Kyoko Yoshida                                        
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2009年11月1日(日)

今朝、まだ夜が開ける前に、犬たちがうるさく吠え立てるため目が覚めてしまった。ウィリアムの話だと、この家の裏の犬小屋やシュハスコ用のかまどがあるスペースに、コルージャ(Coruja、フクロウ)が迷い込んだため、犬たちが騒いでいたらしい。ウィリアムが起きて行って、戸を開け、犬たちを出して、フクロウが自分で外に出られるようにしたら、しばらくして外に飛び立っていったということだった。でも、朝食が終わった頃、マテウスがまたフクロウが来ているというので、見に行くと、かまどの奥で静かにたたずんでいた。

この家の裏のスペースは南側の壁面がガラス張りで、上部は20センチくらい開いているので、そこからよく小鳥が迷い込んで来るのだけれど、一旦中に入ると、ガラス張りなので、出口がわからなくなるらしく、出られなくなり、ガラスのところでバタバタとあがいて、モビとフィオナに追い回されて、結局捕まってしまうことがよくある。これまで何度、モビたちを小屋から出すために朝、扉を開けて、小鳥の死骸を発見したかわからない。このガラスにテープか何かで縞模様を入れるとかして、小鳥が迷い込まないようにした方がいいのではないかと思うけれど、ウィリアムはここで毎日暮らしているわけではないので、あまり気にしていないようだ。

今週末、ウィリアムと一緒にサンパウロから遊びに来ているジュニオーは、英語を話すことができ、おしゃべり好きで、おもしろい話題に事欠かない人だ。地質学などが専門だったそうで、今朝はしきりにアマゾンのことを話していた。ベネズエラのチャべス大統領はクレージーだから、アマゾンの豊富な鉱物資源を狙って、ブラジルに戦争を仕掛けてくるかもしれない。そうなると、これまでまともに戦争など一度もしたことのないブラジルはきっと負けて、ベネズエラにアマゾンを盗られるだろう。またはそうなる前に、おそらくアメリカがブラジルを守るためにと出てきて、ブラジルの代わりにベネズエラと戦争をする。でも、もちろんアメリカはただでブラジルを守ってくれるわけではないので、ブラジルは高い代償を払わなければならない。でも、そんなお金はブラジルにはないから、どうなるか?アメリカもアマゾンの鉱物資源を欲しがっているのはベネズエラと同じなので、結局、アマゾンをアメリカに手渡すことになり、いずれにしてもブラジルはアマゾンを失うことになるだろうというのだ。

アメリカを始めとする世界が、アマゾンに注目している本当の理由は、アマゾンの熱帯雨林の存在が地球の環境におよぼす好影響などではなく、その下にある豊富な鉱物資源なのだと、彼は言っていた。アメリカがコロンビアと協定を結び、コロンビア国内にアメリカ軍基地を配備することにしたのも、アマゾンを見据えてのことだという。これまでの歴史を振り返ると、戦争はいつも資源争奪戦という意味合いが強いのだから、案外、それが本当のところかもしれないなと思う。

2009年11月2日(月)

今日は、ブラジルではフィナードス(Finados、精霊祭)と言って、全ての死者の魂のために祈りをささげる日、つまり日本のお盆のようなもので、祝日。 カトリック教会の暦では11月1日が諸聖人の日(All Saints' Day )で、続く11月2日が死者の日となっている。諸聖人の日はカトリック教会の祝日のひとつで、すべての聖人と殉教者を記念する日。日本では「万聖節」ともいわれている。

アイルランドやケルトの習慣では、諸聖人の日の前の晩は「ハロウ・イブ(Hallow Eve)」と呼ばれ、キリスト教伝来以前から精霊たちを祭る夜だった。19世紀に移民によってアメリカ合衆国に持ち込まれたこの習慣が「ハロウィン(Halloween)」になったという。「ハロウィン」は「ハロウ・イブ」がなまったものだそうだ。アメリカでは現在、このハロウィンの方が盛んだけれど、諸聖人の日はアメリカ国内にカトリック信者が少ないことから、これといった行事は催されない。だから、もちろん祝日でもない。

今日、ジュニオーをサンパウロの家まで送り届けなければならないためか、ウィリアムは朝食が済むと、帰る仕度をして、10時前にサンパウロに向けて帰っていった。昨日はお昼にシュハスコをしたりして、忙しかったけれど、今日、ウィリアムたちが早々に帰って行ったので、マウリシオものんびりとこの家のベランダのイスに腰掛けてエドソンとおしゃべりに興じている。ドナ クレウザは午前中この家の掃除と、冷蔵庫の霜取りを手伝ってくれ、お昼前には今日の家事が完了した。この家の冷蔵庫はまるで骨董品のような古いもので、ドナ クレウザによると30年位前のものらしい。フロストフリーではないため、時々、冷蔵庫の中の物をすべて出して、冷凍庫を覆う霜を取らないといけない。日本の電化製品は日進月歩で進歩して行くので、今どき、霜取りが必要な冷蔵庫なんてどこを探してもないのではないかと思うけれど、ブラジルでは今でもフロストフリーではない、霜取り作業の必要な冷蔵庫も普通に売られている。フロストフリーに比べ値段が安いので、買う人もいるのだろう。でも、ここでは新しい機種でも、冷蔵庫の扉は日本のように何層にもなっておらず、1つだけというのがほとんどで、どうしてもっと使いやすいように改良しないのだろうかと、不思議でならない。

2009年11月3日(火)

昨日もお天気が良く、気温は34度にまで上がり、夜もなかなか気温が下がらず暑かった。ただ、暑といってもリオの暑さに比べれば、まだまだこちらの方がずっと過ごし易いのは言うまでもない。しばらくご無沙汰だった虫刺されに、また悩まされる日々が始まりつつある。このところせっかくお天気が協力してくれているのに、家の建設が始まらないのはどうしてだろうと思っていたら、作業の人たちの病気やら事故やらが重なり、仕事ができない状態となり、作業を始められないのだという。やれやれ。

今、この家の周りで咲いている花がいろいろあるので、写真を撮ってみた。

マウリシオが木の幹に移植したというラン。ところどころにこうやって木の幹のところにランが咲いている。

この家の表のベランダの隅っこの、屋根の下を這うように、ジャスミン ジ マダガスカルという花がたくさん花をつけている。この花はとてもいい匂いがするのだけれど、花が高いところにあって、花までちょっと距離があるため、残念ながら匂いを嗅ぐことはできない。

そして、ハイビスカス。この家の横に何本かハイビスカスの木がある。この花には特に季節というものはなく、1年中咲いているような気がする。そして、日本で見かけるハイビスカスよりも、花の大きさが一回り大きい感じがする。

2009年11月4日(水)

昨夜のロータリークラブの定例会に、このパーディーニョのことを書いた私の中国新聞の海外リポートと、メル友のおじいさんが送ってくれたそのポルトガル語訳のコピーを持って行き、エドソンがみんなに紹介してくれた。会合の後の会食の際、何人かのメンバーはちゃんと読んでくれ、おもしろかったと言ってくれた。彼らの優しさに感謝。

以前、ここではいろいろな鳥の鳴き声が聞こえると書いたけれど、その内の「ピュー、ピュー、チュン、チュン、チュン」と鳴く鳥は、チコチコ(Tico-Tico)という名前で、スズメの一種だということがわかった。この家の周りでよく見かけるスズメのような鳥が、このチコチコだったことを、インターネット上の写真で見て発見。チコチコの中にもいろいろな種類がいるようで、ここで見かけるのはスズメのような地味な色合いで、首筋にちょっと薄茶の筋がはいっているタイプだ。鳴くときは木の上で鳴き、芝生の上をチョロチョロしているときは鳴かないので、これまでこのよく見かける鳥と、よく聞く鳥の鳴き声が同一の鳥のものとは夢にも思わなかったのだけれど、ようやく納得。インターネット上での鳴き声のポルトガル語の表記は、"hu, dju, dju ziu-ziu-ziu"となっていた。似ているようなちょっと違うような・・・

2009年11月5日(木)

昨日の午後、郵便局に行き、届いている郵便を受け取り、ジョゼのお店(パラボラアンテナだけでなく、金物や工具を販売していて、小さなホームセンターのようなところ)に寄って、必要な建築資材の有無と値段の確認をする。同じような値段なら、他のお店で買うよりも、ロータリークラブでよく知っているジョゼのところで買おうとエドソンは考えているようだ。その後、タケイシさんに教えてもらった、このファームの近くにあるヴィヴェイロ(Viveiro、市の育苗センター)に行き、どのような種類の木の苗を育てているのか見せてもらう。パーディーニョの住人であれば、市に登録すれば、無料でこれらの木の苗を譲り受けることができるのだそうだ。ここでは、森林再生を目的に、この地域にもともとあった木の苗を育て、住人に無料で配布し、昔のような緑の自然を復活させようとしているらしい。

