が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。今月始めに別のリポートをすでに送っているのだけれど、カーニバルのリポートは旬なので、こちらを優先させるということで、急遽このリポートが掲載される運びとなった。

10日あまり前に、家の下のガレージの天井部分を作るための見積もりをしてくれる予定だった土木技師の人が、悪天候で来られなくなって、それ以来、延び延びになっていたのだけれど、ようやく、今日朝一番で来てくれた。そのため、エドソンは午前中は仕事を休み、エディと一緒に建設現場に行って、その人の測量や見積もりや今後の作業手順の話し合いに立ち会った。その結果、来週の月曜日に天井を作るための資材を搬入してくれることになったようだ。

エドソンは11時頃戻ってきて、カロリナソイルのところは相変わらず水が引いておらず、うちの車では通らない方がいいと、エディに言われたため、今日は午後から仕事に出ることはやめ、家で仕事をすることにしたという。パウロのところにケーキのお裾分けをするのも明日までお預けかと思っていたら、午後からマウリシオが家族とパーディーニョに出かけるというので、彼にパウロのオフィスまで配達を頼むことにした。

2010年2月24日(水)

昨日も一昨日も、午後から空模様が怪しくなったにもかかわらず、雨雲はここの丘陵地帯の南側をかすめて行き、今にも雨が降り出しそうな風が吹き、雷が鳴っただけで、結局ここは雨が降らなかった。それで、昨日は夕食後、竹やグレヴィーリャに水をやりに行くことにした。日の入り前の1時間ほどの時間帯なので、日差しも弱まり、気温も下がり始める頃なので、外での作業も苦にならない。私が水やりをしている間に、エドソンはまだ植え残っている竹の中で、1本だけ種類の異なる葉っぱがふ入りの竹を植える作業を始めた。私がすべての木に水をやり終える頃、その竹を植え終わり、彼が道具を物置にしまっている間に、私がその竹にたっぷりと水をやり、作業を完了した。

今朝、建設現場にコーヒーポットを持って行ったついでに、昨日エドソンが植えた竹を写真に収める。竹の向こうにモビとフィオナも写っている。彼らは自分たちだけで建設現場に行くことはめったにないけれど、私たちが行くと必ずついてくる。特にモビは私たちに誰よりもなついてしまって、どこに行くにも一緒についてくる。以前は私たちが車で外出する際、ついてきたりしたことはなかたのに、先月、モビが私たちの車の後についてきたことがあった。私たちは気づかなかったのだけれど、入れ替わりに車で戻ってきたマウリシオが私たちの車の後をついて走っているモビを見つけて連れて帰ってくれたので、行方不明にならずにすんだ。それ以来、車であれ、徒歩であれ、私たちがどこかに出かける際は、まず彼らを犬小屋に入れてから出かけるようにしている。でも、この辺をうろうろする際は彼らも自由についてくる。私たちの家が完成して、新しい家に引っ越したら、モビたちはきっとついて行くよと、マウリシオは笑っている。

次の写真は今朝の建設現場の様子。エディのスタッフの人たちが4人働いていた。右端の麦藁帽子を被っているのはエディの弟さん。彼らはいつも一緒に働いている。この時、エディは倉庫のところでマウリシオと話をしていたので、この写真には写っていない。

2010年2月25日(木)

昨日は午後30分ばかりすごい雨が降り、竹などにはいいお湿りになったと思っていたら、夜になってまた、ザーザーと降り、ちょっと降り過ぎ。今朝は、広い範囲で暑い雲に覆われ、少し気温が低い。エドソンは自転車で仕事に行くつもりでいたのだけれど、マウリシオがマテウスをパーディーニョの歯医者に連れて行くため、乗せて行ってくれると言うので、便乗して出かけて行った。帰りは徒歩で帰るつもりらしい。自転車で行っても、帰りの上り坂は自転車から降りて、自転車を押して歩くのだからあまり変わらないからと言っていた。

