Kyoko Yoshida                                        
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2009年10月1日(木)

ここからパラカンビまでの往路の、高速道路上には料金所が7箇所あり、料金はそれぞれ、最高8.60レアル(約430円)から最低4.40レアル(約220円)で、合計で49.10レアル(約2450円)支払った。パーディーニョまでの復路にも、同じく7箇所の料金所があり、料金は最高11.20レアル(約550円)から最低3.40レアル(約170円)で、合計で51.50レアル(約2570円)支払った。

パーディーニョを出てから戻るまで、4回ほどアルコール燃料を給油したので、合計220.45レアル(約1万1000円)支払ったため、今回の交通費は高速料金と燃料代を合わせて、合計321.05レアル(約1万6500円)かかったことになる。これは飛行機はもちろんバスよりもずっと安く、ブラジル国内の移動は自動車に限るということになると思う。

ちなみに、ブラジルではアルコール燃料が一番安く、1リットル1.40〜1.60レアル(約70円〜80円)くらいで、プレミアムガソリンの半分くらいの料金なので、環境にも優しく、節約にもなって、私たちにはとてもありがたい燃料だ。でも、今年は異常気象でインドでのサトウキビの生産が不作だったため、ブラジルで生産されているサトウキビも取引価格のいい砂糖の生産に回り、燃料用に回るはずのサトウキビの供給が少ないらしく、その影響で燃料用のアルコールの値段も上がっているため、これでもいつもより少し高めの価格なのだというから驚きだ。

2009年10月2日(金)

広島の友人の厚意で2ヶ月に1度送られてくる「暮しの手帖」の41号が、住所変更の連絡と入れ違いにパラカンビの方に届いていたので、今回、持って帰って来て少しずつ読んでいる。この雑誌には、いろいろな生活のヒントや、何となく心が温かくなるような記事がたくさん載っているので、とても気に入って読んでいる。

今号の中に、聖路加国際病院小児科の細谷亮太先生の「血のつながりに思う」という文章があった。その中で相田みつをさんの「自分の番 いのちのバトン」という詩が引用されていた。

「父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人 こうしてかぞえてゆくと 十代前で千二十四人 二十代前では−−−? なんと百万人を越すんです 過去無量の いのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている それが あなたのいのちです それがわたしの いのちです」

この感覚、とても日本的で心に響く。そう、いまエドソンは彼の番を生きていて、私は私の番を生きている。精一杯、大切に。

2009年10月3日(土)

ここ数日、コペンハーゲンでのIOC総会に合わせて、ルラ大統領やペレがコペンハーゲン入りし、さて、2016年のオリンピックの開催地はどこになるだろうか?というニュースを、テレビでしきりに報道していたけれど、昨夜のテレビニュースでは、リオでのオリンピック開催が決まり、ルラ大統領が記者会見で泣いている映像が流れた。シカゴ、東京、マドリッドの落胆の様子も中継され、最終的にリオが選ばれた際、コパカバーナ海岸に集まって歓喜する大勢の人たちの様子が、リオデジャネイロ州の州歌ともいえる「Cidade Maravilhosa」と共に映し出され、その喜びの大きさを物語っていた。

余談ながら、この歌のメロディーは、パラカンビではプロパンガスを販売して、1日中町を走り回っているトラックが流しているため、耳についてしまって、私にはリオの州歌というよりも、プロパンガスのトラックの音楽に思えてしまう。

リオでのオリンピック開催は、治安の問題が大きな不安材料だけれど、メイン会場を含め、約半分の施設は混雑して治安の悪いリオの中心部ではなく、リオの南部にあって、今一番成長著しいリッチな地域のバハ・ダ・チジュカ(Barra da Tijuca)に建設される予定だということだし、このオリンピックのために道路網が整備され、地下鉄がバハ・ダ・チジュカまで延長される予定で、リオの交通事情がだいぶ改善されるだろうことは確かなので、オリンピックの開催決定はリオにとっては良かったのではないかと思う。そしてさらに、現在いる1万8000人の警察官を、1万5000人あらたに増員、つまりほぼ倍増するということも発表され、治安も少しは改善するかもしれないという期待もある。ブラジルは世界金融危機をものともせず、着実に成長しているので、南米初のオリンピック開催で、さらに飛躍して欲しいと思う。

私たちの家の建設開始は、9月中旬の予定だったのだけれど、この乾季に異常としか言えない連日の雨で、ぺドレイロのエディーの抱えていた仕事の完成が遅れに遅れ、しかも、先日の激しい暴風雨で西隣のお宅に雷が直撃したらしく、家の一部が壊れたため、その改修工事を優先しているので、私たちの家は後回しになっている状態らしい。昨日の朝、ようやくエディーが基礎工事開始前の話し合いに来てくれて、現在の状況を説明してくれた。お天気がしばらく崩れなければ、来週から基礎工事を始めると言ってくれているけれど、天気予報ではまたしばらく雨が続くようなので、さて、どうなることやら・・・

2009年10月4日(日)

昨日はとても変なお天気だった。雨の予報にもかかわらず、朝のうちはいいお天気で、午後2時前頃から遠くで雷が鳴り始め、北の空が黒い雲で覆われ始め、3時頃から激しい稲妻と雷、そして雨がザーザーと降り、一時、直径1センチくらいのひょうまで降った。こんなふうにひょうが降ると、ウィリアムのアテモイヤの果樹園に被害が出るのではないかと、心配になる。1時間余りで雷と雨雲が遠ざかって行ったけれど、5時頃、また雷が鳴り、雨が短時間ザーッと降った。今日も天気予報では、雨の予報だったけれど、幸い、太陽が顔を出して、鳥たちが1日中にぎやかに鳴いて、いいお天気になった。

先日、パラカンビのファームからいろいろな種類のバナナをどっさり持って帰ってきたので、ドナ クレウザにも何房かあげたからか、今日の午後、鶏肉の料理とトウモロコシの粉で作ったポレンタ(polenta)を、夕飯にと持ってきてくれた。今晩の夕飯のために牛肉を冷凍庫から出して、解凍していたのだけれど、急きょ、予定を変更して、メインはドナ クレウザが持ってきてくれた鶏肉料理をいただくことにする。感謝。感謝。

6時過ぎに、赤みがかったオレンジ色の真ん丸な太陽が沈み、しばらく西の空にきれいな夕焼けが見えたけれど、ここは夕焼けが見えたからといって、次の日のお天気が晴れとは限らない。予報では、明日も雨になっている。今日のように予報が外れ、お天気になってくれるといいのだけれど・・・

今週末、ウィリアムはお母さんの誕生日をサンパウロでお祝いするため、パーディーニョには来なかったので、何だかとても静かな週末になった。

2009年10月5日(月)

パラカンビにいた時に、憶えた言葉に、メリョー(melhor)と、マイオー(maior)がある。パラカンビにいた4ヵ月半の間によく風邪をひいたり、一度、転んで怪我をしたりしたので、お母さんやエライニが、私に「Esta melhor?つまり、具合は良くなった?(Are you feeling better?)」と聞いてくるので、「Estou melhor.つまり、良くなりました。」とよく答えていた。このメリョーにちょっと似た響きの言葉で、マイオーは(maior)は、「より大きい(larger)」の意味で、例えば、Esta casa e maior do que a outra.つまり、この家は他のよりも大きい(This house is larger than the other.)というふうに使う。普段の生活や、テレビのニュースなどでよく耳にする。最初、メリョーとマイオーは同じMで始まる音なので、どちらがどちらだったか混乱したけれど、その内、何とか憶えることができた。それからもうひとつ、コブラ(cobra、つまり蛇)という言葉もよく耳にした。最初はファームにコブラがいるのかと、びっくりしたけれど、蛇のことをすべてコブラと呼ぶと知って、ほっとしたのもつかの間、このファームにいるのはだいたい毒蛇と聞いて、またびっくり。私自身は幸いにも一度も遭遇していないのだけれど、お母さんやエライニが、どこら辺にコブラがいたから気をつけてとか、コブラの子どもがいたから捕まえて焚き火の中に入れて燃やしたとかいうのを、よく耳にした。

パーディーニョに引っ越してきて、耳にした新しい言葉の中ですぐに憶えたのは、フジウ(fugiu)、つまり「家出した、または、逃げた(ran away or escaped)」という意味の言葉。最初、この言葉を聞いたときは、日本語の「不自由」に聞こえた。このファームでアルバイトをしている15歳の男の子の、一つ上のお姉さんが家出してしまったので、彼は家で小さな弟や妹たちの世話をしなければならなくなり、しばらくここでのアルバイトに来れなくなったということを、ドナ クレウザが話していた。両親ともに働いているので、このお姉さんが家の家事を一手に引き受けて、小さな弟たちの面倒を見ていたらしいのだけれど、その生活が不自由だから、家出、つまりフジウしたというふうに憶えればいいんだと思い、すぐに憶えることができた。