ブラジルは昔、緑の大地だったけれど、移民が入植して、畑や放牧地を作るために木を切り倒して、開墾して行ったので、昔あった森林がずいぶん姿を消してしまったことから、近年では自分の所有地内にある木でも、枯れ木でない限り、それを切り倒すにはお役所の許可がいるようになったと聞いている。そして、全国的なことなのか、サンパウロ州だけのことなのか、定かではないけれど、市街地の外の、郊外の農場などが広がる地域の土地を売る際は、1ヘクタール以下で切り売りすることは認められておらず、その土地の中に何パーセントかの森林ないし、緑地帯を残さなくてはいけないことになっているらしい。自然破壊を伴う乱開発を避けるための法律があるのはいいことだと思う。

ヴィヴェイロの後で、ちょっとこの辺をドライブしようとエドソンが言うので、ここの台地が始まる東の端まで行ってみた。この台地から東側のきれいな景色がよく見える場所がいくつかあった。ただ、お天気はいいものの、少し霞がかかっていて、あまりクリアには見えなかった。一番向こうに見える山並みは、人が寝ているように見えるためか、ジガンチ アドーメシード(Gigante Adormecido、眠る巨人、英語ではSleeping Giant)と呼ばれている。

この道路を南にかなりの距離下りてゆくと、高速道路のカステロブランコに合流するのだけれど、舗装されていない上、大きなファゼンダの入り口を通り過ぎた辺りから道幅が狭くなっていたので、それ以上行くのはやめることにする。この大きなファゼンダの入り口にはドナ ベティのところのように、守衛さんのポストがあり、守衛さんがひとり立っていた。このファゼンダはある国会議員の所有らしく、グーグルマップで空から見ると、気が遠くなりそうなほど広く、小型機が発着できる私設の滑走路まである。この近所には飛行場のあるファゼンダがあるとウィリアムから聞いたことがある。週末にはよく飛行機の音がするのだけれど、どうもここのことだったようだ。また、敷地内にはたくさん家が見えるけれど、60人あまりの人たちを雇用しているので、その人たちが暮らしている家らしい。このファゼンダでは大規模なウシ遺伝子の研究と、高品質のウシの精子の生産が行われているのだそうだ。

2009年11月6日(金)

昨日、今日と、ずっと強い風が吹き続けているけれど、お天気は晴れたり曇ったりで悪くはない。昨晩は少し強い雨が降ったけれど、昼間は雨のない状態が続いている。

10月14日付けのニッケイ新聞で見かけた在日ブラジル人に関する記事の一部を、以下に転載してみる。『金融危機の開始からちょうど1年、これから日本はまた冬を迎える。わずか1年前には32万7千人を数えた在日ブラジル人のうち、すでに約5万人が帰伯した。例えば、エスタード紙9月6日付けでは「4万7千人が帰国し、うち3400人は日本政府による30万円の帰国支援策を受けており、この列には6600人が手続きをして並んでいる」と報道。BBCブラジルは8月28日付けで、「昨年9月から5万4709人が帰伯。うち今年の前半だけで4万1887人が減った。4月1日から8月初めまでに9762人が日本政府の帰国支援を要請している」と報じている。5万人が帰伯しても、残りの26万人は日本で踏ん張り、懸命に工場などでの仕事を続けている。それと同時に、工場労働以外の新境地を拓いてがんばっているブラジル人も多い。』

去年の今頃、金融危機により、エドソンの会社も、契約社員を12月いっぱいで全員解雇すると発表した。エドソン自身は正社員で解雇される心配はなかったのだけれど、せっかく苦労して育て上げた彼の部下のほとんどを失うことになり、大きな決断の時が近づいていることを予感させた。そのため、最終的な決断をするのはまだしばらく後のことだけれど、そのときに備えてとりあえず、在日ブラジル総領事館での私の永住権申請の手続きなど、ブラジルに帰るための準備に走り回る日々が始まったのを思い出す。

2009年11月7日(土)

今日は、ここから約2時間半ほど南東に行った、サンパウロに近いイビウーナ(Ibiuna)という町で暮らしている、メル友のおじいさん、香山さんのことろにお邪魔した。スザノ(Suzano)の日本語学校で、ジャイカ(JAICA、国際協力事業団)から日本語教育ボランティアとして派遣されて来て、日本語を教えている女性も来るから、ちょうどいいということだった。この女性は、以前名古屋の小学校で、香山さんの曾孫さんが1年生の時に担任だったのだそうだ。

朝7時45分に家を出て、ここから降りたカステロブランコ上にあるホドサーブで、遠出をする際いつもするように、給油と洗車をしてもらって、出発する。高速道路のカステロブランコは順調に走り、サンホケ(Sao Roque)への出口で高速を降り、サンホケの町を通過する際、道路が複雑で標識が完備していなかったため、道に迷ったけれど、途中11〜2歳くらいの男の子に道を聞いて、何とかサンホケからイビウーナに続く道路に出ることができた。その道路はサンホケ寄りのところで拡張工事をしていて、舗装工事中だったため、のろのろ運転を強いられたけれど、イビウーナに到着してからは何の問題もなく、すぐに香山さんの家を探し当てることができ、午前11時頃に到着。

香山さんの書斎に通され、大きな机の前で車椅子に座った香山さんと初めて対面する。耳が遠いので、これを使って話してくださいとマイクを渡され、ご自分は大きなヘッドフォンをつけておられる。私のエコタウンのリポートをポルトガル語に翻訳してくださった方のことや翻訳のことなどについて話してくださったり、最近、アリアンサのコロニアから届いたばかりという写真集を見せてくださったり、こういう資料、ああいう資料と、次々に出して話をしてくださる。机の上は大きなコンピュータのモニターや、コピー機や、マイクやヘッドフォンがつながった装置や、書籍や、資料がたくさん置かれている。最新の文藝春秋もあった。

書斎の2面の壁を埋める本棚には、移民関係の本を始めとする様ざまな書籍が並んでいる。その側に、名古屋で暮らす孫娘さんとその子どもたち(つまり曾孫さんたち)の写真や、曾孫さんが描いて、何かの賞をもらったという絵が飾ってあったりする。ちょっと雑然としてはいるけれど、香山さんの頭の中には何がどこにあるのかよーくわかっているようで、そこの後ろの本棚の何段目の右側の本は、移民史入門のような本だから読んでご覧なさい。とかおっしゃる。

スザノで日本語を教えている晴子さんは、ブラジルに来てまだ4ヶ月ほどでポルトガル語が話せないのに、電車やバスを乗り継いでひとりでイビウーナに来ようと計画していたようで、それはちょっと無謀なので、ちょうど香山さんの友人の方がイビウーナに訪ねて来る予定があったので、香山さんが頼んで一緒に連れてきてもらうことにしたらしい。電車とバスを乗り継いで、午後2時近くになってようやくふたりが到着したので、一緒にお昼をいただく。土曜日のお昼はいつもフェイジョアーダと言っておられたけれど、出された食事は、具がシイタケだけのちらし寿司、ブリのお刺身、タケノコ+ゴボウ+サトイモ+シイタケ+豆腐などの煮物、白身魚のフライなどだった。「今日は暑いからフェイジョアーダは止めたの」と、長女のちえ子さん。ブラジルに来て初めて食べるご馳走ばかりで、とてもおいしくいただく。ちらし寿司は3回もおかわりしてしまった。

次の写真は右奥が香山さん。真ん中が日本語の先生の晴子さん。左側が香山さんの友人の藤田さん。藤田さんは香山さんと同い年で、ちょうど同じ時期にチエテ植民地に入植したという、似たような背景を持ち、ブラジル短歌界ではとても名の知れた方ということだった。この方は目も耳も全然問題なく、とてもお元気そうだった。

