Kyoko Yoshida | Life in Brazil | BLOG |
2009年6月1日(月) | ||||
今朝は8時55分から、エドソンの自動車学校での運転練習があり、その後エリカのお店の準備の続きをするので、今にも雨が降り出しそうな曇り空の中、8時にエドソンがひとりでパラカンビに出かけて行った。私は午後3時からデトラン指定のオフィスで心理テストを受けなくてはならないので、午後からひとりでパラカンビに行くことにした。でも、ひとりでバスに乗るのはいいとして、ひとりでバス停まで行くのは危ないから、お母さんかエライニにバス停まで送ってもらうよう頼んであげるとエドソンが言う。このファームから高速道路に出るまでのご近所さんは、みなエライニの家族や親戚の人たちで知っているので危なくはないけれど、高速道路を越えたバス停のある地域は、バス停のすぐ側にバーがあったり、変な人たちもいるから一人では危ないというのだ。そうかな?とも思うけれど、ここは彼の言う通りにすることにする。 朝のニュースで、リオ発パリ行きのエールフランス航空機が大西洋上で消息を絶ったらしいと、お母さんが朝食の時に話していた。この便は2年半前に休暇でブラジルに来た際、私たちが乗って帰る予定にしていたのと同じ便だ。その時は、エールフランスのストの影響で、この夕方発の便がキャンセルになったため、その一つ早い便で帰国したのだけれど、この便に一体何があったのだろう?などと、その時のエールフランスのサービスと対応の悪さを思い出しながら思ったりした。 エドソンが出かけて1時間ほどすると本降りの雨が降り出した。このところ夏が戻ってきたようによく雨が降る。私は洗濯物をベランダに移動させたりした後、エドソンが教えてくれた心理テストでやる様ざまな課題のやり方を復習したり、予想できる質問の答えを復習したりして過ごす。 お昼を過ぎた頃、雨が小降りになり、エライニが一緒にバス停まで行ってくれるというので、1時少し前に、エライニと二人で家を出る。エライニはこのファームにいる時は、いつも作業ズボンをはいて、野球帽を逆に被っているけれど、町に買い物に出かける際や、教会に行く際など、ファームを出るときはいつもスカートにはきかえる。今日は私をバス停まで送って行くだけなのに、やはりズボンからスカートにはきかえていた。いつもは男の人みたいだけれど、やはり女性なのだなと思う。 バス停まで行く道すがら、ずっと黙っているわけにもゆかないので、兄弟は何人?とか、お母さんが住んでいる家はどれ?とか、教会は何時から?とか、私がポルトガル語で聞ける範囲の質問を考えておしゃべりに努める。9人兄弟の大家族で、お母さんはうちのファームのすぐ側の家に住んでいて、親族のほとんどはこの一帯に住んでいるという。バス停の側のバーで働く女性のひとりは彼女のお姉さんだということもわかった。なあんだ。じゃあ、バーの側も危なくないじゃない。しかも、バーの斜向かいはエライニが行っている教会だし、このあたりはほとんど彼女の親族のテリトリーということだ。でも、最近、彼女の弟が夕方仕事の帰り、高速に下りたところにあるバス停を下りたところで、変な男の人に追いかけられたことがあるから、高速のあたりはこの辺の人ではない、よそ者がうろうろしていて危ないかもしれないんだと後でエドソンが説明してくれた。 バスに乗ってから、エドソンに電話をし、パラカンビのバス停まで迎えに来てもらう。一緒にエリカのお店に行き、エドソンが仕事を続けている間、エリカと一緒に東京の税務署に送る書類のコピーを取りに行き、それらを封筒に入れて、郵便局に出しに行く。予定通り、無事郵便の発送完了。お店に戻り、エドソンと一緒にデトラン指定のオフィスに行く。オフィスのドアに「Volto ja . (すぐ戻ります)」という張り紙がしてあり、ドアが閉まっているので、小雨の中、しばらく建物の前で待っていると、受付の女性が戻って来た。オフィスの中に入り、受付をして、受験料106レアル(日本円で約5000円弱)を支払い、私だけ別室に通され、早速、5枚のアンケート用紙のようなものとボールペンを渡される。このアンケートのようなものは、健康状態を聞いたり、家族との関係を聞いたりするもので、テストではないから単語がわからなかったら部屋から出てきて僕に聞けばいいと、エドソンが言っていたので、一応最後まで記入して、わからないところをエドソンに聞きに行ったら、受付の女性に怒られてしまった。エドソンが、「これはテストではないのだから、わからない言葉の意味を聞くぐらいいいじゃないか。僕が受験したときも、みんなお互いに質問し合ったり、外に出て質問したりしていたのに、何故、彼女はいけないんだ?」と、抗議したけれど、一切聞き入れられず、ひとりで回答するしかなく、どうしてもわからない単語もあり、何だか、とんちんかな回答をしてしまった箇所がいくつもあったように思う。 アンケートの記入を終え、しばらくして、マネージャー氏が到着したので、心理テスト開始。まず、健康状態とか、仕事は何をしているか、していたか、誰と暮らしているかなどなど、いろいろ質問されて、テストに移る。このテストは単純作業をさせて受験者がどの程度イライラする気性かを見たり、記憶力がどの程度かを見たりするもので、やること自体は難しくはないのだけれど、何をどうすればいいかの説明が、ポルトガル語だけではちょっと理解できないと思う。でも、エドソンに大体どんなことをしたかを教えてもらっていたので、ポルトガル語の説明がすべてわからなくても、何をすればいいかはだいたい理解できていたので、何とかこなすことができた。それぞれの課題に制限時間があるので、時間内にすべて回答できなかった課題もあったけれど、エドソンから、できればすべて回答するに越したことはないけれど、一番大事なのは、忍耐力だから、イライラしないようにと言われていたので、落ち着いて取り組んだ。1時間半あまりのテストが終わり、しばらくして採点が終わり、「合格です」と言われて、「あ〜、やれやれ、良かった〜」と、肩の荷が下りたような感じだった。 まあ、何とかなると思ってはいたものの、やはり、テストの前から緊張していたようで、テストが終わり、パスしたと聞かされた後は、思った以上にどっと疲労感を覚えた。視力検査は今日はなく、明日、午後1時にまたここに来て、受けるように言われる。何はともあれ、免許切り替えのための一番の大きな壁を乗り越えることができ、よかった。よかった。エドソンもとても喜んでくれた。 | ||||
2009年6月2日(火) | ||||
今日は雨ではないけれど、晴れたり曇ったりのはっきりしないお天気だ。午前中はいつものように洗濯などの家事をこなし、エドソンは洗濯機をパントリーに設置しなおし、修理後の試運転をしてみてくれる。やはりどうも完全にひびを塞ぐことはできなかったようで、1箇所わずかにまだ水漏れがあるようだ。明日、再度、ひっくり返して見てみるという。 12時頃、家を出て、ふたりでパラカンビに行く。1時前にデトラン指定のオフィスに行くと、何人もの人がすでにオフィスの中や外で待っている。私も受付を済ませて、エドソンと一緒に待っていると、20〜30分ほどして、視力検査をする担当の医師が到着し、登録順に名前を呼ばれて、検査が始まる。両目で装置を覗き込み、そこに見えるアルファベットをポルトガル語の発音で言わなければならない。今朝、エドソンと一緒にポルトガル語のアルファベットの読み方を復習したお陰で、間違わずに言えたけれど、アルファベットを右から読めばいいのか、左から読めばいいのか一瞬戸惑い、右から読み上げた。後からそのことをエドソンに言うと、それは日本流だと、笑われてしまった。そうか、英語やポルトガル語は左から読むのが普通だった。その他、ランプはいくつ見えるか?とか、何色のランプが見えるか?など聞かれ、「えーと、赤はポルトガル語で、vermelho」などと、考えながら応えるので、ワンテンポ遅れるけれど、何とか、間違うことなくすべて言うことができ、視力テストも無事パスした。後はエドソン同様、運転試験場での実技試験を残すのみとなった。 視力検査を終え、お父さんの家の隣に住む親戚のイザベウの所に行き、中国新聞の海外リポートに寄稿する記事のために、子どもたちの学校のことをいろいろ聞かせてもらう。子どもたちにもいろいろ質問に応えてもらい、その後、学校の制服に着替えてもらって、普段学校に行くスタイルで写真を撮らせてもらう。この子たちは素直でとても子どもらしく、本当にいい子たちだ。大学に行っているお姉ちゃんがいるので、インターネットを使ったりすることもあるようだけれど、ネット中毒ではなく、当然のことながら携帯電話は持っておらず、ビデオゲームにはまっているわけでもなく、身の回りに物が溢れているわけでもなく、子どもらしくのんびりした日々を過ごしている様子に、何だかほっとする。制服の写真は中国新聞用に使うので、別の日に撮った家族写真をここに載せることにする。大学生のお姉ちゃんのタビタ(Tabita)は、この家族写真を撮った時は、大学に行っていて留守だったので、彼女は写っていない。お父さんのベッチーニョ(Betinho、これはRobertoの愛称)は、トラックの運転手をしている。
この後、自動車学校に行き、再来週、エドソンが予約を入れている同じ日にエドソンのレッスン時間と前後して、私のレッスンを入れてもらうよう予約する。さらに、運転試験場での実技試験をエドソンと同じ7月5日で予約してもらうようお願いしてから、スーパーに買い物に行き、バスでファームに戻る。 運転試験場での実技試験は、ノヴァイグアスの試験場だとばかり思っていたら、私たちの場合は、新しく免許を取るのではなく、更新扱いになるので、リオの試験場まで行かなければならないらしく、こちらではどの試験場にも試験用の車というのはなく、各自動車学校が自分のところの車に生徒を乗せて行って、その車で試験を受けさせるらしい。だから、自動車学校にとっては、ひとりの生徒だけを連れて行くよりも、ふたり連れて行く方が経費の面で都合がいいので、受験者がエドソンと私のふたりになり、自動車学校にとっては好都合になったようだ。 | ||||
2009年6月3日(水) | ||||
今日も晴れたり曇ったり、はっきりしないお天気で気温も低めなので、エドソンは半そでのT-シャツの上から長袖のシャツを着て、私は夏物のカーディガンでは少し物足りないので、日本を出る前に着ていた冬物のカーディガンを着込む。ここもようやくパーディーニョの気温に近くなってきた感じだ。 昨日、今日と、最高気温が、それぞれ17度、16度と、涼しくなってきている。テレビのニュース番組を見ていても、女性アナウンサーの衣装がいつの間にか、夏服から、冬服のスーツ姿に変わっている。季節は徐々に冬に向かっているということか? エドソンは、エリカの店のコンピュータのソフト設定を完了させるために、お昼前に一人でパラカンビに出かけて行く。ついでに靴屋で、畑仕事により適したブーツを買いたいのでお金が必要と言って、いつもより少し多めにお金を持って出かける。私は家でお留守番。 この1週間足らずで、マーガリーダ(Margarida)の花が満開になった。まるでマーガレットの花のようだけれど、私たちが日本で知っている草花のマーガレットはここにも別にあり、これはそれとは違い、とても背の高い木に咲いている。
この時期、咲き始めた花がもうひとつある。カニシャボテンの花だ。5月頃から咲き始めるので、こちらではフロー デ マイオ(Flor de Maio、つまり五月の花)と呼ばれているそうだ。
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2009年6月4日(木) | ||||
