Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2009年9月1日(火) | ||||
先週、畑仕事を始めた辺りからお天気が回復し始め、連日晴天に恵まれたせいか、昼間の気温はぐんぐん上がり、30度近くにまでなり、朝晩も暖かくなってきた。どこにいてもカーディガンなどいらない気温になってきた。 ここの大きな犬たち4匹のうち、一番恥ずかしがりやのセシリア(Cecilia)は、カメラを手に持っていると呼んでも側に来ず、カメラを向けると逃げて行ってしまうため、なかなか写真に収めることができなかったのだけれど、家の近くで休んでいるところを、家の中から写真に撮ることができた。これでようやくここの犬たち全員を写真に収めることができた。
| ||||
2009年9月2日(水) | ||||
今日は、週に1度、マックス・フェファー文化センターの企画担当の女性がサンパウロから来ることになっている日だと、ドナ ベティが言っていたので、午後から文化センターに行って、どんな協力ができるか、その人と話をすることにした。でも、文化センターに行くと、あいにく今日はその人は来ておらず、来週も来ないかもしれないということだった。残念。まあ、しょうがない。受付の人の名前と電話番号をもらったので、次回、電話をして確認してから再挑戦ことにする。 受付の女性とエドソンがそんなやり取りをしていると、外を歩いている女性が「キョウコさ〜ん」と言って、手を振っているので見たら、先日、ドナ ベティに紹介してもらったルシアだった。外に出て彼女に挨拶していると、エドソンも出てきておしゃべりが始まった。これからカベレイレイロ(Cabeleireiro、美容院)に行くところだというので、ちょうどいいので、一緒に行って紹介してもらうことにした。ヴァニア(Vania)という若い女性が、自宅でひとりでやっている小さな美容院で、男性の散髪もするというので、前回パラカンビで散髪をしてもらってから2ヶ月近くになるエドソンの散髪をしてもらうことにした。初めてのお客さんだったせいか、最初は少し緊張して、ぎこちなかったけれど、20分あまりで無事、散髪終了。料金は7レアル(350円弱)と、パラカンビのジュッセリーノのところよりも3割ほど安かった。でも、実のところ、ジュッセリーノの方が年季が入っていて、櫛とハサミの使い方が上手だということは、素人目にも良くわかった。 この人がエドソンの散髪をしてくれている間、ご主人が2歳に満たない息子の世話をしていたので、「髪結いの亭主」なのかな?と思ったら、たまたま休暇中で、来週から仕事に戻らないといけないんだと嘆息していたと、後でエドソンが言っていた。失礼しました。 ルシアはこの美容院で髪を切ってもらうために来たのかと思ったら、2時から精神障害の男性の散髪をするので、いつものように手伝って欲しいと頼まれて、やって来たのだそうだ。エドソンの散髪が終わる頃、この男性が家族に付き添われてやって来た。30代くらいの体の大きな人だったけれど、精神年齢は7歳くらいなのだそうだ。ヴァニアが彼の散髪をする間、ルシアに側にいてもらって、彼が落ち着いて、安心して座っていられるように話しかけたり、あやしたりしてもらうのだそうだ。ルシアは人当たりのとても柔らかい優しい感じの人なので、彼女が側にいるとこの男性も落ち着いていられるらしい。 セージオは家にいるから、うちに寄って行ってと、ルシアが言うので、散髪の後、マックス・フェファー文化センターの写真を数枚撮ってから、近くの彼女の家に行って、セージオといろいろ四方山話をする。1時間半くらいしてルシアもカベレイレイロでの仕事を終えて戻って来た。今週末、ボトゥカトゥで開催される植木市(Feira do Verde)で、お店を出して、ルシアが作った竹細工を販売するというので、お店を覗きに行く約束をする。 | ||||
2009年9月3日(木) | ||||
昨日、パーディーニョに行ったついでに、いつものお店に食料品などを買いに行ったら、店のご主人が、「日本は今度の選挙で政権が変わったそうだね。ニュースで見たよ」と、言っていた。普通なら、それほど関心のない遠い国のニュースだろうけれど、私がブラジルに暮らしていることで、日本の両親や友人がブラジル関連のニュースに敏感になっているように、このご主人も店の常連に日本人がいるというだけで、日本に関心を示している。でも、民主党が早速、日本で働く外国人の数を制限すると言っていることに、ブラジルの人たちはこの新政権に対して不安を感じているようだ。 ここの生活は基本的にとても快適だけれど、しいて言えば、インターネットは高速でこの上なく便利な反面、電話と郵便は少し不便だ。 パラカンビのファームもそうだったけれど、ここにも固定電話の回線が来ておらず、このファームにある電話は固定電話のような電話機の形はしていても、携帯電話と変わらない無線で送受信するタイプの電話なので、ちょっと不便なことがある。今のところまだ、私たちは、リオで契約した携帯電話をそのまま使っているのだけれど、受信電波が不安定なようで、話している途中で突然通話が切れてしまったり、先方が何度かけても電話がつながらないということがよくある。そして、ここの電話も私たちの携帯電話ほどではないけれど、同じように電話がかかりにくかったりする。どうも、電波塔がパーディーニョの町の近くにあり、パーディーニョの町とこのファームの間に丘があるため、安定した電波が届きにくいらしい。 そして郵便は、町の郵便局の私書箱ではなく、このファームの住所を使っているのだけれど、小さな郵便局だからなのか、ブラジルの田舎は広すぎるからどこもそうなのか、ファームまでは配達してくれない。そのため、郵便物が来ているかどうか、定期的に郵便局に行って確認しなければならない。だいたい1週間に1度、ここのヘルパーさんのマウリシオが郵便局に確認しに行ってくれる。前もって、郵便が届くことがわかっていれば、到着予定日あたりに郵便局に電話をして、届いているかどうかを聞いて取りに行くようにしている。でも、まあ、陸の孤島というわけではなく、一番大事なインターネットは高速で何の不自由もなく、電話がまったく使えないわけでも、郵便が届かないわけでもないので、あまり気にせず暮らしている。 | ||||
2009年9月4日(金) | ||||