次の写真は左から、長女のちえ子さん、次女ののぶ子さん、そして、日本語の先生の晴子さん。

長女のちえ子さんは未亡人で、香山さんと同居している。次女ののぶ子さんは同じ通りの数軒先に住んでいて、香山さんの家の後ろには長男さんの一家が暮らしている。長男さんとその息子さんと、ちえ子さんが香山さんがここイビウーナで始めたアグロカヤマという、農機具、肥料、農薬など、農業関連の品物を扱う会社を引き継いでやっている。次男さんだけがイビウーナではなく、カンピナスで暮らしている。次男さんは物理学者で、アメリカの研究所に招かれて研究生活を送ったこともあり、奥さんはブラジル系アメリカ人。現在はカンピナスにあるブラジルでは有数のカンピナス大学(UNICAMP)で、それぞれ物理学と音楽の教授をしている。この奥さんのアドリアナ(Adriana)さんとは、ブラジル音楽のリポートを書いている際、香山さんに「連絡してみなさい。英語を話すから何か役に立つかもしれないから」と言われて、電話とメールで何度かやり取りをしたことがある。とても気さくないい人で、自分はクラシックが専門だから、ポピュラー音楽に詳しい同僚を紹介すると言って、ハファエル(Rafael)先生を紹介してくださった。そして、このハファエル先生もまたいい人で、私の面倒くさい質問にひとつひとつちゃんと英語で回答を寄せてくれた。この先生の奥さんは13歳のときにブラジルに来た日本女性だということだった。名古屋に住むちえ子さんの娘さんのご主人は、三菱重工に出向して来ているフランス人エンジニアということだし、何とも国際色豊かな家族だ。

たっぷり日本語を話し、その上、おいしい日本食をいただき、香山さんからたくさんの資料をいただき、私にとってはとても得るものの大きい楽しく有意義な訪問となった。「移民史研究はおもしろいですよ。移民史やってみませんか」としきりに勧めてくださるのだけれど、いろいろなものをただ読むのはとても面白いけれど、研究となると、私にはちょっと荷が重すぎて、腰が引ける。「ぼちぼちやればいいんですよ。10年、20年続ければ何とかなるもんです」そういうものでもないような気がするのだけれど・・・

「夕方から雨が降るから、そうなると今晩はサンパウロの道路は雨で大変だから、今日は泊って明日帰っては?」と、ちえ子さんたちが藤田さんと話していたけれど、私たちはサンパウロとは反対方向に帰るので問題はない。午後4時頃失礼して、帰途に着く。帰りはサンホケで迷うことなく、すんなりカステロブランコまで出ることができ、6時半にはパーディーニョに帰り着いた。車のメーターを確認すると、イビウーナ往復の走行距離は約360キロ弱だった 。

2009年11月8日(日)

昨日は1日ここを留守にしていたので、ドナ クレウザがウィリアムのお昼を用意してくれた。朝食の後で、彼女に昨日作った料理を確認すると、牛肉料理だったようなので、今日のお昼は鶏肉料理を作ることにする。いつもは昼食の準備ができたら、ベランダに吊り下げてある鐘を鳴らして、倉庫の無線室に行っているウィリアムとエドソンに、食事に戻ってくるよう知らせるのだけれど、今日は知らせる前に二人揃って家に戻って来た。珍しいこともあるものだ。

二人とも昨日は夜遅くまで、そして、今日も朝早くから起きて、倉庫の無線室にこもっていたので、さすがにお疲れのようで、昼食の後、ウィリアムはベランダのハンモックでお昼寝。エドソンもしばらくコンピュータの前に座っていたけれど、いつの間にか寝室に行って、昼寝をしている。

午後しばらくすると、空模様が怪しくなってきたので、ウィリアムは起きて、サンパウロに帰る仕度を始めた。でも、ドナ クレウザが作ってくれたコーンケーキのおやつを食べることは忘れず、しっかり食べてから、バイクに荷物を積んで帰って行った。夕方6時頃、雷がなり、雨が降り出したけれど、比較的短い時間で雨は止んでくれ、日の入り後に、ほんの少し夕焼けが見えた。

2009年11月9日(月)

今朝は夜明け前から雨が降り続いていたけれど、午前11時頃になってようやく少し小降りになってきた。でも、辺りは依然、霧に包まれている。居間で資料を読んだり、ブログやリポート書きをしていたら、西側の窓に「ドン」という何かがぶつかる大きな音がしたので、驚いて「今のは何?」と、エドソンとふたりで窓際に行って外を見ると、窓の下のベランダに小鳥が倒れている。霧のせいで視界が悪く、前がよく見えなかったのか、小鳥が飛んできて、窓にぶつかった音だったのだ。モビたちがこの小鳥に気付く前にと、急いでベランダに出て、小鳥を家の中に運び込む。息はしている。ぶつかった衝撃でちょっと気絶しているだけのようなので、台所の窓を開けて、水を少しくちばしに含ませて、気がついたら飛び立てるようにそっとしておく。しばらくすると目を開け、口をパクパクし始めたので写真を撮る。この写真を撮ってから間もなく、元気に飛び立って行ってくれた。

午後1時を回って、雨も止み、霧も晴れてきた。9月の末に、パラカンビから持って帰って来たアルメイラオン(Almeilao、ケールの一種)の芽が根付いて、元気に大きく育っている。エドソンが畑に行って、初めての収穫をし、家まで持って来てくれたので、写真を撮る。今日の晩ご飯に予定している魚のフライに付け合せることにする。自分の畑で育てたいろいろなオーガニック野菜を収穫して食べることができるなんて、なんという幸せ!

2009年11月10日(火)

10月28日付けのニッケイ新聞の「コラム樹海」に面白い記事が載っていたので、以下に転載してみる。昨年の日本移民100周年がどうしてあんなに盛り上がったのか、日系人自身よくわからないらしいというのが、何ともおもしろい。

『26日の百周年評価シンポの最初に行われた「百周年とメディア」(オクバロ・ジョルジ=コーディネーター)は興味深かった。フォーリャ紙元編集長(現エスタード論説委員)、現役のグローボTV局サンパウロ編集局長、マスコミ批判ラジオ番組の司会らそうそうたるメンバーが、揃いもそろって非常な親日家であることの凄さを痛感した▼たっぷり意見を聞いたが、正直言って、なぜ昨年あれほど伯国マスコミが好意的な報道を繰り広げたかという謎は解けなかった。というか、本人たちは無意識にやったのだということが分かった▼グローボ編集局長などは、昨年3月からのわずか3カ月間に百周年関連で250本もの番組を作ったというので驚いた。2分ぐらいの短いニュースから6本のシリーズ(連載)、さらにグローポ・レポルテルとグローボ・ルラウで特別番組まで作り、まさに局をあげて祝った▼3人に共通していたのは、身近に深い付き合いをする日系人がいることだ。特にグローボの女性編集局長は、夫が日系二世で3回も訪日している。「自分も日系人の一人だと思っている」という言葉が、私には重く響いた▼通常、我々は「日本人の血が入ったものが日系人」だと考えている。それから言えば、二世とその子供は日系だが、伯人配偶者は同じ家族でありながら日系人ではない。でも「私も日系人」と思われることは、日系社会にとってはとても有り難いことだ。そのような絆の積み重ねの上に、昨年の伯国マスコミの親日系報道があったとすれば、日本で使う「日系人」とは別に、コロニアにおいては規定し直す必要があるかもしれない。(深)』

日系人がブラジル社会の隅々まで浸透、活躍し、信頼を得ているからこそ、ブラジルにはこのように親日系の人たちが多いのだと思う。そのお陰で私もブラジルではアメリカの田舎で感じたような人々の異質なものを見る視線を感じることはまったくない。でも、最初からブラジル人がこんなに日系人に対して親しみや、信頼を寄せていたわけではないことを私は知っている。こうなるまでには差別されても、騙されても、誠実さを失わなかった日系移民の人たちの何十年にもおよぶ苦労があったことを忘れてはいけないと思う。ただ、潜在意識の中の差別の名残なのか、気になることがひとつある。悪気はないのかもしれないのだけれど、アメリカでもブラジルでも老若男女を問わず同じように、日系人や日本人のことを話す際に、両目を吊り上げるジェスチャーをする人が少なくない。つまり日系人や日本人はこういう目の人たちというジェスチャーなのだ。確かに欧米人に比べ日本人(だけでなくアジア系はみな)の目は小さく細い人が多い。でも、これを日本人である私の目の前で平気でする神経は、いまだによく理解できないので、どう反応したものかと、毎回戸惑う。

2009年11月11日(水)