2010年2月10日付けのニッケイ新聞「コラム樹海」に次のような記事が載っていた。いつものことながら、日本の情報発信力の弱さは言葉の壁以上の問題を抱えているように思う。ちなみに記事の最後の(深)は、編集長の深沢さんのことと思われる。

『なぜ日本は言われっぱなしで放っておくのか。先週も反捕鯨団体の船が日本の調査捕鯨船にぶつかる事故が起きたが、TVグローボは「日本の捕鯨船が環境活動家の船に激突」というロイター通信を垂れ流し、活動家側の船から撮影された、日本の船の方からぶつかっているような映像を放送していた。グローボ報道を見た一般視聴者の大半は「日本人は危険」とのイメージを持つだろう▼一方、産経新聞6日付けでは「調査捕鯨船にレーザー光線、乗員失明の恐れも」などの見出しで、抗議船が「乗組員の目に当たれば失明の恐れのあるレーザー光線を照射するなどの妨害活動を開始し」た上で、「有害な液体の入ったビンを投げつけるために急接近。第3勇新丸は回避行動をとったが、その際、船尾に接触されていたことが判明した」とあり、まったく印象がことなる▼NHKなどが日本側の主張を込めた報道をポルトガル語で発信しないと、この状況は変わらない。NHKの巨大化を民放が危惧しているとの声は聞くが、「島国根性」で相手の足を引っ張るのではなく、世界における日本の立場を強化する視点を持つ必要がある▼例えば英BBCブラジルは現地協力者を入れれば50人もの陣容で、伯国関連ニュースをポ語配信して主要伯字紙に転載されている。また中国政府機関によるポ語ニュース発信も存在感を増す▼西洋社会では「沈黙は金」は通用しない。「反論しない」=「認めた」と理解されがちだ。日本語教育、日本文化普及しかり。国家財政が苦しい時だからこそ、むしろ、日本を世界に正しく理解してもらうための努力には大金を注ぐべきだと思う。(深)』

日本の外で暮らしていると、欧米の知識階層の人たちですら、日本に関してほとんどまともな知識がないことにあきれてしまうことがよくあるけれど、そもそも正しい情報をちゃんと発信する努力を怠っている日本にも大きな責任があるのかもしれない。

2010年2月26日(金)

今日は何よりも、バンクーバーオリンピックで真央ちゃんが銀メダルを取ったことがとてもうれしい。ブラジルでは冬のオリンピックのニュースはぜんぜん見ないけれど、今朝一番にインターネットで結果をチェックして知った。金メダルでなかったことは残念だけれど、これまでの不調や大きな期待による重圧をはねのけて、よく結果を出したと思う。大舞台でも決して負けない日本人離れしたところが彼女の真骨頂だと思う。

今日付けで、中国新聞の海外リポートに、私の15本目のリポート「歴史・文化・産業・・・地名の由来さまざま」 が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。カーニバルのリポートの掲載が23日に決まったと言う連絡をもらった際、こちらのリポートの掲載は3月上旬予定ということだったけれど、それが急に変わって今日になった。リポートを送ってから掲載されるまでにだいたい3〜4週間はかかるのが普通なので、来週掲載でも送付から4週間で、いつも通りで別に問題はないのに、まるで連載のように同じ週の掲載になった。今週は日曜日からほぼ毎日のように各国からのリポートが更新される盛況なので、掲載しなければならないリポートがダブついているかもしれない。

昨日も一昨日も厚い雲に覆われて、気温が低く、時々小雨が降るお天気が続いている。昨日の朝、エドソンはマウリシオの車でパーディーニョに行ったので、ついでに彼と一緒に市役所に行き、雨で浸食されて深い溝ができ、車での走行が難しくなっているここの東側に出る道路の整備を依頼したらしい。すぐに重機を派遣してくれたようだけれど、作業の人はわざわざこの町外れまで作業に来ておきながら、一番ひどい所を1箇所おおざっぱにやっつけ仕事をしただけで、残りは手付かずの状態で作業を終えてしまっているため、エドソンもマウリシオも怒っていた。それで、どんな作業をしたのかカメラを持って今朝見に行ってみた。次の写真は道路の状態が一番ひどく通行を妨げていた箇所で、ウィリアムの東隣のファームの入り口ゲート。ゲートの入り口が道路よりも高いため、ひどい雨が降ると、上のゲートから道路を横切るように水が流れ、道路が深くえぐれてしまっていたため、ここを無事に通過するのは大変だったのだ。ウィリアムの東隣はドナ ベティのバンブーファームなのだけれど、北側には二つのファームの間にこの小さめのファームがあって、南側に下りて行くとウィリアムのファームとドナ ベティのファームが境界線を接している。