昨日の午前中はまだ太陽が顔を出していたけれど、午後から強風が吹き始め、雲行きが怪しくなり、2時過ぎ頃からバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が30分あまり続き、辺りはすっかり霧に包まれてしまった。マウリシオと手伝いの少年たちがずぶ濡れになって、トラクターに乗って下の果樹園から戻って来た。もう少し早く戻ってくれば濡れなくてすんだのに。 夕方少しお天気が回復し、夕焼けも見られたけれど、ここでは夕焼けが見られたから翌日は晴れとは限らず、予報ではこれから1週間毎日雨が続くことになっている。その予報通り、今朝は早朝からザーザーと雨が降り続いている。 お昼前頃から雨足が軽くなったので、ボトゥカトゥに買い物に行ったついでに、植木市の会場の側を通ってみたけれど、まだ準備中で、ちらしにあった通り始まりは夕方からのようなので、スーパーで買い物だけして帰宅することにする。雨降りのお天気だと、客足があまり出ないかもしれないと心配される。 夕方5時過ぎにウィリアムからサンパウロを出て、こちらに向かったという連絡があった。7時半から8時には到着し、夕飯を一緒にできると思っていたら、月曜日が独立記念日の祝日で、3連休の週末になるので、今日から大勢の人がサンパウロを離れるため、サンパウロから西に向かう高速道路のカステロブランコが、何キロも渋滞しているとヘリコプターからの実況中継で報道していた。この分ではどうも予定通りに到着しそうもないので、8時を回ってふたりだけで夕食を始める。そして、9時少し前になって私たちの食事が終わった頃、ようやくウィリアムが到着した。 | ||||
2009年9月5日(土) | ||||
今日は1日雨の予報だったけれど、朝のうちは雲が空を覆っていたものの、雨は降らず、たまに太陽が顔を出したりのお天気が午後3時頃まで続き、その後、雨が降ったり止んだりのお天気になった。 今日のお昼はシュハスコ(Churrasco)にしようというウィリアムの提案で、お昼前からドナ クレウザと準備を始める。パーディーニョでの買い物から戻ったウィリアムが、このファームに戻る途中、ここの道路の入り口の所で建設準備が始まっている会社の人たちを見かけたから、彼らを招待したと言う。2〜3人が来るのかと思ったら、1時過ぎに5人もやって来たので、びっくり。彼らに飲み物を出したり、食事の世話をしたり、デザートを出したり、後片付けをしたりと、忙しい1日になった。
| ||||
2009年9月6日(日) | ||||
今日は、未明から雷がなり、大きな音をたてて土砂降りの雨が降るので、その音で目が覚めてしまった。このところ毎日、降るといったら、すごい土砂降りの雨が降るのだけれど、ウィリアムに言わせると、こういう激しい雨降りは珍しいのだそうだ。気候が変わってきているのかもしれないとも言っていた。北の熱い空気と、南の冷たい空気がぶつかり、大きな雨雲を作っているらしく、アルゼンチンから、ヒオ グランジ ド スウ州、サンタカタリナ州、パラナ州、サンパウロ州と、広範囲にわたって雲が移動し、たくさん雨を降らしている。冬の時期にこんなに雨が降るのは、本当に珍しいらしい。 今日のお昼は私が作る予定だったけれど、昨日、ウィリアムがシュハスコに招待した人たちが、お返しにお昼をご馳走してくれるというので、3人で出かけて行く。パーディーニョの町にはレストランなどなく、この近くでちゃんとした食事ができるのは、高速道路上の東と西にあるホドサーブ(Rodserv)2軒と、カンポネーザ(Camponesa)という同じく高速道路上のレストランだけだ。彼らが招待してくれたのは、カステロブランコ東側のサンパウロ寄りのホドサーブだった。ホドサーブというのは、サービスエリアと同じようなもので、ガソリンスタンドや、長距離バスの乗り場、軽食レストラン、お土産物売り場だけでなく、ちゃんとした食事のできるレストランもある場所で、ビュッフェバイキングだけでなく、アラカルトの料理もある。彼らがご馳走してくれたのは、ボヴォ(Bovo、後ろのヴォにアクセント)というおいしいエビの料理だった。 この人たちはアメリカ在住のブラジル人の会社オーナーと、そのアメリカ人パートナー、そして、彼らの部下のブラジル人の人たちで、パーディーニョに農業関連の工場を建てるのだという。様ざまな野菜の苗を育てるための培養土のようなものを作って販売している会社らしい。この会社の建設予定地のすぐ側には、アグロフォーン(Agro Forn)という農業機械を作る会社なども以前からあり、パーディーニョの町は、農業関連の会社の誘致に力を入れているようだ。 | ||||
2009年9月7日(月) | ||||
今日は、ブラジルの独立記念日(Independancia do Brasil, 1822年)で祝日。アメリカのように各地でいろいろ派手な祝賀行事があるわけではないようで、ほとんどの人にとっては、普通の三連休と変わらないようだ。雨の予報に反して、晴天のいいお天気の1日になった。午前中、ボトゥカトゥの植木市に行き、セージオたちの店をのぞいてみると、セージオがひとりで店番をしていた。急いで彼の写真を撮ったら手振れたのかピンボケになってしまった。
セージオが私たちの写真を撮って、その場で写真をプリントしてくれていると、ルシアがお姉さんと戻って来たので、彼女たちの写真も撮る。右側がルシアで、左側が彼女のお姉さん。
この後、お隣の公園の植木市を見て回り、その中の苗や種、農作業用の道具などを売っている店で、パッションフルーツの木の苗と、バジルなどのハーブの種を買う。
駐車した車まで戻る途中で、再度、セージオのお店に行き、しばらく彼らやその周りで店を出している人たちとおしゃべりをしてから、パーディーニョに戻る。 12時少し過ぎにパーディーニョに戻り、ドナ クレウザの用意してくれた昼食をウィリアムと3人でいただく。今日は三連休の最終日なので、サンパウロに戻る道路の混雑が予想されるため、ウィリアムは2時過ぎには帰る準備を始め、荷物をトラックに積んで帰っていった。 | ||||
2009年9月8日(火) | ||||
夜中から降り続いていた雨が、未明から雷を伴う暴風雨に変わり、とてもひどい嵐が断続的に襲ってきた。途中ときどき2時間前後の小休止をしながら、夜11時前くらいまで続いた。