昨晩、気温がずいぶん下がったようで、いつも使っている薄い掛け布団だけでは寒いので、夜中にエドソンが起きだして、タンスの中から毛布を出してくれた。毛布をかけるとやはり暖かい。昨晩のテレビの天気予報で、南極からの寒波が上がって来ていて、ブラジルの南部のサンタカタリナ州で、霜が下りたという意味なのか、植物が凍っている映像を見せていたけれど、こうやってブラジルは冬になるのだそうだ。つい1週間ほど前、パーディーニョから戻った時は、気温が37度と夏に戻っていたのに、急に気温が下がって、突然冬が始まったという感じだ。 今日は、エリカが午後から仕事を抜けることができるというので、彼女の仕事の後でバハのトヨタで落ち合って、私たちの車を運転してもらって一緒に帰ることにした。朝、エドソンと私は、いつものリオ行きの高速バスに乗り、リオに向かう。さすがに今日はバスに冷房が入っていない。でも、リオからバハまでのバスには冷房が入っていて、フリースのジャケットを着ていてもとても寒かった。バハのトヨタに1時前に到着。エリカとは1時半くらいに落ち合う予定だったけれど、職場を出るのが遅れ、バスがなかなか来なかったらしく、3時半近くになってトヨタにやって来た。その間、私たちは車引き取りの手続きをしたり、車のチェックを販売員の人と一つ一つして、いろいろな機能の説明をしてもらい、準備完了。エリカが到着するのを待って、彼女にオートマチック機能の説明をして、ようやくトヨタを出る。トヨタのすぐ近くのガソリンスタンドで、アルコール燃料を満タンにして、エリカに少しこの車の運転に慣れてもらうために、車の少ないバハの海岸をしばらく走って練習してもらう。 帰りはラッシュアワーと少し重なったため、途中数箇所渋滞があり、帰宅に少し時間がかかったけれど、何もトラブルなく無事に、パラカンビのファームに到着。まだ、私たちの免許の切り替えが完了していないので、しばらく、このまま運転できないのだけれど、とにかく、無事、私たちの車が到着したので、エリカとお母さんと、エライニも呼んで、みんなで乾杯をする。 エリカは今日、職場に車を置いてバハに来てくれたので、明日の朝はバスで仕事に行かなくてはならない。ごめんね。エリカ。そして、ありがとう。 | ||||
2009年6月5日(金) | ||||
今日は朝からいいお天気。家の中はひんやりしていて、冬物のカーディガンでちょうどいいけれど、戸外の太陽の下に出ると、暖かい。作業を始めると暑いくらいで、カーディガンはまったく必要ない。というか、カーディガンを脱いでも汗が出る。日本の冬と違い、こちらは、朝夕は気温が下がるけれど、昼間はお天気さえ良ければ暑いのか?この温度の落差には驚いてしまう。 お母さんとエライニがマンジョーカを掘っていて、巨大なマンジョーカに行き当たった。普通のマンジョーカの数倍の大きさで、重さが3キロぐらいありそうだ。普通サイズのマンジョーカと並べて写真を撮ってみる。こんなに大きいと硬くて、このまま食べるには向かないので、お母さんが粉にして、ファラファなどに使うカサバパウダーを作ってくれるとことになった。
午後からエドソンが洗濯機を再度ベランダに出して、水漏れの箇所を調べてくれた。ふたつ椅子を並べて、その上に洗濯機を乗せ、エドソンが洗濯機の下から覗いて、私が上から水を入れ、水漏れ箇所を調べた結果、ようやくどこから水が漏れているかを発見。ひびを塞ぐ接着剤での補修箇所が1箇所だけ完全に補修できていなかったようだ。また、洗濯機をテーブルの上に横にして、乾燥させてから、接着剤を使って補修してくれることになった。 サンパウロのリベルダージに行った際、浅漬けの素を二袋買って帰ったので、以来、白菜、にんじん、きゅうりなどを浅漬けにしてみると、浅漬けの素が多すぎたり、少なすぎたりと、さじ加減が少し難しいものの、結構いける。2〜3日前から、エドソンがコウビを漬けてみてくれないかというので、今日、畑からコウビとアウメイラオン パウリスタ(いずれもケール)を採って来て、漬けてみる。白菜のことをこちらではコウビ シネザ ミシヒリ(Couve Chinesa Michihilli)と言い、コウビと同じ種類の葉物野菜という扱いなので、おそらく大丈夫だろうと思う。コウビは量が多くて、夕方までには漬からなかったけれど、アウメイラオン パウリスタの方は量が少なかったので、十分漬かったようなので、早速、夕食時に試食してみる。京菜や広島菜のようになるかな?という想像通りとはいかなかったけれど、エドソンはすっかり気に入ったようだ。アウメイラオン パウリスタの強い味が残り、私は今ひとつかな?と思ったのだけれど、エドソンはこの味がいいと言う。この味は人により好き嫌いがはっきりわかれるのかもしれない。コウビの方はアウメイラオン パウリスタほどには強い味がない葉なので、おそらく私はコウビの方がおいしくできるのではないかと想像している。 | ||||
2009年6月6日(土) | ||||
エドソンが、エリカの店のコンピュータのソフトの設定に手間取っていて、今日もお昼前から行って作業をするというので、私も一緒にパラカンビに行く。 パラカンビの中心にはパラカンビ駅があり、その西側の道路に沿って、いろいろなローカルバスや高速バスの停留所が並んでいる。バスが頻繁に発着するので、この通りがパラカンビで一番混雑している。駅の南側は、以前は貨物列車を止めておくための場所だったらしいのだけれど、今では中央公園になっている。中央公園の北側のメインストリートの方からこの中央公園の写真を撮ってみた。駅はこの公園の向こう側にある。写真の左側の木の下の小さな建物は雑誌や新聞を販売しているお店で、写真の右側の電信柱のすぐ横にある丸くて青い色のおかしな形のものは公衆電話。最近では携帯電話が普及しているので、公衆電話を使っている人はあまり見かけないけれど、少し前までは自宅に固定電話の回線を引くにも、申し込みから何年も待たなくてはならなかった時代があったので、公衆電話はあちこちにみられる。ちなみにサンパウロ州で見かけた公衆電話は形は同じだったけれど、色は青ではなく、レモンイエローのような黄緑色だった。
この中央公園内にはいつも、ココナツ水(Agua de Coco)を売る屋台や、ポップコーン(Pipoca)を売る屋台がいくつも出ている。ポップコーンの種類は甘いカラメルを混ぜたものと、塩味のものがあり、塩味のものには炒めた分厚いベーコンが入っているものもある。PIPOCAS do LUIZ NOTA 10と看板を出しているポップコーンの屋台を写真に撮ってみた。PIPOCAS do LUIZ というのはこの屋台の名前、つまり、「ルイスのポップコーン」という意味で、NOTA 10というのは、グレードが10点という意味で、つまりおいしいということを言いたいのだと思う。屋台の下の車輪のところにTEMOS CARTAO TELEFONICO.(テレホンカードあります)という看板が出ているので、公衆電話はテレフォンカードでもかけられるようだ。
エリカの店に行く途中、白いかわいらしい鳥が民家の塀に止まっていたので、写真を撮る。ここでは日本では見かけない様ざまな鳥を見かける。とてもいい声で鳴く野鳥もいて、それを捕まえて鳥かごに入れて、家の軒先に下げて、鳴き声を楽しんでいる人も少なくない。雑貨屋さんで鳥かごを売っているのをよく見かける。
エドソンがコンピュータの作業をする間、私は暇にまかせて、インターネットのニュースを読んだり、店の外の通りを眺めて過ごす。この通りはメインストリートではなく、民家が多いのだけれど、結構人通りがある。お隣にはハチミツや、プロポリスといったハチミツ関連商品を売っているお店がある。エドソンの友人のお父さんがやっているので、ここで作業をしていると、よくこのお父さんが覗きに来ておしゃべりをして行く。この人は元海軍の軍人さんで、海軍を退役した後、この店を開いて商売しているのだそうだ。海軍時代から趣味でハチミツ栽培をしていたそうで、ハチミツのことにとても詳しい。このお店とは反対側に少し行くと、先月私が行った美容院もある。 ブラジルではどこに住んでも、都市ガスはなく、ガスはプロパンガスを使っている。パラカンビの町に来ると、リオデジャネイロ州の州歌のメロディーを流しながらプロパンガスを販売して回っているトラックをよく見かける。このトラックが店の前を何度も通るので、写真を撮った。トラックの上のお兄さんが怪訝な顔をしてこちらを見ている。町外れのファームには、トラックではなく、バイクが警笛を鳴らしながらプロパンガスを売りに来る。
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2009年6月7日(日) | ||||
昨日は1日暖かかったので、T-シャツ1枚で良かったけれど、今日は晴れたり曇ったり、少し気温が低く、カーディガンを着ていないとスースーする。 ここでの毎日の生活の中でよく聞くポルトガル語の表現に、「ヴェン カ(Vem ca.、カにアクセント)」というのがある。これはCome here.のことで、私たちが出かけようとすると、キキがついて来ようとするので、お母さんがキキに向かって、Vem ca, Kiki. Vem ca!と言って、キキが私たちについて行かないようにするためによく言うのだ。この表現は犬に向かって言うだけでなく、もちろん人に向かっても使うことができる。テレビのノベラ(連続メロドラマ)の中でもよく耳にする。 ポルトガル語のクラスで、数字を習った際、6はseisと習ったけれど、こちらでは電話番号など数字を伝える際、6をseisと言うことはめったにない。その代わりにmeiaと言う。日本語で「いち」と「しち」が紛らわしいので、「しち」を「なな」と言うのと同じで、seisは3のtresと音が似ているので、meiaと言って、区別するらしい。もちろん半分という意味で、meia dia(正午)、 meia noite(夜中の12時)、 meia hora(30分)という言い方にも、このmeiaは使われている。 そして、お母さんたちが話しているのを聞いていると、文章の頭に頻繁に「アーイー(Ai.、イーにアクセント)」という表現をくっつけているのをよく耳にする。これはAnd then.つまり「それから」と言って、話を続ける際に使う表現らしい。最初はaqui(ここ)、ai(そこ)、ali(あそこ)、la(向こう)の、「そこ」という意味の aiかと思っていたのだけれど、それではどうも意味が通らないので、エドソンに確認してみると、日本語でも何か話し始める前に、「あの〜」とか、「ええと〜」など、特に意味のない言葉を添えるのと同じように、さして意味のないつなぎ言葉なのだそうだ。それから、「痛い!(英語でOuch!)」という時に、「アイ!(Ai!、アにアクセント)」と言っている。日本語にも一つの言葉がいろいろな意味を持つものがあるけれど、ポルトガル語にも似たようなものがあるようだ。 | ||||
2009年6月8日(月) | ||||
今日もまた、お昼前からエドソンがパラカンビのエリカの店に行って、作業をするというので、私もついて行く。私は行ってもやることはないのだけれど、スーパーで買い物をしたかったので、一緒について行くことにする。 午後4時頃、今日の作業が一段落したところで、店を出て帰宅する際、お隣のハチミツのお店のベト(Beto、Robertoの別の愛称)さんの所に行って、写真を撮らせてもらう。元海軍の退役軍人ということだけれど、船に乗っていたわけではなく、リオの海軍基地で仕事をしていたので、パラカンビから毎日通っていたのだそうだ。船に乗らない海軍さんというのも珍しい。
彼はとても気さくでおしゃべり好きで、写真を撮らせてもらうだけのつもりだったのに、仕事のことをいろいろ話してくれ、お店の中の奥のパッキングをする部屋だの、いろいろ作業をする部屋まで見せてくれた。次の写真はハチミツを分離機で抽出した後、48時間寝かせて、純度を高めるためのタンクの部屋だそうだ。
次の写真は、別の部屋で、ハチミツを抽出する分離機や、サンパウロの研究所から取り寄せているというユーカリやハーブ類の抽出液の入った瓶が並んでいる。このお店ではただハチミツをそのまま販売しているのではなく、これらの抽出液と調合して、風邪をひいたときなどに食べると効果のあるハチミツを作ったり、いろいろな用途に合わせてハーブ類の抽出液を混ぜてここで調合して製品を作るのだそうだ。どの部屋もとても衛生的に管理されていて、作業をする際は、靴の裏も消毒して入るようになっていた。エドソンはよく風邪をひくので、ぜひここで販売しているプロポリスや風邪に効くハチミツを買わなければと思う。
この他、養蜂家のための蜂の巣箱まで売っているのには驚いた。そして、彼のお店の商品はどれも品質が良く、政府の認証を受けているのだそうだ。お店の回りも定期的に消毒することになっているらしく、ちょうどお店を出て失礼しようとしている時、完全防備の格好をした人が消毒液を撒きに来ていた。 アメリカで蜂がいなくなる現象が起きているということを、だいぶ前に聞いたことがあるけれど、ブラジルでも同じようなことがあるのか聞いてみると、ブラジル南部では多少同じようなことが起こっているようだけれど、アメリカほど深刻な状態ではないということだった。 写真1枚のつもりが、思いがけず時間がかかってしまったので、急いでスーパーに行き、買い物を済ませて、日が暮れて真っ暗になった中、バスでファームに戻る。 | ||||
