Kyoko Yoshida                                        
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2010年1月1日(土)

Feliz Ano Novo!!!(新年おめでとう)

ブラジルでの初めての新年を、楽しく、暖かい雰囲気の中で迎え、元旦の朝は、澄子さんの作ってくださったお雑煮をいただく。日本にいた時は、例えばお正月に、私の作るお雑煮などを食べ、近所の小さな神社に初詣に行ったりすることを、あまり深い感慨もなく、私がそうするから受け入れていたようなエドソンだったけれど、いざ日本を離れてみると、そうした様ざまなちょっとした、そして当たり前の日本的な習慣や食べ物など、もろもろのことを私よりもずっと懐かしがって、感激している様子がとても面白い。ああ、この人はやはり日本が好きだったんだなと、思う。

中村さんご夫妻のご厚意に甘えて、年末年始をお宅で過ごし、様ざまこころのこもった心遣いをしていただき、本当に良い一年の締めくくりができ、そしてスタートをきることができた。こころから感謝したい。お昼頃帰る前には庭のキキョウの花を一株と、桜の苗を2〜3株掘り起こして、持って帰れるようにしてくださった。我が家でお花見ができる日を夢見て、大切に育てようと思う。そして他にも、まるで実家に戻った実の娘に持って帰らせるように、丸もちやら、のりやら、いろいろ袋に入れてくださり、本当にその暖かく気さくな人柄に、私はすっかり澄子さんのファンになってしまった。博学なご主人にも「ブラジル日系社会 百年の水流」というまるで辞書のようにとても分厚い本を貸していただいた。これを読み終えるにはだいぶ時間がかかりそうだ。

2010年1月2日(土)

昨日の午後、無事にイビウーナから戻り、ダックスフントのモビとフィオナの大歓迎を受けた。時々ここを留守をすると彼らも寂しく思ってくれるらしい。夕食後、何故かエドソンがモビに入室許可を与え、床にマットを敷き、その上にモビがおとなしく座っているので、写真に撮る。フィオナはドアが開いていると、ダメと言っても入ろうとしたり、入るとどうしてもソファーに座ろうとして、私たちの言うことを聞かないのだけれど、モビはとても聞きわけが良く、お行儀がいい。モビはいい顔をしてカメラを見つめているけれど、エドソンはわざとおどけた顔をしている。

今日、いつもより遅く、正午を回ってウィリアムがサンパウロから到着。途中でタイヤがパンクして、タイヤを取替えていたので、遅くなったのだそうだ。私たちはだいたい120キロの制限時速を守って走るけれど、ウィリアムはいつも130〜40キロくらいは軽く飛ばして、スピード違反の切符を切られることがよくあるらしい。そんな高速で走っていてパンクしたのに、何の事故にもつながらなくて良かったと思う。

お昼はジウダが私たちに食べさせたいと言って作ってくれたバカリャウ(Bacalhau、塩漬けにして干物にしたタラ)の料理を、ウィリアムがタッパーに入れて持ってきてくれたので、ご飯だけ炊いて、おかずはそれを暖めなおしていただくことにする。このバカリャウはブラジルではとても一般的な魚の干物で、だいたい北欧から輸入するのだそうだ。パラカンビのスーパーではいつも山のように積まれていたけれど、パーディーニョの店では何故か見かけない。

元旦は、ここは雨は降らなかったようだけれど、今日は1日中霧に包まれて、雨、雨、雨。私は部屋にこもって、いただいたお年賀メールに返事を書いたり、あちこちにお年賀メールを送る作業に没頭する。

2010年1月3日(日)

今日は、太陽が顔を出し、いいお天気になったので、昨日洗って乾いていない洗濯物を外に出し、年が明けたら洗おうと思っていたベッドシーツなどの大物を2回にわたって洗濯し、外の物干し場に洗濯物を盛大に広げる。

ウィリアムの今回の滞在予定は週末だけではなく、クリスマスから取っている休暇の続きで、今もまだ休暇中なので、今週はずっとここに滞在するという。その予定を聞いて、思わずドナ クレウザと顔を見合わせてしまった。まあ、仕方がない。長丁場になるので肩の力を抜いて、より私たちのペースに近い形で過ごそうとエドソンと話し合う。それで、今日のお昼は、私はご飯を炊くだけで、ドナ クレウザに豆を煮たフェイジャオンと、トマトと玉ねぎのサラダを作ってもらって手を抜くことにし、夜は、いつもパンと紅茶では飽きるので、私が簡単にチャーハンを作ることにする。

今日も私は、家事をしていない時間は、お年賀メールを送ったり、返事を書いたり、ブログの準備をして過ごす。懐かしい人たちからのメールを読みながら、エドソンと一緒に、日本はまだ経済状況が悪いみたいだけれど、まだ仕事は続けているみたいでよかったとか、30日まで仕事なんて大変とか、資格試験合格よかったとか、様ざま思いを馳せた。

2010年1月4日(月)

今日は朝のうちはいつものように霧に包まれていて、お天気が良くなるのか、下り坂になるのか、わからない状態だったけれど、お昼近くなって、だんだんお天気が良くなってきた。年末年始のお休みが終わり、今日からエディたちが、早速レンガを積む作業をしてくれるのかと思っていたら、誰も姿を現さない。ここの果樹園の仕事を手伝っているアルバイトの男の子たちも今日は仕事に来ていないし、マウリシオも傘を下げて1〜2回、果樹園の様子を見に行ったようだけれど、いつものように朝早くからトラクターに乗って行って仕事をしている風ではない。やはりここはブラジル。休み明け早々に、エネルギーを全開にして仕事に戻るなどということはないようだ。

午後からエディが、レンガを積む作業に必要な足場などをトラックで搬入し、レンガ積みに必要なセメントの配達を手配してくれたりしたことが、今日のわずかな前進だった。明日からレンガ積みを開始してくれるという話だった。

ウィリアムは車をボトゥカトゥの修理工場に持って行ったり、パーディーニョに何か資材を買いに行ったりと、1日中出たり入ったりと忙しそうだった。パーディーニョでの資材購入にはエドソンも駆り出されて行った。でも、私はマイペースで、家事をしたり、ブログの更新をしたりして過ごし、お昼は牛肉と白菜のオイスターソースを作り、夜は、ウィリアムも食べるかどうかはわからないけれど、私たちはただパンだけを食べ続けるのは嫌なので、パンの付け合せにレンズ豆のスープを作る。

2010年1月5日(火)

ウィリアムは、サンパウロ州立大学農学部(ボトゥカトゥ・キャンパス)修士課程で学んでいるパウラ(Paula)に、定期的にここのアテモイアの果樹園の状態を見てもらっている。要するに彼女に農業コンサルタントをしてもらっているのだ。今朝、朝食を食べているときにパウラが到着したので、仕事の前に彼女にも朝食を勧める。昨年から降り続く雨の多い悪天候で、アテモイアにカビが発生したり、木や果物に被害を与える虫も発生しているらしく、あまり良くない状態のようだ。

昨日、エドソンがウィリアムと一緒にパーディーニョに行ったついでに、ハムとチーズを買ってきてくれたので、今朝の朝食はパンだけでなく、そのハムとチーズを挟んで食べることができた。ウィリアムは、ただパンにバターをたっぷり塗って、ハチミツやジャムをつけて、朝晩毎日食べ続けても平気なようだけれど、私もエドソンもパンは嫌いではないけれど、毎日それだけではどうしても飽きてしまう。例えば、朝食なら卵やベーコンを添えたり、ハムやチーズを挟んだりして、目先を変えないと、パンだけではとても毎日はエンジョイできない。

昨年末、うちの土地の地質をパウラに分析してもらったところ、土地は決して痩せこけてはいないけれど、熱帯特有の強い日差しと雨により土の酸性度が強く、植林などをする際は、まず石灰をまいてペーハーを中和させてから、木を植えないとまともに育たないということがわかったため、植林をする土地の周辺に石灰をまくことになった。パーディーニョの町にある店では石灰を販売していないので、ボトゥカトゥまで買いに行かなければならない。年末にご近所の農家から牛糞をもらって土の準備をする予定にしていたのだけれど、降り続いた雨でその農家の戸外に溜めてあった牛糞が流れてしまったため、またしばらく牛糞が溜まるまで待たなくてはならず、植林のための土作りの作業ができなかったのだけれど、それよりも前に、石灰をまく必要があることがわかり、牛糞を入手できなかったのは、順序が逆にならず不幸中の幸いだったのかな?と思う。

今日のお昼は、私が牛肉とトマトと玉ねぎの炒め物を作り、ドナ クレウザがトマトと玉ねぎのサラダを作ってくれ、日曜日に彼女が作ってくれたフェイジャオンの残りを暖めなおしていただく。パウラも一緒にお昼を食べて行ったので、フェイジャオンの残りがあって助かった。

2010年1月6日(水)

昨日は夕食のパンの付け合せにと野菜スープを作ったのだけれど、今年最初のロータリークラブの例会があることをすっかり忘れていたので、ドナ クレウザに野菜スープを作ったから、良かったらウィリアムに食べてもらってと言い置いて、ちょっと早めに家を出る。8時前頃から雨が降ったせいか、出席者が驚くほど少なかった。私のリポートをポルトガル語に翻訳してくださったサンパウロにお住まいの岡井さんがご夫妻で、マックス・フェファー文化センターを見学したいから、パーディーニョに来たいということなので、ここら辺で唯一のまともな宿泊施設であるアグアス・ダ・セハのオーナーのマーセロと話がしたかったのだけれど、彼も欠席していて、話ができなかった。

ブラジルのクリスマスや年末年始の定番のお菓子、パネトーネ。イタリア語のような響きなので、起源はイタリアで、ブラジルに多いイタリア人移民が広めたのかな?と、思っていたら、当たりだった。次のような記事をニッケイ新聞の2009年12月25日付けの日系社会ニュース「大耳小耳」で見かけた。