朝8時くらいから雷と暴風雨がだんだん激しさを増したため、予防措置としてノートパソコンや電気製品のコンセントをすべて抜き、ノートパソコンを終了させたりしたのだけれど、一瞬遅かったため、エドソンのノートパソコンにつながるパワーサプライが、雷で壊れてしまった。ただ、ノートパソコンが無事だったのは幸いだった。 8時過ぎの嵐が一番ひどく、ベランダにあった重い木のイスのひとつや、大人が2人がかりでないと持ち上がらないような鉄の大鍋(これもベランダにあった)が、強風でそれぞれ10メートルくらい吹き飛ばされてしまった。そして、倉庫の屋根の一部が壊れたり、マウリシオの家の屋根瓦の一部も飛ばされ、雨漏りがして大変だったようだ。早朝からマウリシオは何かの用事で外出していたため、ドナ クレウザは雷を怖がって泣くマテウスとふたりで、お昼頃までは不安な時間を過ごしたようだ。
一時、停電などもあり、ノートパソコンも雷から守るため使用できず、ただ嵐が通り過ぎるのを待つだけの1日になった。でも、ここの人たちの対応は早く、倉庫の屋根や、マウリシオの家の屋根瓦の修理は、ウィリアムからの連絡でエディが数人のスタッフの人たちと来てくれ、お昼前から作業が始まり、午後2時くらいに次の嵐が来る前に修理を完了してくれた。そして、午後の嵐が通り過ぎた頃、電気会社の人たちも来て、配電盤のショートしたらしい部分を修理して、夕方暗くなる前に停電が解消したので、不便な時間が短くて済み、とても助かった。 エドソンは嵐が小休止するたびに、修理の人たちが入れるようにこのファームの入り口のゲートを開けに行ったり、電柱にある配電盤を調べに行ったり、インターネットのタワーの状況を見に行ったり、ドナ クレウザの家の様子を見に行ったりと、出たり入ったり。ウィリアムやマウリシオとも何度も携帯電話でやり取りをして、とても忙しい1日を過ごした。 南部のサンタカタリナ州などでは、すさまじい竜巻がいくつも発生し、大きな被害が出たとその後のニュースで報道していた。それらの被害に比べたら、ここのはそれほどでもなく、幸いだった。 | ||||
2009年9月9日(水) | ||||
月曜日のブラジル独立記念日には、ブラジリアで記念式典とパレードが行われたようで、テレビニュースでやっていた。なぜかフランスのサルコジ大統領もその式典にルラ大統領と一緒に参列していた。 今回のルラ大統領とサルコジ大統領の会談で、ブラジルはフランスから潜水艦を5隻(その内1隻は原子力潜水艦)、ヘリコプターを50機、ジェット戦闘機を36機購入することが合意されたそうだ。その見返りに、フランスはこれら潜水艦やジェット戦闘機の技術をブラジルに移転し、ブラジルから軍事用の大型輸送機を購入し、ブラジルの国連常任理事国入りや世界銀行やIMFでのブラジル支持と、2016年オリンピックのブラジル開催を支持するという合意がなされたという。 日本がどこかの国からこんなに潜水艦やジェット戦闘機などを購入しようものなら、軍国主義復活などとメディアや周辺国が大騒ぎをするところだろうけれど、ブラジルでは、アマゾンの資源略奪や密林伐採などを監視したり、麻薬の密輸ルートを警戒したり、大西洋岸に次々に発見されている海底油田を守るためには必要なものばかりなので、メディアは当然のこととして報道し、むしろ歓迎していた。 それにしても、フランスはアメリカ1極化に対抗しているからとは言え、なかなかすごい決断をする国だと思う。アメリカはほぞを噛んでいることだろう。日本ももう少し先を見通して、もっとブラジルと協力体制を構築する努力ができないものかと、もどかしい。世界を大局的な見地から見ることのできる、ビジョンのある政治家が不在ということなのだろうか?民間のビジネスにしても、韓国などはとてもアグレッシブにブラジル市場に足場を固めているのに、日本の存在はとても希薄だ。 例えば、新幹線の売り込みにしても、ブラジルでの製鉄(ブラジルの製鉄技術のレベルはとても高い)を認め、技術移転に同意すれば、きっとすんなり日本の新幹線が入札に勝利できるのではないかと思うのだけれど、なぜそれができないのだろうかと思う。事はそんなに単純ではないのかもしれないけれど、中国や、韓国、ヨーロッパ諸国、アメリカなどが、盛んにブラジルに投資しているのに、なぜ日本は、ブラジルに対して関心が低く、存在が希薄なのか?ただ手をこまねいて、何もしていないとしか思えない状況にあることが不思議でならない。 | ||||
2009年9月10日(木) | ||||
昨日はたいした雨は降らなかったものの、1日中強い風が吹き、午後7時くらいから約1時間、また雷を伴う激しい雨が降るという、おかしなお天気だった。今日は午前中は霧に包まれていたけれど、お昼前頃から少し太陽が顔を出す時間もあったりして、ようやくお天気が回復に向かい始めたようだ。 今日付けの中国新聞の海外リポートに、ブラジルからサッカーワールドカップ予選の速報「宿敵に快勝しW杯切符 ブラジル紙沸く」と題したリポートが掲載されていた。ブラジルからのリポーターがもうひとり増えたようだ。私は間違ってもサッカーのリポートを書くことはないと思うので、とてもいい人が加わったと思う。私の書くリポートだけがブラジルではないし、サッカーだけがブラジルでもないので、いろいろな種類のリポートが揃って、良いバランスの取れたブラジルリポートになると思う。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。 | ||||
2009年9月11日(金) | ||||
このファームで暮らし始めてから、ここでマウリシオとドナ クレウザが育てている野菜にとてもお世話になっている。レタス、ルッコラ、コウヴィ、ネギ、パセリ、キャベツ、ホウレンソウなどだ。次の写真は虫食いもなく、きれいに葉を巻いているキャベツ。
ホウレンソウは見た目が全然違うので、マウリシオにこれがホウレンソウ(Espinafre)だと教えられるまで、この葉っぱが、何なのか思いもよらなかった。でも、食べてみると、食感は少し肉厚な感じだけれど、ホウレンソウと同じ味がする。ちょっと、パラカンビにあったベーターリャに似ているけれど、ベーターリャはつる性の植物だったので、それとは違う。ボトゥカトゥのスーパーではごく普通の、日本で見かけるのと同じ種類のホウレンソウが売られているけれど、ここのはまったく違う種類のホウレンソウだ。