2009年6月9日(火) | ||||
洗濯機のひびを塞ぐ接着剤が完全に乾いたのを確認して、昨日の朝、洗濯機をパントリーに戻したので、今日、2日分の溜まっていた洗濯をする。洗濯機だと、当然のことながら、自動で洗ってくれるので、洗濯機を動かしている間も、他の用事ができるので助かる。洗濯機購入から約2ヵ月半、ようやく洗濯機が使えるようになり、感謝。感謝。今日はお天気も良く、洗濯日和だ。 また、また、よく耳にするポルトガル語の表現に、「イーソ(Isso.、イーにアクセント)」という言い方がある。これは英語で、That's correct.(その通りです)という意味。英語ではYes, that's right.または、Yes, that's correct.とYesを頭に付けるけれど、ポルトガル語では肯定する際に、YesにあたるSimという言葉を添えることはめったにないようだ。 また、お店(例えば、薬局など)で、「あれと、あれをください」などと言って買い物をして、お店の人にSo isso?と聞かれたら、So isso.と繰り返す表現がある。この「ソー イソ(So isso.)」に?マークを付けて店員さんがSo isso?と言えば、Is that all?(それだけですか?、他に何か?または、それで全部ですか?)の意味で、お客のこちらが、So isso.と言えば、That's all.(それだけです)という意味になる。お店でのやり取りでとてもよく耳にする表現だ。 | ||||
2009年6月10日(水) | ||||
エドソンはあと少しでエリカの店のコンピュータの設定が完了するらしく、今日もお昼前からひとりでパラカンビに出かけて行く。明日からサンパウロ州のアチバヤ(Atibaia)に住む、デマーコ(De Marco)とシオック(Siok)夫婦のところに遊びに行くことにしたので、私は家で、明日からの旅行の仕度をすることにする。明日はこちらでは、キリスト聖体祭(Corpus Christi)という祝日なので、デマーコたちは金曜日も休暇を取り、合わせて4連休の週末にしたので、遊びに来ないかと、誘ってくれたのだ。 車はあるものの、事故の際、国際免許では保険が下りないので、今回もバスで行くしかない。まず、サンパウロのチエテターミナルまで行き、そこで、アチバヤ行きのバスに乗り換えて行くことになる。チエテからは30分置きにアチバヤ行きのバスが出ているらしいので、夕方までには着けるだろう。彼らに会えるのが楽しみだ。 | ||||
2009年6月11日(木) | ||||
朝、6時起床。バックパックの荷物をまとめて、7時少し前に家を出てパラカンビに向かう。パラカンビのバス停に8時10分頃到着するリオ行きのバスに乗り、リオに向かう。リオのホドビアーリアには9時半少し前に到着。まず、Cometaというバス会社の切符売り場に行き、カンピナス(Campinas)行きの時間を確かめると、10時発はもう満席で、次は13時半までないというので、先月サンパウロに行った際乗ったExpressoというバス会社の切符売り場で、前回同様10時15分発のサンパウロ行きのバスの切符を購入。カンピナス行きのバスに乗れれば、途中のアチバヤで降ろしてもらえるので乗り換えの必要がなく、時間の節約になると、デマーコがわざわざバス会社に電話で確認して、昨夜知らせてくれていたのだけれど、残念。でも、チエテまで6時間、チエテからは1時間で、アチバヤに着けるのだから十分だ。 チエテのホドビアーリアは前回も書いたけれど、とてもきれいでわかり易く、空港のように整然としている。午後4時半のアチバヤ行きの切符を買うことができたので、バス乗り場に急ぐ。バス乗り場は空港の搭乗ゲートのように番号が付いていてとてもわかり易い。
チエテからアチバヤまでは、リオからパラカンビまでの距離と変わらないのだけれど、料金は11.45レアル(日本円で約500円)と、リオ=パラカンビ間の16.35レアル(日本円で約750円)よりも安い上、所要時間もリオ=パラカンビ間の70分に比べ、60分弱と短く、バスのグレードもリオ=パラカンビ間のバスよりも良く、乗り心地がいい。利用者が多いからバスの便数も多く、料金も安くできるのだろう。 パラカンビからリオまでのバス料金は14レアルなのに、リオからパラカンビまでは16.35レアルと料金が違うのは、例えば、成田空港から飛行機に乗る際、空港使用料のようなものを払わないといけないのと同じで、リオのホドビアーリアでも使用料のようなものが切符の料金に加算されるようになっているのだ。 5時半少し前にアチバヤに到着。デマーコ(De Marco)がアチバヤのホドビアーリアまで、車で迎えに来てくれ、彼らの家に行く。晩ご飯はパンを焼いているところだから、と、みんなで台所に直行し、できるまでの間、テーブルを囲んで、シオック(Siok)が作った焼き菓子やナッツをおつまみに、お茶を飲みながらおしゃべりに花が咲く。最近、自動パン焼き機を買ったので、それにはまっているのだそうで、今晩もそれでパンを焼くことにしたらしい。しばらくすると台所の片隅のパン焼き機からおいしそうなパンの焼ける匂いがしてきた。 8時頃、パンが焼けて、それを食べ始めた頃、ブウィ(Bwee)とマーコス(Marcos)が、農家から直接買ったというおいしそうな有機栽培のいちごを山ほど、そして、ミナス(Minas)という名前のフレッシュチーズと、グアバフルーツで作ったゴヤバダ(Goiabada)という甘いようかんのようなお菓子を持って、やって来た。このちょっとうっすら塩味のフレッシュチーズと甘いゴヤバダを一緒に食べると絶妙な味になるので、「ロミオとジュリエット」と呼ばれているのだそうだ。それらを晩ご飯のメニューに加え、10時過ぎまで、みんなでわいわいがやがや食べたり、おしゃべりをして過ごす。この人たちはいつもこうやってとても暖かく私たちを迎えてくれる。 レントゲン技師のブウィは、明日がマンモグラフィーによる乳がん検診キャンペーンの最終日なので、忙しいらしく、明日の夕飯は彼女たちの家でスープをご馳走してくれるという約束をして、10時過ぎに帰っていった。 | ||||
2009年6月12日(金) | ||||
昨晩11時過ぎまでおしゃべりをして、それからシャワーを浴びてベッドに入ったので、疲れていたせいか、今朝は何と、目が覚めたら9時過ぎだった。気温が低いので、ベッドの中のぬくもりがとても気持ちいい。デマーコは9時にジョギングに行くと言っていたけれど、トレーナーがまだ来ないからと、台所で朝食の仕度をしてくれていた。今朝はバターブレッドをパン焼き機で焼いてくれていた。今年の検診でコレステロール値が少し高かったので、最近、トレーナーについて、週2回のジョギングを始めたのだそうだ。私たちが朝食を食べ始めた頃、若いトレーナーの男性が到着し、ふたりでジョギングに出かけていった。私たちはシオックと3人でのんびりおしゃべりをしながら、食事を続けていると、1時間程してふたりが戻って来て、水を飲んで一服した後、家の外のベランダでストレッチなどの運動が始まった。デマーコは、本当はジョギングもこういう運動も嫌いなので、ひとりでは絶対にできなけれど、こうやって専門家の人について一緒にやってもらうから何とかできるんだと言っていた。
彼の運動が終わった後、4人でアチバヤにあるぺトラ グランジ(Petra Grande)という山まで行ってみることにする。この山は巨大な岩が盛り上がってできたような感じで、頂上付近は岩盤がむき出しになっている。頂上にはおかしな形をした岩が見える。
アチバヤは、サンパウロから北に約1時間程のところにあり、間に山がいくつもあるので、サンパウロの汚染された空気はここまでは来ないらしい。でも、山に囲まれた盆地にあるので、夏は暑いようだ。山の上からアチバヤの町を一望できる。あいにく、今日はお天気が悪く、雲が低く垂れ込めて、アチバヤの町は霞んで見える。この町には特にこれといった産業はなく、サンパウロの街の混雑や治安の悪さを嫌った、経済的に比較的豊かな人たちが多く移り住んで、ここからサンパウロに通勤しているらしい。つまりサンパウロのベッドタウンのような町なのだ。
私たちが立っているぺトラ グランジの標高は、1400メートルと高いので、無線機を持って行こうと、家を出る前にエドソンと楽しそうに話していたデマーコは、早速、パーディーニョのウィリアムと無線で話し始めた。パーディーニョの標高は約1000メートル。お互い受信状態が良く、声がはっきり聞こえるようだ。
山の上は寒いから暖かくして行った方がいいと言われ、ジャケットを着た上からウィンドブレーカーを着込む完全防備で行ったお陰で、それほど寒いとは感じなかった。この後、山を下りて、ちょっと寄り道をして、2時ごろ家に戻る。 「お昼は魚だよ。」と言って、デマーコがサーモンを調理する準備を始める。40センチくらいの大きなバットでもちょっと入りきらないような大きなサーモンのお腹に、日本で見かけるものの2倍くらいの大きさのケーパーをたっぷり詰めて、オリーブオイルをたっぷり振り掛け、塩もコショウは使わず、オーブンで焼くだけの簡単なものだけれど、とてもおいしいのでびっくり。いいサーモンが手に入ったら、今度うちでもやってみようと思う。 デマーコとシオックの夫婦には、子どもが3人いて、上のふたりが男の子で、一番下が女の子。現在、3人とも、サンパウロやサンカルロスの大学に行っているので、家には夫婦ふたりしかいない。平日はおそらくふたりとも仕事が忙しく、ちゃんと食事を作ったりできないから、週末はこうやってふたりでのんびり食事を作って食べるのだろう。デマーコは台所で手馴れた感じで、とてもよく働く。彼らの家に来るのはこれで2度目だけれど、いつもデマーコがメインの料理を作っている。サーモンができ上がると、例のパン焼き機で、デザートのチョコレートケーキを焼く準備まで始めた。エドソンはお肉料理を作ったり、具沢山のスープを作ったりするのは得意だけれど、さすがにデザートまでは作らない。 でも、彼らの作業はおしゃべりをしながら、食べ物をつまみながら、ぼちぼちのんびりとするので、お昼を食べ始めたのは3時半過ぎ。6時過ぎに、ブウィから夕食のスープの仕度ができたからいらっしゃいと電話が入ったころに、ようやく台所の片付けを始めていたような状態だった。ブウィからの電話で、デマーコがパン焼き機で作った熱々のチョコレートケーキを持って、4人でブウィの家に行く。 さっきまでお昼を食べていたのに、今度は夕食。ちょっと、お腹にゆとりはないけれど、せっかく作ってくれたのだからと、いただくことにする。スープで簡単な夕食になるのかと思っていたら、何と、3種類のスープ鍋がテーブルに並び、フランスパンまである。わあ〜、こんなに食べられない。1つ目は見た目はコーンクリームスープのような黄色いスープだけれど、マンジョーカのスープ。2つ目はポルトガルソーセージとコウビのスープ。3つ目は牛肉と野菜の具沢山スープと豆のスープがひとつになったスープ。実はこれは、4つ目のはずの豆のスープをお手伝いさんが勘違いして、牛肉と野菜のスープに混ぜてしまったので、4種類用意する予定だったスープが3種類になったのだそうだ。
1種類だけいただくつもりが、とてもおいしいので、ついつい2種類のスープをいただいてしまった。さすがにパンと3杯目のスープは遠慮したけれど、デザートのいちごのタルトまで食べている自分にびっくり。牛肉と野菜のスープの中に黄色いさつま芋のようなものが入っていたので、聞いてみると、マンジョキーニャ(Mandioquinha)という外見はジャガイモのような、食べた感じはさつまいものようなお芋だった。
ブウィとマーコスの夫婦にも、大学生の息子と娘がいて、息子は医学生、娘はビジネス専攻で、デマーコのところの娘と同い年なので、姉妹のように育ったのだとか。この週末は家に戻って来ていて、一緒に夕食を食べたのだけれど、デザートは食べずに、早々に着替えてデートに出かけてしまった。年頃の娘を持つ親として、ふたりとも気がもめるようだ。 10時過ぎにデマーコの家に戻ると、エドソンとデマーコがコンピュータの前に座り込み、新しく開発しようとしているSDRのシュミレーションを始めた。アマチュア無線の仲間として知り合ったふたりなので、こうしてアマチュア無線のプロジェクトのことを話している時が一番楽しそうだ。