昨日は夕方から空模様が怪しくなってきたので、ロータリークラブの例会に行くかどうか迷ったけれど、結局、家を出るまで雨が降り出さなかったので、そのまま例会に出席する。例会にはこのファームの近くに工場を建設しつつあるカロリナ・ソイルという会社の、アメリカ在住の社長もパーディーニョに来ているついでに、誰かに招かれて出席していた。我が家同様、この工場の建設も遅々として進んでいないようだけれど、こうやって何ヶ月かに一度、アメリカからやってきて準備を進めているようだ。こういう企業の進出はパーディーニョの町にとっては大きなことなので、みな興味津々といった感じで話を聞いていた。

ロータリークラブの会合では、毎回、次の写真のようなBoletim Interno Semanal(週刊の内部機関紙、つまりWeekly Internal Bulletin)をパウロが作って出席者に配布している。

例会の最中に雷がなり、少し雨が降ったけれど、たいしたことはなく、無事会合と会食が終わった頃に突然、停電になってしまった。小雨の中ファームに戻ると、パーディーニョの町だけでなく、近隣の町も同様に停電になっているようだった。真っ暗な中、家に戻り、ろうそくに火をともし、エドソンがコンピュータで調べてみると、イグアスの滝の近くにあるイタイプ水力発電所でトラブルがあったようで、サンパウロ州だけでなく、ずいぶん広い地域で停電になっているようだった。

今日の夜のニュースによると、南東部の全域におよぶ広い地域で大停電になっていたらしい。リオやサンパウロでは信号が止まり、電車や地下鉄も動かなくなり、携帯電話も使えず、場所によっては水も止まるという大混乱で、非常用発電機のない病院(そんな病院が存在していること自体信じられないことだけれど)では、死者も出た(ただし、はっきりとした因果関係は不明)とニュースで言っていた。ここの停電は2時間ぐらいですぐ復旧したので特に何も問題はなく、こんなに大変なことになっているとは思いもしなかった。原因は、暴風により送電線が故障したためということがずいぶん後になってからわかった。一度にこれほど多くの送電線が故障する状況にシステムが対応していなかったため停電が起きたということだった。

でも、エドソンの話だと、イタイプの発電所からは3本の送電線が出ていて、それが悪天候で同時にダメージを受けるということはあり得ないことではないけれど、ブラジル国内の電力供給システムはすべて統合されていて、イタイプは南東部地域の20%の電力を供給しているだけで、残る80%は他の発電所から供給されているので、こういう場合は、残る80%から電力を回せるはずなのに、なぜかそのシステムが稼動せず、その代わりにシステムすべてがダウンしてしまったため、こんなことになったのだそうだ。だから、システムのデザインにミスがあったとしか思えないということだった。彼は昔、セペウ(Cepel)という国の電力研究所に勤めていて、イタイプの発電所にも仕事で行ったことがあるので、こういう事情には結構詳しい。

2009年11月12日(木)

昨日の午後はボトゥカトゥの銀行に行く用事があったので、いつものように、パオン ジ アスーカーにも行って買い物をする。ここではパーディーニョでは手に入らない白菜やきぬさやなどの野菜や、鶏肉、豆乳、豆乳ベースの果物ジュース、チーズ、日本米などを買う。豆乳ベースの果物ジュースは、大豆の生産が豊富だからなのか、ブラジルではとても多くのメーカーがいろいろな種類の果物を使ってジュースを作っていて、とてもおいしい。下の写真は左から、Yoki、Shefa、Adesという異なる会社の製品。この中でAdesのコマーシャルを一番よくテレビで見かける。そのため、価格がこの3つの中で一番高い。この写真に写っているAdesの製品は豆乳で、豆乳ベースのジュースではない。

その後、ウエノ商店を探したら、以外に近くで簡単に見つかった。ウエノ商店はドナ マリナの店よりも少し大きく、日本商品の品数が豊富だった。ドナ マリナの店は、そこで働いている人の数がお客さんよりも多い印象だけれど、ウエノ商店はレジに愛想のいい日系の女性がひとりいるだけで、途中で中年の男性(ウエノさんか?)が店に荷物を搬入しているのを見かけただけで、裏にも誰かいたのかもしれないけれど、とても少人数の家族経営といった感じの質素な店だった。パン粉、昆布、とんかつソース、紅しょうが、焼きそば用の生めんなど、ドナ マリナの店にはなかったものを買って帰る。レジのそばに立派な桃が箱に入って売られていた。以前、タケイシさんが持ってきてくれたものよりもつぶの大きい、おいしそうな桃だった。この桃やスモモなどは自分の畑で作っているのだそうだ。レジで支払いをする際、スモモをふたつおまけにくれた。だからというわけではないけれど、次回からは、パオン ジ アスーカーの後は必ずここに来ることにしようと思う。

2009年11月13日(金)

今日付けで、中国新聞の海外リポートに私の9本目のリポート『インカの力「すべての道はペルーへ」』が掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

このピアビルの遺跡というか、道路の跡は、ボトゥカトゥからサンパウロに伸びている支線もあるので、この近辺にも遺跡があるはずなのだけれど、その場所を知っている人をまだ見つけ出すことができていないので、私たちはまだ実際には目にしてはいない。アグアス ダ セハ経営のマルセロはこの辺の歴史に詳しいので、知っているかもしれないのだけれど、まだ、具体的に聞きそびれている。場所を特定することができ、その道路の遺跡がはっきりとわかる状態で残っていれば、ぜひ写真に撮ってみたいと思っている。

11月4日付けのニッケイ新聞に、次のような記事が載っていた。このブログの愛読者の中には、ブラジルでサンバを踊りたいという人もひょっとしているかもしれないと思い、ここに記事を転載してみる。

『2010年カルナバル=一緒にサンバしよう!=日系アーラの参加者募集

 「日本人、日系人と一緒にサンバを踊りたい」―。聖市サウージ区のエスコーラ・デ・サンバ「バロッカ・ゾーナ・スル」(Av. Professor Abraao de Moraes, 1800)が来年2月13日の聖市アニェンビ会場でのカルナバル参加に向け、日本人・日系人だけのアーラ(連、隊)を企画、メンバー来社、参加を呼びかけた。

 「ARIGATO! Hora nao tem de que. Esse enredo a Barroca ofereci a voce(アリガトウ。どういたしまして。バロッカがこの曲をあなたにプレゼントします)」―。

 1983年に「日本人移民75周年」をテーマにして、約200人の日系人・日本人が集まってサンバしたのが、このチームだ。

 「チームにとって強烈に印象に残るディスフィーレだった」と来社したマリア・ジョゼ・バロンコさん、イオネ・マルチンス・ホドリゲスさん、内田アルベルトさんは振り返る。以来、26年経った今でも、この曲はチームで歌い継がれているという。

 「日本移民をテーマにしたのは、ブラジル中でうちが最初なんだよ」と話すのは、青年部副部長のウンベルト・レアル・フェルナンデスさん。

 「仲間からアイディアを聞いたとき、何で今までこんなに良い企画に気づかなかったんだろうって。また日系人と踊れるのが楽しみ」と熱い思いを語る。

 「サンバが踊れなくても大丈夫。みんな初めはそうだから。バッテリア(打楽器)が鳴り出したら、自然と踊れるもの」と呼びかけた。

 今年のテーマは「ベイジョ(口づけ)」。月と太陽、母親と子供の口づけなどをアーラごとに表現する。参加費は、衣装代(約100レアル)。 詳細などはウンベルト(11・9895・7699)、ファビア(9446・4160)。』

2009年11月14日(土)

昨日マウリシオがまた、市の重機管理課の人と掛け合って、今日、こちらに1台重機を回してもらえるよう手配してくれた。

そもそも、最初にぺドレイロのエディが市の重機を手配できなかったため、重機を使って家の下にガレージのスペースを作る計画は一旦諦めたのだけれど、マウリシオが顔を利かせて市の重機を手配することができることがわかり、また最初の計画通りに進めることにした。すると、今度は何日も何日も悪天候が続き、せっかく手配できる市の重機では役に立たないため、また、計画変更の心積もりでいたら、エディが近くの建設会社から悪天候でも使える重機を手配できそうだということになり、またまた最初の計画通りにできると喜んだのもつかの間、この会社の重機を操作する人が事故で、当分手配は無理と言うことになった。では、ガレージは諦めるからすぐにでも基礎工事を始めてほしいと決断すると、今後はエディの車が故障して1週間余り使えなくなったり、彼の作業スタッフが病気になったりと不運続きで、いつまで経っても作業ができる態勢が整わない。ただひたすら待つ状態が続いていた。