| ||||
2009年9月12日(土) | ||||
先日、広島の友人からメールで、ブラジルの政治状況について質問された。正直に言って、私にはよくわからない。 ただ、ルラ大統領は国民的人気があって、党は異なるけれど、前のカルドゾ政権が敷いた堅実路線を継承しているので、方向性を間違わず、まずまずの結果を出しているようだ。これはルラ大統領の力というよりも、カルドゾ大統領の蒔いた種を今、ルラ大統領が少しずつ収穫しているという状況なのだと思う。どこの国も、政治には腐敗がつきもので、彼の党と協力関係にある党が多くのスキャンダルを抱えているにもかかわらず、連立政権を守るために、ルラ大統領がこの党と党首を擁護しているので、最近、環境大臣が抗議の辞任をし、彼の党から離党したということが、大きくニュースで取り上げられていたのを見た。 来年、ブラジルは大統領選挙の年で、ルラ大統領は今期で2期目なので、次回の大統領選に出ることは、現在の法律では認められていない。そのため、自分の党の女性議員を後継にしようと考えているようだが、前のカルドゾ大統領と同じ党所属の、現サンパウロ州知事の方が、評価が高く、評判がいいようで、来年はまた政権が変わるかもしれない。 どこの国もそれぞれに、いろいろな政治的問題を抱えているのだろうけれど、ブラジルでは今のところ民主主義は機能しているようだ。そのため、なかなか腐敗議員を駆逐できないというジレンマも抱えている。ただ、ここ数年メディアが議員の腐敗を厳しく追及しており、上院と下院のそれぞれの議事をリアルタイムで伝えるテレビチャンネルが存在し、政治の透明性を追及しているNGOもいくつか存在しているため、腐敗議員もこれまでのように自分の懐を肥やす政治手法は取りにくくなってきており、少しずつ良い方向に向かいつつあいるというのがエドソンの見解だ。 | ||||
2009年9月13日(日) | ||||
金曜日から気持ちのいいお天気が続いている。今日は、エドソンの誕生日なので、ウィリアムがお昼はカンポネーザ(この近所にある3軒のレンストランの内のひとつ)に行ってお祝いしようと提案するので、例によって、その店の魚料理を食べに行くことにする。オランダの風車のような形の屋根が目印で、ブラジル各地の物産を買い付けて販売する土産物店を併設している。今日は12時半以前に到着したので、まだ混み始める少し前で、待つことなく、すぐに窓際のいい席に案内してもらえた。
| ||||
2009年9月14日(月) | ||||
9月2日付けのニッケイ新聞に、以下のようなコラムを見つけた。外から日本を眺めていると、日本の政治はコップの中の嵐のようで、外に広がる大海原の存在をまったく意識していないような印象を受ける。このコラムの記者も似たような感想を持っているようなので、ここにコピーして転載してみる。 「今回の総選挙に対し、「何が歴史的な選択なのだろう」という素朴な疑問を抱くのは、天の邪鬼なコラム子だけだろうか。だいたい、どこの先進国で五年間も毎年首相が替わる国があるのか。ルーラ大統領一人の間に、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山と五氏が年替わりする状況自体の異常さに警笛を鳴らすメディアがどれだけあったか▼今回の総選挙は所詮保守から保守へ移行しただけ。外国からの視線をまったく意識せず、国内の身の回りだけ、近視眼的な選挙戦を繰り広げてさも大変なことが起きたかのように悦に入っているようにみえてしかたない。事実、「歴史的〜」として世界の報道機関に幾つ大々的に扱われたのか▼金融危機の影響を世界で一番受けているのは日本のようだ。しかもそれは実態としての不況より、心理的な冷えこみ感だ。日本は格差が少ないから、少しの社会的な変動でも大騒ぎする傾向がある。常に危機に直面しているような伯国では、大方の社会経済的な変動に対して、国民も企業も織り込み済みのところがある▼日本の場合、国民全体の心理的な冷えこみ感がきつ過ぎ、麻生政権は有効な対策を打ち出せなかったとみなされ、政党の善し悪しを別にして唯一の選択肢であった民主党に票が集まったように見える▼これは日本国民全体の感情の不安定性を如実に示す。不況下にあってもデカセギが帰りたくないような生活ができるのが日本であり、世界的に見れば国民全体が上から数%の上流階級の暮らしをしていることを、本人たちがまったく認識していない。世界第二位の経済大国らしく、どっしりかまえていてほしいものだ。(深)」 | ||||
2009年9月15日(火) | ||||
今日は、午後からボトゥカトゥでの用事を済ませた後、パーディーニョにも寄って、郵便局で郵便物を受け取ったり、買い物をしてから帰宅。今晩は、セージオとルシアの家での夕食に呼ばれているので、帰宅後、手土産にするためのバナナブレッドを作る。 夕方7時半に、焼きあがって冷ましておいたバナナブレッドと、ボトゥカトゥで、今日たまたま見つけた小さな可愛いチョコレートショップで買った、チョコレートクッキー1缶を手土産に、セージオたちのお宅に伺う。
ルシアはイタリア系なので、今日のメニューは野菜とソーセージが入ったトーテリーニパスタ、野菜がいろいろ入ったミートローフ、マンジョキーニャ(Manjoquinha)という見た目はジャガイモのような芋で作った1品、人参のスライスを花のように飾りつけたツナサラダ、そして、ご飯。デザートのババロアもルシアの手作りだった。セージオは「料理は僕の方が上手」などと言って、料理は苦手というルシアを冷やかしていたけれど、どれもとてもおいしかった。
彼らは、富山と福島に合わせて15年くらい住んでいたようだ。4年余り前にルシアが交通事故に遭うまでは穏やかに暮らしていたようだけれど、2ヶ月間の入院生活の後、1年半以上に及ぶ法廷闘争で、被害者であるにもかかわらず、加害者にされてしまったその時の理不尽な経験が、夫婦にとって、今も強烈なトラウマになっているようだった。それでも、日本と日本人は好きだと言ってくれるふたりを見ていると、ちょっとたまらない、複雑な気持ちになった。次から次へといろいろと話が弾み、失礼したときは12時近くになっていた。 今日は1日お天気が良かったのに、セージオたちの家を出ると、辺りはすっかり霧に包まれていた。パーディーニョの町中はまだ良かったのだけれど、町を出て、上がってくると濃霧がひどくなった。町外れの道路には街灯がないので、舗装された道路から、このファームに入ってくる舗装されていない道路に左折する場所がよく見えず、少し通り過ぎてしまい、引き返すというハプニングがあったけれど、12時を少し回って、無事、ファームに辿り着いた。ファームのゲートのところで、何故か犬のクリスタルが私たちの帰りを待ってくれていた。 | ||||