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2009年6月13日(土) | ||||
毎週土曜日の朝、ブウィとマーコスは、散歩をすることにしているから、みんなで一緒にと誘われ、8時過ぎに家を出て15分ほど歩くと、ベーカリーの前でブウィが手を振っている。ここから合流してもう少し歩くのかと思ったら、ここで合流して一緒に朝食を食べることになっていたらしい。ブラジルでは、私たちの知っているフランスパンとは程遠い、コッペパンのような形をした、フランスパンとコッペパンの中間のようなパンを、フランスパン(Pao Frances)と呼んで、朝ご飯に食べるのが一般的だけれど、4人はここで、このパンにバターを塗ったものと、カフェ コン レイチ(Caffe com leite、つまり、カフェオレ)を飲むのが常のようで、このいつものパターンですでに注文済みなので、エドソンと私は陳列に並ぶペストリーを見に行き、ペストリーと、エドソンはカフェジーニョとオレンジジュース、私はミルクの入っていないコーヒーを注文した。散歩にかこつけて、こうやってベーカリーで朝食を食べることがメインだったのかな? ブウィが、今朝起きて台所に行くと、ダイニングテーブルの上にきれいな花束が、花びんに入れられて置かれていたので、ご主人のマーコスからの贈り物かと思ったら、娘のファビアナ(Fabiana)が、昨日のデートの相手からもらったものだったと、半分冗談ぽく、半分心配そうに話していた。昨日はブラジルではバレンタインデー、というか、正式には、ジア ダス ナモラードス(Dia das namorados、つまり、恋人たちの日)だったので、てっきりマーコスからの贈り物だと思ったらしい。 この朝食後、さらに町を歩き、いろいろ小さなお店が集まっている市場に連れて行ってくれた。日本食材を売る小さなお店に入って、浅漬けの素がないか聞いてみたけれど、それはリベルダージに行かないとないと言われてしまった。日本の旅館などで出される典型的な朝食の話の中で、エドソンが朝ごはんに魚が出てくるのだけはどうもだめだったと言う話をしたので、それはどんな魚かとブウィが知りたがり、お店であるかどうか聞いてみてというので、聞いてみたけれど、やはりめざしや干物の魚などもそのお店にはなかった。でも、ボトゥカトゥでマウリシオが連れて行ってくれた店よりも断然豊富な品揃えだった。 そして、この市場には魚屋が2軒もあり、リオでは見かけない、切り分ければすぐお刺身になるような大きなマグロのかたまりや、大きなエビなど、いろいろな種類の魚が売られていた。マグロは主に日系の人たちが食べるらしい。八百屋にも様ざま種類豊富な野菜が売られていた。ここは、リオよりも食生活が豊かなようだ。 今日は、夕方からこの市場の裏の駐車場で日系人会主催の盆踊りがあるということで、広場の中央にやぐらが作られ、側にあった大きなダンボールの箱にはちょうちんがたくさん入っていた。市場の建物の側では、婦人会の人たちが盆踊りで販売するてんぷら、巻き寿司、焼きぞばなどなどといった食事の準備に追われていた。この婦人会を取り仕切っているますみさんという元数学教師の女性は、ブウィとマーコスが毎週土曜日の午後参加している、ダンスサークルのお仲間らしく、私たちを紹介してくれ、今晩来るからと約束していた。 ここからスーパーに立ち寄ったりして、さらに歩き、ようやく帰宅。お昼はファイジョアーダ(Feijoada、黒豆を肉やソーセージと一緒に煮込んだ煮豆をメインにして、ご飯、コウビ、ファラファ、オレンジなどを付け合せた豆料理のこと)だからと、デマーコたちはお料理の準備を始めた。途中で立ち寄ったスーパーにいいコウビがなかったので、家に一旦帰ってから、別のスーパーに行ってみるとシオックが言うので、私はシオックについて行くことにする。何故か今日はいいコウビがなく、2軒目のスーパーでようやく見つけて買って帰ると、エドソンとデマーコは、ニンニクを刻んだり、ソーセージを切ったりと、忙しく作業をしていた。
2時間くらいかけてお料理が出来上がり、ブウィ、マーコス、ファビアナ、そして、今日、サンパウロから戻ってきたシオックたちの娘のマリリア(Marilia)も加わって、にぎやかな昼食が始まった。フェイジョアーダの時は大鍋でたくさん作るので、大勢で食べないといけないのだそうだ。
昼食が終わり、娘たちふたりは若者たちのパーティーがあるからと出かけて行き、私たちおじさんおばさんの6人は、アチバヤで唯一ワインを造っているワイナリーを覗きに行くことにする。ワイナリーと聞いて、カリフォルニアにあるようなおいしい料理を出すおしゃれなレストランや試飲のできるショップが併設されているような場所を想像していたら、寂れたような古い建物の、おしゃれでもなんでもない田舎の小さな小さなワイナリーだった。ここで造っているのは、フルーティーな味のする若いワインで、ボトルを開けて日にちを置くと味が変わってしまうというような種類のワインだそうだ。でも大瓶でまとめて買うと安いので、デマーコたちは時々買うらしい。大きなワイン樽が並ぶ部屋を覗いて、写真を撮っていると、デマーコがおどけて一番大きな樽を持ち上げるポーズをしてくれた。
この後、ブウィとマーコスのお宅に行き、豪邸を見せてもらう。大きなお宅だけでなく、プールにテニスコートまである。プールの側にはシュハスコ(Churrasco、ブラジルバーベキュー)ができる施設や、リビングルーム、シャワールーム、来客用のベッドルームまである。お医者さんがお金持ちなのは世界共通のようだ。ブウィの家のプールサイドから昨日行ったぺトラグランジの山が遠くに見えた。右端のおかしな形をした岩山がぺトラグランジ。
一旦、デマーコの家に帰り、夕方から盆踊りに出かけるまでの間、少し休憩することにする。一昨日からずっとフル稼働していたので、ちょっと疲れた。2時間ほど横になることにする。7時頃、ブウィとマーコスが車で迎えに来てくれたので、4人で盆踊りの会場に行く。デマーコとシオックは疲れたからと、家に残ることになった。 盆踊り会場に着くと、人でぎっしり。やぐらの周りで若い人たちや子どもたちが何だか変な音楽に合わせて踊っている。これは盆踊りじゃないけどなあ。そして、何故、冬に盆踊りなのだろうと思っていたら、6月はアチバヤの町ができた記念日のある月なので、それに合わせて毎年この時期にやっているのだそうだ。
私たちは、やぐらの方には行かず、食事を販売している店の側に並んだテーブルのひとつに、ブウィが目ざとく知り合いの日系の歯医者さんの山田先生と奥さんを見つけたので、そのテーブルまで行って、私たちを紹介してくれた。少し立ち話をしていたら、若い人たちが座っていた横のテーブルが空いたので、そこに座って話を続けていると、せつおさんという同じくダンスサークルのお仲間が、ピンガにしょうがを入れて暖めたケンタオン(Quentao)というお酒と、いろいろなドライフルーツが入ったビーニョ ケンチ(Vinho Quente、つまり、ホットワイン)を持ってきてくれたり、私が広島出身だとわかると、ブラジル人の女の子と結婚してここに来て住んでいる日本の人が、確か広島からだったと言って、浩二さんを連れてきて紹介してくれたり、ますみさんが焼きそばを持ってきてくれたりと、至れり尽くせりの歓待を受けた。まさかアチバヤで8年前に来て暮らしているという広島県出身の人に出会うなんて思いもよらないことだった。浩二さんが、やぐらで太鼓をたたかないといけないからと言って、やぐらに行って少しすると、典型的な盆踊りの音楽が太鼓に合わせて聞こえてきた。
この催しで、みんな食事を買うために長い行列を作って並んでいるのに、こんなふうに行列に並ぶこともなくいただいていいのかなあ?と思いつつ、お昼に食べたフェイジョアーダがまだお腹に残っている状態で躊躇しながら、でも、せっかくだからと、箸をつけると、この焼きそばがとてもおいしい!リオの日本食レストランで食べた焼きそばよりもずっと具沢山で味もおいしかったので、ついつい全部食べてしまった。この食欲は一体何なんだろう?自分でもちょっと信じられない。 10時頃デマーコの家まで送ってもらい、ベッドに直行と思っていたら、また、デマーコたちと話に花が咲いてしまって、12時近くになって、ようやく寝ることにする。彼らといろいろ話し出すと、とてもおもしろくて、話が尽きない。 | ||||
2009年6月14日(日) | ||||
デマーコたちは日曜日は必ずサンパウロの教会に行くので、一緒にと、誘われていたのだけれど、教会に行けば、パラカンビに帰る時間がなくなり、今日はサンパウロに1泊しなければならなくなるので、いろいろ悩み、どうしようかと思っていたのだけれど、超活動的な3日間を過ごした後、いささか疲れたので、朝食の時に、申し訳ないけれど失礼すると伝え、彼らが教会に行く途中のチエテのホドビアーリアで落としてもらうことにした。ブウィたちとは教会で落ち合うことになっていたので、挨拶をせずに帰るのは気が引けるし、彼らは私たちを自分たちの教会に連れて行くのを楽しみにしていたので、本当に申し訳なかったのだけれど、今回はパスすることにした。 チエテで10時発のバスの切符を購入し、岐路に着く。このターミナルはどこに何があるかという表示がはっきりと出ていて、とてもわかり易い。
今回もリオまで行かず、パラカンビの入り口で降ろしてもらうことができたので5時間のバスの旅で済み、3時過ぎには帰宅することがでたので、幸いだった。帰宅して溜まった洗濯物の一部を洗濯して、ベランダに干したり、夕飯の支度をしたり、バタバタとして過ごす。まだ明るいうちに帰宅できたので、家事をする余力が残っていて助かった。 | ||||
2009年6月15日(月) | ||||
昨日は、大物のジーンズなどを洗濯したので、今日は、その他のT-シャツなど溜まった小物の洗濯に精を出す。洗濯機があると本当に助かる。洗う分量が多いときには特に助かる。くどいようだけれど、これは切実に感じる。午前中は、洗濯、掃除などの家事に勤しみ、午後は、アチバヤに行っていた間に撮った写真をコンピュータにダウンロードしたり、4日分のブログを書いて過ごす。とても中身のいっぱい詰まった4日間だったので、書くことがたくさんあって、時間がかかる。でも、アチバヤ訪問はとても楽しい有意義な時間だった。私たちがパーディーニョに移ってからの生活に関しても、いろいろ助言やヒントをもらうことができた貴重な訪問だった。 盆踊りの会場で、ケンタオンなどを私たちに振舞ってくれ、ずっといろいろ話をしてくれたせつおさんは、2歳のときに6歳のお兄さんと一緒に、両親に連れられてブラジルに来たそうだ。彼も、彼の日系の奥さんもどちらもエンジニアで、アチバヤからサンパウロに通勤しているらしい。20代の息子さんたちは、ひとりはまだ大学生で、もうひとりは大学を終え、やはりエンジニアとして仕事をしているという。 「ここは日系の人たちが多くて、日本語が通じるからいいですね」と、言うと、「だから、うちの母親はいまだにポルトガル語が話せないんだよ」「買い物や普段の生活は日系の中だけで済んじゃうし、最近はテレビもNHKが見れるからね」という返事が返ってきた。「でも、お母さんがポルトガル語を話せなかったら、子どもたちの学校との連絡とか困ったんじゃないですか?」というと、「子どものことはほったらかしさ」「僕たちは僕たちだけでがんばるしかなかったんだよ」と言う。「日系の人たちはどうしてそんなに勤勉で、がんばって来れたんでしょうね?」と、聞くと、「それしか生きる道がなかったからね」「これはヨーロッパからの移民もみんな同じだよ。国で貧しくて生活して行けないからブラジルに来たんだから、ここで生きて行くしかなかったからね。国に残っている親戚に対する見栄みたいなものもあっただろうしね」「親には、農業は親の代だけ。お前たちは学校に行ってがんばれといわれてきたからね」 移民の人たちは大なり小なり様ざまなエピソードを持っているものだけれど、アメリカで知り合った日系の人たちも、ここブラジルで出会った日系の人たちも、本当によくがんばってきたとつくづく頭が下がる。 このような彼ら自身のがんばりで、ブラジルの日系人は、勤勉で、正直で、信頼できる人たちという評判をブラジル社会で築いてきた。様ざまな野菜や果物を作り、ブラジルの食生活を豊かにしてきた。そして、専門職の人を多く排出し、社会に貢献してきた。ブラジルの日系人は130万人ほどと言われているけれど、これは全人口の1%にも満たない。それなのに大学に行く日系人の学生の割合は人口比とは比べものにならないくらい多く、アチバヤで出会った人たちもほとんどが高等教育を受け、専門職に携わる人たちだった。そしてみんな気さくで親切。勤勉と正直に、気さくさと親切が組み合わさったら、それに勝るものはない。 | ||||