それからもうひとつ日本語の言葉を想像してしまったのが、アカボウ(acabou)。これは「終わった(It's finished.)」という意味。この言葉を初めて聞いた時は、「赤帽」?と、思ってしまった。プロント(pronto)も似たような意味の言葉だけれど、こちらは「(やっていた仕事が)終わったとか、(準備が)できた(It's done.)」という意味なので、使い方が少し違う。これらの言葉は、ポルトガル語のテキストにはあまり出てきそうにないけれど、一旦、憶えてしまうと、ノベラやニュースの中で、結構よく耳にする。

2009年10月6日(火)

ここのところ連日の雨の予報にもかかわらず、予報がはずれて幸い、昼間はいいお天気が続いている。今朝、ぺドレイロのエディーが来て、最終的な予算の打ち合わせをして、合意に達した。明日からトラクターを入れて、基礎工事の準備を始めてくれるという。一応人件費などの合意はできたものの、私たちの予算を上回っているため、これからどこをどうやってコスト削減をしたものかと、頭が痛い。ブラジルでは建築資材も自分たちで何を使うかを決めなくてはならないため、エドソンは、レンガやタイルの種類をいろいろ調べて、なるべく安くて、でも品質は落ちないようなものを根気よく探し続けている。

このところ中国新聞海外リポートには連日、各国からのレポートが掲載されて、とても盛況だ。6日付けなどは、デンマークとブラジル(沢田リポーター)から、オリンピック開催地決定に関するリポートが2本も掲載されていた。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

リオが開催地に選ばれ、東京が選ばれなかったことに対して、石原都知事が「政治的な判断」による結果だと、IOCを批判したというニュースが、ブラジルでは報道されたけれど、オリンピックというのは元来、それを開催することでその国がどれだけ成長するかとか、どれだけオリンピックのメリットを発揮できるかということが大きな判断材料になってきたのだから、これは当然の結果のようなもので、結果が出てから文句を言ってもしょうがないように思う。ブラジルはとにかくルラ大統領が先頭に立って、国を挙げて本気で招致活動をしてきたから、リオ開催が決まったとき、ルラ大統領もペレも涙を流したのだ。石原都知事自身は本気で招致活動をしていたのかもしれないけれど、招致には異論も多く、東京都民や日本は国として冷ややかな印象が伝えられていたので、その時点で負けていたと言えなくもない。やはり、「南米初」のオリンピックを、今著しい成長を示しているブラジルで開催することの意義は大きく、ブラジルの近隣諸国も我が事のように喜んでいることからも、今回の決定は良い決定だったのではないかと思う。

2009年10月7日(水)

昨日の午後、パラカンビから持って帰った生食用ではなく、料理用の大きなバナナの房を持って、ご近所のタケイシさんのところにお邪魔した。8月にお電話した際は、コーヒー豆の収穫時で忙しくしておられたので、また日を改めてと思っていたら、とうとう10月になってしまった。パラカンビのバナナを手土産に、この辺の流儀で突然伺ってみることにしたのだ。ご主人は下のコーヒー畑で作業をしておられたようだけれど、奥さんがラッパのようなものを鳴らしたら、戻って来られ、歓迎してくれた。家を建てるための準備の状況を話すと、レンガだったら、レンガ工場がたくさんあるタトゥイ(Tatui)という町に行ってみたらいいとか、防風林などの木を買うなら、ボトゥカトゥの店よりも、パーディーニョにある市営の育苗センターの方が安くていいとか、次々にいろいろなことを教えてくださり、とても助かる。

何の話からか、エドソンが「梅干し大好き」と言ったので、自宅の庭の梅の木になる梅で、毎年、奥さんが梅干しをたくさん作っているからと、味見させてくださり、帰りには、梅干しを2瓶と、ピンガに漬けた梅を1瓶いただいて帰ってきてしまった。持って行ったもの以上のものをもらってしまったのでは?と、エドソンに聞いたら、持参したバナナ ダ テハ(Banana da Terra)という名前のバナナは、育てるのがなかなか難しい種類で、あまり流通しておらず、店で買うとかなり値が張る品物なので、心配しなくてもいいと言っていた。

今朝10時に来て、基礎工事を始めると言っていたエディーは、午前中は現れず、12時を回ってようやくやって来た。彼はカリオカのように約束をすっぽかしたり、口先だけのいい加減な対応をするようなことはないけれど、日本人の感覚からすると、必ずしもいつも時間厳守ではないところや、いろいろな細かいところに気を配り、用意周到というわけでもないので、やはりブラジル人だなあと思う。今日はトラクターを入れて作業を開始すると言っていたけれど、市役所のトラクターの仕事が詰まっていて、私たちが借りられる番がいつ回ってくるかわからない状態だという。そういうことは前々からわかっていたはずなのだから、早めに手を打っておいてくれればいいのにと思うけれど、今更言ってもしょうがないので、戦術を変え、トラクターを使わなくてもいいように、土地の傾斜を利用して、家の下にガレージを作るというデザインを急きょ変更することにする。これまで工事の開始を散々待ったのだから、これ以上工期が遅れれば、雨季になってまたどんなトラブルが発生するかわからない。基礎工事開始をこれ以上先延ばしにすることはできないという判断をした。

2009年10月8日(木)

今日は天気予報通り、朝から雨。昨日の夕方、南から霧が上がってきたので、エドソンが「明日は寒くなるよ」と、言っていたけれど、暗くなってから徐々に気温が下がり始め、今朝は気温が低く、冷たい雨が降っている。

午後3時を過ぎた頃から、雨があがりお天気が少し回復してきたので、4時前頃にセルジオのところにバナナ・ダ・テハを持って出かける。町では教会の周辺の道路が、通行止めになっていたり、何かステージのようなものを設置する作業が行われていた。今週末は12日の月曜日がノッサ・セニョーラ・アパレシーダ(Nossa Senhora Aparecida、ブラジルの守護聖、聖母マリア・アパレシーダの日)の祝日で3連休なのだけれど、そのお祭りの準備をしているらしい。

セルジオのお宅に伺うと、彼は用事でボトゥカトゥに出かけていて留守だったけれど、ルシアは在宅で、マッサージのお客さんは後15分ほどで終わるというので、彼女の仕事が終わるのを待たせてもらうことにする。マッサージが終わって、若い女性のお客さんが治療室から出て来ると、とても愛想良く私たちに挨拶するので、不思議に思っていたら、彼女はパーディーニョ・ロータリークラブのメンバーで、ルシアたちか、パウロから私たちのことを聞いたらしく、来週の火曜日のロータリークラブの会合に、セルジオとルシアと一緒に私たちも招待したいというお誘いだった。以前からここのロータリークラブのことは知っていたし、インターネット会社経営のパウロもメンバーなので、その内かかわりを持つようになるだろうとは思っていたけれど、あちらから誘ってくださるので、喜んで出席させてもらうことにする。ロータリークラブには、英語を話せるメンバーもいるとルシアが言っていたので、それも私にはうれしい情報だった。

ルシアのお父さんは末期ガンで、自宅でお姉さんが介護していると聞いていたけれど、エドソンのお父さんが亡くなる10日ほど前に、彼女のお父さんも亡くなっていたことを、この時聞いた。また、エドソンのお父さんが亡くなった同じ日の同じような時間に、広島の父の戦時中からの友人のフィリピン人家族のお母さんも亡くなり、9月は訃報続きの月になった。

2009年10月9日(金)

今日は雨は降っていないものの、相変わらず気温の低い、どんよりとした曇り空の続く1日になった。午前中、エドソンとふたりで、下のアテモイアの果樹園に散歩に行く。この時期、もうアテモイアの枝打ちを終えていなければならないらしいのだけれど、まだ半分くらいしか終わっていない。アルバイトの男の子たちがアテモイアの木の枝打ち作業に励んでいた。

午後2時から、インターネット会社経営のパウロとの仕事の打ち合わせで、パーディーニョの町にある彼のオフィスに行く予定だったけれど、マウリシオが午前中パーディーニョに行ったついでに、市の土木課のトラクターなどの重機を管理する責任者の人を個人的に知っているので話をつけてくれ、1時半にトラクターを短時間、うちに回してもらうことができたと連絡してきた。それで、パウロとの予定を3時に変更してもらう。そして、時間通りにその責任者の人自らが運転して来てくれたトラクターで、我が家を建てる場所の横の傾斜地を平らにしてもらい、1時間足らずで、建築資材を置くスペースを作ってもらうことができた。エディーは市役所との交渉で、トラクターを確保することができなかったのだけれど、マウリシオは短時間だけという条件を付けたからなのか、トラクターを確保してきてくれた。恐るべし、マウリシオの顔の広さと影響力!そして、彼に感謝!