『クリスマスといえば、パネトーネ。17世紀、北イタリア・ロンバルジーアの貧しい青年トーニが、恋する女性の父親で、ベテランのパン職人に認められたいがために試行錯誤して作り上げたのが、「パニ・デ・トーニ(トーニのパン)」の由来だとか。チョコトーネも人気だが、サウガード(塩味)やドーセ・デ・レイテ(甘い牛乳)を詰めたものもあり、なかなかに種類も豊富。』

2010年1月7日(木)

以前、この家の裏のシュハスコのかまどのところに迷い込んだフクロウの写真をブログに載せたことがあるけれど、バードウォッチングが趣味の東京の友人が、あのフクロウは和名をメンフクロウ(英名Barn Owl)といって、世界に17種いると、数日前に届いた年賀メールで知らせてくれた。さすが年季の入ったバードウォッチャーだ。去年はブログを書いていて、犬好きの友人からはここのワンコたちを全員紹介してとか、ブラジルの人の名前は憶えにくいから、私たちがかかわっているここの人たちを、わかり易くもう一度まとめて紹介してといった具体的な要望があったのもうれしいし、こんな風に知らなかったことを教えてもらえるのもとてもうれしい。

私はバードウォッチングが趣味ではないので、ここで見かける様ざまな鳥の名前はほとんどわからない。わかるのは、以前写真を掲載して紹介したスズメの一種のチコチコや、野鳩、パパガイオ、トゥカーノくらいで、他はまったくわからない。けれど、ここでは本当にたくさんの種類の鳥を見かけるので、バード・ウォッチャーにはたまらない場所かもしれないと、思ったりする。トゥカーノ(Tucano)はブラジルの国鳥と言われている鳥で、和名はオニオオハシというらしい。国鳥と言われるくらいだから、日本の丹頂鶴のように、そんなに簡単には見られない鳥だと思っていたけれど、ここで暮らし始めて5ヶ月あまりの間に、もう4〜5回見かけている。この辺りには大昔からの手付かずの森が点在しているお陰だろうと思う。ただ、チコチコやパパガイオと違い、彼らはあまり家の側に来たりはせず、家から離れた場所にある木に飛んでくるので、カメラに収めることはまだできていない。次の写真はインターネットで見つけたもの。

ウィリアムが明日の午後、サンパウロに帰るので、今晩はまたカンポネーザで食事をしようということになった。ウィリアムの友人でジェラウド(Gerald)という人と、パウロと彼の家族にも連絡を取って、大勢でにぎやかに食事をする。ジェラウドはサンパウロでの仕事を引退後パーディーニョに来て、カステロブランコ沿いのニーニョ・ヴェージ(Ninho Verge)というコンドミニオ(塀で囲まれて、セキュリティーの厳しい分譲住宅地、アメリカのGated Cityのようなもの)で、奥さんとふたりで暮らしている。

2010年1月8日(金)

ぺドレイロのエディは火曜日から作業を始めると言っていたのに、火曜日も水曜日も姿を現さず、何も始まらない。お隣のクラウディオのファームの倉庫で作業をしているようなので、エドソンが行ってエディと話したところ、レンガを積むために必要なセメントが届かないので作業ができないのだと言う。でも、それならそうと説明をしてくれなければこちらはわからない。それで、エドソンがセメントを購入した店に電話をして、何故、約束通りにセメントを配達してくれないのか、一体いつ配達してくれるのか強く言って、ようやく、昨日のお昼前に配達すると約束させたのだけれど、12時前には来ず、結局、3時を過ぎてようやく到着した。

次回の海外リポートに、リオデジャネイロの人たちは口先ばかりで当てにならないけれど、サンパウロの人たちは約束を守るという内容の記事を先月書いて、年明け早々、中国新聞に送ったばかりなのに、これでは嘘を書いたことになってしまう。やれやれ・・・

でも、セメントが昨日何とか届いたので、今朝からエディたちがレンガを積む作業を始めてくれた。雨が降り出しそうな空模様になってきたので、雨が降り出す前に4時ごろ見に行ってみると、レンガが6〜7段立ち上がっていた。これまでと違い、進展が目に見える状態になり、少しうれしい。

今日付けで、中国新聞の海外リポートに沢田啓明リポーターの「ビーチで快適 裸で過ごす年末年始」と題するブラジルリポートが掲載された。ブラジルの年末年始は夏。夏といえば海。だからブラジルでは本当に、こうやってクリスマスや年末年始の休暇をビーチで過ごす人たちが多いようだ。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

2010年1月9日(土)

ブラジルのお金の種類は、大きい金額から100レアル、50レアル、20レアル、10レアル、5レアル、2レアルのお札があり、これまで1度だけ1レアル札をどこかでお釣りとして受け取ったことがあるけれど、1レアル札というのは、もう印刷していないようで、めったにお目にかからない。コインは1レアル、50センタボス、25センタボス、10センタボス、5センタボスで、これ以上小額の1センタボスというコインはない。それでお店で買い物をして支払いをする際、変なことが起こる。例えば、買い物の代金が45.33レアルだったとすると、1センタボスというコインがないので、どのように払うのか?50レアル札を出すと、お釣りは4.70レアルか、4.65レアルが戻ってくる。つまり端数は切り捨てたり、切り上げたりすることになっている。でも請求料金の端数が切り捨てられるか、切り上げられるかは、その店によって異なったり、たまたまレジを担当している人によって異なるようで、一定ではない。だから、45.30レアルだけ出して押し通すこともできる。でも、こんな大雑把なことで、1日の商売が終わって、レジの出納を確認する際に数字が合わなくて困らないのだろうか?と、私などは心配になってしまう。でも、そこは大雑把なブラジル人。別にかまわないのだろう。

パーディーニョには私たちが知っているだけで、4軒ほど小規模なスーパーマーケットがあるのだけれど、私たちがいつも利用するのは、シェイロ・ヴェージという中でも一番小さい規模のお店だ。ここは普通のお店よりももっと大雑把で、買い物金額が45.33レアルだったら、45レアルや40レアルにまけてくれる。レジをご主人が担当していると、だいたい40レアルにまけてくれ。高校生の息子さんだと45レアル。奥さんだとほぼ請求金額通りの45.30レアルを支払うことになるのが常だ。ここは小さいのだけれど、ウィリアムやマウリシオがいつも利用していて、昔ながらのつけがきく。私たちはつけで買い物をすることはないけれど、エドソンがここの精肉売り場を気に入っているのと、ご主人がいつも気さくに話しかけてきてくれるのと、店員さんが買い物の荷物を車まで運んでくれるのだ。エドソンが子供の頃はパラカンビでも、だいたいどこのお店でもつけがきいたそうだけれど、今はつけがきく店はない。今どきつけがきく店はブラジルでも珍しく、パーディーニョは田舎町だけあって、まだ古き良きブラジルが残っているのがとてもいい。

2010年1月10日(日)

インターネットの会社を経営するパウロが、アルゼンチン産のおいしい牛肉が手に入ったから、日曜日に自宅でシュハスコをすると言って、呼んでくれたので、今朝、11前にスイカを持って出かけて行く。早めに行って、お肉を焼いたりする手伝いをするつもりだったのだけれど、到着すると、すでにシュハスコのかまどからは煙が出ていて、とてもいい匂いがしている。台所ではジャナイーナが野菜サラダの仕上げをしていて、「何か手伝おうか?」と聞いても、「準備OKだから、大丈夫。」という返事で、結局、何も手伝わずに、早速、焼きあがった鶏のハツやソーセージをいただきながら、三々五々やって来る人たちとその都度、挨拶したり、おしゃべりしたりが始まる。

シュハスコにはどうも食べる順番があるらしく、お店でも自宅でも、必ず、まず、鶏のハツやソーセージで始まり、次に豚肉や鶏肉が出て、最後に牛肉が出るような気がする。ウィリアムのところでは、途中の豚肉や鶏肉は省略することが多い。そうしないと、食べる人の数が少ないのに、用意して焼く肉がたくさんあり過ぎて食べきれない量になってしまうし、彼の大好きなメインの牛肉がたくさん食べられなくなるからだ。

次の写真は、ブラジルの朝食の定番のパオンズィーニョ・フランセーズ(Paozinho Frances、小さなフランスパン)。フランスパンと言っても、日本で私たちが知っているフランスパンとは違い、名前の通り、長さが短く、小さくずんぐりしていて、外側は硬くなく、中もふっくらと柔らかい。私たちの知っている普通のフランスパンもあるところにはあり、ブラジルにもごく普通の食パンから全粒粉のパンまでいろいろあるのだけれど、朝食にはスーパーなどでこの焼きたてのパオンズィーニョ・フランセーズを買うのが一般的だ。パラカンビで暮らしているときは、だいたい朝食はこのパオンズィーニョ・フランセーズを食べていたけれど、ここではドナ クレウザが手作りのイタリアンブレッドなどを焼いてくれるので、週の半分はそれを食べ、後半分は全粒粉のパンを買って食べている。パーディーニョではパオンズィーニョ・フランセーズが食べたければ、スーパーではなく、パン屋さんに行って買う必要がある。

私たちが行って、しばらくしてパウロの従兄弟アンドレと奥さんが到着。左がその奥さん。名前は聞き忘れたけれど、ボトゥカトゥのパン屋さんで働いているそうだ。そして、右はパウロの長女のイザベラ(Isabela)。以前、彼女の名前はイザベウと紹介したけれど、正しくは、イザベラだった。彼女の小学校では英語の授業もあるようで、私たちが到着したとき、その英語の練習帳を眺めていた。私とエドソンが英語で話しているせいか、英語に興味があるらしい。