2009年6月16日(火) | ||||
今日は午前10時過ぎからパラカンビの自動車学校で、エドソンと私の運転練習が相前後してあるので、ふたりでパラカンビに出かけて行く。練習開始まで少し時間があるので、銀行でファームの電気代の支払いを済ませた後、自動車学校に行く。まず、私から最初に運転をする。ブラジルでは町中の道路に、アメリカの住宅街と同じように、車を減速させるための、こぶのような隆起した場所があちこちにある。日本にはないものなので、ここをどのように運転するかを確かめて、実技試験の際、減点されないようにしないといけない。こぶの手前で、スピードを落とし、常にギアをセカンドに落とし、足をクラッチから離して、こぶを通過しないと減点になるそうだ。パラカンビの町をあちこち走り回り、普段行くことのない地域をいろいろ見ることができた。 その後、エドソンと交代して、彼はパラレルパーキング(平行駐車)の練習に集中する。手順を憶え、スムーズに運転を行わないといけないのだけれど、ハンドルが重く、一苦労だ。ウィンカーもハンドルを回す度に消えては付け、消えては付けと、忙しい。実技試験の規定では、パラレルパーキングを完了した後、また、すぐに車を出すという流れで行い、車を出す際、窓から頭を出して確認しないと2点減点など、とても細かい。でも、こういう実技試験のコツを教えてもらうために練習にきているのだから、ありがたい限り。 練習の後、自動車学校のマネージャーに、7月5日の実技試験の確認が取れたかどうかを確かめたが、まだ確認が取れていないと言う。1ヶ月も前に、一番早く受けられるのはこの日ということで、予約を入れたはずなのに、何故、いまだに確認が取れないのか理解に苦しむ。カリオカは簡単なことでも、ああでもない、こうでもないと言い募って、問題を複雑にする傾向があるけれど、このマネージャー氏も何だかよくわからない人だ。 その後、お昼を食べて、デトランのパラカンビ車検場で仕事をしているエドソンの友人のところに行ってみたけれど、今日はお休みで、明日は来るはずということだった。自動車学校の対応がどうもいまひとつはっきりしないので、このデトランに勤務する友人にいろいろ確認してもらおうと思ったのだ。また、明日出直すことにする。 ファームに戻ると、お母さんがパラカンビに行く準備をしていたので、今から行ったのでは、帰りが夜遅くなるけれど、今日はお泊りかな?と思っていると、エライニの従兄弟がトラックに乗ってファームにやって来た。お母さんは荷物と一緒にパラカンビに運んでもらうために、彼が来るのを待っていたらしい。と言うことは、ようやくお母さんもお父さんの所に帰る気になったというわけだ。お母さんがお父さんの家に戻り、お父さんの介護を毎日手伝ってくれることをエドソンは望んでいたので、これはめでたい。それで昨日は部屋でごそごそ片付けをしていたのか?何の前触れもなく、いきなりのこの急な展開には驚いたけれど、まずは良かったと思う。 | ||||
2009年6月17日(水) | ||||
今日も朝一番から自動車学校でふたりの運転練習だ。今日はまず、エドソンから。少し運転して、パラレルパーキングの練習をするためのポールが立ててある場所に行き、何度も何度も繰り返し練習する。インストラクターの人は、実技試験の試験官と同じように、車の外に出て、エドソンが規定通りに駐車の手順に従っているか、減点対象となることをしていないかを確認している。昨日と同様、朝は涼しいので、長袖のシャツを着ているのだけれど、時間が発つにつれ気温があがり、車の中は暑くなってきた。エドソンは額にたっぷり汗をかいている。 次に、エドソンが私に駐車の手順を説明してくれ、私がやってみる番になった。アメリカに住んでいる時に何度もパラレルパーキングをしていたので、経験はあるけれど、実技試験で決まった手順を順番に憶えて、その通りに寸分の狂いもなくするのはなかなか難しい。何度も繰り返し練習し、だいぶスムーズにできるようになってきた。インストラクターの人は、これなら明日にでも試験を受けられるねと、冗談を言っているけれど、それなら、7月5日と言わず、もっと早い日程で試験を受けられないのか確かめてほしいと、エドソンが頼んでいる。 運転練習の後、デトランのパラカンビ車検場で仕事をしているエドソンの友人のホブソン(Robson)のところに再度行ってみる。次の自動車の実技試験が本当に7月5日なのか、私たちが本当にパラカンビの自動車学校からこの試験のために登録されているのかを、彼のつてを頼って、調べてもらうことにした。仕事中だったけれど、何箇所か電話をしてくれ、デトランのシステムにエドソンの登録番号があることは確認できた。まあ、それはあって当然。別の町の自動車学校の知り合いを通じて次の試験日を確認してみて、わかったら知らせてくれることになった。
午後からは、フランシスコの事務所に行って、中国新聞の海外リポートに添える写真を撮らせてもらうことになった。前回取材させてもらって以来、原稿はできているのだけれど、彼が忙しくてパラカンビを留守にすることが多く、写真を撮らせてもらえなかったため、リポートが送れない状況が続いていたのだ。しかたなく、写真撮影の機会を待っている間に、別のリポートを書いて、そちらの方を先に送り、やりくりしていたのだけれど、ようやく写真を撮らせてもらえることになった。 フランシスコは午後から事務所にいるということなので、お昼を彼の事務所の近くでゆっくり食べて、時間を潰すことにする。パラカンビにはランショネッチ(Lanchonete)やパステラリーア(Pastelaria)という軽食を食べる場所はいろいろあるけれど、ちゃんとしたレストランはあまりなく、特に昼食を食べられるレストランは2〜3軒くらいしかない。ここはそのうちの1軒だ。いつもパラカンビに来たときは、ランショネッチでパステウ(Pastel)とフルーツジュースで簡単なお昼を食べるのだけれど、今日はゆっくり時間を潰さないといけないので、ここでちゃんとしたお昼を食べることにする。 このレストランは、パラカンビの町の中でも、環境のいい大学のキャンパスのすぐ近くにあり、店のすぐ前には公園があり、車が行き交う道路に面していないため、視界が開けていて気持ちがいい。このレストランの斜め前にあるパラカンビ市営の子どもサッカー練習場の前に、馬に引かせた荷馬車が止まったので、写真を撮る。パラカンビの町ではごく普通にこういった馬に引かせた荷馬車を見かける。モダンな車と、昔風の荷馬車のコントラストがおもしろい。
午後1時になったので、フランシスコの事務所に行って、写真を撮らせてもらう。これで4本目の海外リポートも準備ができた。そして、ついでに、私たちがパーディーニョに行った後、このファームをどうするのが一番いいかも彼に相談してみる。誰かに貸し出せば、ファームを維持する経費が賄え、収入も得られると思ったのだけれど、ブラジルでは貸主よりも借主の権利が尊重されるそうで、借主が数年そこに住み続け、法的手続きを取れば、借主に所有件が発生したり、そういうことにならないまでも、一旦人に貸すと、そこから立ち退いてもらうことはとても難しいらしく、人に貸したりするのはあまりいい考えではないということがわかった。このファームを売るか、このままエライニにお給料を払って、世話をしてもらい、野菜や果物を売って多少の売り上げを出してもらうようにして、月に1度くらい様子を見に来るようにするしかないようだ。ファームを売るにしても、今すぐ売るよりも、近々このファームの前にちゃんとした道路ができるという話があるので、それができてから売る方が価値が上がるので、しばらくはやはり、今のままで行くしかないのかな?フランシスコが道路建設の話は確認してみてくれるという。 | ||||
2009年6月18日(木) | ||||
昨日パラカンビに行った際、お昼を食べたレストランの近くの通りにある、鳥かごや、犬小屋、ドッグフードなどといったものを売っている雑貨屋さんで、デデ(Dede)のための新しい首輪を買ったので、ついでにお店の写真を撮る。この店の向かって右側は壁にも書かれている通り、サイバーカフェ。ここにはコンピュータが5〜6台並んでいて、いつも数人の大学生が利用している。ここは大学から一番近いインターネットカフェなので、学生にとっては利用しやすいのだろう。
パラカンビには技術系の短期大学が2校と、4年生の大学が2校、そして、音楽大学が1校あり、これらはみなこのお店の近くの、元繊維工場の敷地内の建物をキャンパスとして利用している。このキャンパスに来ると、よく楽器演奏の練習をしている音が聞こえる。ここから南に2キロ弱のところにある、パラカンビ駅の横の中央公園では、バイオリンなどの楽器を入れたケースを持って歩く学生をよく見かける。おそらくこの音楽大学の学生なのだろう。下の写真は、元繊維工場、現在、大学になっている建物の正面。
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2009年6月19日(金) | ||||
今朝、デトランのパラカンビ車検場で働くホブソンから連絡があり、知り合いの別の町の自動車学校の人に、運転の実技試験がいつあるのか調べてもらった結果、試験は月に1度、次の試験は7月22日で、7月5日という試験日はないということがわかったという。つまり、パラカンビの自動車学校のマネージャーは嘘をついていたということか?でも何故?そんな嘘をついて、一体何の得があるというのだろう? 4月末にエドソンがこの自動車学校に、登録してもらいに行った際、外国免許からの切り替えというのは初めて扱うケースなので、どうしたらいいかよくわからないなどと言い、登録しようとしてくれないので、何度も何度もプッシュして、後日デトランからもらった問合せ先の電話番号まで渡したのに、のらりくらりと要領を得ず、3週間も待たされた結果、度重なる交渉で、ようやく、どうやら教習を受けない人を実技試験に登録してもお金にならないということがネックになっているらしいので、エドソンはマニュアルの自動車の運転はしたことがないので、それに慣れるためにも何度か教習を受けるからと最初から言っているだろう?と説得して、まず3回分の運転練習の予約を入れた。 5月中旬の最初の練習の後で、インストラクターが実技試験の登録をして日程を決めようと言ってくれ、マネージャーに登録を頼んだ結果、1ヵ月半も先の7月5日で仮登録をしたと言っていたのに、まったくの嘘だったのか?しかも、その翌日くらいに、エドソンに電話をしてきて、外国免許の切り替えは新規取得ではなく、更新扱いになるから、ノヴァイグアスの試験場ではなく、リオの試験場まで行かなくてはいけないので、お金がかかると言ってきた。なんだか胡散臭いとは思いつつ、費用がかかるなら、いくらかかるのかはっきり言ってくれと頼んでも、今日現在、その費用のことに関しては、いまだにはっきりしたことがわからない状態なのだ。何ともいい加減で、胡散臭いマネージャーの言動に不安を募らせていたのだけれど、それが的中してしまったのか? そして、月に1度なら、6月の試験にまだ間に合うのではないかと言ってホブソンに確かめると、6月の試験はもう終わっているという。さらに、この別の町の自動車学校の人は教習を受けなくても、うちから登録すれば、試験日にひとり400レアル(日本円で約2万円弱)で車を出して連れて行ってあげると言っているという。ひとり400レアルだなんてとんでもない金額なので、その件については後で返事をするから待ってくれ。実技試験を受けるために必要な書類も今の自動車学校に渡してあるのだし、再度、確認をしてみるからと、ホブソンに頼んで一旦電話を切る。まるで人の弱みに付け込んで一儲けしてやろうとでも思っているかのような、この吹っかけ値に、ちょっと疑心暗鬼になってきた。 一体、誰を信用したらいいのかわからなくなり、エドソンはデトランのいろいろな部署に電話をかけまくり、やっと、免許更新のための実技試験場の人と話すことができ、確認すると、試験は月に1回ではなく、頻繁に行われているけれど、外国免許の切り替えのための試験はその内何回あるのか、その人は具体的にはわからないということだった。