トラクターの作業が無事終わり、3時にパウロのオフィスに行き、途中ときどき脱線しながら、エドソンは3時間近くいろいろなプロジェクトについて提案し、パウロと話し合い、とてもいい感触を得たようだ。途中、パラボラアンテナなどを販売しているというパウロの知り合いの人が来て、アマチュア無線の話をしたりして少し脱線したけれど、その人もロータリークラブのメンバーだそうで、来週の火曜日を楽しみにしていると、言ってくれた。

2009年10月10日(土)

ウィリアムがいつも通り、10時を少し回って到着。途中、カステロブランコの高速道路上でトラック数台を巻き込む大きな事故があったらしく、ここに来るのに、いつもより1時間余計に時間がかかったと言っていた。ジウダは今週末、クリスマスのための買い物に忙しいと聞いて、もうクリスマスの準備?と、思ったけれど、サンパウロではすでにクリスマス商戦が始まっているのだそうだ。アメリカの場合は、10月末のハローウィンが済んでからクリスマス商戦が始まるけれど、それよりも1ヶ月近く早い。私たちもマウリシオの家族や、ウィリアムたちへのクリスマスプレゼントをどうするかを考えなければと、思い至る。日本でふたりだけで暮らしているときは、友人や甥っ子たちを呼んで、家で食事会をするのが常で、クリスマスプレゼントというのは、特に用意したことはなかったけれど、どうもここではそういうわけには行かないようだ。

今週、マウリシオがボトゥカトゥに用があって行った際、偶然、私たちが探している種類のレンガ(Tijoro、チジョロ)を扱っているお店を見つけて、パンフレットを持って帰って来てくれたので、そのお店と連絡を取って、今日の午後、レンガを見せてもらいに行くことにした。この辺で作られているレンガは、色の濃淡や大きさの違いはあるものの、赤茶色というのが普通なのだけれど、私たちの家に使いたいと思っているのはサンタカタリナ州で作っている白いレンガなので、タケイシさんが言っていたタトゥイの町のレンガ工場では作っておらず、近隣の町で扱っているお店がなかなか見つからなかったのだけれど、この店は、サンタカタリナ州から取り寄せて配達してくれると言う。値段は赤茶色のレンガよりも少し高いのだけれど、レンガの質が良く、大きさが少し大きいので作業時間を短縮できるため、作業コストの方を削減できる。そのプラスマイナスを計算すると、こちらのレンガを使う方がメリットが大きいので、このレンガを使うことにした。このお店では、屋根瓦も扱っているので、建築資材調達の準備は順調に行きそうだ。お店の人といろいろ相談し、値段などを確認し、レンガのサンプルなどをもらって帰る。週明けに、エディーにこのレンガのサンプルを見せて相談し、合意ができたら、このレンガを発注するという手順になりそうだ。これまでずっと待ちの状態が続き、まったく前進のなかった建築作業が、わずかながらようやく前に進みだした感じだ。

2009年10月11日(日)

昨日は、午前中からインターネットが使えなくなったり、その上何故か停電したりと、トラブル続きの不便な1日だったけれど、停電は暗くなる前に解消し、インターネットは今朝起きてチェックしてみると、回復していた。停電は電線のメンテナンス作業によるもので、インターネットの不通は、どこかで光ファイバーケーブル切断の事故があったらしく、その修理に時間がかかったらしい。私たちのここでの生活にインターネットは欠かせないものなので、1日で復旧してくれ本当に良かった。

今日は、昨日に引き続き、穏やかないいお天気の1日になった。今日のお昼のメニューは、揚げジャガイモのエビチリあんかけ、コーンスープ、玉ねぎ+きゅうり+トマト+ルッコラのサラダ、レモンジュース、そしてご飯。

昼食後、西隣のファームの人たちが今週末はファームに来ているようなので、ウィリアムと一緒に3人で挨拶に行くことにする。ここに家を建てて、コーヒーファームを始めてまだ日が浅い。普段はここから北西に1時間半程行ったバウル(Bauru)という町で生活しいるのだそうだ。まだ子どもたちが小さく、夫婦とも30代と思われる、若い、とても感じのいい家族だった。ウィリアムのように、週末、ときどきここに来ているということだった。バウルはこの辺では一番大きな町で、人口12万のボトゥカトゥの3倍の36万という大きな都市だ。位置的にはサンパウロ州のちょうど真ん中辺りにあり、日本人の移民がサンパウロ州の西部を中心に入植した経緯から、以前はここに日本総領事館があったと、何かで読んだことがある。ご主人のクラウディオ(Claudio)は、バウルでコーヒーを扱う会社を経営しているということだった。それで、自分でもコーヒーを育ててみることにしたらしい。このファームには6万本のコーヒーの木を植えたと話していた。

このお隣のファームから見えるウィリアムの家の写真を撮る。右側が今、私たちが居候をさせてもらっているウィリアムの家で、左側がマウリシオの家。

2009年10月12日(月)

今日はお天気の良かった土日から一転、早朝から強い風が吹き、空はどんより曇っている。10時前頃からだんだん空模様が怪しくなり、遠くで雷が聞こえ始めた。エドソンがインターネットのレーダーサイトで確認すると、巨大な雨雲が接近しているため、急いで書いていたメールを送信し、コンピュータを終了し、電化製品はすべてコンセントを抜き、電気のブレーカーも落として、臨戦態勢に入る。

準備万端整った頃、雨がザアーっと降り出し、雷が近づいてきた。三連休の最終日ということに加え、こんな悪天候なので、ウィリアムは交通渋滞を予想して、いつもより早めにサンパウロに戻ると言う。そこで、ちょっと早めのお昼を準備して、12時少し前にお昼を始める。お昼を食べた後、帰る支度をして、1時半頃サンパウロに帰って行った。ウィリアムが出発して1時間後くらいには、雨も止み、お天気が回復してきた。今回は雷も雨もそれほどではなく、ほっと胸を撫で下ろす。ここは日本と違い、地震がなくて幸いだけれど、日本の台風に相当する大きな嵐が雷を伴って来るのが、ちょっと頭痛の種だ。ただ、これは11月頃から夏の間にかけてあるのが普通なのに、今年は冬の時期から頻繁に嵐が来るため、雨季(夏)になったらどうなるのだろう?と不安になってしまう。

今日はあいにくのお天気の1日だったけれど、6時16分の日の入り後、しばらくの間、とてもきれいな夕焼けが見られた。

2009年10月13日(火)

今朝は、雨は降っていないものの、辺りは霧に包まれていた。9時前後から霧が晴れ始め、曇り空ながら、少しずつ明るくなってきた。太陽が顔を出さなくても、雨さえ降らないでいてくれたらと思う。先日おおざっぱに整地してもらったところに、今日は別の重機が入り、仕上げの作業をしてくれたのだけれど、昨日の雨で土が軟らかくなっているため、整地を完了するには、土がもっと乾いていないといけないらしく、作業の人は数日してから再度仕上げに来てくれることになった。その間雨が降らないことを祈るばかり。

今日付けの中国新聞の海外リポートに、『「らしさ」が詰まったサルバドール』と題するブラジル(沢田リポーター)からのリポートが掲載されていた。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

今晩は、パーディーニョ・ロータリークラブの会合に招待されているので、家を少し早めに出て、午後6時にセルジオのところに行く。エドソンが彼らのホームページを作ってあげる約束をしているので、その話し合いをするためだ。エドソンがインターネット上のウェブサイトの雛型をいろいろ見せたりして、どういうことが可能かなどいろいろ話し合った。

8時少し前にセルジオたちの家に車を置いて、徒歩で、彼らと一緒に近くのロータリークラブの集会所に行く。この町で医師をしているという人など数人がもう来ていたけれど、さすが、ブラジル。集会は8時の時間通りには始まらない。8時半にようやく20数名の顔ぶれがそろい、会合が始まる。ロータリークラブの会合というものに参加するのは初めてなので、普通の手順がどのようなものなのか私にはよくわからないけれど、エドソンは、集会所の感じも会合の手順も、パラカンビのロータリークラブとほとんど変わらないと言っていた。ただ、パーディーニョの方が、より実際的な議題を討議しているとも言っていた。例えば、子どもを対象にした懸賞付きのイベントは、何がいいだろうかという担当者からの相談に、「作文コンクールをして、ロータリークラブについて書いてもらったらどうか?」「作文コンクールはいいとして、子どもたちはロータリークラブのことなんか知らないだろうから、それはあまりいい課題ではないのではないか?」「いや、どれだけ知っているか、知らないかを知ることも我々にとっては意味があるし、これからの我々の広報活動の課題が見えてくるかもしれないだろう。」などなど、結構正論で、真面目な印象だ。

招待客の紹介を含め、様ざまな討議事項を消化して、1時間ほどで真面目な話し合いを終え、書記のネウザ(Neuza)手作りの暖かい食事が届くまで、参加者としばし自由に歓談。食事が届いてから、またテーブルを囲んで、食事をしながらいろいろな話が弾んだ。メンバーの中には、このファームのすぐ近くにあるファゼンダホテル、アグアス・ダ・セハ(Aguas da Serra)のオーナーのマーセロ(Marcelo)もいた。メンバーはパウロやネウザら数人を別にすると、比較的年齢層が高い印象を受けた。でも、みな気のいい田舎のおじさん、おばさんといった感じだ。会長のゴメス(Gomez)と奥さんのシモーニ(Simone)は、夫婦揃って恰幅が良く(つまり、太っていて)、おもしろくて気さくな人たちだった。でも、残念ながら、ルシアが言っていたような、英語を自由に話せる人はいなかった。

2009年10月14日(水)