次の写真は、左からパウロ、パウロの従兄弟のアンドレ(Andre)そして、エドソン。シュハスコのかまどの近くでおしゃべりをしているところをパチリ。アンドレはアンテナを作って設置する仕事をしているそうだ。だから、ウィリアムのところのアンテナも彼が建てたらしい。

次の写真は、先週木曜日にカンポネーザで一緒に食事をしたジェラウドの奥さん(左)と、パウロの奥さんのジャナイーナのお母さん(右)。ジェラウドの奥さんは、木曜日はバウルに行っていて留守だったので、今日始めて会った。

次の写真は、左がジェラウド。サンパウロでの仕事を引退後、今は写真を趣味にしているということだった。

パウロの子どもたちと私。パウロの次女の名前は、以前アナ・パウラと紹介したけれど、これまた正しくは、マリア・パウラ(Maria Paula)だった。何となく耳にしただけの記憶はとても不確かなことを今回再認識することになってしまった。

次の写真は、ラザロ(Lazzaro)と彼の奥さん。奥さんの名前は聞き忘れた。ラザロはロータリークラブで一度会ったことがあるイタリア系の人だけれど、それ以後会ったことがなかったので、どうしたのかと思っていたら、メンバーの何人かと意見の相違があったらしく、クラブを退会しようと思っているらしい。彼は私たちが住んでいる町外れのファームに入ってくる、道路の入り口のところにあるアグロ・フォーム(Agro Form)という農業機械などを作っている会社のオーナーで、パディーニョロータリークラブの創設者の一人なのだそうだ。クラブを活性化するには若い人たちの力が必要だからと、数年前にパウロやジュニオーをロータリークラブに引き入れたのは彼だそうで、パウロとはとても仲がいいらしい。そのパウロの推薦でエドソンはメンバーになったのだから、ラザロからすると、孫弟子のような感じになるのだろうか?

彼は1950年代後半の戦後移民で、イタリアのトリノから移民してきたのだそうだ。パーディーニョに移り住むまでは、サンパウロで会社を経営していたようだけれど、環境のいいパーディーニョが気に入って20年くらい前に移ってきたらしい。とてもおしゃべり好きな人で、ブラジルの政治の話、パーディーニョの市政の話、パーディーニョロータリークラブの抱える問題とその内情と、次々に話が続き、一生懸命パウロに、パーディーニョとロータリークラブの将来は、彼やジュニオーにかかっているんだと力説している様子がおもしろかった。若い世代に期待をかけるのはいいのだけれど、それだったら、クラブを辞めようなどと考えたりせず、パウロやジュニオーが活躍しやすいように、影からでも支援するような体制を取ればいいのにと、私なんかは思うのだけれど、そんなことを考える前に、イタリア人の血が短絡的な退会という方向に向かわせようとしているらしい。どこの国に行っても、その人が何人であろうと、人間の抱える問題というのは同じだなあと、思う。

2010年1月11日(月)

今日から週に何回か、エドソンはパウロのインターネットの会社を手伝うことになったので、朝、車でエドソンを町まで送って行く。家に戻ってきて、エドソンを送って行く前に作っておいたコーヒーを入れたポットを、エディたちのところに持って行こうと思い、建設現場を見ると、誰も来ていない。何故?

洗濯をしていると、ドナ クレウザが自分で編んで作った敷物を二つ持って来て見せてくれた。彼女はこういう編み物がとても上手だ。こういう大物を作って、いくつか編み溜めて、ジウダにサンパウロに持って帰ってもらい、販売してもらうというお小遣い稼ぎをときどきしている。自分でも満足のゆくものができたので、私にわざわざ見せに来てくれたようだ。私は私で、エディたちが作業に来ていないことを、ちょっと愚痴らせてもらう。「エディたちのためにコーヒーを作ったのに」と言うと、「次回から、コーヒーなしにしたら?」と言うので、ふたりで笑った。私たちの家ができた暁には、寝室の床に敷く敷物を彼女に作ってもらおうと思い立った。どうせどこかで買わなければならないのだから、色やデザインを相談して、彼女にお金を払って作ってもらった方がいい。

お昼過ぎにドナ クレウザが家の掃除に来てくれて、彼女の掃除が終わったと同時ごろ、土砂降りの雨が降ってきた。このところ昼間はだいたいお天気で、1日に1度、午後遅くか夜になって1〜2時間雨が降るという、この辺ではごく普通の夏のお天気が続いていたのだけれど、今日は午後からひどい雨が降り続くという、去年の多雨の悪夢が戻ってきた感じだ。降り続く雨の中、5時を過ぎてエドソンがパウロの車で送ってもらって帰宅したけれど、ここの道路の入り口はもうすでに水が溢れている状態になっていたそうだ。いったいいつになったら排水溝を作る工事を始めるのだろう?水害で壊れたパーディーニョの町の中にある橋も、まだ壊れたままだし、市役所はいったい何をやっているのだろ?

2010年1月12日(火)

昨日の夕方、レンガの販売店のオーナーのペドロ(Pedro)から、去年の11月末に注文しておいたガレージの上の家の部分に使うレンガを今日配達すると言う連絡があったと、ドナ クレウザが知らせてくれたので、エドソンが帰宅後、ペドロに電話をして、こちらの道路状況を伝える。年が明けて数日後から、カステロブランコからここに上がってくる道路で起きている地滑りによる陥没をこれ以上悪化させないために、カステロブランコから上がってくる側と、パーディーニョから上がってくる側の両方ともにバリケードのようなものが設置され、普通の乗用車以外は通行止めになり、トラックが入れないようになっている。そのため、レンガを配達してくれるトラックは入ってこれない状態になっているため、どうやってここにトラックを誘導するかを考えないといけない。エドソンは今朝、ペドロと一緒に彼の車で走り回り、道路状況を確認し、結局、パーディーニョ側から舗装道路を入ってくる道しか選択肢がなく、仕方なくバリケードを少し移動させてもらって、何とかトラックをカロリナソイルのところまで誘導してくることができた。

でも、昨日の大雨で、またうちの敷地の入り口の状態が悪化していて、前回のガレージ用のブロックを運んできたトラックよりもさらに大きく重い、今回のトラックは絶対立ち往生して動けなくなると思われるため、トラックを家まで誘導せず、カロリナソイルの許可をもらって、そこの広い駐車場の片隅にレンガを下ろし、2〜3日保管させてもらうことにしたという。でも、ここからうちまでこの大量のレンガを自分たちで移動させるのは、容易なことではない。1日早く昨日配達になっていたらこんなことにはならなかったのに・・・マウリシオにトラクターで運搬を手伝ってもらわなくてはならないけれど、一度に一塊のレンガしか移動できないだろうから、20往復以上することになるし、うちの土地にレンガを下ろし、そしてそれを積み上げる際は、フォークリフトは使えないので、1万1千個のレンガを一つ一つ手作業で下ろして、積み上げるしかない。考えただけでも、ちょっと気が遠くなりそうだ。

午後2時ころレンガを下ろす作業が完了して、支払いを済ませて、エドソンが戻ってきたので、パーディーニョの町にビニールシートを買いに行く。カロリナソイルの駐車場に積ませてもらったレンガをそのビニールシートで覆って、シートが風で飛ばないように、ひもで縛る作業は、風が強くてなかなか大変だった。ほんの2〜3日と言っても、毎日必ず1度は雨が降るため、雨からレンガを多少なりとも守る必要があるのだ。この作業が終わって、家に戻ると4時を回っていた。エドソンは朝8時前からお昼も食べずに走り回っていたので、へとへとになっていた。

2010年1月13日(水)

昨日は、レンガにビニールシートをかける作業をして、家に戻ると、しばらくして雨が降り出した。約2時間ほど降った後、雨が上がったので、シャワーを浴びて、ロータリークラブの例会に出かけて行くことにする。先週は出席者がとても少なかったけれど、昨日はだいたいいつもの顔ぶれが揃っていた。アグアス・ダ・セハのオーナーのマーセロも来ていたので、前々からお願いしていた海外リポート用のインタビューをさせてもらえる日を確認すると、14日(木)はずっと1日いるからいつでもいいと言ってくれ、午前10時頃伺うことになった。いろいろ話したいこともあるから、ゆっくりしてお昼も一緒に食べて行くつもりで来なさいということだった。

昨日パーディーニョの町の建築資材のお店にビニールシートを買いに行ったついでに、エディが必要な砂なども追加注文して、今日配達してもらうよう手配したのだけれど、それらがちゃんと配達されたかどうかエディと確認が取れないので、エドソンがパウロの会社での仕事の合間に店まで行って確認してみると、砂は予定通り午後から配達する手配になっているけれど、セメントに混ぜる粉末は在庫がないので配達は来週になるということがわかった。昨日店頭で確認した際は、在庫があると言っていたのに、まったくいい加減な・・・夕方、4時半ころエドソンから連絡があったので、彼を会社に迎えに行き、ここに戻ってエドソンがエディと話した結果、明日朝一番で、ボトゥカトゥにある店まで私たちがその品物を買いに行かなくてはならないことになった。そうしなければせっかく進みだしたエディたちの作業がまた足踏みしてしまうからだ。ここでは家を建てる際、資材の選択から調達まで自分たちでしなくてはならないのでなかなか大変だ。特に、店とのやり取りが、日本のように頼んだことがほぼ100%頼んだ通りに実行されないことが少なくなく、こちらがフォローアップをしなければならないというのも、なんとも面倒くさい。

2010年1月14日(木)

昨日は夜中過ぎからザーザーと雨が降り続き、朝方一旦止んだものの、午前中はずっと降ったり止んだりのお天気で、午後からようやく雨が止み、曇り空になった。

朝8時前に家を出て、建設現場のエディたちのところにコーヒーポットを届け、ボトゥカトゥに向かう。ボトゥカトゥに着いて、いつものガソリンスタンドでアルコール燃料を満タンにしてもらい、エディに教えてもらった建築資材のお店に行く。準備していたお金が少々足りなかったので、6箱必要なところ、4箱だけ買ってパーディーニョにとってかえす。その箱を建設現場のエディたちのところに運んで、次は、アグアス・ダ・セハのマーセロと10時に約束なので、アグアス・ダ・セハに行く。