2009年9月16日(水) | ||||
パーディーニョに引っ越して来てから、80歳代半ばの日系準2世のおじいさんのメル友ができた。ちなみに準2世というのは、幼少の頃、親に連れられて移民してきたので、一応1世なのだけれど、日本で学校教育を受けていないため、生まれは日本でも育ちがブラジルと言うことで、日本生まれで日本育ちの1世でもなく、ブラジル生まれでブラジル育ちの2世でもないという意味らしい。でも、もちろん立派な日本語を話し、書かれる。 先月上旬、海外リポートの題材をいろいろ考えながら、インターネットで調べものをしていたら、たまたま古いニッケイ新聞に関連記事があり、このおじいさんのことが、在野の日系移民史研究家とあったため、ペトロポリス取材をきっかけに知り合った、ニッケイ新聞の女性記者の方に、このおじいさんの連絡先を尋ねたら、教えてくださったのだ。80歳代半ばというご高齢なのに、インターネットやメールをされると聞いてびっくり。 以来、メールのやり取りが始まり、いろいろ本を贈ってくださったり、お電話をくださる。そして、私の海外リポートも読んでくださり、いろいろ資料が揃っているから、お役に立てるかもしれないので、一度、話しにいらっしゃいと誘ってくださる。自分史を書かれたり、入植地の歴史を編纂されたりしていて、いろいろなことをご存知なので、こんなエピソードはおもしろいのではなかとか、いろいろリポートの素材になりそうなことを助言してくださったり、さらには、このことを取材したかったら、誰々に取材するのがいいだろう。あれだったら、こういう人がいる。必要なら、いつでも紹介すると言ってくださる。とてもありがたい。ただ、悲しいかな、それらはこちらの対応能力と許容量を大幅に超えているため、すべての提案を即実行というわけにも行かず、まあ、ぼちぼちやらせてくださいとお願いしている。
この方はサンパウロに近い、ここから車で2時間くらいのイビウーナ(Ibiuna)という町に住んでいらっしゃるので、まだお会いしたことはないのだけれど、近いうちに一度お訪ねしたいと思っている。 | ||||
2009年9月17日(木) | ||||
2週間ほど前に、マックス・フェッファー文化センターの企画担当の人に会いに行って、会えなかったので、今度は電話をして行こうと思っていたら、その後、先方から2度ほど電話がかかってきて、今日、11時半にお会いすることになり、出かけて行く。約束の時間通りに行ったのだけれど、朝からの会議が長引いているようで、会議が終わるまで15分ほど待った。 この人はサンパウロ在住のイヴァニー(Ivanir)という女性で、だいたい週に1度パーディーニョに来て、マックス・フェファー文化センターの全体的な活動や、催しの企画をしているようだ。ドナ ベティから私たちのことを少し聞いているけれど、詳しいことは知らないので、まずはこちらの自己紹介と、私たちがこれまで何をやってきたか、どんなことを考えているか、どんな分野でセンターのお手伝いができそうかなどを話し、イヴァニーの方からは現在のセンターの状況と、パーディーニョについてざっと聞く。そして、ITセンターのコーディネーターをしているジュリアナ(Juliana)という女性にも紹介してもらう。ふたりとも多少英語を話すようだけれど、込み入った内容を話す場合は、ポルトガルでないと思い通りに話せないということで、会話のほぼ99%がポルトガル語だったので、話はもっぱらエドソンがして、私はただ聞いているだけ。悲しいかな話の大雑把な内容は何となくわかっても、詳しい内容となるとさっぱり。「36年って、何の話をしてるの?」「この近所のレストラン?そんなものがここにあるの?」「えっ?何でここでアフリカの話になるの?」中途半端にしか理解できないのは、何とも情けない。でも、話はどんどん進んで行くので、いちいちエドソンを止めて訳してもらうわけにも行かず、帰りに車の中でエドソンに説明してもらう始末。やれやれ。
こちらから具体的な提案をする前に、センターの基本理念や、詳しい活動状況などを文書で送ってもらうことをお願いして、1時間半ほどで失礼する。 | ||||
2009年9月18日(金) | ||||
昨日はお天気はまずまずだったけれど、気温が少し低かったので、太陽が雲に隠れると、ちょっと薄ら寒い感じがした。この家の前のベランダで日向ぼっこ中のモビとフィオナも日が陰ると寒いらしく、ぴったりくっついていた。首を乗せている方がモビ。
私たちがここで使わせてもらっている部屋は、一応来客用の予備の部屋で、家族が子ども連れで来ても泊れるように、ダブルベッドと2段ベッドと洋服ダンスが小さな部屋を占領している。前々から、これでは狭いので、この2段ベッドを倉庫に移動させて、引越し荷物の一部を解いて、衣料品を部屋に持ってこようと話していたのだけれど、お天気が悪かったりして、なかなか実行に移せなかった。でも今日お昼前に、マウリシオにも手伝ってもらい、ようやくベッドを部屋から出して、倉庫に移動させることができた。そして、引越し荷物の衣類などの箱を8つくらい開封して、部屋に持ってくることができた。押入れに入れていたプラスチックの引き出しごと荷造りして持ってきたのだけれど、箱から出したら、その引き出しごと部屋に移動させて使うことができるので、これは正解だった。これらの引き出しにはエドソンのYシャツのように、当分必要のないものも入っているのだけれど、ふたりの着古したズボンや夏物のTシャツなどが主なので、これで、着替え用の衣類が増えて、日本からスーツケースに詰めて持ってきたわずかな衣類だけの着の身着のままのような生活から、少し解放される。 明日はお客さんが二人来るので、シュハスコにしようとウィリアムから連絡があり、午後、ドナ クレウザとメニューの相談をして、夕方、マウリシオが必要な材料の買出しにパーディーニョに行ってくれた。 | ||||
2009年9月19日(土) | ||||