今日は朝からお天気がいい。気温がぐんぐんと上がり、午後には30度近くになった。天気予報では今日は雨の予報だったけれど、バウルで観測されるここの天気予報はほとんど当たらない感じだ。カバーする範囲が広すぎるからなのか、日本のように西から低気圧がゆっくり移動してくるという状況ではなく、突然、雨雲が発生してしまったりするため予測がつかないのか、とにかく、その日になってみないとお天気がどうなるのか、まったく見当がつかないというのがここの現実だ。ただ、雨という天気予報が外れて、晴れるのは大歓迎だけれど・・・

以前、中国新聞の海外リポートの中で、ブラジルの日系人人口は約130万人と書いたけれど、最近見たニッケイ新聞の記事には約150万人となっていた。その大多数の約100万人はもちろんサンパウロ州在住で、私もここに越してきてからサンパウロ市にある日本総領事館に、リオから異動してきたという在留届を提出したので、その大多数の内のひとりになったわけだ。サンパウロ州の次に日系人が多いのは、サンパウロ州の南にあるパラナ州で15万人。3位は北伯のパラー州の3万人。そして、4位はリオデジャネイロ州の1万5000人。ちなみに、ペルーの日系人人口は8万人で、アルゼンチンは3万2000人、そして、アメリカ合衆国が122万余りというから、ブラジルの日系人人口が如何に多いかがわかる。

日本語で北伯(ポルトガル語ではRegiao Norte)と呼ばれるブラジルの北部地方には、ロンドニア州、アクレー州、アマゾナス州、ロライマ州、アマパー州、パラー州、トカンチンス州の7つの州があり、その東隣の北東地方のマラニョン州を合わせて、日系人は5万人だそうだけれど、その内の3万人はパラー州に在住しており、その州都のべレンには4000人が在住しているという。そして、ロンドニア州に7000人、アマゾナス州とマラニョン州を合わせて5000人だそうだ。もちろんこの他の州にも日系の人たちはいるはずだけれど、人数が少ないので、こういうまとまった統計数字には出てこないのかもしれない。

今年は日本人のアマゾン移住80周年ということで、ニッケイ新聞ではそのアマゾンの特集を続けている。その中で、「アマゾンでは3代暮らすとサルになる」という表現があるそうだけれど、ニッケイ新聞の記者が取材した高齢の日系人の方は、「ここは3年暮らせばサルになります」と言っておられたと、その生活の過酷さを物語っていた。でも、そんな緑の地獄のアマゾンでも、日系人の人たちはその土地と環境に適した作物であるピメンタ(pimenta、コショウ)を見つけ出し、地道に育て、成功して来ているというのは、本当にすごいことだと思う。

2009年10月15日(木)

昨晩10時を過ぎた頃から風が強くなり、不穏な雰囲気になってきたので、エドソンがインターネット上のレーダーサイトで確認すると、激しい雷を伴う大きな雨雲が接近していることがわかった。例によって、コンピュータの電源を落とし、コンセントを抜き、テレビなどの電化製品のコンセントも抜いてから床に就いた。

一晩中風が吹き荒れて、夜明け前頃から雨と雷が始まった。6時半前後が一番ひどかったけれど、雷は8時前には遠ざかって行ってくれ、事なきを得た。風と雨は午前中に一旦弱まり、お昼過ぎに再度、2時間くらい強まったりと、今日は1日寒くて散々なお天気になった。

こんな日は身動きがとれず、何もできないので、前から見たいと思っていたウィリアムのDVDの中から、「硫黄島からの手紙」を午後から見ることにする。日本にいた時は、週末によくアメリカのテレビシリーズのDVDを借りて見ていたけれど、ブラジルに来てからは身近にレンタルショップがないこともあって、全然見ていなかったので、これがブラジルに来てから初めて見る映画というか、DVDになった。全編日本語で英語の字幕が付いており、ポルトガル語で吹き替えられていなかったのは幸いだった。気の滅入るような日に、気の滅入るような映画だけれど、こういう機会でもないと見ることができないので、この際、徹底的に気を滅入らせることにした。でも、映画を見終わると、雨が止み、西の空が明るくなり始めていた。

2009年10月16日(金)

昨日の夜、このご近所でコーヒー農家をしている日系のタケイシさんご夫妻を夕食にお招きしていたのだけれど、農業組合の急な会合が入ったため、今晩に延期したいと昨日の朝、電話連絡が入り、今晩仕切り直しとなった。今日は1日曇り空だったけれど、雨が降らなかったため、ボトゥカトゥの銀行まででかけて行く。先月末から続いていた銀行のストが火曜日にようやく終わったため、やっと用事を済ませることができた。その後、パオン・ジ・アスーカーで、チーズ、ワイン、お米など、そしてドナ・マリナの店では大根、白菜、ブロッコリーなど、パーディーニョの店では入手できない食料品をたっぷり仕入れて帰る。

今日の夕食のメニューは、ニンジンとピーマンとシイタケと鶏肉のカシューナッツ炒め、ニンジンとネギと玉子の酢辣湯(スワンラータン)、きゅうりとわかめの酢の物、ご飯、そしてデザートはドナ・マリナの店で買ってきたパイナップルとイチゴ。6時前に、真っ赤なピックアップトラックでやってきた二人は、イタリアワインと、ボトゥカトゥのウエノ商店で買ったと言う桃(Pessego)をひとケース持ってきてくれた。桃は小粒で、見た目は桃と言うよりもスモモ(Ameixa)といった感じだ。でも、味はほど良く甘く、ジューシーだった。

普段パーディーニョではどの店で買い物をしているのか聞いたら、日本食はウエノ商店で、その他はすべてパオン・ジ・アスーカーで済ますので、パーディーニョでは買い物はしないということだった。パオン・ジ・アスーカーは全国チェーンの大型スーパーなので品揃えが豊富で、大量に仕入れるためか、パーディーニョの小さな商店よりも値段が安かったりするので、これはしょうがないことなのかなあ?と、思う。日本食材はドナ・マリナの店よりも、ウエノの方が安いということなので、今度、場所を教えてもらって行ってみなければと思う。ウエノ商店のことは前から聞いて知ってはいたけれど、週に3〜4日しか開店していないということだし、しかも場所がよくわからないので、まだ一度も行ったことがない。タケイシさん夫妻はワインを持ってきてくれたのにお酒を飲まないので、食事を始める前のおつまみのナチョスチップスはソーダで食べるという変な組み合わせになってしまった。奥さんのナンシー(Nancy)は、夜はあまり食べないと言って、食が進まなかったけれど、ご主人のクリオはおいしそうにおかずを何度もお代わりして食べてくれた。

2009年10月17日(土)

今日は朝から曇り空で、時々雨が降り、遠くで雷の音が聞こえる。エドソンは朝食の後、「ちょっと行ってきます」といつものように出て行ったので、倉庫の無線室に行ったのだとばかり思っていたら、2時間くらいして戻って来て、5メートルほど小道を作ってきたと言う。これから建てる家の周りに花壇と小道を作る計画なのだけれど、その内の5メートルほどをスコップで作ってきたらしい。毎日の悪天候でちっとも前に進まない基礎工事に、どうもじっとしていられない気分のようだ。

ウィリアムがいつもよりもずっと遅く、12時近くになって到着した。彼が到着してから昼食の仕度を始める。今日のお昼のメニューは、白菜と牛肉のオイスターソース、トマトスープ、ジャガイモ+ゆで卵+トマト+玉ねぎ+ルッコラ+ツナのサラダ、レモンジュース、そしてご飯。いつもレモンジュースがあるのは、このファームにはレモンやライム、オレンジなどの木がたくさんあるから。そして、サラダにいつもルッコラが入っているのは、8月の下旬に植えたルッコラの苗が無事に育ってくれたから。今月に入ってから、毎日のように食べている。将来的には、うまくできるかどうかはわからないけれど、葉物野菜だけでなく、ジャガイモ、玉ねぎ、大根などの根菜も作りたいと思っている。ルッコラと一緒に種を蒔いたトマトやニンジンは順調に成長しているけれど、収穫はまだまだ先のようだ。お昼の準備ができた頃、辺りは真っ白な霧に包まれてしまい、そのままの状態で夕方になり、日の入り直前に太陽が一瞬顔を出し、夕焼けが少し見えた。この2〜3日毎日こんな感じだ。日の入り直前だけお天気が回復しても仕方がないのだけれどなあ・・・

2009年10月18日(日)

今日からサマータイムが始まった。正確に言うと、今日午前0時に時計を1時間早め、サマータイムが始まったので、今朝、いつもより1時間早く6時半に起きたのだけれど、時間はすでに7時半になっていたというわけだ。日本との時差はこれまで12時間だったのが、11時間に短縮したことになる。これは日本の朝10時がこちらの前日の夜10時だったのが、1時間縮まって11時になったということ。逆に言うと、こちらの夜10時が日本の翌日の朝9時になったということ。サマータイムはブラジル全土で実施されるのではなく、南半分の諸州だけで、北半分の諸州では実施されない。この状況は来年2月の第3日曜日まで4ヶ月間続く。

このブログをいつも読んでくれているグアム在住の友人から、「ブラジルの人たちの名前は今ひとつ頭に入らないので、登場人物の簡単な説明をして」というリクエストが入ったので、ここでちょっと説明することにする。と言っても、主要なキャラクターが20人以上登場するブラジルのノベラと違い、私たちのここでの生活でかかわっている人たちは、まだとても少ない。