今日は朝6時から来ていると言っていたけれど、どこかに出かけているようで、約束の10時を少し過ぎてマーセロが到着。彼の車でアグアス・ダ・セハの中をあちこち案内してもらい、いろいろ説明してもらう。何しろ300ヘクタールもある広い敷地なので、車でないととても見て回れない。今日はあいにくお天気が悪かったので、あまりいい写真が撮れず、残念。そして、昨年11月から12月に降り続いた雨で、ここも敷地内の道路などにずいぶん被害が出ているため、現在、宿泊のお客さんを受け入れておらず、様ざまな場所を改装工事中だった。2月のカーニバルのシーズンには間に合わせたいと言っていたけれど、カーニバルまで後ほんの2〜3週間。すべての工事が完了するのかなあ?次の写真は敷地内に点在する住み込みの従業員の人たちの家。この敷地内には牧場もあるので、ホテル自体の仕事をする人たちだけでなく、住み込みで牧場の世話をする人たちもいる。

次の写真は、宿泊客が自分たちでシュハスコ(Churrasco、ブラジル流バーベキュー)をする場合に利用できるシュハスコのかまどと、ピクニックテーブル。家族だけとか、友人グループでこのかまどを使って、シュハスコパーティーをすることができるようになっている。こういうシュハスこのかまどがいくつも点在している。

現在ホテル業務を休んでいるので、食堂も閉まっているということで、お昼は、カステロブランコまで降りて、カンポネーザで食べることになった。イタリア系の血なのか、マーセロもとてもおしゃべり好きで、こちらの簡単な質問に対して常にとても長い返事が返って来るため、ほとんど彼の独演会といった感じで話が続く。カンポネーザでお昼を食べた後、アグアス・ダ・セハに一旦戻り、私たちはボトゥカトゥの銀行に行くために、失礼する。彼の奥さんのアンジェラが今日はマトグロッソ州に行っていて留守なので、「もっと話したいから、今晩、ボトゥカトゥで一緒にピザでもつまみながら、もう少し話をしないか?」と言うので、だったら、うちで一緒に夕食を食べようということになり、6時に約束して、私たちはボトゥカトゥに行く。エドソンはここの銀行は3時半まで開いていると思っていたのだけれど、銀行に行って見ると、営業時間は、日本やアメリカ同様、3時までだった。そのため、銀行デスクでの用事はできなかったけれど、ATMでお金を下ろして、朝方お金が足りず買えなかった残りの資材を買って、ウエノ商店とパオン・ジ・アスーカーにも行って食料品などを買って帰る。

5時過ぎに家に戻り、夕食の準備にとりかかる。マーセロは6時40分を回って到着。ここの人たちはだいたい約束の時間通りに来ることはない。ワイン好きの彼のために買ったブラジル産のワインRio Sulで、まず乾杯。とても気に入ってくれたようだ。このワインはブラジルでもおいしいワインが作れるようになったことを証明するとてもいいワインで、しかも、値段は20レアル(約1000円)と、そんなに高くない。ただ、懐にゆとりのない私たちはいつもはイビウーナに近い、サンホケで作られているもっと安い10レアル(約500円)のワインを飲んでいる。二つを飲み比べると明らかにサンホケのワインは味が落ちるのだけれど、この値段でこの味なら許せるというワインなので、私たちはサンホケのワインを愛飲して、Rio Sulは特別な時にしか飲まない。食事をしながら、そしてその後は、ソファーに腰掛けお茶を飲みながら、延々といろいろなことを話して、彼が帰ったのは、11時をかなり回っていた。楽しかったけれど、さすがに長い1日で疲れた。

2010年1月15日(金)

朝8時前に、エドソンを仕事に送って行く途中、建設現場のエディたちのところに寄って、コーヒーポットを届ける。エドソンを時間通り、8時に職場に送り届けてから、私は家に戻り、洗濯などをしながら、昨日のマーセロとのインタビューを海外リポートにまとめようと、作業を進める。11時半にエドソンを迎えに行って、ボトゥカトゥの銀行に行き、昨日できなかった用事を済ませ、銀行の近くのランショネッチで簡単にお昼を食べて、パーディーニョに戻る。パーディニョでは郵便局で受領郵便物の確認をして、その後、エドソンを職場まで送り、私は帰宅する。

今週から毎日ではないもののエドソンの仕事が始まったので、彼の送り迎えで私は出たり入ったりするようになり、今週は特にこのスケジュールが始まったばかりで、他にもレンガが届いたり、マーセロのインタビューをしたり一緒に食事をしたりと、何だがとてもバタバタと慌しい1週間だった。でも、これまでのほとんど何の進展もない中、ただひたすら待つという状態ではなくなったので、あっという間に1日が終わる感じだ。

火、水、木、金の4日間で、家の下のガレージの部分のレンガがだいぶ積み上がり、形になってきた。

2010年1月16日(土)

今日はお隣のドナ ベティのところでお昼に招かれた。今週末はウィリアムはサンパウロで用事があるらしく、ここには来ていないので、私たちふたりだけで出かけて行く。ドナ ベティは年末年始はニューヨークに行っていたらしく、年が明けて初めてパーディーニョで過ごす週末のようだった。でも、厳冬のニューヨークでひいた風邪が直っていないらしく、まだ本調子ではないようだった。

体調が思わしくないので、外での仕事はせず、午前中はお昼の食事の用意をするために、ずっと台所で過ごしたと言っていた。彼女は菜食主義者なので、お肉を食べない。従って、彼女の作ってくれる料理もすべて野菜や穀類や豆類だけを使っている。今日は、カボチャのポタージュスープにカボチャの種を浮かべたものと、野菜サラダと、2〜3種類の異なるタイプのカボチャと黒いキヌアにピーマンなどを一緒に調理したメインをいただく。また、彼女はアルコールを一切飲まないので、飲み物は緑色のハーブジュースと、徹底している。デザートはオレンジの中をくりぬいて、桃とオレンジの実を甘く煮たものを戻し入れ、上に卵白を乗せて焼いたというとてもユニークな、おいしいデザートをいただいた。

私のリポートをポルトガル語に訳してくださった岡井さんや、故マックス・フェファー氏や息子のダヴィ・フェファー氏と面識のあるイビウーナの中村さんご夫妻が、パーディーニョのマックス・フェファー文化センターを見てみたいと言っておられることを伝え、彼らの訪問日とドナ ベティの都合がうまく合えば、紹介したいということを彼女に再度伝える。彼らが来たらぜひ会いたいから連絡してほしいと言ってくれた。食事をしながらいろいろなことを話していて、私のピアビルのリポートの話からだったか、ここの敷地内にある洞窟を見せてあげると彼女が言い出したので、食後に見せてもらうことになった。

昨年末の大雨でドナ ベティの敷地内でもずいぶん被害が出ていることは知っていたけれど、ウィリアムの所のものよりも何倍も規模の大きな池が決壊し、ひどい状態になっているということなので、洞窟に行く前に、その決壊した池の現場を見に行くことにした。次の写真は決壊して、すっかり水が流れ出してしまって、空っぽになった大きな池。

この後、彼女の運転する4WDに乗って、ジャトバス研究所で竹栽培の責任者をしているエリゼウのところに行き、彼に運転を代わってもらって、洞窟へと向かう。ドナ ベティの敷地は約190ヘクタールもあるので、歩いて行くとなると大変なので、車を使う。次の写真は、洞窟の入り口を入って行くドナ ベティとエドソンを後ろから撮影したもの。

洞窟の中から入り口の辺りなど数枚の写真を撮る。ドナ ベティは以前、少人数の友人を招待して、夜ローソクを灯してここでコンサートをしたことがあると言っていた。洞窟はあまり深くはないけれど、15人くらいの人が椅子に腰掛けて、室内管弦楽のようなコンサートをすることは可能と思われる広さだった。でも多雨の影響で、あちこちから水が滴り落ちているいて、湿気が高い。この湿気は楽器のためには良くないのではないかと思う。

洞窟への出入り口近くに、野生なのか、誰かが移植したのか、形がダンシング・レディという名前のランに似た、でも色が黄色だけでなく、黄金色も混じったランが咲いていた。

洞窟の方に降りて行く道のところに、目印としてなのか、鳥居のような木製の入り口が作られていた。戻ってきたところをエドソンに撮ってもらう。

この後、エリゼウの竹の育苗センターに行き、また少し竹を見せてもらい、ドナ ベティと話しているエリゼウの写真も撮らせてもらう。エリゼウに会うのは私は2度目だけれど、彼はいつもとても穏やかな話し方をするのが印象的だ。彼はミナス・ジェライス州の出身で、クリスマスから年末年始にかけての休暇で故郷に戻っていたと言っていた。ドナ ベティがニューヨークに行っていたので、その間、ここの人たちもみな休暇を取っていたようだ。

ドナ ベティの体調があまり良くないようなので、私たちはこの辺で失礼することにする。家に戻ってきたら5時近くになっていたので驚いた。洞窟に行ったりしたので、思ったより長居をしてしまったようだ。そして、帰宅と同時にすごい雨が降り出し、夜まで断続的に雨が続いた。

2010年1月17日(日)

大晦日にイビウーナの香山さんのところに伺った際、帰り際に、「幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折」伊藤滋子著(同成社)という本を、「これを読んでごらんなさい。」と言われ、お借りして帰った。こちらに戻ってからボツボツ読んで、先週ようやく読み終わった。主要なテーマはイエズス会士が南米でどのような布教活動をしたかなのだけれど、読みながら、序段からとても驚くことの連続だった。