朝食の後で、ドナ クレウザとお昼のシュハスコの準備をしていると、ジウダから電話があり、お客さんたちが到着するのは午後2時頃になるので、シュハスコは2時過ぎから始めるというウィリアムからの伝言だった。 ウィリアムは、朝ここに来る前に寄るところがあったらしく、いつもより遅く、12時近くなって到着。このファームにウィリアムが建てたアマチュア無線用の立派なアンテナのひとつを使っているインターネットの会社の人が相前後してやって来て、しばらく仕事の話をして帰って行った後、2時半頃、ようやくお客さんふたりが到着し、一緒にシュハスコをいただく。この人たちのひとりは、5月にあったアマチュア無線のフェアで会った人だった。ふたりともウィリアムのアマチュア無線の仲間で、食事の後は、5時半頃までみなで無線室にこもって何やらしていた。
| ||||
2009年9月20日(日) | ||||
ポルトガル語で、tranquilo(トランクイロ)という言葉は、「安定した」とか「穏やかな」という意味で、英語のtranquilに当たる言葉だけれど、これも英語のtranquilよりもずっと普通に、Is everything OK?(すべて順調ですか?)などという意味で、普段の会話の中で、Tranquilo?と言ったりして、よく耳にする言葉だ。英語のtranquilは、会話の中で使うとしても、穏やかな性格(tranquil personality)とか、のどかな気分(tranquil state of mind)など、tranquilの後に何か別の言葉を添えるのが普通だけれど、ポルトガル語のtranquiloはそれだけで使うこともあり、ちょっと違う。 パラカンビの自動車学校で車の平行駐車の練習を繰り返しているときに、インストラクターの人が私たちに、Tranuqilo?(問題ないか?または、順調か?)とか、練習の後に、私たちの運転に対して、Tranquilo.(問題なし、または、順調だ)とよく言っていた。そして、ウィリアムからときどき、こちらの様子を尋ねる電話がかかってくると、エドソンがTranquilo.と答えているのをよく耳にする。静かで穏やかな状態だから、異常なしという意味になるわけだ。そんなことを考えていて、大昔に見た映画「西部戦線異状なし」の原題が、All Quiet on the Western Frontだったのを思い出した。ポルトガル語のtranquiloは、このquietの使われ方に似ている。 | ||||
2009年9月21日(月) | ||||
今日、エドソンは朝8時に、インターネット会社のパウロ(Paulo)という人と一緒に、ここから南に1時間ほど行ったところにあるパラナパネマ(Paranapanema)という町に出かけて行き、午後3時頃帰ってきた。この人はパーディーニョ在住で、インターネットプロバイダーの会社を経営している。パーディーニョ・ロータリークラブのメンバーでもある。この町で、新しいプロジェクトに関する話し合いをするので、エドソンの同行と協力を求めてきたのだ。この話がうまくビジネスにつながるかどうかは、今の段階では、まだまったくの白紙状態だけれど、少しずつでも良い方向に展開して行ってくれればいいなと思っている。 | ||||
2009年9月22日(火) | ||||
ブラジルは、暦の上では今日から春!と言っても、日本のように四季がそんなにはっきりとしているわけではないので、お天気のいい日は冬でも暑い日もあれば、夏でも朝晩冷えることもあり、1日の内に四季があると言わているので、日本の感覚とはちょっと違う。春の初日である今日は、冷たい雨が降ったり止んだりの寒い1日になった。 カベレイレイロのヴァニアのところで、午後2時からの予約をして、カットとカラーをしてもらう。前回パラカンビの美容院に言って以来、2ヶ月ぶりになる。髪のカラーを始めてしばらくは、息子のニコラス(Nicolas)はお昼寝中だったけれど、カラーを終えて洗髪をして、カットの段階になると、起きてきてしまったので、それ以後はエドソンが彼と一緒に遊んでお守りをしてくれる。小さな子どもを抱えての客商売はなかなか大変だと思うけれど、この子は比較的よく言うことを聞いてくれるので、エドソンが相手でも比較的おとなしく遊んでいてくれた。ここの洗髪台も日本のようなリクライニング型ではなく、パラカンビの美容院同様、普通に座って、頭だけを洗髪台に乗せて洗ってもらうタイプだった。どうもこれがブラジルのスタンダードのようなので、洗髪してもらっているところを、エドソンに写真を撮ってもらう。
カットとブロードライが終わって、気に入ったかどうか正直に言ってというので、「ちょっと思ったよりも短くなったけれど、これでも大丈夫、気に入ったから」と言ったら、とても悲しそうな顔をして、カットを気に入ってもらえなかったから、値引きすると言って、カットとカラーの両方で28レアル(約1400円)のところを、25レアル(約1250円)しか受け取ってくれなかった。「短くても大丈夫だから。これから私はあなたの常連客になるから、心配しなくてもいい。値引きの必要はない」と何度言っても同じだった。パラカンビのホザーニのところではダークブラウンのカラーの場合は80レアルだったけれど、どうも色合いがこれまでのダークブラウンと違って明るすぎるので、2度目はその色を黒に変えたら、違う種類の染料だからと、90レアルも請求されたけれど、ヴァニアのところは技術の差はたいしてないのに、支払額がその3分の1で済むのは本当に助かる。パーディーニョには他にも数軒美容院があるようだけれど、私はこれからこのヴァニアのところに通うことに決めた。 | ||||
2009年9月23日(水) | ||||
今日は未明から強い風が吹き、ときどき強い雨を伴う暴風雨が襲って来る。前回のすごい暴風雨の時に少し似ているけれど、今回は雷がない分まだましだ。お昼頃になって、ようやくこの大きな雨雲が通り過ぎ、風と雨が収まってくれた。 9月11日付けのニッケイ新聞の記事に、ブラジルの石油埋蔵量は、50億バレルの可能性もあるという、次のような記事が載っていた。「石油埋蔵量専門の地質学者ジウセッペ・バコリ氏は九日、サントス大陸棚のグアラー油田の埋蔵量が岩塩層の組成から見て、ペトロブラス発表の二十億バレルを上回る四十億バレルはあるはずだと述べたことを十日付けジアリオ・ド・コメルシオ紙が報じた。同氏の学説が確認されるなら、ブラジルの石油埋蔵量は五十億バレルに上るようだ。」 今月上旬、中国新聞に送った7本目のリポートが、「小さな町の壮大なエコタウン構想 」と題して、9月24日付けで中国新聞のサイトに掲載された。中国新聞海外リポートのサイトは、こちらへ。 | ||||