まず、このファームのオーナーで、サンパウロから週末だけここにやって来る私たちの友人のウィリアム(William)と奥さんのジウダ(Gilda)。エドソンとウィリアムはアマチュア無線を通じて知り合った20数年来の長い付き合い。彼はドイツ系で、髭をはやし、大きな体で、食べることが大好きという、見るからにドイツ人という感じの人。奥さんのジウダは田舎暮らしよりも都会暮らしの方が好きなようで、しかも、サンパウロに子どもたちが住んでいて、平日は孫の世話で忙しくしていたりするので、月に1度くらいしかここには来ない。

そして、このファームの住み込みのカゼイロ(Caseiro、管理人)さん一家で、家長のマウリシオ(Mauricio)、奥さんのドナ クレウザ(Dona Cleusa)、5歳になる次男のマテウス(Mateus)。マウリシオは主に果樹園の仕事や外回りの仕事をし、とても顔が広くおしゃべり好き。ドナ クレウザは穏やかな性格で、家事を手伝ってくれる。マテウスは来年2月から小学校にあがる予定。彼らの長男のマーコス(Marcos)は以前ボトゥカトゥで働いていたけれど、現在はパーディーニョでガールフレンドと一緒に暮らしていて、ここからカステロブランコまで(7kmほど)下りたホドサーブのガソリンスタンドで働いている。

パーディーニョの町で整体院をしているイタリア系のルシア(Lucia)と、彼女の日系2世のご主人のセージオ(Sergio)とは、知り合ってまだ日が浅いけれど、この町で一番の友達かもしれない。ルシアは趣味で竹細工の可愛い人形を作るので、ボトゥカトゥでよく開催される週末のフェイラ(feira、市または縁日)に参加して、手作りの竹細工を販売している。彼らの日本語は私のポルトガル語よりもさらに頼りないけれど、日本で暮らしたことがあり、日本のことを知っているというだけで、親近感が違う。特に、ルシアのとても優しく、暖かい人柄が私は好きだ。

ルシアに紹介してもらったカベレイレイロ(Cabeleireiro、美容師)のヴァニア(Vania)。彼女にはご主人と、2歳くらいの息子ニコラス(Nicolas)がいる。ルシアの話だと、前回私の髪を短くカットしすぎたことをいまだに気にしている気のいい人だ。私が日本の美容院は、お客さんにコーヒーやお茶などの飲み物をサービスで出したりするという話をしたら、早速、お店でカフェズィーニョ(cafezinho、コーヒー)とシャーズィーニョ(chazinho、お茶)のサービスを始めているそうだ。

ご近所のコーヒー農家のタケイシさんご夫妻。ご主人はクリオ(Kurio)、奥さんはナンシー(Nancy)。クリオは以前サンパウロの銀行で働いていたそうだけれど、10数年前に早期退職してここに移り住み、コーヒー作りを始めたという人で、農業組合に入っているため、この辺の農家の人たちのことを良く知っているし、この辺の土地にはどんな果物の栽培が適しているかとか、どのように育てたらいいかとか、とても詳しいので、私たちの先生のような人だ。ほんの少しだけ日本語を話すことができる。今年の3月日本からまずここに到着して1週間ほど滞在しているときに、ボトゥカトゥの日系コロニアに案内してくれ、お昼までご馳走してくれた人だ。奥さんのナンシーは日本語はまったく話せないけれど、ふたりとも私たちにとてもよくしてくれる。

パーディーニョの町でインターネットの会社を経営しているパウロ(Paulo)。彼の奥さんもパートナーとして同じ会社で働いていて、子どもが3人いる。ロータリークラブの若い主要メンバーでもあり、これからエドソンがいろいろ仕事でお世話になる可能性大の重要な人だ。

ロータリークラブの関係の人たちの中には、ルシアの整体院で初めて会って、私たちをロータリークラブに招待してくれた書記のネウザ(Neuza)と彼女のご主人のへジナウド(Reginaldo)、現会長のゴメス(Gomez)と奥さんのシモーニ(Simone)、そして、このご近所でファゼンダホテル、アグアス・ダ・セハ(Aguas da Serra)を経営しているマーセロ(Marcelo)らがいる。これからいろいろかかわりを持つようになるのではないかと思われる人たちだ。

このファームの東隣のバンブーファーム、ジャトバス研究所のオーナー、ドナ ベティ(Dona Betty)。彼女はウィリアムのように、週末だけサンパウロからここに来ている。彼女のことは中国新聞の海外リポートでパーディーニョの町と一緒に詳しく紹介した。

このファームの西隣のコーヒーファームのオーナー、クラウディオ(Claudio)と、奥さんと子どもたち3人。彼らは普段はバウル(Bauru)に住んでいて、毎週末ここに来ているわけではないので、あまり深くかかわることはないかもしれない。でも、感じのいい家族。

そして、最後に我が家を建ててくれることになっているぺドレイロ(Pedoreiro、日本風に言えば大工の棟梁のような人)のエディ(Eddy)。信頼できるぺドレイロという評判の人で、口数の少ない実直そうな人だけれど、まだ家の建築作業が始まっていないので、付き合いが浅く、私にはその人柄がまだはっきりとはわからない。

以上が、今のところ私たちがここでかかわっている人たちだ。やはり、ノベラの登場人物よりも少ない。

2009年10月19日(月)

今日付けで、中国新聞の海外リポートに私の8本目のリポートが「多彩で奥深いブラジルの音楽」と題して掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ

マウリシオとドナ クレウザの5歳になる次男のマテウス(Mateus)は、悪い子ではないのだけれど、ハイパーアクティブというか多動性というか、じっとしていることがとても苦手。ひとつのことに集中することができず、何をしていてもすぐ飽きてしまい、落ち着きがない。そして、常に何だかあまり意味のないことを止めどなくしゃべりかけてきて、こんな子どもには不似合いな大きなため息をついたりする。そして、周りの大人たちに四六時中つきまとい、何度注意されても大人同士が話しているところに割って入るため、「話が終わるまで待ちなさい」とか、「静かにしなさい」とか、よく叱られる。

そんなわけで、マテウスに関連して憶えたポルトガル語の表現がいろいろある。Chega(シェガ、いい加減にしなさい。Enough)Para(パーラ、止めなさい。Stop)Espera(エスペラ、待ちなさい。Wait)Espera ate agente terminar de conversar.(エスペラ アテ アジェンチ テーミナー ジ コンヴェーサー、話が終わるまで待ちなさい。Wait until we finish talking.)Fica quieto.(フィカ キエット、静かにしなさい。Stay quiet.)Se comporta.(セ コンポータ、お行儀良くしなさい。Behave yourself.)これらの表現は子ども相手ぐらいにしか使えない、大人に対してはあまり使わない表現かもしれない。また、英語と同じようにとてもきつい表現で、Sai daqui.(サイ ダキ、ここから出て行け。Get out of here.)という表現があるけれど、たとえ相手がマテウスでも私たちは決して使わない表現だ。でも先日、ノべラの中で腹を立てた母親が、いい年をした娘に対してこの表現を使って怒鳴りつけている場面があった。親子の間とは言え、これはちょっとひどすぎる言い方ではないかと思った。

今日は、朝からどんよりとした曇り空で、お昼前から雨が降り出した。午後2時前から雨、風、雷がひどくなり、一時はバケツをひっくり返したような土砂降りになった。途中で雷のためコンピュータの電源を一度落としたりしながら、午後はずっと、日本在住のフランス人の友人からメールで依頼のあった、彼の履歴書の翻訳修正をして過ごす。エドソンはエドソンでその同じ友人(元部下だった)から就職活動のための推薦文を頼まれて書いていた。5時過ぎてようやく少し雨と風が軽くなったので、戸外の写真を撮る。辺りはいつものようにうっすらと霧に包まれている。

2009年10月20日(火)

昨日は1日中お天気が悪かったけれど、夕方、太陽が沈む頃、雲の間からほんの少し太陽が顔を出した。次の写真は、日の入り直後のもの。

日の入りからしばらくの間、南西の空が少し赤く染まった。

今朝起きてみると、太陽が顔を出していたけれど、ここから南の方角は雲で覆われていた。肉眼だと、雲海が眼下に見えるのだけれど、写真だと残念ながら、何だかただ白いだけのようにしか見えない。

そのうちここよりも下にあった雲が少しずつ上昇して来て、午前11時頃には雲で覆われていた南の方角の視界が良くなってきた。その代わりに、移動してきた雲で、私たちの頭上の空が雲で覆われ始めた。前の写真とほぼ同じ場所から写真を撮ってみる。

エドソンは今日午後1時から、インターネット会社経営のパウロと一緒に、前回とはまた違う別の町まで行って仕事の話をするため出かけて行った。これらの営業が実を結ぶことを祈るばかり。6時を少し回って帰宅。夕食を食べて、シャワーを浴びてから、一緒に毎週火曜日の夜、開かれるロータリークラブの会合に出かける。