コロンブスが新大陸を発見して(と言っても、彼が発見したのは、大陸ではなく、西インド諸島に浮かぶ小さな島々と、カリブ海のエスパニョラ島だったのだが)、スペインに帰ってきた翌年、15世紀も終わりのころ、「地球を二分割して、スペインとポルトガルの二国で世界を仲良く分け合うべし」という、驚くような教皇令が出されたのだという。コロンブスが戻り、彼のパトロンだった「スペインのイザベルとフェルナンドのカトリック両王に新しい土地の発見を報告すると、両王はすぐさま時のローマ教皇、アレクサンデル六世に、その土地の領有を認めてほしいと願いでた。」「世界はカトリックのもとに統一されなければならず、異教徒の土地は征服すべきだ、というのが当時のヨーロッパ人の考え方で、そのカトリックの最高権威がローマ教皇であったからだ。」スペイン出身の教皇は両王の言い分を聞き入れ、「ポルトガルがすでに領有していた大西洋のカポ・ベルデ島に一本の経線を引き、まるでりんごを半分に割るように、いとも間単に地球を二分した。」「しかしこのときすでに喜望峰にまで達し、華々しく大航海時代に先鞭をつけていたポルトガルは、カポ・ベルデ島から先の開発を封じられたのでは収まらず、この問題をスペインとの直接交渉にもちこんだ。」その結果、分割線を教皇の提案よりも550キロ西に動かして、「大西洋地域におけるポルトガルの取り分を多くすることで合意に達し」1494年に両国の間でトリデシャス条約が結ばれたのだという。

「じつはこの線はわが国とも無関係ではない。地球は球形だから、この分割線は地球の裏側にも及ぶ。こうして地球が二分されれば、なんと日本は四国の真ん中や岡山あたりから東はスペイン領、西はポルトガル領にわけられてしまうのだ」という。そうすると広島はポルトガル領ということになるのか?この当時、南北アメリカ大陸の存在も、太平洋の存在も知られておらず、「東洋といえばほとんど伝説の世界であったから、目くじらたてるほどのことでもなかろうが、ずいぶん乱暴な話ではある。」と著者は書いている。同感だ。

異教徒の土地は征服し、異教徒はキリスト教に改宗させねばならず、異教徒は奴隷として使役してもかまわないというような考えの下に、南米で(だけではなく、アフリカでも、アジアでも)宣教活動が行われ、人々がキリスト教に改宗させられ、搾取されていったという過程は何とも酷いものだったと思う。英語にはLet's agree to disagree.という表現がある。これは「お互いに意見が異なると言う事実を、まず認め合おう。」というような意味なのだけれど、宗教的にはキリスト教の人たちには今でもこの認め合うという寛容さが欠けているように思うのは私だけだろうか?

2010年1月18日(月)

朝、エドソンを職場に送り届けてから帰宅し、洗濯をして、モビとフィオナの体をシャンプーで洗う。彼らはだいたい家の周りで日がな一日お昼寝をして過ごすのが常だけれど、時々行方をくらませて、どこで何をしているのか、牛の糞を体につけて戻ってきたりすることがあるので、そんな時や、体が汚れていなくても、ちょっと臭いが気になってくると、洗濯機の横の深い流しで彼らを洗うことにしている。彼らはシャワーを浴びるのがあまり好きではないようだけれど、洗っている間は何とかおとなしくしていてくれる。洗い終わると、まるで猫のように、お互いの体をペロペロとなめ合って、体を乾かす作業をする。その様子は見ていてなかなか微笑ましい。

ブラジルでは先日のハイチでの地震被害について、毎日盛んにレポーターが現地からのニュースを伝えている。被害の規模が大きかったこともあるし、ハイチには国連平和維持軍として、ブラジルの部隊が展開していて、ブラジル人の被害が多数出ているからでもある。国連平和維持軍のナンバー2はブラジル人の人だったらしく、現地で指揮を取っていて、その人も今回の地震で犠牲になったということだった。23歳くらいの若い兵士の家族が悲報を受けて、悲嘆にくれている様子は見ていてとても胸が痛んだ。そして若いブラジル人の女性看護兵が、地震発生後に生まれたハイチ人の赤ん坊を抱いて笑顔でインタビューに答えているのもあった。病院の建物が崩壊して、その瓦礫の下で身体全体が埋もれながら、頭だけがかろうじて何かの隙間で埋まらずに済んだため、生存している女医さんを、瓦礫の隙間から励ましながら、救出活動を行っているブラジル人兵士の姿もレポートしていた。そして、その現地レポーターがブラジル人の女性レポーターなのだからすごいと思った。日本だったら、コペンハーゲンの会議には女性レポーターを送っても、ハイチの地震被災現場には送ることはないだろうなと、思った。

2010年1月19日(火)

日常生活、そして、ノヴェラの中でよく耳にするポルトガル語の表現をまた少し。

Que que foi?(ケケフォイ)文法的に正しくは、O que foi?で、英語に直訳すると、What was it?ということだけれど、意味的には、What happened?とかWhat's the matter?つまり、「どうしたの?」という意味で使われる。

Cala a boca.(カラアボカ)これはCalaはShutの意味で、bocaはmouthのことなので、Shut the mouth.のことで、つまり、Shut up.「だまれ」という意味。

Como e que ta?この発音は、Comoとeがつながって、コメキタと聞こえる。これは直訳すると、How is it?ということなのだけれど、Como voce esta?つまり、How are you?とかHow is it going?という意味で使われる。結構砕けた言い方らしく、正しくは、Como e que voce esta se sentindo?つまり、How are you feeling?という方が正しく、ていねいらしいのだけれど、こちらはあまり耳にしない。コメキタという表現をとてもよく耳にする。

お店で何か買い物をして支払いをする際、店員さんが必ず、Que mais?(ケマイス)英語に直訳するとWhat's more?つまり「他に何か?」という意味のことを聞くので、So isso.(ソーイッソ)つまり、That's all.「それだけです」と応えるのだけれど、Que mais?はちょっと乱暴な言い方らしく、日本語にすると同じ意味になるのだけれど、できればMais alguma coisa?(マイズ アウグマ コイザ)つまり英語にすると、Anything else?と言う方がいいらしい。でも、これもケマイスという表現の方をよく耳にする。

2010年1月20日(水)

昨日は午後4時前くらいから雨が降り始め、だんだん激しくなり、7時を回って一旦止み、ロータリークラブの例会のある8時くらいは、雨は降っていなかったのだけれど、それまでにかなり降ったので、例会に行くのは止めて、夕飯の支度を始める。その後は小ぶりの雨が降ったり止んだりして、夜中過ぎてから、またザーザーと朝まで雨が降り続いた。

エドソンは月、火と2日続けて仕事に出たので、今日はお休み。午前中から無線室にこもって何やらしている。お昼ごろ一旦戻ってきて、車の点検のことでトヨタに電話をしたり、マウリシオと話したりして、結局、金曜日くらいにマウリシオが行きつけのボトゥカトゥの自動車整備のお店に行くことにしたようだ。

先月の大雨で、このファームに入ってくる道路の入り口にある、カロリナソイルの工場が床上浸水したようだと、以前写真を掲載して書いたけれど、やはり、商品に被害が出たようで、この工場で作っている培養土などが水に浸かって売り物にならなくなったものが出たらしい。それらを処分しなければならなくなったという情報を、マウリシオが聞きつけて、先週、トラクターで何度も往復して、廃棄処分予定の石灰や培養土を何袋も山のように譲り受けてきてくれた。3分の2くらいはここの果樹園で使ったようだけれど、3分の1くらいは私たちのために確保してくれた。そのお陰で、お金を出して石灰を買う必要がなくなり、ご近所のファームから牛の糞を譲り受け、土作りをする必要もなくなり、カロリナソイルから譲り受けた石灰と、培養土を使って、植林を始めることができることになった。ありがたい。

それで、今日の夕方、いつもよりも早く4時頃マウリシオが仕事を終えて果樹園から戻ってきたので、エドソンが彼に頼んで、先月ジャトバス研究所のエリゼウに頼んでおいた竹を引き取りに一緒に行ってもらうことにした。マウリシオの車の後ろにリヤカーのようなカートを取り付けて、20数本の竹を持って帰り、敷地に運び、6時頃家に戻ってきた。これで、植林のために必要なものがほぼ揃ったので、今週末くらいから作業を始めようと思う。

2010年1月21日(木)

昨日も夕方から雷が鳴り始め、今にも雨が降り出しそうな状態が続き、夜になって雨が降り出した。夜の間中ザーザーと降り続き、今朝は夜が明けても、まだパラパラと降り続いている。こんなお天気なのでエディたちは作業に来ていないかな?と、思いつつ、コーヒーをポットに入れて、朝、エドソンを仕事に送って行く途中で、いつものように建設現場に行くと、やはり、誰も来ていない。まあ、こんなお天気だから、しょうがないか?