そんな中、昨日マウリシオが市の重機管理担当の人と会ったついでに話してみた結果、今日、重機を確保できそうだけれど、どうする?と、連絡をくれたので、ずぐに確保してもらうことにした。そのお陰で、今朝7時から作業の人が来て、作業が始まった。ここの人たちはいつも約束通りの時間に来てくれる。作業の人が来て、エドソンがエディに電話をすると、彼もすぐに飛んできてくれた。今日来た人は重機の操作がこれまでの人の中でピカイチで、作業の手際がとてもいい。途中で短い昼食を挟んで、午後3時過ぎには作業がきれいに完了した。この2ヶ月の間に計画が2転3転したけれど、これで当初の計画通りに進めることができることになった。感謝。感謝。この作業に1日中立ち会ったエドソンは、また真っ赤に日焼けしてしまった。

午前中、私はコーヒーを入れたポットと冷水を入れたポットを作業の人に差し入れし、昼食を作って待っていると、エドソンが一人で戻って来た。午後から雨が降りそうだから、このまま仕事を続けて早く片付けた方がいい。昼食を食べに行く時間がおしいので、容器に入れて持って来てほしいと作業の人が言っているということで、大き目のタッパーにご飯とひき肉のおかずをたぷり入れて、エドソンに持って行ってもらう。今日はウィリアムがサンパウロから来ていなかったのが幸いして、作業の人の昼食をちゃんと用意することができ、幸運だった。

作業が終わる前に、ドナ クレウザたちが出かけて来ると行って、ファームを留守にした。夕方、私たちが散歩に出ている間に戻って来たようで、居間のテーブルの上にきれいなピンクのブーゲンビリアの枝が数本置いてあった。私が時々、下の果樹園に咲いている草花を採ってきて、テーブルに飾ったりしているせいか、彼女も行った先でブーゲンビリアを見て、私のために持って帰ろうと思ったのだろうか?マウリシオもドナ クレウザも、私たちのここでの生活をいろいろ助けてくれ、こんなふうにさりげなく気を使ってくれたりするので、本当にありがたい。

2009年11月15日(日)

この2ヶ月間、我が家建設に何の進展もないまま、ただひたすら待っている状態から、ようやく何とか脱し、少し動き出したので、私たちも俄然やる気が出てきた。午前中、ウィリアムのファームの一角に生えているアメンドイン・フォハジェイロ(Amendoim Forrageiro)という植物を採って、私たちの土地に移植する作業を少し行った。これはラテンアメリカ原産の植物で、1年中枯れることなく緑を保ち、高さ10センチ以上にはならず、地を這って繁殖し、可愛い黄色い花を咲かせる。この植物は雑草と同様にとても強く繁殖し、雑草を駆逐する性質があり、放牧牛の食糧にもなる。日陰でもよく育ち、虫がこの植物を嫌うため、家の周りに植えると、虫を遠ざけることができ、水分を土地に蓄える特徴もあるため、庭や菜園の回りに植えると、土を良い状態に保つことができるという、とても優れた性質を持つ植物なのだそうだ。

午後5時から、マックス・フェファー文化センターでウクライナのダンス公演があるというので、出かけて行く。5時少し過ぎに行ったのだけれど、やはり公演はまだ始まっていなかった。まず、舞台裏にいたドナ ベティのところに挨拶に行く。ドナ ベティと話していると、ドナ ベティのところで2度ほど会ったことのあるフランシスが、琴を抱えて舞台の方に行くので、何をしているのだろうと思ったら、今週末、ちょうど彼がサンパウロから一緒に来ているから、ダンス公演の前に彼に琴の演奏をしてもらうことにしたのだという。彼はフランス人なのでフランス語はもちろんのこと、日本語も英語も話し、ヨガの先生でもあり、美術工芸品を作る仕事もし、琴の演奏もできるなんて、何と多才な人だろう。しかも、演奏はしろうとのものではなく、本物だった。

一方、ウクライナのダンスカンパニーは、10月23日にブラジルに来て以来、あちこちで公演をして回っているということだった。気候の全然違う暑いブラジルでずいぶん大変な思いをしていることだろう。彼らを舞台裏の間近で見ると、公演前からすでにずいぶん汗をかいている。何ヶ月間ツアーが続くのかは知らないけれど、みんな公演中は汗だくになるだろうから、ずいぶん体重が減るのではないかな?と、ふと思ったりした。

2009年11月16日(月)

昨日は、前半の公演が終わる頃、空模様が怪しくなってきたので、私たちは帰宅することにした。6時半過ぎに帰宅すると、頭上は黒い雲で覆われて、雷が鳴り始めた。この家の前で頭上を覆う黒い雲の写真に撮ってみた。

エドソンが急いで、家のコンピュータのコンセントを抜き、臨戦態勢に入る。最初の雷雲がザーッと強い雨を降らせて、比較的短時間で通り過ぎ、その1時間後くらいから本格的な雨と雷が始まった。マックス・フェファーの舞台は野外ステージなので、こんな状態ではとても公演などできるはずもなく、後半の公演はおそらく中止になったものと思われる。午後11時くらいまで雷がひっきりなしに鳴り続け、何度か近距離でバリバリドカーンと落ちたりした。雨も土砂降りの状態がかなり続いた。

昨日の雨は夜中過ぎにようやく止み、夜明け前は強風が吹いていたけれど、夜が明けると風も止み、穏やかなまずまずのお天気になった。朝7時半にエディから電話があり、8時前には来て、作業が始まった。でも、昨日の大雨で家を建てる場所は巨大な水溜りになっていて、土もどろどろの状態になっているため、まずは、溝を作って水溜りの水を抜く作業から始まった。ようやく作業が始まったというのに、建築現場がこんな状態で、余分な仕事が増え、なかなか思うように進まない。

2009年11月17日(火)

昨日は、午後5時にエディたちは作業を終えて帰って行き、今朝は7時に来て作業が始まった。このファームの仕事を手伝っている少年たちも、だいたい7時過ぎには来て、7時半ころマウリシオと一緒に下の果樹園に下りて行くけれど、ここの人たちはみんな朝が早く、働き者だ。

今日も1日、エドソンは建設現場に行って、どこに下水管を通すとか、どこに浄化槽を作るとか、エディと一緒にあれこれ細かいことを確認したりして、立ち働いている。今日は昨日よりは多少暑さが和らいだけれど、それでも、まだ日陰のまったくない、日向での作業は大変なので、午前と午後にそれぞれ用意する2リットルのペットボトルの冷水はすぐになくなってしまう。作業の人たちに、コーヒーや冷水ではなく、他の飲み物の方がいいかどうかエドソンに聞いてもらったけれど、コーヒーと冷水が一番いいということだった。お昼はそれぞれみな自宅に帰って食事をしてから、午後また戻ってくるので、昼食の世話をする必要もなく、私にはとてもありがたい。日本風に考えると、茶菓子なども出したりする必要があるところだろうけれど、所変われば、人の嗜好もまたそれぞれなので、週に1回、金曜日の午後、仕事が終わるころ、缶ビールとチーズのおつまみを出してあげた方が、彼らは喜ぶだろうと、エドソンが言うので、そうすることにする。

2009年11月18日(水)

夜、テレビを見ていると、全国チェーンの大型家電量販店のコマーシャルで、「17 X SEM JUROS(デゼセッチ ヴェイゼス イ セン ジューロス)」という表現を毎日何度も聞く。これは「17回の分割払いで無利子」という意味。ブラジルでは様ざまなものを分割払いで購入する習慣があるのだけれど、だいたい利子がつくので、この会社は「SEM JUROS(利子なし)」を強調して宣伝しているわけだ。この分割払いのシステムだが、時には一括で払えば500レアルのものが、毎月90レアルで12ヶ月払いという明らかにぼったくりのようなものまである。これは掛け算さえできれば、子どもでも支払いが2倍以上に膨れ上がるとんでもない支払い方法だと、わかるはずなのだけれど、ブラジルには目先の月々90レアルという数字だけに目を奪われて、それを12ヶ月も払い続けるといくらになるかを考えないような人も結構いるようなのだ。これはブラジルの文盲率が高いことにも関係があるのではないかと私は思う。文字が読めないと、基本的な思考の土台や知識が十分得られないため、物事を考える際、情報を整理したり、順序立てて考えたり、計算したりという基本的なことができないのだと思う。ただ、読み書きに何も問題はなく、基本的な知性はあると思われる人でさえ、こういうのに惑わされる人が結構いるのも事実で、驚いてしまう。そして、こういうぼったくりのような商いがさして問題になることもなく、堂々と存在しているということも不思議でならない。