私たちはまだロータリークラブの正式なメンバーになる手続きはしていないけれど、メンバーになるつもりでいるので、ちゃんと毎週出席することにした。会合が始まるまでの間、会長のゴメス(右)と書記のネウザ(左)の写真を撮らせてもらう。

一方、エドソンはすでに来ているメンバーの人たち数人とテーブルを囲んで話し込んでいる。エドソンの向こう側の右から、インターネット会社経営のパウロ(Paulo)、ファゼンダ・ホテル、アグアス・ダ・セハ経営のマーセロ(Marcelo)、書記のネウザのご主人でへジナウド(Reginaldo)、先週は奥さんも一緒に出席していたけれど、今日はひとりで出席しているジェラウド(Geraldo)。エドソンの右隣に座っている横じまの赤いポロシャツにメガネの若い人はジュニオー(Junior)、彼はパーディーニョの町の病院で理学療法士をしており、市会議員でもある。そして、パーディーニョ・ロータリークラブの次期会長候補でもある。パーディーニョの現市長も、元市長も、このロータリークラブのメンバーだそうだけれど、現市長は市長になってから会合には出て来ていないという。元市長は先週の会合に来ていた。

ロータリークラブの会合に出かける際、ここの倉庫の回りに大きなカエルが数匹出てきていたのだけれど、戻ってきたら、この家のベランダに1匹ちょこんと座っていた。写真ではよくわからないかもしれないけれど、座った状態で10センチくらいの高さがあって、ずいぶん大きい。あまりに雨が降り続くので、雨季と間違えて出てきてしまったのだろうか?

2009年10月21日(水)

今日も昨日に続き、お天気がいい。この状態がずっと続いてくれればいいのだけれど・・・

ここの畑では普通のトマトよりもミニトマトの方が良く育つと、マウリシオが言っていた通り、8月下旬に同じように種を蒔いた普通のトマトはまだ花を咲かせていないのに、ミニトマトの方はたくさん黄色い花をつけ始めている。

今晩は、昨晩に引き続きロータリークラブの会合に出かける。今日は、この近隣の複数のロータリークラブを統括する地区のガバナー夫妻が来るので、特別なミーティングと歓迎の夕食会があり、私たちも招待されたのだ。午後6時から、女性たちはシモーニの自宅で、ガバナー夫人を囲んで茶話会。男性たちはクラブで、ガバナーを囲んでミーティング。何故、男女別々なのかよくわからないけれど、男性陣がメインのメンバーで、女性陣はサブメンバーといった扱いなのかもしれない。その後8時過ぎに男女合流し、全員レストランに移動して、そこで食事会。パーディーニョの町にはちゃんとした食事のできる場所はないと思っていたのだけれど、小さなお店がどうも2軒くらいあるらしい。パーディーニョの町の入り口近くのガソリンスタンドの横にあって、ピザの宅配もやっているというその内の1軒を、貸切のようにして食事会が開かれた。みないつも普段着でカジュアルなのに、今日は、男性陣の大多数はネクタイに背広という正装をしている。

シモーニの家で、ガバナー夫人が到着するのを待つ間、集まっている女性たちの写真を撮る。こちらに顔を向けている奥、左側から、アンジェラ(Angela)、アグアス・ダ・セハ経営のマーセロの奥さん。彼女は英語が少し話せるので、私の隣に座って、いろいろ話の内容を説明してくれた。ロータリークラブのプロジェクトの話がメインで、結構実質的なことを話しているようだった。その隣はアーレッチ(Arlete)、ご主人と一緒に、この町でスーパーマーケットを経営している。でも、私たちが行きつけにしているお店ではない。ジェラウドの奥さんのホジータ(Rosita)、何の商売をしているのかは聞き忘れた。日系2世のセージオの奥さんのルシア(Lucia)、整体院をやっていて、私たちとは仲良し。右端に座って、横顔だけが見えるのは、ゴメス会長の奥さんのシモーニ(Simone)。ロータリークラブの建物のお隣で、小さなコンピュータの学校をやっている。

中央の黒いブラウスの背中は、アンジェラ、その左側から順にアーレッチ、ホジータ、ルシア、シモーニ、右奥は、理学療法士で市会議員でもあるジュニオーの奥さんのソフィア(Sofia)、結婚してまだ5年だそうだ。そして、右手前は、パラボラアンテナなどの販売をしているジョゼ(Jose)の奥さんのマリナージ(Marinade)。

次の写真は、ガバナー夫人が到着し、話を始めたところ。左から、シモーニ、インターネット会社を経営しているパウロの奥さんのジャナイーナ(Janaina)、そして、ガバナー夫人。パーディーニョ・ロータリークラブメンバーの奥さんたちは、みな仕事を持っているので、こうして集まるのは結構大変なのだと、シモーニが言っていた。パーディーニョ・ロータリークラブの正式メンバーは13人で、ボトゥカトゥ・ロータリークラブは36人だそうだ。どちらも配偶者の人数は含まれていない。片や人口5000人。片や人口12万人。なぜボトゥカトゥのメンバーは人口の割に少ないのだろう?

2009年10月22日(木)

昨日はお天気が良く、昼間の気温が、また30度にまで上がったかと思うと、夜は急に気温が下がってきたので、お天気が崩れるのかな?と、思っていたら、今朝午前3時頃、大きな雨の音と雷で目が覚めた。昨夜寝る前にインターネットのレーダーサイトで雨雲の様子を確認した際には、雨雲は相当遠くにあって、ここまで来るにはまだかなり距離があるので、今日の午前中辺りから雨になるとばかり思っていたら、予想よりも早く来てしまった。エドソンが急いで起きて、コンピュータのコンセントを抜いてくれた。約2時間ほど激しい雨と雷が続き、ようやく遠ざかって行ったかとほっとしたのもつかの間、ピカッと稲光がして、次の瞬間ドカーン、ゴロゴロと大きな雷が近くに落ちたようだった。それと同時に外の街灯が消えたので、停電したことがわかった。この雷を最後に辺りは静かになり、雨も徐々に上がったようだった。今朝は風が少し強く吹いているけれど、晴れたり曇ったりのまずまずのお天気になった。ただ、停電の状態が回復するにはお昼近くまでかかった。そして、午後からはまた曇り空になってしまった。

先日、アマゾンに入植した日系の人たちはピメンタ(pimenta、コショウ)を育てて成功していると書いたけれど、栽培しているのはそれだけではないので、もう少し詳しく書いてみる。10月20日付けのニッケイ新聞のアマゾン特集の連載記事によると、彼らは様ざまな試行錯誤の末、森林農業と言う方法に行き着き、40種類以上の作物を育てているそうだ。「それぞれに移民80年分の悲喜こもごもと、長年のインディオや河民の知恵が刻まれている」という。記事から以下に少し引用してみる。

「南拓が最初に目指して失敗したカカオ、戦前移民が脱耕資金を得るために栽培した米、戦後に移住地に天国と地獄を見せた胡椒、河民から伝わった現地の各種熱帯果実やアサイー、インディオが薬として珍重するアンジローバ、そして世界に誇る商品木材マホガニーなどが一カ所に植え付けられる。   日本的考え方と原住民の知恵の融合が、自然との共存を可能にする農法に結実した。日本移民が畑というキャンパスに描いた〃生きた曼陀羅(まんだら)〃のようだ」

「いろいろな作物を混植し、畑から絶え間なく収穫があるよう組み合わせるこの農法には、実は完成がない。組み合わせが無数にあるからだ。その時代の需要に合わせて臨機応変な在り様は、まさに曼陀羅の本領発揮だ。   現在、利益を出している森林農業の作物も、最初からそうではなかった。今は採算の取れていないレイシ、ノニ、プシリ、マランギなど多様な作物も混植されているが、これは『未来の商品』だと位置づける」

現在「森林農業をやっている日系人は200家族、ブラジル人は5000家族もいることが分かった。『牧場にするより、森林農業をした方が利益が高いことが分かってきた。このまま300年も続ければアマゾンは回復する。日本人の大きな貢献だ』   さらに山根さんは『森林農業は、私たちがすべき発想の原点。あらゆる分野でこれをやっていかなければ』とし、世界の産業と自然の関係に、ブラジル日本移民が新しい地平を切り開いたことを強調した」

かつて、ブラジルで「不毛の大地」と呼ばれていたミナスジェライス州やマトグロッソ州などの“セラード”という何も育たない土地を、1970年代半ばから2000年にかけて開拓し、ブラジルをアメリカに次ぐ世界第2位の大豆生産国へと押し上げた日系移民の人たちといい、このアマゾンで森林農業を始めた日系移民の人たちといい、「農業の神様」と呼ばれた日系人が、農業生産だけでなく、将来のブラジル農業(ひいては、世界の農業)が進むべき手本、進路を、発信し続けているという事実は、とても尊敬に値すると思う。そして、自然と共存して生きるということもそうだけれど、その他にも日本の日本人が忘れてしまった何か大切なことを、ここの日系人の人たちは持ち続けているように思えるのは気のせいだろうか?