ここではちゃんとした情報を得ることが信じられないくらい難しい。さらに、パラカンビの自動車学校は、仮登録から1ヶ月も経つのに、デトランからの確認が来ないから、試験日が確定しないといっているのだが、そういうものなのか?と聞くと、どの自動車学校もコンピュータからオンラインで簡単に登録できるはずだから、デトランからの確認などを受け取ったりする必要はないはずだ。こちらから自動車学校に電話をして確かめてみると言ってくれた。 午前中、エドソンは電話にかかりっぱなしだったけれど、広島の兄が2週間も前に航空便で送ってくれていた転送郵便物の小包が、やっと届いたという連絡が午前中あったので、午後からパラカンビまで取りに行くことにする。お父さんの家に行くと、兄からの小包の他に、私の最初の海外リポートの記事が、短縮されて転載された5月26日付けの中国新聞の夕刊紙2部が送られて来ていた。メールでも新聞の画像をすでに送って来てくれていたので、実際の夕刊紙まで送られて来るなんて思ってもいないことだった。中国新聞のこのきめ細かい対応はさすがに日本ならではだと思う。ブラジルではあり得ないことだ。そして、もうひとつ、広島の友人が暮らしの手帖を送って来てくれていた。暮らしの手帖から直接送られて来ているので、最初は何だろう?と思ったけれど、中を開けてみると、彼女からのプレゼントだと言うカードが入っていて、納得。運転の実技試験の日程が、またさらに2週間以上も先になったことに加えて、免許切り替えの見通し自体がとても怪しくなって来たことに、とても落ち込んでいたので、これらの郵便を受け取り少し慰められた。感謝。感謝。 ファームに戻り、兄からの転送郵便物をひとつひとつ確認、処理し、夕飯の仕度をしていたところ、自動車学校のマネージャーからエドソンに電話があり、デトランから連絡があり、試験日は7月22日だということが確定したけれど、エドソンは別の学校から登録されているため、コンピュータシステムがブロックされて、うちからは登録できないと言って来た。400レアル払って別の自動車学校に頼むかどうかの回答は待ってくれるよう、ホブソンを通じて頼んだはずなのに、エドソンの許可なく無断で登録をするなんて、何てことだ!そして、電話をしてきたマネージャーはエドソンがデトランに連絡をしたこと、しかも、他の学校から登録していることに腹を立てているようで、自分の嘘は棚に上げて、暗に、「こんなことをしてどうなるかわかっているだろうな」というような意味合いの、表現は違ったのだろうけれど、脅しともとれるようなことを言ったらしく、問題がさらに複雑になってしまい、まるでアリ地獄にでも足を踏み入れてしまったような気分になってきた。 このマネージャーのことだから、私たちの書類を破り捨てて、破棄してしまうことすらあり得ないことではない。そんなことになったら、これまでの日々はまったく無駄な時間になってしまい、また3ヶ月以上も前の振り出しに戻ってしまう。考えただけでも恐ろしい。ここではあり得ないことがごく普通に起こることを今まで嫌と言うほど経験してきたので、不安が募る。私たちはなんと無力なんだろう? ホブソンの知り合いの別の町の自動車学校の人に登録を取り消してもらうために、ホブソンの携帯や自宅にエドソンが何度も電話をするのだけれど、まったくつながらない。状況を簡単に説明して折り返し電話をくれるよう留守電にメッセージを残しても、連絡がない。ここの人たちはどうしてこうも不正直、不誠実で、ビジネスをビジネスとしてちゃんと処理できないのだろう?正しい情報がほしいと頼んだだけなのに、まるでこの機会を利用してやろうとでもいうように吹っかけてきて問題をより複雑にしてしまったり、友人から再三電話が入っていることを知りながら、メッセージを残しているにもかかわらず、何故それを無視することができるのだろう? パラカンビの自動車学校から登録するのがいいのか、別の学校から登録するのがいいのか、という問題以前に、どちらも信用できなき状況で、まるで、前に進むことも後ろに引き返すこともできなくなってしまい、何ともいえない無力感と、人間不信に、ふたりとも襲われてしまった。特に、エドソンは、ここで育った同じブラジル人として、まったく理解不能なここの人たちを相手に、彼らの最悪の行動や、言動に振舞わされ続けて、精神的にほとほと疲れてしまったようで、途方に暮れて、ひどく落ち込んでいる。 洗濯機の件も疲れる出来事だったけれど、洗濯機はなければないで、お金を無駄にしただけで済み、生活はして行ける。でも、免許の切り替えは私たちのここでの生活の基本中の基本で、これがないと私たちの生活自体が成り立たないほど深刻な問題だ。この免許の切り替えができなければ、私たちはいつまでもここから抜け出せず、ブラジルでの本当の生活をいつまでたっても築くことができない。パーディーニョに引っ越すこともできないし、エドソンの職探しの結果、面接をすると連絡をもらったとしても、その面接に行くことすら困難だ。運良く採用すると言われても、この中途半端な状態でここから動くことができないのだから、就職を棒に振ることにもなりかねない。免許は絶対に必要なのだ。今の状況は、それを人質に取られて、身動き取れなくなっているような最悪の状況だ。 私は、ここの人たちはつくづく「井の中の蛙」だと思う。外の世界を知らず、みんながやっていることだから、いい加減な生き方も、いい加減だという意識がまったくなく、そういう生き方しか知らず、それが普通だと思っている。そして、「約束」という言葉の持つ重みがまったく感じられない。社会が未成熟なのか?ラテンとアフリカの融合の結果なのか?よくわからないけれど、過激な言い方をすれば、私にはここの人たちはほとんど風土病とも言えそうな精神疾患に罹っているとしか思えない。 | ||||
2009年6月20日(土) | ||||
昨夜は、横になってもふつふつと沸いてくる怒りや、不安や、徒労感に苛まれて、ふたりとも眠れない一夜を過ごしたけれど、朝になると、ふたりとも少し気持ちが落ち着いていた。落ち込んだときには、たとえ眠れなくても、寝るに限る。 エドソンは、朝一番で、ホブソンの自宅と携帯に、私の携帯を使って電話をしたけれど、やはりつながらない。エドソンの携帯からだと彼からだとわかるので、わざと電話に出ないのかもしれないと思い、私の携帯を使ったのだけれど、ダメだったようだ。 今朝も自動車学校での運転練習があるので、脅しとも取れるマネージャーの電話の後で、自動車学校がどんな対応をするのかと、恐る恐る出かけて行くと、マネージャーはおらず、デトランから連絡があったことで、事務の人たちもインストラクターの人たちも、何がどうなっているんだと関心を寄せているようだ。エドソンが状況を簡単に話して、他の自動車学校から間違って登録されたのを取り消そうとしているところだと説明する。 練習の後、実技試験が7月22日と1ヶ月も先に延び、練習した手順を忘れてしまいそうなので、直前にもう2回ほど練習する予約を入れて、ホブソンの働いている車検場に行く。今朝、自動車学校に行く途中、車検場にたくさんの車が止まっていたのがバスから見えたけれど、お昼を過ぎているので、ほとんど車がいなくなっている。数人のスタッフだけがおり、ホブソンはいなかった。今、あんたたちがここに入ってくる途中ですれ違った車がホブソンの車だよと教えてくれ、パラカンビのフィットネスジムに行ったんだから、そこに行けば捕まるよと、親切に教えてくれた。 車とすれ違ったのは気づいたけれど、窓にはフィルムが張ってあるので、こちらからは中が見えない。でも、中からは外を歩いている人間は見えるはずだ。一体どういうことなんだろう? 急いで、パラカンビの中心部までバスで取って返し、ジムに行くと、ホブソンがとても驚いた顔をして私たちを迎えた。彼の知り合いのお陰で、問題が拡大して困っていること、無断でした登録をすぐに取り消してもらいたいことを伝え、すぐに電話をしてもらい、こちらの意向を伝えてもらう。きっと誤解したんだよと、軽く言い訳していたけれど、この状況でそんなことはとうてい信じられないと私たちは思う。電話をしてこちらの意向を伝えてもらったからといって、まだ事が解決したわけではなく、本当にすぐ取り消してくれるかどうか不安が残る。デトランに連絡したこともホブソンに伝えると、少し顔色が変わったらしいので、そこのところに望みを託すしかないか? この後、ランショネッチでお昼を食べ、スーパーで買い物をして、ジュッセリーノのところでエドソンの散髪をしてもらい、自動車学校に再度行き、登録の取り消しを頼んだことを伝え、ちゃんと取り消しが実行されていて、ここからの登録が可能かどうか確認してもらうことにした。でも、土曜日はデータの入力はできても、変更内容の確認は月曜日までできないということで、月曜日にまた出直して確認してもらうことにする。 まだ、はっきりと取り消しが確認できておらず、ここの自動車学校からの登録も完了していないので、到底安心はできないけれど、少なくともホブソンを捕まえることはできたので、昨晩の危機的状況とパニック状態は峠を越した。ただ、ちゃんと登録できたとしても、マネージャーがとんでもない料金をふっかけて来る可能性も否定できないので、不安な状況に変わりはない。 | ||||
2009年6月21日(日) | ||||
昨日は眠れない夜を過ごした後で、1日駆けずり回ったので、今朝は目が覚めたら9時近くになっていた。疲れていたのだと思う。でも、これは眠れた証拠でもあり、睡眠不足で疲れていると考え方も悲観的になりがちなので、朝寝坊をすることができてよかった。 エリカには沢山友達がいるけれど、彼女の場合、広く浅くといった感じで、人生について語り合ったり、困ったときに親身になって助けてくれたり、いろいろなことを相談できるような真の友達がいるかというと、大いに疑問だ。一方、エドソンは友達の数は少ないけれど、彼の友達との付き合いは深く長い。そして、今回のことを通じで気が付いたのだけれど、彼の仲のいい友達はほとんどが大人になってからできた友達で、子ども時代からの友達というのはもちろんいるけれど、小さな町で生まれ育っているにしては、とても少ないように思う。そして、この大人になってからできた友人たちはほぼ例外なく、留学などで海外生活を経験しており、知的レベルも高く、信頼できる人たちだ。つまり「井の中の蛙」ではない人たちだ。本人が意識していたかどうかは疑問だけれど、彼はここの人たちの気質に昔から拒否反応を示していたのではないかと思う。だからこそ広い世界に飛び出して、これまでの人生の半分近くを、アメリカや日本で生活することになったのではないかと思い至った。 今回、せっかく帰国したのに、普通のブラジル人ですらおそらく経験しないであろうと思われる、ここの人たちの最悪の気質に際限なく振り回され続ける状況に直面し、気力が失せそうになるのも理解できる。でも、私にとって救いなのは、彼が、この独特の気質をここの人たちと共有しておらず、私と感覚や価値観を共有しているとういうことだと思う。 | ||||
2009年6月22日(月) | ||||
先週の火曜日にパラカンビのお父さんの所に帰って行ったお母さんが、昨日の日曜日の午後、息抜きに週末はここで過ごすと言って戻って来た。パラカンビに帰ってまだ1週間にもならないのに、、、 乾期になり、ぼうぼうに生い茂っている草が枯れ始め、火事になったら危ないので、ファームのフェンスの内側の草を幅1メートルほど、フェンスに沿ってぐるりと取り除いてもらう作業を頼んでいた人が、約束どおり今朝8時10分前に来て作業を始めてくれた。ちゃんと約束を守る人もいてくれて、ちょっとうれしい。乾期になり、草が枯れ始めると、いたずらで火をつけて回る人たちがいるらしく、通りすがりにフェンスの外に火をつけるので、フェンスの中に防火用の緩衝帯がないと、ファームに被害がおよぶこともあるため、フェンスの内側にぐるりと草の生えていない防火用の緩衝帯を作っておくといいのだそうだ。先日もバスでここに帰ってくる途中にあるファームの入り口辺りの草が燃えていたけれど、これもきっと誰かが火をつけたに違いないとエドソンは言っていた。