ちなみに、ちょっと古い情報だけれど、2000年のブラジルの国勢調査によれば、「10才以上のブラジル人の文盲率は1980年に25.5%、91年19.7%から大幅に低下し12・8%となった。大進歩には違いないが、アルゼンチンでは3%、チリが4%、ベネズエラ7%、コロンビア8%に比較してブラジルの文盲率は著しく高い。家長を対象とすると更に高率、34.7%が文盲、平均就学率は5.7年となる」そうだ。「文盲率を地方別に見れば、南伯が最も低く8.9%、次いで東南伯9.5%、多いのは東北伯31.0%、人口密度の希薄な北伯は20.3%。州別では東北伯のアラゴアス州が31.8%が文盲、以下に東北伯の諸州が並ぶ」という現実があるようだ。ただ、この国勢調査からすでに10年近く経過しているので、数値はさらに下がって、現在は一桁台になっているのではないかと思われる。一方、日本の識字率は99.8%だそうなので、文盲率は限りなくゼロに近い。これは当然のようだけれど、同時にすごいことなのだと思う。

2009年11月19日(木)

家の基礎工事が始まって以来、何とかお天気が続いている。でも、毎日午後からぐんぐんと気温が上がり、ここは標高が高いため戸外は紫外線も強く、日陰のない場所での作業は大変だと思う。今朝は、未明からとても強い北風が吹き続けている。日本風に言うと、これは暖かい南風のことなので、風が吹いていても、戸外はとても暑い。ただ、湿度が低いので、家の中や日陰はまだまだ過ごしやすい。最近は蝉の声も聞こえるようになった。そろそろ夏の到来だ。

ここではだいたい午後の暑さは夕方6時ころまで続き、6時を過ぎると、少しずつ気温が下がって行く。そのため、夜は窓を開けていると部屋の気温も下がり、気持ちがいいのだけれど、この家には網戸がないので、窓を開けていると蚊や蛾や様ざまな虫が嫌というほど無数に入ってくるので、窓は閉め、部屋の電気を消して、テレビから遠い台所の上の小窓を1つか2つだけ開けるようにしている。それでもテレビの灯りにつられて虫は容赦なく入ってくる。この連日の気温の上昇に比例して、最近、食事の支度をしていると、ハエがたくさん飛び交うようになった。気温の低い時期はまったくいなかったのに、気温が上がり始めると、どこからともなく湧いてくる感じだ。それで今日は試しに暑いのを我慢して窓を閉め切って食事の支度をしてみた。すると、やはりハエは入ってこれないので、食事中うるさいハエに煩わされることがない。でも、その代わり、やはり暑い!気持ちよく暮らすには、どうしても、窓に網戸をつける必要があると思うのだけれど、どうしてブラジルの人たちは網戸の必要性を感じないのだろうか?と、不思議でならない。イビウーナの香山さんのところに伺った際、ブラジルではどうして網戸をつけないのか聞いてみたけれど、「うちは食堂につけている」という返事が返ってきただけで、私の疑問には答えてもらえなかった。この疑問に対する納得の行く理由を探し出すには時間がかかりそうだ。この問題に関して博士論文でも書いたら?と、エドソンは冗談を言う。

2009年11月20日(金)

今日は、Dia de Zumbi(ズンビの日)または、「黒人意識の日」という祝日らしいのだけれど、エディと彼のスタッフはいつも通り作業に来てくれ、午前中パーディーニョの町に買い物に行くと、どの店も平常通り営業していて、まるで誰も今日が祝日だと思っていないような雰囲気だった。

17世紀ころサトウキビ農園などから逃亡した黒人奴隷の人たちが、森の奥深くにQuilombo(キロンボ)という集落を形成し始める。各地に存在したキロンボの中で一番大きく有名なのが、ブラジル北東部のペルナンブコ州のQuilombo dos Palmares(キロンボ・ドス・パルマーレス)で、ここでは述べ3万人以上の黒人奴隷が、ポルトガル人から100年近くもの間、集落を守り、独立して存在していたという。その最後のリーダーで、人権の自由を求めて戦ったズンビが、1695年11月20日に暗殺された。後年、ブラジルの歴史を考える上で重要な人物としてズンビが認識され、1995年に、このズンビが暗殺された日が「黒人意識を考える日」として、祝日になったのだという。でも、インディオの日というのもあるそうだけれど、こちらは祝日にはなっていないので、何故、黒人の日だけ祝日なのだろうか?とも思う。

午後からカベレイレイロのヴァニアの所で、髪を染めてもらおうと思って、予約をして行ったのだけれど、今、第二子を妊娠中なので、ヘアカラーのような薬品を取り扱うことを医師から禁じられていて、散髪以外の仕事ができないという。エドソンに電話で予約をしてもらった際、彼の散髪をするのかと思ったらしく、予約を受けてしまったようだ。それで、自宅で独立するまで働いていた美容院に電話をしてくれ、私の毛染めをやってくれるよう手配してくれたので、その美容院に行ってやってもらう。ヴァニアのところよりも広いけれど、古い分あまり清潔でなく、毛染めをしてくれたのは、そこのオーナーではなく、若いスタッフの人で、ヴァニアに比べて仕事が雑で、しかもヴァニアのところよりも料金が高かったので、がっかり。きれい好きなエドソンもその店が気に入らなかったようで、次回は別の店を探そうと言っていた。ヴァニアは子どもが生まれれば、幼い子どもをふたりも抱えて仕事をするのはしばらく無理だろうから、やはり、どこか別のところを探すしかないだろうと思う。以前、エドソンが彼女のところで散髪の予約をしていた日に、体調が悪くて病院に行っていたのは、妊娠していたからだったようだ。

夕方、5時前に、冷えた缶ビールと、小さく切ったチーズに塩、コショウ、オレガノ、オリーブオイルを振り掛けたものを、タッパーに入れて、エドソンにエディたちのところに持って行ってもらった。今日はエディを含めて4人来て作業をしてくれていたのだけれど、みなとても喜んでくれたようだ。よかった。

2009年11月21日(土)

昨日は、夕方からまた空模様がおかしくなり、夕食が済んだ頃から雷と雨が始まった。11時頃には雨足が弱まったものの、ほぼ一晩中降り続いたようだった。かなりの雨が降ったので、我が家の建設現場は大丈夫かな?と、思っていたら、排水管を通す予定で簡易に溝を掘っていた場所が少し土砂崩れを起こしていた。でも、この雨のお陰で、昨日までと比べて、気温が少し下がったような感じがする。

この月曜日から1週間毎日ずっと、お隣のクラウディオのコーヒーファームでは、草刈の車が早朝から夕方遅くまで、1日中畑の草刈をするエンジン音を響かせていたけれど、今日はさすがに仕事は午前中だけで、午後からは静寂が戻って来た。

2009年11月22日(日)

昨日も夜10時頃から雨が降り出し、朝まで降っていたけれど、8時前には雨があがり、まずまずのお天気になった。

以前見ていた、夜9時頃から始まるCaminho das Indias(カミニョ・ダス・インジアス)というノヴェラ(連続メロドラマ)は9月中旬に最終回を迎え、それと入れ替わりに、Viver a Vida(ヴィヴェール・ア・ヴィダ)という新しいノヴェラが始まった。始めの頃は、カミニョ・ダス・インジアスに比べてあまり面白くないと思って見ていたけれど、続けて見ていると、やはりはまってしまった。でも、以前のカミニョ・ダス・インジアスには、基本的にあまり意地悪な人は出てこず、ただただ文化的な違いや、考え方の違いで、ドタバタしていておもしろかったのだけれど、ヴィヴェール・ア・ヴィダの方は、出てくる人たちがほとんどみんなイヤになるほど利己的で意地悪な人ばかりの、コテコテのメロドラマなので、フィクションなのに憤慨しながら見ている自分が、我ながらおかしい。このノヴェラの主人公の名前はエレナ(Helena)といって、タイス・アラウージョ(Tais Araujo)というモデル兼女優さんが演じている。この人は今とても人気があるようで、Bradescoという銀行のコマーシャルに出ていたり、女性雑誌の表紙を飾ったりしている。このノヴェラには彼女の親友として、エレン(Ellen)という女医さんを演じているダニエリ・スズキ(Daniele Suzuki)という日系の女優さんも出ている。この人も何かのコマーシャルで時々顔を見かけるので、日系の女優さんとしては一番人気の人のようだ。次の写真は主人公のタイス・アラウージョ。

2009年11月23日(月)