2009年10月23日(金)

昨日の夜、夕食の後、エドソンがマウリシオに譲った無線機の使い方を教えに行った帰りに、ホタルを連れて帰ってきた。最近、時々家の中にホタルが迷い込んで来るのだけれど、外では結構飛び交っているようだ。このホタル、お尻だけでなく、肩の左右にある目のように見える白い点も、光ることがわかった。机の上に乗せてつつくと、お尻は光らせないものの、肩の左右の点を光らせるので写真に撮ってみた。次の写真は光っていない普通の状態で、肩の白い点が見える。

次の写真は部屋の電気を消して、肩の左右が光っているところを撮ったのだけれど、ピンボケでしかも真っ暗なので姿が見えず、ちょっと何のことだかわからなくなってしまった。

今日は午前11時に、カベレイレイロのヴァニアのところでエドソンの散髪をしてもらう予約をしていたので、時間通りにお店に行くと、店が閉まっていて、誰もいない。エドソンがヴァニアの携帯に電話をすると、病院にいるという。息子のニコラスに何かあったのかと思ったら、昨晩から彼女自身の調子が悪く、病院で診察してもらっているところだという。しょうがないので、いつも行く食料品店の近くのバーベイロ(Barbeiro、床屋)に行ってみると、何故か今日は閉まっている。それで、食料品店のオーナーに他に近所にバーベイロはないか聞くと、坂を下りたところのパン屋の隣に1軒あると教えてくれたので、そこに行ってみる。イズマイル(Esmaiel)という中年の男性がひとりでやっている、看板も何もない、やはり小さな床屋だったけれど、感じのいい人で、とても手際よくさっさとやってくれた。料金はパラカンビのジュッセリーノのところと同じ、10レアル(約500円)。どうもエドソンは、ヴァニアのところよりもこちらのバーベイロを利用した方がよさそうだ。

帰りに、同じ通りにある小さなギフトショップをのぞいてみると、可愛らしいものがいろいろ揃っているお店だった。来週の水曜日はウィリアムの奥さんのジウダの誕生日なので、彼らが明日ここに来た際に彼女に渡す誕生日のプレゼントを、その店で探すことにしたのだ。小物はいろいろ趣味があって選ぶのが難しいと思ったので、ボカ ジ レアオン(boca de leao、ライオンの口)というおかしな名前の、可愛い花の鉢植えを買うことにした。

2009年10月24日(土)

先週、ウィリアムがサンパウロに帰る前に、来週はジウダも来るからお昼はフェイジョアーダ(Feijoada、豆を豚足やソーセージなどいろいろな肉と一緒に煮た具沢山の煮豆料理)にしようと言っていたけれど、土曜日のお昼なのか、日曜日のお昼なのか、どちらだろう?と思っていたら、今朝ジウダから電話があり、12時ごろ到着すると言う。そして、フェイジョアーダの準備は前の日からして、翌日食べるものと聞いて、今日のお昼の準備は私の担当と納得、準備を始める。

ふたりは12時少し前にびっくりするほど大量のフェイジョアーダの材料を持って到着。今日のお昼のメニューは、ジャガイモ+ニンジン+玉ねぎ+ピーマン+ツナのカレー炒め、ジャガイモとコーンのスープ、りんご+セロリ+コーンのヨーグルトサラダ、ご飯、そして、カイピリーニャ(ピンガというサトウキビで作ったお酒にライムの絞り汁と砂糖を混ぜて作るお酒)にレモンジュース。

昼食後、ジウダは美容院に髪を染めに行き、ドナ クレウザがフェイジョアーダの準備をして、この家の裏にある大きなかまどで薪をくべて料理を始めた。高さが30センチくらいある大きな鍋で作るので、家の中のガスレンジでは間に合わないらしい。

午後、インターネット会社経営のパウロが弁護士の人と一緒にやって来た。先日行った町のプロジェクトの企画書をエドソンと一緒に書くにあたり、法律的なことを弁護士と相談するためのようだ。かなり長い間話し合ってから帰って行った。

ジウダが美容院から戻ってくると、表のベランダの椅子に腰を下ろして、ドナ クレウザとジウダが楽しそうにおしゃべりを始めた。普段、話し相手のいないドナ クレウザは、ジウダが来るといつもこうやって長い時間座り込んでジウダとのおしゃべりを楽しんでいる。

2009年10月25日(日)

雨の降らない日はなかなか続いてくれない。金、土といいお天気だったけれど、昨日の夜からまたお天気が崩れ、夜中に少し雨が降ったようだ。午前中はずっと霧に包まれた曇り空が続き、午後からようやく霧が晴れ、晴れたり曇ったりのお天気になった。

今日はフェイジョアーダを高さ30センチの深鍋から、深さの浅い大鍋に移しかえて、もう一度かまどで煮ている。隣の鍋ではご飯を炊いている。今回使っている豆は、カリオカビーンズという種類の黒豆で、これが一番一般的なように思うけれど、別に黒豆でなければいけないというわけではない。

ブラジルではいろいろな種類の豆と、肉、ソーセージ、またはベーコンなどを一緒に煮た料理を、普通フェイジャオン(Feijao、煮豆料理)と呼んでいて、ブラジル料理には欠かせない付け合せの煮豆料理のことを言うのだけれど、フェイジョアーダと言った場合は、具沢山の煮豆料理がメインになり、付け合せに、コウヴィ(couve、ケール)の千切りをニンニクとオリーブオイルで炒めたもの、マンジョーカの粉をベーコンなどと炒めたファラファ、ピリリと辛いサルサ、皮をむいたオレンジ、そしてご飯をワンセットにしたものを言う。家庭により多少のバリエーションがあって、オレンジが付いてこなかったりする場合もあるようだけれど、これまでの経験から言うと、どれかひとつでも欠ければフェイジョアーダではなくなるような気がする。オレンジは肉などがたくさん入って、結構胃に重い煮豆の消化を助ける役割があるらしい。

フェイジョアーダは、もともとアフリカ人奴隷が、白人が捨ててしまうような脂身や豚足などの肉の部位や、食べ残した肉などと豆を煮て作ったのが始まりという。アメリカ南部のニューオリンズで有名なガンボやジャンバラヤといったケイジャン料理も、アフリカ人奴隷が残り物をいろいろ混ぜて作った料理だと聞いたことがあるけれど、フェイジョアーダもそれと同じような状況からできた料理だ。次の写真は裏のかまどからセルフサービスで自分の皿に煮豆とご飯とコウヴィを盛って、テーブルに戻ったところ。テーブルの上にはこれに付け合せる、オレンジ、ファラファ、サルサが並んでいる。

2009年10月26日(月)

先日、ちょっと調べものをしていて、駐日ブラジル大使館のホームページの農業に関する記述に行き当たった。ブラジルが世界の食糧生産基地だということがわかる内容なので、以下に引用してみる。

農業生産に関する「最近の調査によれば、ブラジルはコーヒー、サトウキビ、オレンジは世界第1位、フェイジョン豆、カッサバ(ブラジルでマンジオカと呼ばれるイモの一種)、大豆は第2位、トウモロコシは第3位、穀類は第4位の生産国」となっている。

「牧畜業関連ではブラジルは世界第2位の牛肉生産国であり、牛の頭数では世界一。鶏肉の生産・輸出は世界第2位、豚肉の生産・輸出は世界第4位」ということだった。

また、ブラジルがバイオ燃料の使用を世界で奨励しようとすると、必ずアメリカなどからアマゾンの熱帯雨林を破壊してサトウキビ畑を作っているとか、サトウキビ栽培が食糧生産を圧迫しているなどという、根拠のない批判を受けるのだけれど、駐日ブラジル大使館のホームページには次のような記載もあった。

「ブラジルに於けるサトウキビの栽培は農薬の使用量が少ない、生物的な手段による病害虫の管理は国内で最大規模である、土壌浸食の比率が最も少ない、全ての残留物をリサイクルしている、水質を汚染しない、国内で最大の有機栽培面積を実現している等々の特長を備えている。

ブラジルのサトウキビ栽培地の拡大は主に国内の中南部地域の劣化した放牧地を活用する形で実施されており、アマゾン熱帯雨林から遠く離れている(アマゾン地域はサトウキビの栽培に適していない)旨を指摘するのは特に重要だと考える。言い換えればブラジルに於ける燃料用エタノールの生産はアマゾン熱帯雨林にも食料の生産にも如何なる悪影響をも及ぼしていない。ちなみに食料に関してはオレンジの例でもわかる様にブラジルは世界有数の生産国である」

そして、以前にも書いたが、ブラジルのオレンジの9割以上はサンパウロ州で生産されており、大豆は主に、ミナスジェライス州やマトグロッソ州の、セラードと呼ばれるかつて不毛の大地だったところで生産されている。ブラジルの農業生産の現状を見る限り、バイオ燃料の生産はブラジル農業に何の悪影響も及ぼしていないことがよくわかる。

2009年10月27日(火)

昨日は1日曇り空で、午後から少しシャワーがあり、遠くで雷が聞こえ、今にも雨が降り出しそうな状態が続いたので、本格的に雨が降り出す前にできるだけ仕事を片付けてしまおうということらしく、マウリシオとアルバイトの男の子たちは普通2時間のお昼休憩を取るところ、昨日は1時間足らずで仕事に戻って行った。でも、幸いたいした雨は降らず、本格的に雨が降り始めたのは午後9時頃からだった。