今日の午後、パラカンビの自動車学校に行き、別の自動車学校からの登録が取り消されていることを確認することができた。よかった。これで1つ問題解決。でも、ここから新たに登録手続きができるのはマネージャーだけで、そのマネージャーがまだ来ていないから、登録できないというので、登録が完了したら電話をしてもらうよう約束を取り付けて、郵便局、銀行、スーパーなどで用事を済ませて、ファームに戻る。 ファームに戻ると、お母さんが、今、ジャカ(Jaca、つまり、 ジャックフルーツ)が木から落ちてきたんだけれど、食べる?と聞くので、木から落ちたジャカを見に行き、そのままの状態でつぶれたジャカの写真と、果肉だけを取り出した写真を撮り、味見してみる。グラビオラとはまた違った味だけれど、これも濃厚な甘い味の果物だ。木になっているところを写真に撮りたかったのだけれど、シーズンは終わってしまっているらしく、他には見当たらなかった。何故これだけいつまでも木にあったのか不思議だ。この写真の下の緑色のトゲトゲした部分が外皮で、中心にパイナップルと同じような芯があり、これを中心にして果肉がついていたらしいのが何となくわかる。
この実の中はすべて食べられるわけではなく、細いひものように見える部分は食べられない。食べられる果肉の部分だけを取り出したのが、下の写真。この実のひとつひとつに種が一つずつ入っている。
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2009年6月23日(火) | ||||
5月にサンパウロのリベルダージで買ってきた浅漬けの素を、3週間足らずで使い切ってしまうと、エドソンが、浅漬けの素に入っている材料を適当に応用して作ってみてというので、何が入っているのかよくわからないけれど、昆布と塩は確実に入っていると思い、大きなタッパーの中に、昆布を小さく切ったものとコーヴィをざく切りにしたものを入れ、塩を少し降り掛けて、タッパーのふたをしてから、浅漬けを作る要領で、タッパーを前後左右にしっかり振って、しばらく冷蔵庫に入れて、時々、取り出してはタッパーを振る作業を数回繰り返していたら、何とか、浅漬けのようなものができた。一番最初のものは塩を入れすぎて、しょっぱくなり過ぎてしまったけれど、2回目からは塩を減らしたので、まずまず食べられるものができた。エドソンが合格点をくれ、せっせと食べてくれるので、以来、作っては食べ、作っては食べを繰り返している。このコーヴィの漬物を細かく刻んでご飯に混ぜてみると、野沢菜の漬け物を刻んだものをご飯に混ぜたような感じになり、結構いける。これでおむすびを作ってみると、おいしい!簡単にお昼を食べたいときにちょうどいい。 | ||||
2009年6月24日(水) | ||||
ここでは、いろいろな手続きをする過程で、それが何であれ、とにかくとても時間がかかるので、少し前進しては待たされることの繰り返しをしているうちに、もう3ヶ月半が過ぎようとしている。そしてようやく、免許の切り替えも後一息となったところで、またゴールが遠のいてしまった今、ここで発想と気分の転換を図り、この待ち時間をさらに有意義に楽しむことにした。 ここに来てすぐの頃、エリカたちと週末を、近場のミゲルペレイラ(Miguel Pereira)に行って過ごそうと話していたのだけれど、お父さんの入院があって、ずっと実現していなかったので、私たちふたりだけでヴァソーラス(Vassouras)経由で行ってみることにした。今の私たちには時間はあるけれども、懐具合にはゆとりがないので、ローカルバスに乗って、のんびり行くことにする。 まず、朝、ゆっくりとファームを出て、パラカンビの町のバス停からヴァソーラス行きのローカルバスに乗る。料金はひとり6.80レアル。日本円で約300円弱。ヴァソーラスはパラカンビから北へ約1時間20分ほどの山の上(標高430メートル余り)にある。途中、エンジェネイロ パウロ ジ フロンチン(Engeneiro Paulo de Frontin)と、メンデス(Mendes)という山の中の小さな町を通り、ヴァソーラスのホドビアーリア(Rodoviaria、バスターミナル)に到着。 ブラジルでは19世紀の初めごろからコーヒーが商品作物として本格的に生産されるようになったそうで、リオデジャネイロ州沿岸部を出発点に、同州内のヴァソーラスを中心としたパライバ川流域から、ミナスジェライス州、サンパウロ州などに拡大して行ったようで、ヴァソーラスはかつて「コーヒーの首都」として栄えたという。現在は、当時の農場主の邸宅などが歴史的な建造物として保存され、観光地になっている。 ホドビアーリアから歩いて15分くらいのところにイグレジャ マトゥリース(Igreja Matriz)という教会と、その前に広がるプラサ バラオン ド カンポ ベロ(Praca Barao do Campo Belo)という公園があった。ブラジルの町は、一般的にこのように町の中心に教会と公園があって、その教会と公園を中心に町が広がっている同じような作りになっている。でも、ここの教会と公園のたたずまいはひときわ美しい。この町の人口は2万5000人と、パラカンビの4万5000人よりもずっと少ないけれど、こんなきれいな教会と公園があり、パラカンビにはないホドビアーリアもあったりして、小さな町なのに活気があり、ずっと洗練された感じだ。
この公園は市民の憩いの場のようで、多くの人たちが座っておしゃべりしていたり、行き交っているけれど、そのすぐ側で、いろいろな種類の野鳥が芝生の上をちょこちょこ歩いていたり、木から木に飛び交っていたりするので写真に撮ってみた。
次の写真のお腹の部分が白い鳥は、以前パラカンビの町で見かけて、写真を撮ったものと同じ種類のようだ。
この公園の横に、カザ ダ クウトゥーラ(Casa da Cultura)という観光案内所のような建物があり、入ってみると、無料の観光パンフレットなどが置いてあった。壁にヴァソーラスの絵地図があったので、記念に写真を撮る。
ヴァソーラスは医科大学があることでも有名で、ここには医学部と、歯学部と、看護学部がある。エリカもこの大学の看護学部の卒業生だ。卒業までの4年間、パラカンビからバスでヴァソーラスまで通い、この大学で学んだので、昼食の後でキャンパスを見に行くことにする。 この医科大学のキャンパスに行くまでの通りには、パラカンビでは見かけないようなおしゃれなレストランやお店が並んでいた。そのレストランのひとつ、ヘスタオランチ ヴァランダス(Restaurante Varandas)という名前の店でお昼を食べることにする。外壁の上の方にビールジョッキを持ったドイツ人風の男性と、法被を着た日本人風の男性が、楽しそうに肩を組んで歩いているような絵が描いてあるので、どういうことだろう?と思ったけれど、料理を見て、少し納得した。アメリカで見かけるような鮭などの具材とのりをご飯で巻いた巻き寿司が数種類と、カニかまときゅうりの酢の物などがあったのだ。ブラジルでは昼食は普通セルフサービスが一般的で、この店も、好きなものを好きなだけお皿に取って、重量を計ってもらい料金を支払う仕組みになっていた。このような店でセルフサービスのおかずの中に巻き寿司があること自体とても都会的なにおいがする。試しに巻き寿司をひとつ食べてみたけれど、ご飯の炊き方が悪く、あまりおいしくなかったのは残念だったけれど、その他の料理はパラカンビにある店よりも種類が多く、とてもおいしかった。
昼食の後、店の写真を撮り、大学に行く。大学の正門は車が通る時だけ開けられ、歩行者は横の通路を通って自由に出入りできるようになっていた。
もっと大きなキャンパスかと想像していたのだけれど、ブラジルの大学にしては町の中心部にあるせいか、実際にはそれほど広くなく、校舎がいくつも建て込んでいるような印象のキャンパスだった。正門を入って、最初の建物はビブリオテカ セントラウ(Biblioteca Central、つまり、中央図書館)で、ガラス扉の向こうにかすかに見える白いパンツの人は女子学生と思われる。レストランで食事をしている間も、白いパンツに白いシャツを着たこの学校の看護学生と思われる女子学生がたくさん行き交うのをみかけた。
ヴァソーラスでの2時間余りの散策と昼食の後、ホドビアーリアに戻り、ミゲルペレイラに向かうローカルバスを待つ。バスが来て、出発時間の直前になって乗せてもらえるまでの間、バスの横に郵便ポストがあったので、バスと一緒に写真に撮ってみた。ブラジルの郵便ポストは、日本の感覚からすると、とても小さく、ちっとも郵便ポストらしくないけれど、郵便配達の人のユニフォームの色と同じ黄色で、青い字でコヘイオス(Correios、つまり、郵便局)と書いてある。
この後、ヴァソーラスから東に約1時間のところにあるミゲルペレイラまでローカルバスに揺られて行く。運賃はパラカンビ=ヴァソーラス間とほとんど変わらず、ひとり6.30レアル。日本円で約300円弱。途中で湖が見え、日本と同じようにスワンボートが浮かんでいるのが見えた。ミゲルペレイラの中心部でバスを降り、観光案内所の場所を教えてもらい、そこで、観光パンフレットをもらい、今晩泊まるホテルを何軒が教えてもらい、湖の近くのホテルに電話をして、そこに泊まることにする。ミゲルペレイラの標高は約700メートルと高いので、サンパウロ州のアチバヤやパーディーニョのように寒いと予想していたのだけれど、お天気が良く、パラカンビとたいして変わらない感じだ。バスを降りたところにあったデジタルの気温表示盤では22度Cとなっていた。暑いはずだ。でも、7月には気温が0度Cを下回ることもたまにはあるらしい。 市役所の近くの観光案内所に行く途中で、とても変わった花が咲き乱れている生垣があったので、写真に撮る。
歩き回って疲れたので、湖の側のオテル ファゼンダ ジャヴァリー(Hotel Fazenda Javary)というホテルまで、タクシーで行くことにする。ここのタクシーもパラカンビ同様、メーター走行ではなく、乗る前に行く先を言って、料金を決めて乗るシステムだった。ホテルまで8レアル、日本円で約400円弱を払う。 ホテルに着いてよく話を聞くと、電話で聞いた1泊140レアル(日本円で約7000円弱)という料金は、夕食、朝食、昼食の3食がつかない料金で、それらをつけると234レアル(日本円で約11000円)になることがわかり、予想外に高い料金に少しがっかり。でも、食事がおいしことを期待して、ここに泊まることにする。普通ブラジルでは、オテルファゼンダというと、気が遠くなるほど広い敷地の中に、牛や馬を飼っていたり、農作物を作っていたりして、乳絞りなどの農業体験ができるような大きなファームホテルのことをいうのだけれど、ここはきれいに手入れされた庭があって、孔雀を飼っている鳥小屋や、プールもあるけれど、パラカンビのうちのファームよりもずっと小さな敷地に立つホテルだった。 ちなみに、ブラジルでは地方をあちこち走っていると、ポウザーダ(Pousada)何々という看板をよく見かけるけれど、これはいわゆるベッド&ブレックファースト(B&B)のことで、ブラジルでは規模の小さい宿泊施設のことを言い、場所によっては夕食を出すところもあるものの、朝食だけというところが多く、オテルファゼンダと言えば、普通、食事はすべてついているものなので、料金を聞いた際、1泊140レアルと言われて、エドソンはてっきり食事込みの料金だと思ってしまったようだ。だからここはオテルファゼンダというよりも、ポウザーダと呼ぶのが相応しいところだと思う。 ミゲルペレイラはリオから110キロのところにある人口2万6000人ほどの小さな町で、これと言って特徴のない町だけれど、リオから1時間半あまりで来ることができるため、リオに住んで、ここにウィークエンドホームというか、別荘を持っている人たちや、ここに観光で来る人たちで週末は混雑するらしい。でも、今日は平日なので、町もホテルもガラガラだった。 ホテルで通された私たちの部屋から湖が少し見えるので、写真を撮る。
7時の夕食まで、ゆっくりと湖のそばを散歩したりして過ごし、食事の鐘の合図で、食堂に行くと、テーブルセッティングがされているのは3箇所だけだった。エドソンいわく、「とても礼儀正しく、ていねいなポルトガル語を話す」黒人のウェーターさんが、今晩の食事のメニューを説明してくれ、次々に食事を運んできてくれる。野菜のポタージュスープとサラダに始まって、牛肉のステーキと、ファラファと、フレンチフライが盛られたお皿、ご飯のお皿、ニンニクとパセリだけで味付けをしたスパゲティと、スクウォシュ(かぼちゃときゅうりの中間のような野菜)の炒めものが盛られたお皿、チキンストロガノフのお皿、黒豆のフェイジャオンの入ったボールと、テーブルに乗り切らないほどの品数が並んだ。そして、どれも味は期待を裏切らないおいしさだった。がんばって食べたけれど、これだけの量はいくらなんでも食べきれなかった。