ブラジルのテレビでは1日中いろいろなノヴェラをやっているようだけれど、私は夜の9時頃から始まるものしか見ていないので、他にどんなノヴェラをやっているのかあまりよく知らない。でも、この9時頃から始まるノヴェラに関して言えることは、日本の夜の1時間ドラマは、週に1回だけだけれど、このブラジルのノヴェラは月曜日から土曜日まで毎日あり、9時ちょうどに始まるのではなく、その日によって、始まりの時間が多少まちまちで、だいたい9時少し前に始まり、終わるのも、10時少し過ぎだったり、10時半近くまであったり、これもその日によってまちまち。日本のようにきっちり分刻み、秒刻みで番組編成がされていないことがよくわかる。いつもノヴェラの前にJornal Nacionalというグロボ(Globo)のニュース番組を見て、その流れでノヴェラを見ているので、開始時間に多少の違いがあっても、チャンネルを変える必要がないため、まあ別に問題はないのだけれど、この大雑把なところが如何にもブラジル的だなと思う。次の写真はヴィヴェール・ア・ヴィダの中で女医さんを演じているダニエリ・スズキ。

2009年11月24日(火)

昨日の夕方、日の入り直後にわずかに夕焼けが見られたけれど、同時に、日が沈んだ場所の、そのすぐ右側辺りで雨が降っている様子がはっきりと見える珍しい光景が見られたので、写真に撮る。中央少し左側には沈んだ太陽の輝きがまだ見え、右側は雨が降っているため、黒ずんで見える。

この雨がこちらに移動してくるのかと思ったけれど、そうはならなかった。でも、朝から今にも雨が降りそうな空模様が続き、とうとう午後1時前頃には雷と雨が始まり、以来ずっと激しい雷と雨が波状的に襲ってくる状態が続いている。それでなくても週末の夜にたっぷり雨が降り、昨日の午後も少し雨が降ったため、建設現場に水が溜まりすぎて、昨日、今日と基礎工事の作業が中断してしまっているのに、今日は、午後からずっと雨が降り続き、さらに相当な雨量になってしまった。今年は乾季の時期にも雨が降り続き、実質的に乾季などなかったのに、どうやらもう雨季が始まってしまったようだ。お天道様はどこまでも意地悪だ。こんなに毎日雨が降る状態では、せっかく動き出した建設作業も中断を余儀なくされ、いつ再開できるのやら検討もつかない。ああ・・・

この悪天候では、このファームの前の舗装されていない道路は泥道になる箇所がいくつもあって、途中で車が身動き取れなくなる可能性があるので、今晩のロータリークラブの例会は欠席することにする。それで今晩はエドソンが夕飯を作ってくれることになり、台所で立ち働いている。感謝。

今晩のJornal Nacionalのニュースで、9月中旬に終了した連続メロドラマのCaminho das Indias(カミニョ・ダス・インジアス)が、アメリカでエミー賞を受賞したと報道していた。エキゾチックなだけでなく、やはり内容的に惹きつけられるものがあったのだと思う。すごい。

2009年11月25日(水)

今月上旬にイビウーナの香山さんのところに伺って、いただいたり、お借りしてきた本や資料を読み続けている。「環海異聞」(前編)および(後編)、鈴木南樹著「日本移民の草分」、岡井二郎著「二つの天涯の下に」の4冊の本を読み終え、今、鈴木南樹著「埋もれ行く拓人の足跡」を読んでいるところだ。

鈴木南樹(本名、鈴木貞次郎)という人は、山形県出身の人で、27歳くらいの時に、南米チリに行くつもりで乗船した船の上で、たまたまブラジル移民契約をまとめるために同じ船に乗船して、ブラジルに向かっていた水野竜氏と出会っている。以前、私が中国新聞の海外リポートで紹介した、ペトロポリスにあった日本公使館第三代公使の杉村氏が外務省に送った「ブラジル珈琲園視察報告」というブラジル移民が実現するきっかけとなる報告書を水野氏から渡されて読み、移民の第一号となることを決意。急遽行く先をブラジルに変更し、言葉もわからないのに、サンパウロ州の珈琲園に飛び込んで行って、日本とブラジルとの間の移民契約が成立するまでの約1年間、珈琲園での様ざまな仕事を経験し、契約移民を受け入れる準備に参加したという人なのだ。それにしても昔はずいぶんとスケールの大きな人達がいたものだなあと思う。そして、彼はブラジルに到着して、水野氏とまずペトロポリスに行っている。それで、彼の本の中にはペトロポリスの公使館の人びとのことなどもいろいろ詳しく書いてあり、公使の脳溢血の原因もそれとなく暗示されていて、あの公使館の中で様ざま人間ドラマが繰り広げられていたのかと思うと、自分の目で見たペトロポリスの町と、あの元公使館だった建物が、ずっと身近に感じられた。

鈴木南樹著「日本移民の草分」には、当時の珈琲園での仕事や人びとの様子が詳しく書かれていて、とても興味深い。ブラジルにはすごい数のイタリア人移民が入植していることも知った。本家本元のポルトガル人移民よりも30万人余り多い150万人以上。確か日本人移民の総数は戦前、戦後を合わせて、約25万人くらいだったと思うので、日本人の6倍だ。そして、様ざまな国の移民にはそれぞれに異なる国民性があることも、面白いものだなあと思った。もし、イタリア移民のように日本人も大量にブラジルに移民してきていたなら、ブラジルはもっと変わっていたかもしれないし、日本という国自体も今とはずいぶん異なる道を歩んでいたかもしれないな、などと思いながらこれらの本を読んでいる。

2009年11月26日(木)

今日は午後から何度も雷が鳴り、今にも雨が降ってきそうな空模様だったけれど、何とか雨が降らずに1日が過ぎた。

午後からドナ クレウザがこの家の床の拭き掃除をしてくれた。その際、先日パーディーニョで買ってきたシトロネラ(Citronela)という虫が嫌う匂いの液体をバケツの水に混ぜて、拭き掃除をしてもらい、効果のほどをみてみる。部屋中いい匂いが漂い、多少効果があったのか、部屋を飛び交う虫の数がゼロではないものの、少ないような気がする。

このところの好天の後の大量の雨のせいか、野菜畑は驚くほどの速さで雑草が伸び、トマトにはたくさん虫がついて、葉が枯れ始め、たくさん実がなっていても、赤くなる前に虫にやられてしまっている。これでは収穫が望めそうもないので、すべて処分することになった。わずかにアルメイラオンやイタリアンパセリ、ねぎなど元気なものだけ残して、他はほぼすべて抜き取り、畑を更地に戻すことにした。普通は、根菜よりも葉物を育てる方が難しいのではないか思うのだけれど、ここではルッコラ、レタス、アルメイラオン、ホウレンソウ、イタリアンパセリ、ネギといった葉物は元気に育つ。ただ、からし菜だけは、元気に育ったので少しずつ収穫を始めて食べ始めたら、あっという間に虫に食われて全滅してしまった。レタスやルッコラのように少しずつ収穫して食べることができず残念だった。ニンジンは葉っぱばかりが元気に育ち、肝心の根っこの方はあまり大きくなっておらず、玉ねぎもまだ小さく、これから大きくなるのかどうか疑問だけれど、今日は少しだけ収穫して、残りはもうしばらく生長を見守ることにした。次の写真は、今日収穫した小ぶりのニンジンと小さな玉ねぎ。

2009年11月27日(金)

今日も昨日と同様、午後から何度も遠近様ざまな雷が鳴って、今にも雨が降り出しそうな状態が続いたものの、結局夕方まで雨は降らなかった。夕食後、エドソンとふたりで下の果樹園の西側にある池まで散歩に出かける。お隣のクラウディオのコーヒーファームとの間に、小川が流れていて、それがふたつの土地の境界線の役割をしているのだけれど、フェンスなどないので、行こうと思えば、自由にお隣の土地に行くことができる。犬たちは当然のことながら、人間の作っている境界線などまったく関係なく、お隣のファームにも自由に足を踏み入れている。この池は、ウィリアムがアテモイアの果樹園のために人工的に造ったものだそうで、この池の少し上の辺りから泉が湧いていて、この池に流れてきて、この池から下に向かって小川が続いている。エドソンの話だと、池の中にはランバリ(Lambari)というイワシに似た小振りの魚がいるらしいのだけれど、今日は、夕方だったからか魚の姿は見えなかった。お天気が良い暑い日には、マウリシオと一緒に果樹園に下りて行っている犬たちが、ここでときどき水浴びをしたりするらしい。ダックスフントのモビとフィオナも、お天気のいい日は、朝一番に、果樹園に遊びに下りて行って、しばらくすると戻ってくるのだけれど、ときどき体が濡れているのは、ここで水浴びをしているからなのかもしれない。果樹園に行く途中で、西側に下りて行くと下にため池が見える。