2009年9月24日(木) | ||||
ここの暮らしの中にはいろいろな自然の音がある。その中で毎日聞こえて来て、気持ちを和ませてくれるのが、様ざまな鳥たちの鳴き声だ。この家の軒先に飛んでくるツバメのような鳥や、普通のスズメのような鳥は、鳴き声だけでなく姿もよく見かけるけれど、その他の鳥たちはどこにいるのか、姿は見えず、鳴き声だけがにぎやかに聞こえて来る。その中で私たちが特に気に入っているのは、「ハーハーハーハーハーハー」と、まるで笑っているように聞こえる鳴き声の鳥と、「ピュー、ピュー、チュン、チュン、チュン(2度目のピューの音程が高い)」を繰り返す鳥と、「ピー、ピー(2度目のピーの音程が高い)」を繰り返す鳥だ。笑っているような鳥は、たいてい朝グループで鳴いているので、その笑い声と共に起きることが多い。この声を聞くと、何だかこちらまで笑えて来ておもしろい。「ピー、ピー」を繰り返す鳥は、辺りが薄暗くなってから鳴き始め、夜中も鳴いていたりするので、一晩中鳴いているのかもしれない。「ピュー、ピュー、チュン、チュン、チュン」は、朝や昼間、不特定な時間に鳴き声が聞こえる。この他にもいろいろな鳴き声の鳥がいるのだけれど、言葉で表現するのが難しい鳴き声の鳥もいる。そんな訳で、毎日、バードウォッチングならぬ、バードリスニングを楽しんでいる。 この家の軒先に飛んでくるツバメのような鳥は、いつも高速で飛び回っているので、なかなか写真に収めることができなかったのだけれど、今朝、朝食の用意をしていたら、窓の外の電線に2羽止まっていたので、写真に撮ることができた。背中は真っ黒に見えるけれど、この黒い羽の下には濃い紫色の羽が隠れている。
| ||||
2009年9月25日(金) | ||||
ここ1週間ほどずっと、太陽が顔を出さないあいにくのお天気が続いていたが、今日は、ようやく朝から太陽が顔を出し、気温は低いものの、気持ちがいい。ドナ クレウザも今日は、モビたちの犬小屋を太陽の下に出して、犬小屋の中に敷いている汚れた毛布の洗濯を始めた。 今日は、マックス・フェファー文化センターのITコーディネーターのジュリアナからの連絡で、午後、郵便局などに寄って用事を済ませた後、文化センターに行く。彼女の方からこれまでのプログラムについて簡単な説明と問題の指摘があり、エドソンの助言を求めてきた。1時間余り話をして、いろいろ様子がわかったけれど、地元のニーズ調査が十分でなく、そのプログラムを受講した人たちが、実際の生活にどのようにそのコンピュータのクラスで学んだことを応用することができるのかというところまで考えていない点が、どうも問題のように思われた。 文化センターでの話し合いの後、食料品などを買い、家に帰る。パラカンビにいた時も、物の値段を示したことがあるけれど、今回も肉の値段を以下に書いてみようと思う。値段の単位はグラムではなく、キロで表示してあるので、私たちが何グラム買ったかに関係なく、キロ単位の値段を書いてみることにする。 牛また肉(Coxao mole)1キロ10.40レアル(約500円)、牛ひき肉(Patinho)1キロ10.10レアル(約500円)、豚肉ロース(Lombo)1キロ11.75レアル(約550円)、ベーコン1キロ9.4レアル(約460円)だった。 | ||||
2009年9月26日(土) | ||||
今朝6時に、エリカから電話があり、4時ごろお父さんが亡くなったと知らせてきた。今月上旬に、口から食事が摂れなくなり、再入院して点滴を受けていたので、今回はもう退院できないかもしれないと、覚悟はしていたのだけれど、やはりそうなったかという感じだ。 エドソンが起きてシャワーを浴びている間に、窓を開けてベッドメイキングをしていると、マウリシオが仕事に行くのが見えたので、呼び止めて、お父さんが亡くなったので、これからパラカンビに行くことを伝える。喪服代わりになる黒いズボンと白いシャツ、そして数日分の着替えをスーツケースに詰めて出かける準備をする。今日はサンパウロからウィリアムとジウダが来る予定なので、居間のテーブルの上のコンピュータなどを片付けたりしている間に、ドナ クレウザがお悔やみに来てくれたり、マウリシオから連絡を受けたウィリアムから電話が入る。 9時を少し回って、荷物を車に積んで出発。ここから高速に降りたところにあるホドサーブでアルコール燃料を満タンにして、車を洗ってもらい、ホドサーブを10時少し前に出発。パーディーニョを出発した際の気温は17度だったけれど、サンパウロ市を通過する際は22度、サンパウロ市を通過して、高速道路のアイルトン・セナにあるホドサーブで12時半頃、昼食休憩した際は27度になっていた。 パーディーニョを出て、約8時間でパラカンビの葬儀場に到着。私は日本の感覚で、今日はお通夜で、葬儀は明日以降だろうとばかり思っていたのだけれど、何と、私たちが到着した時には、すでに葬儀は終わっており、お棺のふたを閉めて埋葬するだけになっていた。私たちの到着を待って、お棺のふたを閉め、棺を近くの共同墓地に運び、家族のお墓に埋葬して、終わりだった。何ともあっけないお別れに、こんなものなのか?という感想を持った。それに、一応、喪服代わりになる服装を用意して行ったけれど、着替える時間も場所もなく、葬儀場に来ていた親戚や、友人、ご近所の人たちだけでなく、家族までも皆、まったくの普段着で、だれも喪服というものを着ていないのには、驚くと言うか、違和感を覚えた。暑い気候で、基本的に皆貧しいということから、徐々にフォーマルな手順が簡略化されて来たのかもしれないけれど、亡くなった大事な家族を送り出すのに、こんなものでいいのだろうか?と思ってしまった。 でも、何はともあれ、お父さんは半年間という寝たきりの闘病生活で、家族にお別れのための心の準備をさせてから逝ってくれたのは、彼の人徳だろか?と思う。エドソンは冷静に受け止めているけれど、大好きだった家族の要のお父さんを亡くし、心にぽっかり穴が開いたような感じだろうと思う。でも、これがブラジルに帰る前ではなく、帰って来た後で、短い時間でも、しばらくお父さんとの最期の時間を過ごすことができたのだから、私は良かったと思っている。 | ||||