また、ノヴェラの話を少し。毎晩9時頃から見ているViver a vidaというノヴェラの登場人物の中で、一人二役をしている男優さんがいる。マテウス・ソラノ(Mateus Solano)という俳優さんで、ジョージ(Jorge)とミゲル(Miguel)という双子の兄弟を一人で演じている。よく似ているけれど、比較的違いがわかり易いし、取っ組み合いの喧嘩をしたりするので、本当に双子の兄弟が演じているのかと、最初の頃は思っていた。でも、しばらくして一人二役で演じているということがわかった。ジョージは建築家で自分の建築事務所を持っている。いつも気難しそうな顔をしていて、結構、男尊女卑の傾向がある。ミゲルはリオの病院で働く優秀な外科医で、とても明るく、優しく、ジョージとは性格が正反対。このふたりがルシアナ(Luciana)というモデルをやっている幼なじみの結構わがままな女性を挟んで、三角関係ならぬ、六角関係を演じている。何故、六角関係かというと、ジョージの建築事務所で一緒に仕事をしているスザーナ(Susana)とパイシャオン(Paixao)というふたりの女性が彼に心を寄せていて、特に、スザーナはジョージに猛烈アタックをかけていて、ジョージと親しいパイシャオンにいつも嫌味を言っている。ミゲルには拒食症でアルコール中毒気味のヘナタ(Renata)というガールフレンドがいる。そして、パイシャオンもへナタもルシアナとは幼なじみの友達で、彼らの親たちもみな友人関係にあるから話はさらに複雑だ。

ルシアナが海外でのモデルの仕事を終えて帰国の途上、交通事故に遭い、下半身不随になってしまう。その手術をどうしてもリオまで連れて帰ってから受けさせたいという両親のたっての願いで、プライベートジェットでリオまで連れ帰ったルシアナを手術したのが外科医のミゲル。ミゲルは彼女の術後のリハビリや退院後の生活を明るく精神的に支えている。一方、ジョージの方はルシアナにモデルを止めて、彼と結婚して家庭に収まるように言っていたので、以前からふたりの間にいさかいがたえなかったのだけれど、彼女がこんなことになってしまってかなり動揺している。最初の頃は医師である弟のミゲルにいろいろ相談して励ましてもらったりしていたのだけれど、ルシアナがジョージではなく、何でもミゲルを頼りにしていることをこころよく思わなくなり、最近はミゲルに対してとても腹を立てていて、常に喧嘩ばかりしている。でも本当のところは、ルシアナはジョージよりもミゲルのことが好きで、ジョージはおそらく、本人には自覚がないようだけれど、パイシャオンのことが好きで、ミゲルもガールフレンドのへナタよりもルシアナのことが好きなのだけれど、それぞれそのことに気づいていないのか、気づいていてもどうにもならないと思っているのか、不安定な関係が続いている。とまあ、そんな感じでドタバタが続いている。次の写真は、真ん中にルシアナをはさんで、左がジョージ。右がミゲル。

2010年1月22日(金)

昨日は、午後になってようやく雨が止んだけれど、いつまた雨が降り出してもおかしくない厚い雲に覆われた1日になり、今朝もその状態が続いている。今日午前中は、エディたちが仕事に来ていたけれど、午後からまた激しい雨が降り出したため、彼らは仕事を切り上げて帰って行ってしまったようだった。午後からは作業の音も、時々歌っている作業のお兄ちゃんの鼻歌も聞こえなくなっていた。そして、5時前にエドソンを職場に迎えに行くために倉庫の車を出しに行ったら、朝エディたちに持っていったコーヒーポットが倉庫の前に戻してあった。毎日毎日、本当にまあよく雨が降るものだと思う。

今日の晩ご飯は、先週ボトゥカトゥのウエノに行った際に買ったそうめんを茹でて、今週手作りしておいためんつゆで、しいたけを煮て、さらに残りのめんつゆに酢とゴマ油を混ぜて、中華風のつゆを作り、先月パオン・ジ・アスーカーで買って冷凍しておいたカニかまに、薄焼き卵、きゅうり、レタスなどを添えた、中華風そうめんサラダを作る。でも、お天気が悪く肌寒いので、そうめんは茹でたまま冷まさず、つゆは温めて、暖かいそうめんを作る。そして、先週末、ドナ ベティのところでいただいて帰った、見た目はヘチマのような形で長く、中は冬瓜のような、ウリの一種のような野菜の皮をむいてサイコロ状に切って、オリーブオイルとにんにくとひき肉に混ぜて炒めた料理を添える。

中華風そうめんサラダは日本にいる間、暑い夏の時期にときどき作って食べていたので、エドソンは「おひさしぶり〜」と言って、喜んで食べてくれた。もう一品に使ったウリの一種はこのまま食べるとえぐみがあるらしく、にんにくとオリーブオイルとひき肉と一緒に炒めるのが一番おいしいと、エリゼウから聞いていたので、その通りにしてみたら、えぐみはなく、なかなかおいしくできて、エドソンもとても気に入って食べてくれた。成功。成功。

2010年1月23日(土)

今朝7時頃、ウィリアムからの電話で、今日はジウダも一緒に来るという連絡があったとマウリシオが知らせてくれた。予定通りお昼はカレーを作ることにする。朝食の後で、洗濯をしながら、お米を洗ってスイッチを入れればすぐ炊けるようにして、卵を茹でて、カレーを作る。それらがすべて完了して、エドソンと一緒に麦藁帽子を被って完全防備で、竹を植えに出かけようとしているところに、ウィリアムたちが到着した。ジウダの甥っ子のハファエル(Rafael)という16歳の高校生の男の子も一緒に連れてきていた。

竹を植えに行く前に、少しこの辺を散歩して、我が家を建設中の場所に向かっていると、ウィリアムとハファエルが車で通りかかり、これからボトゥカトゥの農業資材のお店に行くのだけれど、一緒に行かないか?と誘われ、急遽、一緒に行くことになり、竹を植える作業は中止。そのお店には大型の農機具以外の、農作業に必要なものがさまざま揃っていた。カロリナソイルの駐車場に置かせてもらっているレンガを我が家の建設現場まで持ってきた際に必要な、ビニールシートを買って帰ることにする。

12時半頃家に戻ってから炊飯器のスイッチを入れたため、お昼の食事は1時を過ぎてしまった。ご飯はハファエルが来ることを知らなかったので、2カップ4人分しか炊いていないけれど仕方がない。カレーに茹で卵を添えて出す。その間、サンパウロの岡井さんから電話があり、今日の午後、息子さんの都合がいいので、急にこちらに連れてきてもらえることになったのだけれど、こちらの都合はどうか?という問い合わせだった。朝から何度も電話をしてくださっていたらしいのだけれど、家で家事をしている間は電波の受信状態が悪かったらしく、携帯電話が鳴らず、その後は携帯電話を持たずに外出してしまっていたので、お昼過ぎまで連絡がつかなかったのだ。ようやく連絡がつき、今からだと夕方になるけれどと、思ったけれど、やはり誰かの車で連れてきてもらうのが一番楽な方法なので、こちらは大丈夫と伝える。

トポグラフィーア(Topografia)というポルトガル語をそのまま日本語にすると、地形学者という意味になるようなのだけれど、ウィリアムからここの小さな区画を購入した私たちの土地を登記するために、必要な書類を揃える過程で、隣近所との境界線を画定する必要があり、その作業をしてくれる専門家のことを、ここではこう呼ぶらしい。仕事の内容としては測量技師兼弁護士というか公証人という感じなのだけれど、その人が今日の午後ここにやってきて、しばらくみんなに作業の進み具合に関して話をし、3時過ぎにウィリアムと一緒にドナ ベティの所に出かけて行った。エドソンと私は、4時頃到着予定の岡井さんたちを待たなければならないので、外のベランダでハファエルと話をしながら、岡井さんからの電話連絡を待つ。

ハファエルは日本にとても興味があるらしく、学校で日本語のクラスも取っていて、とても初歩的な片言の日本語を理解することができるようだ。私の質問に対して「ハイ」「ハイ」と返事が返ってくる。日本に行きたいと思い14歳の頃から貯金をしているのだけれど、どうすれば日本に行けるだろうか?などとしきりにエドソンに聞いている。日系の子弟だといろいろなチャンスがあるけれど、日系の血がまったく入っていないブラジル人には、日本はかなり敷居が高い。それで、日本で仕事をするなどということは考えず、日本語学校に入学するのが一番だろうというようなことを話し、どんな日本語学校があるかを調べてあげると約束する。次の写真はベランダで話をするハファエルとエドソン。

4時半を回って、ようやく岡井さんの息子さんから電話があり、カステロブランコ上のガソリンスタンドまで来たという連絡だった。息子さんは日本語を話さないようなので、エドソンが代わって話し、カステロブランコのガソリンスタンドからパーディーニョに来る1本道は、トラックは通行止めになっているけれど、普通の乗用車は通行できるので、その道を通ってパーディーニョまで来てもらって、町の入り口のところにあるガソリンスタンドで待ち合わせをすることにした。

パーディーニョの町の入り口のガソリンスタンドからマックス・フェファー文化センターまでは、普通なら簡単に行けるのだけれど、先月の大雨で橋が壊れたまま修理されておらず、通行止めになっているので、回り道をして行かなければならない。それで私たちの車で先導して文化センターまで行く。到着後、文化センターの前で、みんなで記念写真を撮る。真ん中に岡井さんご夫妻をはさんで、左が岡井さんの長男のエドゥアード(Eduardo)さんご夫妻。右が私たち。一緒に行ったハファエルに写真を撮ってもらう。岡井さんは85歳。奥さんは81歳という高齢ながら、ふたりとも元気そうで年齢よりも若い印象だ。そして、岡井さんも息子のエドゥアードさんも背が高い。

以下の写真はそれぞれ、文化センターの2階に上がって行く岡井さんの後姿。写真を撮っている姿。エドゥアードさんご夫妻と話しているエドソン。そして、岡井さんご夫妻。

岡井さんは関西の出身で、イビウーナの香山さん同様小学校の低学年(8歳か9歳)の頃、両親と一緒にブラジルに来て、チエテ移住地に入植している。奥さんも1歳の時に北海道から両親と一緒にチエテ移住地に入植したのだそうだ。だからどちらも日系準2世。岡井さんの自分史も香山さんからいただいて以前読んだことがあるけれど、子ども時代は不遇といったらいいのだろうか?とても大変な思いをされている。でも奥さんと結婚して60年、4人の子どもを育て、長年測量技師として仕事をし、現在は息子さんたちと同居して、悠々自適の生活をしておられる。昔とても苦労されたという風はまったくなく、とても前向きだ。70歳近くなってから趣味で日本語=ポルトガル語の翻訳の勉強を始めて、それ以来、香山さんからいろいろ頼まれて、移民史などさまざま12冊あまりの本の翻訳をされたという。今でも時々香山さんから頼まれては、例えば、私が中国新聞の海外リポートに書いたドナ ベティのエコタウン構想の記事をポルトガル語に翻訳したりしている。サンパウロから往復何時間もかけて来てくださったのに、パーディーニョ滞在はほんの1時間半足らずで、どこかで一緒にお茶を飲む時間も(場所も)なく、慌しい訪問だったけれど、「あなたに会えてよかった。これで気が済みました」と、言ってくださり、私もお会いできて本当に良かったと思った。あいにく急なことだったので、ドナ ベティに紹介する手配はできなかったため、また次の機会があればいいのだけれどと、思っている。