今日も、雨は降っていないものの、太陽が顔を出さないどんよりとした曇り空が続いている。

以前、ニッケイ新聞で、日航(JAL)の経済再建に伴い、1978年から就航している成田ーサンパウロ線(ニューヨーク経由)の廃止が決まったというニュースを見かけ、これからますます発展が見込まれるブラジルへの路線を廃止するなんてどうかしていると思ったけれど、10月17日付けのニッケイ新聞で、存続の見込みが出てきたようだという以下の記事を見かけた。

「JALサンパウロ線存続か=W杯、リオ五輪で需要見込み

 【共同】経営再建中の日本航空が、従来は廃止対象にしていた国際線21路線のうち「復活」を検討している5路線が、成田空港―ブラジル・サンパウロ線などであることが16日分かった。サンパウロ線は2016年の夏季五輪開催都市にリオデジャネイロが決まったことで、大きな旅客需要が見込めると判断した。

 ほかに中部国際空港、関西空港とバンコクをそれぞれ結ぶ路線、成田―台湾・高雄、関西―インドネシア・デンパサールの路線が存続の候補となっている。5路線はいずれも経済成長が見込める新興国・地域と結ぶ路線で、営業努力で収益改善が可能とみているようだ。

 日航は企業再生の専門家チーム「JAL再生タスクフォース」の助言を受けて新しい再建計画案を策定。その中で、路線再編案も一部見直した。国際線の廃止は16路線程度となる。ただ、国内29路線の廃止は変えない方向で詰めている。

 成田―サンパウロ線は米ニューヨークを経由する日航の最長路線で現在は1週間に3往復している。ブラジルは夏季五輪に加え、14年にサッカーのワールド カップ(W杯)が開催されることも「商機となる」(日航幹部)。経済成長に伴うビジネス需要の拡大も見込めるという」

米国経由の路線は、例えトランジットでもブラジル人は米国ビザの取得が要求されるため、そのビザ取得のための時間とお金と精神的な苦痛を避けるために、たとえ乗り換えが不便で長時間待たされても、私たちはいつもビザのいらないヨーロッパ経由の路線を利用してきており、このJALの路線を利用することは今後もないとは思うけれど、日本のフラッグキャリアーたる航空会社がブラジル路線を持たないというのはどうにもおかしいと思うし、これから日本とブラジルがさらに関係を深めて行くべき時に、廃止の決定が見直されて本当に良かったと思う。

2009年10月28日(水)

今朝、いつものように寝室の窓を開け放し、ベッドメイキングをした後、朝食の用意をしていたら、ベイジョフロー(Beijo Flor、ハミングバード)が、その窓から迷い込んで来てしまい、バタバタと家中を飛び回っている。何とか外に逃がそうとあたふたしている間に、居間や台所の閉まった窓にぶつかり過ぎて目が回ったのか、しばらくすると動かなくなってしまった。しょうがないので、台所の窓を開けて、窓枠のところに寝かせ、元気を回復して、自分で飛び立てるまでそっとしておくことにした。そして、だいぶ経ってからようやく、自力で飛び立って行ってくれた。それにしても、小さなからだで、ちょっと触っただけでも壊れそうな可愛い小鳥だ。グロッキーなのか目をつむって、荒い息をして、動かないので、写真に撮ってみた。

今日、エドソンは午前10時から、またインターネット会社経営のパウロとの仕事の話しで、彼のオフィスに出かけて行った。エドソンをパウロのオフィスまで車で送って行く途中、郵便局に寄って、届いている郵便がないかチェックしてもらうと、イビウーナのメル友のおじいさんから、私の海外リポートのエコタウンの記事をポルトガル語に翻訳した原稿が届いていた。「ちょっといい話なので、日本語のわからない若い家族や友人にも読ませたい」と言って来られたので、中国新聞の許可を得て、彼が知り合いの方に翻訳をしてもらった、その原稿のコピーを送ってくださったのだ。これで、ドナ ベティーに、こんな記事を書きましたと言って、見せることができる。感謝。感謝。

2009年10月29日(木)

今日やっと、日系2世のセージオと整体院をやっている奥さんのルシアを夕食に招待することができた。先月の上旬、彼らの家で夕食をご馳走になって以来、お返しをするのに1ヶ月以上経ってしまった。その間何だかんだと彼らとは会っていたので、ついつい先延ばしになってしまったのだ。彼らがここに来るのは初めてなので、早めに来てもらって、これから私たちの家を建てる場所を見せたり、下のアテモイヤの果樹園を見せたり、少し散歩をする。ルシアはこういう環境の良い場所が好きだけれど、セージオは町の暮らしの方がいいのだと言っていた。まあ人それぞれ。私たちは町の暮らしよりも、ここのファーム暮らしの方が気に入っている。そして、彼らのホームページを作ってあげる件で、夕食の前にもう少し話を具体的に詰めるために、エドソンが話し合っている間に、私は夕食の用意をする。

今晩のメニューは、豚肉+大根+インゲンのオイスターソース炒め、ひき肉+ニンジン+玉ねぎ入りのマッシュポテト、きゅうりとわかめの酢の物、ニンジンと玉ねぎの味噌汁、そして、ご飯。「タケイシさんの奥さんからもらった手作りの梅干しがあるのだけれど、食べてみる?」と聞くと、ルシアが一番に反応し、食べたいというので、梅干しも出し、ついでにいつも常備している野菜の浅漬けも出したら、ふたりともおいしいと言って、全部一通り食べてくれた。デサートにはパパイアを出そうと思っていたのだけれど、ルシア手作りのチョコレートとカスタードクリームのムースを持ってきてくれたので、紅茶を入れて、それをいただくことにする。彼女は手工芸だけでなく、こういうお菓子作りもとても上手だ。

8時を回って彼らが帰る際、家の外に出るとあちこちにヴァガルーミ(Vagalume、ホタル)が飛び交っているのを見て、ルシアが感激していた。パーディーニョの街中では見かけない光景だと言っていた。

2009年10月30日(金)

今日もエドソンは午前10時にパウロのオフィスで企画書を書くために出かけて行った。送って行く途中で、ドナ ベティの所に海外リポートを印刷したものとポルトガル語の翻訳原稿を届けたり、文房具店で翻訳原稿のコピーをしてもらったり、その足で郵便局に行って郵便を発送したりと、いろいろまとめて用事を済ませる。

今日は1日晴天のとてもいいお天気になったので、朝からドナ クレウザがここの洗濯機を何度も動かし続け、大洗濯をしている。今週は珍しく1週間ほぼ何とか昼間は雨が降らずお天気が持ちこたえてくれたというのに、何故、家の基礎工事が始まらないのか、まったく理解できない。ここの生活で他に何も文句はないけれど、家の工事が一向に始まらないことが唯一、頭痛の種だ。

でも、そのことにばかりに囚われていては非生産的なだけなので、今週、私はずっと海外リポートのリサーチやら、原稿書きに没頭する。何も進まないときは、自分ひとりで進めることができる何かに没頭するに限る。

5時近くになってエドソンから、仕事が終わったから迎えに来てという連絡が入ったので、パーディーニョの町に迎えに行き、一緒に近くの店に行き、食料品を買って帰ることができた。金曜日の午後はお店に新鮮な野菜や、新しい商品が届くので、ちょうどいい時間に買い物をすることができた。肉売り場でサージーニャ(Sardinha、いわし)という表示があったので、見せてもらうと、三枚におろしたような切り身の冷凍だったけれど、今日入荷したばかりと聞き、値段も高くなかったので、買ってみることにした。

2009年10月31日(土)

今日、ウィリアムはサンパウロからお客さんを連れてきた。ジュニオー(Junior)という70歳代後半のやはりアマチュア無線の仲間だそうだけれど、実は、ブラジルアマチュア無線界ではとても有名な重鎮として、昔、エドソンから彼の名前を聞いたことがある人だ。

ウィリアムが来ている週末は、いつもお昼をたくさん食べて、夕食は軽く済ませるドイツ流の食事をするので、夕飯はいつもドナ クレウザ手作りのイタリアンブレッドとお茶をいただくことになっている。でも今日は昨日に続きとてもお天気がよく、気温が32度まであがり夕方になっても暖かいままなので、飲み物は熱いお茶よりも、冷たいジュースの方がいいだろうということで、ドナ クレウザがアテモイヤとオレンジを混ぜたジュースを作ってくれた。土曜日の夕食時にはいつも、ドナ クレウザが食事の用意をしてくれるので、常にドナ クレウザにくっついて来るマテウスも、私たちと一緒にテーブルに着席して、ウィリアムにパンにバターを塗ってもらって食べてもいいことになっている。以前はテーブルで静かに食事に集中することができず、なかなかじっとしていられなかったけれど、私が何度もうるさく言うものだから、最近は食べている間だけは何とか静かに座っていられるようになり、食べ終わったら、ちゃんと「コンリセンサ(Com licenca.失礼します。Excuse me.)」と言って、静かに自分のコップやお皿を持ってテーブルを離れることができるようになった。ここで私はマテウスにとって、とてもうるさいおばさんの役回りをしている。やれやれ。



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