次の写真は、ため池の南側(下流)から北側(上流)を向いて撮ったもの。

この散歩から戻るとしばらくして、午後8時少し前頃から、土砂降りの雨が降り出した。

2009年11月28日(土)

英語ではファーストネームの前に、Mr.とかMissとかの敬称は普通はつけない。でも、ポルトガル語では苗字ではなく、ファーストネームの前に、敬称をつけるのが普通だ。

男性に対しては、英語のMr.にあたるSr.(サー)や、Dr.にあたるDotor(ドトー)を、ファーストネームの前につけて、例えば、Sr. Edson(サー・エドソン)というふうに呼ぶ。このSr.(サー)はSenhor(セニョール)を短縮した言い方。エドソンが医者だったら、さしずめDotor Edson(ドトー・エドソン)と呼ばれるところだ。ドナ クレウザやマウリシオはエドソンに声をかけるときはだいたいいつも、Sr. Edsonと言う。これは対等な相手に対しては言わないけれど、例えば、ホテルの従業員が宿泊客に対してなど、日本と同様に相手に対して敬語を使うべき状況で使う表現だ。そして、あくまでも苗字ではなくファーストネームにこの敬称をつけて呼ぶところがブラジル流だ。エドソンは彼らの雇用者ではないけれど、彼らの雇用者であるウィリアムの友人なので、ウィリアムに対するのと同様に敬語を使って対応しているのだと思う。

Dotor(ドトー)という敬称は、医者に対していうのは当然だけれど、ブラジルではお金持ちの人に対してもSr.ではなく、何故かDotorという敬称をつけて呼ぶ。日本で、医者や教師でもない政治家を「先生」と呼ぶのと同じような感覚だ。ブラジルの人たちの感覚からすると、お金を儲けるのもひとつの才能ということなのだろう。

女性の場合は、郵便物にはSra.つまりSenhora(セニョーラ)の短縮形を名前の前に書くけれど、名前を呼ぶ際は、男性に対する時のようにファーストネームの前にSra.をつけたりはしない。その代わり、中高年の女性に対しては、Dona(ドナ)という敬称をつけて、例えば、Dona Cleuza(ドナ クレウザ)というふうに呼ぶ。でも、私は何故か、1度の例外を除き、まだDona Kyokoと呼ばれたことはない。ドナ クレウザは私よりもずっと若いので、年の多い私が若い彼女に対して、ドナ クレウザと呼ぶのも変な感じもしないではないけれど、ウィリアムたちが彼女に敬意を表してそう呼ぶので、私たちもそう呼ぶことにしている。でもマウリシオもドナ クレウザも、そして子どものマテウスも、私のことをDona Kyokoとは呼ばない。これは敬意を表していないというのではなく、むしろ、私のことをまだそんな呼び方をする歳ではないと思ってくれているからだと思う。人によっては、例えば、ドナ ベティなど、ドナと敬称をつけて呼ばれることに抵抗を感じる人もいるからだと思う。でも、彼女の場合70代だから、押しも押されぬドナと呼ばれるに相応しい年齢であり、社会的な立場も高いのだから当然なのだけれど、高齢である事実を実感したくないのだと思う。おもしろいものだ。

2009年11月29日(日)

今日もまた、ひどい雨は降らなかったものの、小雨が降ったり止んだりの続く1日になった。お昼はこの下の高速道路のカステロブランコ上にある「カンポネーザ(イタリアレストラン)に行こう」というウィリアムの提案で、外食することになった。1〜2か月に1度、こうやって日曜日のお昼を外で食べるのは、ちょっとした気分転換になって私はうれしい。今日は、いつものパルメザンチーズの魚料理ではなく、ピラルク(Pirarucu)というアマゾン地方の川魚の料理を頼んだ。あっさりとソテーしてあり、付け合せにバナナ・ダ・テハのソテーと、マンジョキーニャという芋の料理と、ルッコラがお皿に乗って出てきた。ウェートレスさんにそれらを各自のお皿に取り分けてもらい、ご飯を添えていただく。あっさりした味の魚で、調理法もしつこくなく、全体的にくどさがなく、なかなかおいしかった。

夜は毎日9時前後に始まるノヴェラの前に、Jornal Nacionalというニュース番組を見ていると、以前書いたけれど、今日はその番組の看板アナウンサーを紹介しようと思う。週末は担当者が代わるけれど、平日はウィリアム(William Bonner)とファチマ(Fatima Bernardes)という40代半ばの男女ふたりがこのニュース番組の顔として活躍している。この番組はグロボ(Globo)というテレビ局の番組なのだけれど、グロボというのは大きなニュースネットワークの会社で、テレビ、ラジオ、新聞を持っていて、今年が設立40周年だという。それで、何ヶ月か前に、同じくグロボチャンネルの日曜日の夜のバラエティー番組に、Jornal Nacionalを代表してこのふたりが出演したことがあった。その際、このふたりが実生活でも夫婦だということを知った。どうりでとても息が合っているわけだ。小中学生くらいの可愛い子どもたちが3人いて、その子たちもこのバラエティー番組のスタジオに見学に来ていて、カメラが紹介していた。エドソンはその時のウィリアムの受け答えがとてもバランス感覚に優れ、理路整然としていたので、頭のいい人だと関心していた。

2009年11月30日(月)

ニッケイ新聞から以下にふたつの記事を転載してみる。

2009年11月18日付けニッケイ新聞ブラジル国内ニュースの「東西南北」から。

  『このところ、国際外交などでとかく注目を浴びているルーラ大統領。米国の雑誌が世界中のリーダーの中から国際的な影響力を持つ人物を選んだデータでは、 67人中33番目と先週発表されたが、イスラエルとパレスチナ、イランの首脳が連続訪問し、中東和平への仲介を求めるのも、国際評価の高まりの反映か。ちなみに、1位はオバマ大統領、2位は中国の胡錦濤国家主席、3位はロシアのプーチン首相。ローマ法王は、マイクロソフトのウィリアム(通称ビル)・ゲイツ 氏に次ぐ11位、ドイツのメンケル首相は15位、米国のヒラリー国務長官が17位なども目を引くが、人口1億につき1人の割で選ばれた人物の中には、オサマ・ビンラディンの37位やメキシコの麻薬組織首領ジョアキン・グスマンの41位なども含まれている。』

この記事には日本人のことが何も触れられていないけれど、リーダー不在の日本からは誰も選ばれなかったということなのだろうか?

次は、2009年11月19日付けニッケイ新聞「コラム樹海」から。

『中国の皇帝から贈り物を受けたフランスの王様がお返しに、愛玩犬をプレゼントした。しばらくして礼状が届いた。「陛下、素晴らしいものを有難う御座います。大変美味しく頂きました」。以来、両国の関係がギクシャクしたかは知らないが、文化の違いをテーマにした小話だったと記憶する▼路上で犬を捕まえて屠殺し、聖市ボンレチーロ区の韓国料理屋に卸していたブラジル人夫婦がこのほど逮捕された。「韓国では専門に飼育しているから安心だが、ここでは何の犬か分からないので食べない」とこだわりを見せる同区在住の知人に電話したところ、今回の件で犬肉を提供する数軒のうち、閉まったのは1軒だけだとか▼個人的にいえば、2006年の戌年の締め括りに忘年会で食べたきり。ゼラチン質たっぷりの滋味あふれる犬鍋の魅力は捨てがたい。広辞苑によれば、〃羊頭狗肉〃は、「見かけが立派で中身が伴わない」という意味だが、その味は羊にも劣らないし、韓国では補身湯と呼ぶように、非常に栄養価の高いものだ▼犬食批判の代表格フランス人は、平和の象徴鳩や愛らしい兎を喜んで食べる。ナイフで「切」って、フォークで「刺」す食事方法も野蛮だ。しかし、それは言わないでおこう。他文化を批判すること自体が野蛮以外何ものでもないからだ▼気になることが一つ。フォーリャ、エスタード両紙(ともに13日付け)によれば、夫婦は猫肉も扱っていたとか。韓国に猫食文化はないようだが、どこに卸していたか。混ぜていたなら〃狗頭猫肉〃。食に貴賎はない。化けて出られるのを覚悟のうえで試してみたいものだが。(剛)』



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