2010年1月24日(日)

週末になると何故こんなにいいお天気になるのだろう?というくらい昨日も今日もいいお天気、と思っていたら、今日は午前中はいいお天気だったけれど、昼食の準備を始めた頃から南側の空模様が怪しくなり、お昼を食べ終わるとひどい雨が降り出した。朝食の時にいきなりウィリアムが、午後は友達を呼んだからと言い出すものだから、午後からパーディーニョの友達の所に生まれた赤ちゃんを見に行く約束をしていたジウダとの間にちょっと一悶着があった。ウィリアムはいい人なのだけれど、あらゆる事を自分中心に決め、行動するので、周りの人たちは大変。

午後、居間のテーブルのコンピュータの前でブログを書いていたら、いきなり左手にビリっと感じた瞬間、稲光がピカッとひかり、次の瞬間ドカーンと大きな雷が鳴った。急いで、コンピュータのコンセントを抜き、電源を落とす。ここに来たばかりの頃同じような状況で、エドソンのコンピュータのパワーサプライが壊れてしまったのだけれど、今回はどちらのコンピュータも何とか無事だった。やれやれ・・・雨は降り出していたけれど、雷はぜんぜん鳴っていなかったため、油断していた。びっくり。びっくり。

しばらくしてウィリアムの友人から電話があり、ゲートのところに着いたけれど、ゲートが閉まっているから開けてと言ってきたので、彼はハファエルを走らせてゲートを開けに行かせる。雨の中かわいそうに・・・その間、ジウダとドナ クレウザが顔色を変えてテーブルを片付けたり、犬をジウダたちの部屋に入れたりと、バタバタし始めたので、私は自分たちの部屋に避難して、彼らが帰るまで本を読んで過ごす。ウィリアムの友人という人は一人ではなく、奥さんや親戚か友人の女性を他にも2人、そして小さな女の子まで連れてぞろぞろやって来た。まあ、賑やかなこと。エドソンも倉庫の無線室から出てきていないようだし、部屋に引き下がって正解だったようだ。6時を過ぎて彼らが帰っていってから、7時を回ってウィリアムたちはサンパウロに戻っていった。その頃には雨も止み、空が明るくなってきていたので、まるで嵐が去った後のような静けさが戻ってきた感じだった。何もしていないのに、なんだかどっと疲れた。

2010年1月25日(月)

今朝は7時半前にはもうすでにエディたちが作業に来ているようだった。エドソンを職場まで送るために倉庫まで車を取りに行くと、マウリシオがカロリナソイルのところの道路が昨日の雨でまた20〜30センチくらい水浸しになっているから通れないよと言う。昨日、ウィリアムたちも通れなかったので、引き返してパーディーニョの町を遠回りして帰ったということだった。エドソンはコーヒーポットをエディたちのところに徒歩で持って行き、エディに道路の状況を聞いてきたけれど、やはり25センチくらいの水深があるらしいので、反対側のでこぼこ道を超低速で行くことにする。エドソンを職場に8時半頃送り届け、雨であちこち侵食して穴が開き、ひどくでこぼこになっている道をかなりの低速で戻り、9時頃帰宅する。

今日は時々太陽が顔を出す程度で、雲が厚いけれど、みんなの使ったバスタオルや、犬たちがソファーに座ってもいいようにと使ったソファーカバーなどを洗わなければならないので、洗濯、洗濯、洗濯で、お昼過ぎまでかかってしまった。でも、雨さえ降らなければ、洗濯物も何とか乾くし、エディたちの作業も進むし、カロリナソイルのところの道路に溢れている水もそのうち乾くだろうと思う。雨さえ降らなければ・・・

午後からは、ドナ クレウザが来て部屋の拭き掃除をしてくれた。彼女はこうして週に1〜2度、部屋の汚れ具合を見て、掃除をしてくれるので助かる。彼女が掃除を始めた頃から雲行きが怪しくなり、雨が降り出した。急いで、外の物干しに干していたバスタオルなどを取り込み、ベランダの洗濯物も家の中に収める。時々雷も鳴るため、コンピュータのコンセントを抜き、万が一に備える。ドナ クレウザが掃除を終えて帰っていった頃から雨脚がひどくなり、一時はまたひょうが降った。その後も雨が弱まると、稲妻と雷がすぐ近くで何度も炸裂して、雷が収まると雨が降り出すという状態を繰り返し、午後から中ずっと雨が降り続いた。

雨が降り続き、道路の状態が悪化していると思われるので、エドソンを迎えに行けそうにない。彼に電話をすると、パウロが車で送ってくれるというので、ほっとした。パウロの車は車高が少し高いので、カロリナソイルのところの水浸しの道路も問題なく通過でき、7時前に戻ってきた。

2010年1月26日(火)

昨日の午後の激しい雷のひとつが、どうやらこのファームの電波塔のひとつに落ちたらしく、昨日の夜からマウリシオの家では停電が続いているらしい。この家の電気は大丈夫だけれど、そう言えば、昨日の夜からシャワーのお湯の温度がいつもより低いので、ここも多少影響が出ていたのだ。気がつかなかった。そして、我が家の建設現場の電力もここから電線を引いて使っているので、こちらも停電で、電力が使えなくなっているらしい。そして、今朝はインターネットもダウンしている。どうやら停電した際の非常用のバッテリーも消耗してしまったらしい。

ここの電波塔が機能していないと、ここから南の地域に住んでいる人たちは、みんなインターネットへのアクセスができない状態になるので、早急に何とかしなければならない。エドソンはパウロに電話をして、バッテリーを持って来てくれるよう頼む。パウロが到着してバッテリーを交換したら、インターネットのアクセスが回復した。パウロが来てくれたのをこれ幸いに、エドソンはパウロの車で一緒に職場に向かう。

次の写真は、日曜日にマウリシオが持ってきて見せてくれたカカオの実とざくろの実。カカオはブラジル北東部のバイーア州の産で、ざぐろはどこで採れたのだろう?このファームにざくろの木があるなんて聞いたことはないけれど。それはともかく、カカオの実というものがこんなに大きく、黄色い色をしているとは知らなかった。

次の写真は、そのカカオを半分に切った状態。これをこのまま食べる場合は、中の小さな白っぽい果肉に覆われたほんのり甘い部分を食べて種は出すのだそうだ。この種を乾燥させ、ローストして、すり潰して粉にしたものがチョコレートやココアの原料となるカカオの粉なのだとエドソンが教えてくれた。

午前中は何とかお天気だったので、昨日洗濯して乾いていない洗濯物を外に広げる。お昼前にはみな乾き、取り込むことができた。そして、お昼過ぎからまた雨。ああ〜。時々激しい雷を伴い、夕方まで降ったり止んだり。午後からこの雨の中、電気工事の人たちが来て修理をして、どうやら停電は解消したようだった。夕方、エドソンはまたパウロに送ってもらって帰ってくるだろうと思っていたら、パウロの従兄弟のアンドレのトラックに乗せてもらって帰ってきた。アンドレがウィリアムからここのアンテナのことで何か頼まれたらしく、ここに来るついでがあったらしい。今晩はロータリークラブの例会の日だけれど、降り続く雨で、道路の状態がますます悪くなっているので、欠席することにする。

2010年1月27日(水)

今朝、またインターネットが不通になっているので、エドソンが電波塔に見に行くと、昨日の激しい雷のせいなのか、装置が故障していたため、パウロに連絡を取って、新しい装置を持ってきてもらい、アクセスを回復する。連日の悪天候と、それに伴うトラブル続きで、パウロも行ったりきたりと忙しい。

エドソンの仕事のスケジュールは、週に4日出て、水曜日は家のことをするために休ませてもらうということに、どうも決めたらしい。だから、今日は仕事はお休み。午前中から家の建築資材の調達などのために、ボトゥカトゥに行く予定にしていたのだけれど、昨日の雨で道路の状態が良くないと思われるので、しばらくお天気の様子を見ることにする。それで、その時間を利用して、この土曜日にやろうとしてできなかった、竹を植える作業をすることにした。次の写真はマウリシオがカロリナソイルからもらってきてくれた石灰や培養土の袋。野ざらしで雨に濡れてしまっているけれど、中身の品質には何も問題はない。そして、その横にあるのはジャトバス研究所から入手した竹の一種類。

約2時間かかって、防風林用の11本の竹を植え終わる。今はまだ子どもの苗木なので小さくひょろひょろしているけれど、この竹はとても大きく育つらしい。石灰や培養土を混ぜて、土の準備をして植えたのだから、元気に大きく育ってほしい。