2009年9月27日(日) | ||||
昨晩は家族で簡単な夕食を食べ、私達はファームの方に行って泊る。 このファームには日本では見かけない、いろいろ変わった植物がたくさんあるのだけれど、その極めつけはこのジャブチカバ(Jabuticaba)という名前の木かもしれない。ここにはジャブチカバの木が3本ある。この木は不思議な木で、9月頃この木の幹に、まるでコケがはえたように、白い小さな花が咲き、ブドウのような実がなる。今ちょうど花が咲いた後、実がなっている時期なので、写真に収めることにする。木の幹から直接緑色の実がなっているのが見えるけれど、これが熟れると、ブドウのような黒っぽい色に変わり、食べ頃になる。味はそれほど甘くはないけれど、ブドウに似たような味がすると言えなくもない。ただ、ブドウのように皮がつるりとむけたりはしないので、丸ごと口に入れて、種と皮を吐き出すような食べ方をしないといけない。
朝、ファームの散歩に行ったエドソンが、バナナの木に巨大なバナナの房がなっているのを見つけ、カメラを持って行き、写真に収めてきた。ここにいた時は、飽きるほど毎日バナナを食べていたけれど、パーディーニョはここほど土地が肥えておらず、風も強いため、ここにあるような様ざまな種類の植物が育ちにくい環境なので、バナナは店で買わないと食べられないのは、残念だ。
今朝はファームの近くの高速道路上にあるお店で、遅い朝食を食べてから、パラカンビの家に行き、家族で今後のことをいろいろと話し合う。途中、ご近所の友人がお昼を差し入れてくれる。昼食後に再度、家族会議を続け、いくつか合意に達する。夕方、母方の叔母さんのところに挨拶に行き、夜は、別の叔母さんの家族と夕食を共にする。 | ||||
2009年9月28日(月) | ||||
このファームの母牛の死産の後始末でお世話になった、ご近所のファームの管理人のミゲルに、今朝10時に来てもらう約束をしていたのに、時間になっても来てくれない。電話をしてもどこかに出かけていていないという。ここの残りの牛2頭を引き取ってもらう話し合いをしたかったのだけれど、エリカに後始末を頼むしかないようだ。 3月にパラカンビに来てすぐ、ノヴァ・イグアスにある連邦警察で、私の外国人登録をし、仮の登録証明書をもらい、半年後に正式な証明書を取りに来るように言われていたので、ちょうどパラカンビに戻ったついでに、連邦警察に行くことにする。それで、いつまでもミゲルを待っているわけにも行かず、10時半を回ってから、諦めてノヴァ・イグアスに出かけて行く。 あれからちょうど、半年と1週間経っているのだけれど、連邦警察に行くと、まだ証明書ができていないということで、仮の証明書の有効期間をもう半年延長してくれ、1月か、2月に再度来るように言われる。 お昼過ぎにパラカンビに戻り、エドソンの友人のフランシスコに連絡をすると、オフィスにいたので、一緒にお昼を食べることにする。お父さんのことやいろいろ話をして、その後、銀行に行かなければならなかったので、2時過ぎに失礼して、銀行に行くと、ATMは使えるようだったけれど、窓口業務はストのためやっておらず、ストライキ中の張り紙がしてあった。銀行のストなんて聞いたこともない。やれやれ。 その後、ジュッセリーノのところでエドソンの散髪をしてもらおうと思って行ったら、今日はお休みだった。土曜日には葬儀場に来てくれていて、棺を運んだりする手伝いをしてくれていたけれど、ちゃんとお礼を言う時間もなかったので、今日、お礼がてら、散髪してもらいながら、お父さんの思い出話でもすればいいと思っていたのに、残念。結局、今日パラカンビに来たついでに、片付けようと思っていた用事は、何もできず、とても非生産的な1日になってしまった。 パラカンビでは連日気温が30度を超える暑さで、特に今日は、真夏でもないのに、昼間の気温が37度にもなり、この蒸し暑さだけで疲れるような日々となった。 | ||||
2009年9月29日(火) | ||||
朝9時にパラカンビのファームを後にして、パーディーニョに向け出発する。出発の際、エライニが、私たちふたりがサンパウロに行ってしまってからこのファームがとても寂しくなったと、泣き出してしまう。エドソンが優しく彼女にいろいろ話しかけて慰めていたけれど、そもそも彼女を雇うことにしたお父さんが亡くなり、ファームの正式な所有者のエドソンもサンパウロに行ってしまい、心細い思いをしているのかもしれない。 リオデジャネイロ州からサンパウロ州に入り、12時半頃、高速道路のアイルトン・セナ上にあるホドサーブで昼食休憩を取り、アルコール燃料も満タンにしてもらう。その後サンパウロ市を通過するマージナル・チエテは、相変わらずの渋滞だったけれど、その他は順調に運転でき、7時間半後の午後4時半頃、パーディーニョのファームに戻ることができた。パーディーニョとパラカンビの往復約1200キロ弱を無事走り抜けることができたことを、心から感謝。 パラカンビを出る際の、朝の気温は22度だったけれど、パーディーニョに着くと、17度で、何だかとてもほっとする。 | ||||
2009年9月30日(水) | ||||
月曜日の夜、パラカンビのファームはとても暑く、夕立の後も、寝苦しかったけれど、昨日は、パラカンビの真夏の気温からパーディーニョの早春の気温に戻り、気持ちよく眠ることができたため、今朝はふたりともすっきりと目覚めることができた。朝食の後、私は溜まった洗濯物を2回に分けて洗濯し、エドソンはメールをチェックしたり、ニュースを読んだりという、のどかな日常が戻って来た。あいにくお天気は曇り空で、太陽が顔を出していないけれど、鳥たちの声は聞こえている。 午後からエドソンは、倉庫の無線室にこもって、今回、パラカンビから持って来た古い壊れた無線機の修理に熱中していた。夕食の際、戻って来て、壊れた無線機がまた使えるようになったと、うれしそうに話していた。私は留守中のブログを書いたり、パラカンビの方に届いていた郵便の整理をしたりして、のんびりとした時間を過ごす。 |
Home | Copyright (C) 2009 Kyoko Yoshida | Next |