次の写真はそのゲートの前の道路の状態。ちょっと左端を削って、穴を埋めるような補修が行われてはいるようだけれど、とても雑な仕事で、深い溝が少し埋まっている程度で、でこぼこ状態は解消していない。

次の写真はこのゲートの東側から西に向いて撮った写真。写真ではよくわからないかもしれないけれど、少し道路を削った後が見られるものの、補修工事をしたとはとても言えない雑な仕事だ。

次の写真もゲートの東側を東に向いて撮った写真。

2010年2月27日(土)

今朝は家事とお昼の仕度をしてから、家の建設現場に行き、虫に食われて完全に枯れてしまったハイビスカスを1本抜いて、植え残っていたもう1本の予備のハイビスカスと植え替える。そして、竹をもう1本、防風林の列に加えた。今日はお昼過ぎまでお天気が良かったけれど、午後から少し曇りがちになったので、昼食後、3時前から植林作業を再開した。まだ植え残っていた竹の大きな塊4個と、防風林用の竹2本を植えることができた。今週は水曜、木曜と雨が降ったので、土が水分を含んで比較的軟らかく、大きな穴を掘るにも余り苦労せずに済んだ。これでこれまでにハイビスカス11本、グレヴィーリャ16本、3種類の異なる竹43本、合計70本の植林を完了。でもこれはまだほんの序の口で、私たちのプロジェクトの先はまだまだ長い。ただ一応、手元にあった木をすべて植えることが出来たので、満足。

2010年2月12日付けニッケイ新聞の日系社会ニュースに、カーニバルのパレードの要として出場する二人の日本人に関する記事があった。この記事のサイトは、こちらへ。こういう日本人もいることに、日本人も捨てたものじゃないなと思う。リオのエスペシアルにソロダンサーとして出場した女性の「真剣にバカ騒ぎをする、このパワーが好き。尋常じゃないですよ。とにかく楽しみたい」というコメントは、まさにその通りかも?と、思った。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というところだろうか?

ちなみに、いつも紹介しているニッケイ新聞の日付が古いのは、2週間近く経過した誰でも無料で読むことが出来る古い記事を読んでいるから 。インターネット上でニッケイ新聞のその日の新しい記事を読みたければ、印刷された新聞と同じフォーマットで読むことが出来るのだけれど、そのためには登録して購読料を支払わなければ読めないシステムになっている。それで、今はそんな金銭的なゆとりはないので、もっぱら無料の少し古くなった記事を私はネット上で愛読している。

2010年2月28日(日)

朝一番は曇り空ながら、まだ雨は降っていなかったけれど、お昼前くらいから霧雨が降り始め、その後本格的な雨になった。その霧雨の中、雨がひどくなる前に、昨日植えた4つの竹の塊の写真を撮りに行く。次の写真は、昨日植えた4つの竹の塊。

次の写真は、同じく昨日植え替えたハイビスカス。元気に花を咲かせていた。

先日のハイチの地震に続き、今度はチリでも大きな地震があったことが、大きく報道されている。最近は大きな地震により発生する津波の怖さが良く知られているため、テレビのニュースでは日本駐在の特派員からの日本の津波警報に関するニュースも同時に報道していた。こんなに大きな地震が世界のあちこちで続発している現状に、同じような大きな地震がいつ来てもおかしくない日本は大丈夫かな?と、少し不安に思う。その点、ブラジルは雷が多いことで有名なようだけれど、地震はほとんどない国なので、地震に関しては安心していられるのは幸いだと思う。



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