汗だくになって竹を植える作業を終えて家に戻り、シャワーを浴びて、汚れた服を着替え、ボトゥカトゥに行くことにする。カロリナソイルの所の水はおそらくまだ引いていないと思われるので、反対側のでこぼこ道を超低速で遠回りをして行く。ボトゥカトゥでは銀行、昼食、ガソリンスタンド、スーパー、建築資材のお店と、スムーズにすべての用事を済ますことができた。帰りに雨が降り出したけれど、パーディーニョに近づくと、ここはまだ雨が降り始めていなかった。今日はお天気に何の問題もなかったのにエディたちが作業に来ていなかったので、どうしてだろうと思っていたら、エディとの電話連絡で、パーディーニョの店に追加注文しておいたレンガが届かないため作業ができないということがわかった。帰りにパーディーニョのその店に行って、エドソンがどうなっているのか確かめたところ、明日の朝配達するということだったらしい。レンガがちゃんと約束通りに届いていれば、今日は丸1日雨が降らなかったのだから、仕事がはかどっただろうに、やれやれ・・・

家に戻って、車から荷物を降ろしていると、雨が降り出した。そして、マウリシオが近所のファームの人と果樹園から徒歩で上がってきた。彼のトラクターが泥道の大きな穴でひっくり返ってしまったので、ご近所の人に大きなトラクターで救出に来てもらったのに、その人のトラクターまでひっくり返って、立ち往生をしてしまっているという。雨が降り始めたので、トラクター救出作業は明日にすることにしたらしい。5時頃降り出した雨は、めずらしく約1時間ほどの短時間で上がったので、今日、植えた竹にはとてもいい雨になった。

2010年1月28日(木)

朝、視界の悪い濃い霧の中、エドソンを職場に送って行き、帰宅してエディたちのところにコーヒーポットを持って行く。レンガが届いているかエディに尋ねると、まだ届いていないと言う。家に戻ってエドソンに電話をしてその旨伝える。そのしばらく後にようやくレンガが届いたようだった。この1週間毎日必ず雨が降るためエディたちは半日しか作業ができない日が続いており、そのとどめのように、このレンガの未配達による丸1日の空白。この時間の空費はどうにかならないものだろうか?と、思ってしまう。コーヒーポットを持って行ったついでに、家の建設の進み具合を写真に収める。

家に戻り、洗濯機を回す一方、マテウスの案内で下の果樹園まで行って、立ち往生しているトラクターの写真を撮りに行く。今朝、エドソンを送って行く際、マウリシオが頼んだらしいトラクターがこのファームに入って来るのとすれ違ったので、救出作業は進んでいるものと思われる。果樹園に下りて行く途中で、マウリシオのトラクターが無事立ち往生から抜け出せたようで、果樹園から上がってきていた。私たちはさらに果樹園の東側の下の方に降りて行くと、昨日マウリシオを救出に来て立ち往生している大きなトラクターがまず目に入って来た。ひっくり返ってはいないけれど、動けないらしい。引っ張り出すために、もう1台のトラクターとワイアーでつなごうとしているところだった。地面は雨で削られて大きな溝ができていたり、水が溜まってドロドロになっているようだった。この現場までの往復で、靴と靴下とジーンズのすそが泥ですっかり汚れ、ぐしゃぐしゃに濡れてしまった。

2010年1月29日(金)

今日付けで、中国新聞の海外リポートに私の13本目のリポート「リオ気質に戸惑いと違和感」 が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

昨日は夕方乾いた風が吹いていたので、お天気が崩れるとは予想していなかったけれど、夜9時頃から強い風と雨が吹き荒れ、一晩中続き、朝になって雨は弱まったものの、相変わらず強い風が吹き、辺りはすっぽりと雨雲に覆われている状態が続いている。この広く大きなサンパウロ州全体が、この雨雲で覆われているのだから、一体いつになったらお天気が回復するのか検討もつかない。

こんなお天気なので、私が車でエドソンを職場に送って行くことはとてもできない。パウロに電話をして迎えに来てもらうか、どうするか悩んでいたら、ドナ クレウザが週末のパンを作るために材料を取りに来たので、マウリシオに送ってもらえないか聞いてもらうことにする。マウリシオはボトゥカトゥに出かける用事があるので、ついでにパーディーニョで落としてくれることになった。彼の車は私たちの車よりも車高が高いというわけではないのだけれど、エンジンが水に濡れようがどうしようが、彼は全然平気なようだ。でも、とにかくマウリシオに感謝。帰りの足はそのとき考えると言って出かけて行った。

今日は風が強く、雨が降り続き、暗い、寒い1日になった。今季節は夏だなんてちょっと信じられないお天気だ。午後3時過ぎにエドソンがマウリシオの車で帰宅した。マウリシオがボトゥカトゥでの用事を済ませて、パーディーニョにエドソンを迎えに行ってくれたようで、ついでなので、ちょっと早めに帰って来たと言っていた。

2010年1月30日(土)

昨日の夜もずっと雨が降り続き、今朝は一旦止んだものの、お昼前頃からまた、ザーザーと降り出した。これでもう1週間くらい太陽と青空を見ていないような気がする。一体いつまでこの雨は続くのだろう?お天気が悪いため、長袖のT-シャツの上に、長袖のサマーカーディガンを着ていてもちょっと薄ら寒い毎日が続いている。でもこの雨で、先日植えた竹にわざわざ水をやりに行く必要がなく、昨日の夕方エドソンが竹の様子を見に行ったら、みな元気だったと言っていたから、この雨にもいい面がないわけではないけれど、もうそろそろ上がってほしいものだ。

パウロの会社は土曜、日曜はお休みなのだけれど、今日は特別にスタッフを全員集めての会議が午前9時からあり、私も一緒について行くことにした。これは仕事なので、本来なら私は行かなくてもいいのだけれど、会議の後で、パウロの家でシュハスコをするので私も一緒に連れてきたらいいということになったらしい。パウロの会社はパーディーニョのオフィスだけでなく、近隣のボフェチ(Bofete)、イタチンガ(Itatinga)、アンエンビ(Anhembi)にもオフィスがあり、それぞれのオフィスのスタッフがみな一堂に会した。エドソンがマネージメントに加わったため、これから彼のイニシアチブでこういう会議を時々することにしたらしい。最初はみんなせっかくの週末を会議に狩り出されて迷惑そうだったけれど、会議が進むに連れて、みな一様に発言の機会を何回か与えられ、エドソンの言っていることに真剣に耳を傾け始めたのがよく見て取れた。3時間という長い会議だったけれどパウロとジャナイーナは満足しているようだった。

12時を少し回って会議が終わり、パウロの家に移動して、シュハスコの準備を始める。パウロがお肉を焼き、ジャナイーナがご飯を炊いたりサラダを作っている間、みんなビールやジュースを飲みながらおしゃべりをしている。私はジャナイーナのサラダ作りを手伝った。エドソンは仕事に出てパーディーニョのオフィスで仕事をしている日は、パウロの家でジャナイーナが作ったお昼を一緒にいただくことが多いので、「いつもエドソンにお昼を食べさせてくれてありがとう」と言うと、「イマジーナ(Imagina.)」という返事が返ってきた。それに続いて「私はお料理が好きだから」と言っていた。このイマジーナという表現は、おそらく「とんでもない、気にしないで」くらいの意味なのだろうと思う。

パウロたちの子どものイザベラは女性陣と一緒にゲームをして遊んでもらい、3週間前は伝い歩きしかできなかったマリア・パウラはちょっと危なっかしいけれど、一人で歩けるようになっていて、みんなの間を行ったりきたりして愛嬌をふりまいていた。パーディーニョのオフィスには、ホドリゴ(Rodrigo)という日系人の男の子がひとりいる。仕事をしながら夜は大学に通っているのだそうだ。イタチンガのスタッフのブルーノ(Bruno)という男の人はエドソンの隣に座って、日本での暮らしなどについて興味深そうにエドソンに次々に質問をしていた。

午後3時ごろ帰宅すると、カロリナソイルのところの道路はかなり水が溜まっていたけれど、エドソンがドアを開けて、車の下の水位を見ながら、ゆっくり通っていったら、床上浸水することなく何とか通れた。ここのゲートまで来たところで、ちょうどウィリアムがジェラウドと一緒にボトゥカトゥでのアマチュア無線の会合に行くところだから一緒に行こうということになり、エドソンはウィリアムたちと出かけて行き、私は一人帰宅した。

2010年1月31日(日)

昨日は夜9時前にエドソンとウィリアムが帰宅し、これからジェラウドのところでピザをご馳走になりに行くから一緒に行こうということになり、私も参加して出かけて行く。ジェラウドの奥さんの手作りの大きなピザが次々に3つも出てきて、びっくり。お昼に食べたシュハスコがまだお腹にある感じなのだけれど、おいしいので2枚も食べてしまった。下手なお店のピザよりも断然おいしいので、ピザ屋さんを始めたらいいのにと思った。でも彼女はアーティストで、いろいろ可愛い動物の絵を描いたりしているらしい。部屋にそのいくつかが飾ってあった。おいしいワインとピザをいただき、話に花が咲き、家に戻ったのはほとんど12時近くなっていた。

今朝は久しぶりに太陽が出て青空が広がっていて、気持ちがいい。でも地面はまだ乾いておらず、ぐちゃぐちゃ状態が続いている。洗濯物を干すために外の物干しに行くのに、足元がグシャっと土に埋もれてしまいそうになる。今日は1日このいいお天気が続くのかな?と思っていたら、さにあらず、南西の方角で雨が降り出しているのが見える。これが北上してくるのか、そのまま東に移動するのかわからない状態だったけれど、3時前頃雲が北上して来て雨が降り出しそうな空模様になって来た。でもウィリアムは「雨は降らないよ」と気楽に言って、サンパウロに帰る仕度を始めたが、車を家の前に持って来て荷物を積み始めたらいきなり強い風が吹き始め、雨がザーザーと降って来た。「シューヴァ ジ ノーヴォ(Chuva de novo.、つまり、「また雨。Rain again.」)」と、ため息が出る。ちなみに今、夏の真っ盛りの(はずの)パーディーニョの1月の最低気温の平均は17度。最高気温の平均は27度。これで例年通りに雨量が少なければ言うことのない気候なのだけれど・・・



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