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2009年6月25日(木) | ||||
朝食は8時からなので、朝もゆっくりのんびりと過ごし、8時過ぎに食堂に行く。朝食も典型的なブラジルの朝食メニューで、数種類のパンやクラッカーが盛られたバスケット、チーズとハムが盛られたお皿、チョコレートケーキとコーンケーキが盛られたお皿、パパイア、メロン、パイナップルのスライスが盛られたお皿、りんごと洋ナシが盛られたお皿、オレンジジュース、そしてコーヒー。どれもおいしかった。
ゆっくりと時間をかけて食事をし、部屋にもどってから荷造りをして、フロントに行きチェックアウトの手続きをする。昨日の夕食で飲んだカイピリニャ(Caipirinha、カシャーサCachacaというサトウキビのお酒にライムジュースと砂糖を加えたカクテル)と、部屋の冷蔵庫からミネラルウォーターを1本飲んだ分を、追加請求されたけれど、お昼を食べずにチェックアウトするのだから相殺してくれないかと、エドソンが頼むと、快く追加請求を取り消してくれた。この近辺で見て回れそうな観光地の情報をもらったけれど、車がないとちょっと不便なところばかりなので、観光はせず、真っ直ぐ帰宅することにする。 下の写真は、ホテルのフロントや食堂のある建物の正面。
このホテルは古いホテルなので、施設がところどころ傷んでいたりしたけれど、庭はきれいに手入れされていて、いろいろな花が咲いていた。次の写真の花は、アチバヤのデマーコの家の前にもあった不思議な木で、1本の木に濃いピンクと、薄いピンクと、白い花が同時に咲いている。ちょっとハナミズキに似ているようでもあるけれど、まったく別ものだ。
そして、ホテルから表のバス通りに出る途中に大きなポインセチアの木がたくさんあったので、写真に撮る。日本で見るポインセチアは冬の時期、花屋で売られている鉢物だけで、こんな風に戸外で大きな木のポインセチアを見ることはないけれど、ブラジルではごく普通にこんな風に咲いている。パラカンビでもよく見かける。
ホテル前のバス停からローカルバスで、パラカンビの隣町のジャぺリ(Japeri)まで約1時間かけて帰り、ジャぺリからさらにパラカンビ行きのバスに乗り換えて、20分ほどでパラカンビに到着。これで、パラカンビを出て時計回りに行き当たりばったりで、近場の観光地を回る旅は終了。道中の自然は美しく、山の中の小さな町々は、豊かではないかもしれないけれど、町並みはジャぺリやノヴァイグアスなどとは比べものにならないくらいきれいだった。 運転実技試験の試験日の登録が完了したら、連絡をくれるはずの自動車学校からまったく何も連絡がないので、ファームに戻る前に、自動車学校に行って確かめると、確かに7月22日の試験日に登録が完了しており、請求料金はひとり250レアル(日本円で約12000円弱)と、妥当な金額だったので、ほっとする。当日は私たちを担当してくれている同じインストラクターが学校の車で連れて行ってくれることになっていた。リオでの試験が午前7時開始なので、パラカンビを午前4時半に出発するという、なんだかすごい日程だけれど、マネージャー氏とさらにごちゃごちゃとトラブルことなく、最終ゴールに向かってまた一歩前進できたので、ほっとした。感謝。感謝。 自動車学校で、以上を確認し、ファームに戻り、1時間ほどすると雨がザアーと降り出した。ミゲルペレイラで観光をせず、すぐに帰ってきて正解だった。もう少し帰宅が遅れていれば、雨に降られるところだった。このところずっと晴天のよいお天気が続いていたので、昼間は暑いくらいだったけれど、この雨でまた少し気温が下がるのかもしれない。 | ||||
2009年6月26日(金) | ||||
アメリカでは、大きな都市では、種種雑多な人びとを見かけるけれど、田舎の小さな町に行くと、大多数が白人という町が少なくない。例えば、アメリカ中西部のネブラスカ州の、私が大学に行った田舎町のフリモント(Fremont)を例に取ると、住民はほとんどが白人で、黒人を見かけたらそれはオマハ(Omaha)や他の大都市からスポーツ奨学金をもらってフリモントの大学に来ている黒人学生か、アフリカからの留学生だった。ブラジルではもちろんリオやサンパウロといった大都市では、様ざまな人びとがいるのはアメリカと変わらないけれど、アメリカと違うのは、リオデジャネイロ州とその北部地域の諸州では特に、田舎の小さな町に行けば行くほど、黒い肌の人が多くなることだと思う。ヴァソーラスに行く途中、日本で言えば中学生の子どもたちがヴァソーラスの学校に行く途中らしく、停留所ごとに次々にバスに乗り込んできたのだけれど、彼らのほとんどは黒人と白人の血が混ざったとても可愛い子どもたちで、純粋に白人または黒人と思われる子どもはほとんどいなかった。ヴァソーラスの町でも、地元の人たちは肌の黒い人が目立っていた。 ブラジルの人種構成は白人系55%、褐色系39%、黒人系5%、黄色系1%と、一応言われているようだけれど、様ざまな人種が複雑に入り交じっているため、アメリカのように白人、黒人、東洋系、ヒスパニックなどと、いちいち単純に区別すること自体、ブラジルではあまり意味がないような状況だ。 ミゲルペレイラの町について、ひとつ書き忘れていたことがあった。ここにはカシャーサ(Cachaca、別名ピンガ)というサトウキビの絞り汁を、発酵させてから蒸留したお酒の生産で有名な「マグニフィカ(Magnifica)」とうい工場があって、その生産過程を見学できるのだそうだ。この工場のカシャーサは、2007年プレイボーイ誌「ブラジルの最もおいしいカシャーサ・ベスト10」の1つに選ばれたことがあるのだそうだ。カシャーサはアルコール度40度というウォッカのように強いお酒だけれど、このカシャーサに、ライムの絞り汁と砂糖を加えて作るカクテルが、カイピリニャ(Caipirinha)で、ブラジルを代表するアルコール飲料として、とても人気があり、広く飲まれている。 昨日の夜、テレビでMichael Jackson esta morto.(マイケル ジャクソン エスタ モート)つまり、「マイケル・ジャクソンが死亡(Michael Jackson is dead.)」と、何度も繰り返し報道していた。最初は、入院先の病院はまだ公式に発表していないけれど、ロスアンジェルスタイムズが「死亡」と、報道しているというニュースだったのが、その内、病院が公式に「死亡」を発表したと、ロスアンジェルスから特派員がリアルタイムで繰り返し、繰り返しリポートしていた。そして、夜遅くには彼を追悼する特別番組も放送されていた。 今晩も彼のニュースで持ちきりで、相変わらず様ざまな映像を使って、繰り返しこのニュースをやっている。彼はブラジルに3回来ているらしく、その時の映像も何度も使われ、その時彼とかかわりのあった人たちへのインタビューなども流している。各国の反応として、日本は渋谷のレコード店HMVで、マイケル・ジャクソンのCDの特設売り場を取材し、お客さんの反応をリポートしていた。 | ||||
2009年6月27日(土) | ||||
ここ数日、テレビのニュースで、ノヴァ グリッピ(Nova Gripe)という言葉を何度か聞いた。何故かアルゼンチンで拡がっていて、アルゼンチン帰りの人たちの間にも多数みられ、ブラジルでも拡がっているという。そう、新型インフルエンザだ。NovaはNewという意味で、GripeはInfluenzaのこと。風邪のことは以前、ヘシフリアード(resifriado)と書いたけれど、お母さんは普通の風邪のことでも大げさにグリッピと言っていたし、以前エドソンが風邪をひいた際、リオのホドビアーリアの薬局で買った風邪薬の名前がGripeolだったりして、英語のFluのように、このGripeという言葉も普通によく使われている。新型インフルエンザは毒性が弱く、普通の風邪と変わらないようなので、最近はほとんどニュースになっていなかったのだけれど、これは新しい波のようだ。 また、テレビを見ていて番組と番組の間のコマーシャルの時や、ノベラの中のせりふなどでよく聞く表現に、ダキ ア ポウコ(daqui a pouco)というのがある。ペート ダキ(perto daqui)、つまり、「この近くに(near here)」という表現に似ていて、直訳するとこれも「ここから少し」というような意味になるような気がするのだけれど、どう違うのかと思い、エドソンに聞くと、これは「すぐに(soon)」という意味だった。物理的に距離が近い(前者)という意味と、時間的に近い(後者)という意味の違いだけなので、似ているのだとひとりで納得。 | ||||
2009年6月28日(日) | ||||
ブラジルではどこに行っても、緑豊かな地域ではごく普通に、ベイジャ フロー(Beija Flor、つまり、ハチドリ、英語でHumming Birdのこと)をよく見かける。このファームでも花の蜜を求めてたくさん飛び交っている。2週間ほど前にアチバヤ(Atibaia)に行った際、ある店でベイジャ フローに砂糖水を与えるための容器を売っていたので、それをひとつ買って帰り、砂糖水を入れて、玄関先にあった低い杭にぶら下げてみると、すぐにベイジャ フローが砂糖水を吸いにやって来た。エドソンが部屋からもっとよく見えるようにと、数日前、玄関先の軒下に容器を移動させたので、今では居間のソファーに座っていながらにして、目の前でベイジャ フローを見られるようになった。数分おきにやってきては、ほんの数秒間、砂糖水を吸って行く。アバカチ(Abacate、つまり、アボカド)のシーズンが終わり、それをついばみに来ていた鳥たちが姿を消してしまっていたので、これでまた楽しめるようになった。何とかベイジャ フローが砂糖水を吸っているところを写真に撮ろうと、今日はカメラを構えて、シャッターチャンスを待っていたら、運良く写真を撮ることができた。
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2009年6月29日(月) | ||||
午後からパラカンビのスーパーに食料品を買いに行くと、今週末から続いているパラカンビの守護聖人ペドロを記念するお祭りの最終日ということで、道路の一部が車両通行止めになっていて、道路の両側に雑貨を売る屋台がいくつか出ていた。その一方で、町の商店街はスーパーマーケット以外はほとんどみな閉まっていて、静まり返っていた。これがお祭り?と、思ったけれど、ここのお祭りの本番は夜なのだそうだ。昼間から出ている屋台の中で、食べ物を売る店は、甘いお菓子を売る店が1軒しか出ていなかった。食べ物を売る店はみな夕方から店を開くのだそうだ。 今日はパラカンビ市だけの祝日なのだけれど、商店街はほとんどがお休みで、いつも行くスーパーも開いてはいたもののガラガラで、午後3時には閉めるらしく、レジも2〜3箇所しか動いておらず、店員さんたちは、みな片付けや掃除に忙しそうだった。 今日買った品物の中で、参考のため肉と野菜の値段を以下に列挙してみる。 ひき肉は、1キロ10.98レアル(約500円)のものを約1キロ購入。 牛ステーキ肉は、1キロ13.98レアル(約650円)のものを約1キロ購入。 豚肉は、1キロ9.99レアル(約450円)のものを約1キロ購入。 玉ねぎは、1キロ1.49レアル(約70円)のものを5個買って、ちょうど1キロくらいになった。 なすは、1キロ1.69レアル(約80円)のものを3個買って、約500グラム強になり、値段は約40円。ここのなすはアメリカ同様、日本のなすの2〜3倍の大きさがある。 ピーマンは、1キロ1.95レアル(約90円)のものを2個買って、約300グラムになり、値段は約30円。ピーマンも同様に、大きさは日本のピーマンの2〜3倍ある。 以上で、約2000円ほどの支出になったけれど、肉を合計3キロも買ったので、今後2週間くらいは肉を買う必要はないだろう。ここは日本と違い、物価が安いので生活して行く上でとても助かっている。 | ||||
2009年6月30日(火) | ||||
今日はリオで会社を経営するエドソンの元上司の人と会う約束があり、いつものように、9時過ぎにファームを出て、パラカンビに向かった。途中、バス停の手前でバスが来てしまったため、エドソンがバス停に向かって猛ダッシュを始めた。今回はバス停までちょっと距離があるので、私も仕方なく全速で走ったら、あと少しのところで足がもつれてこけてしまった。軽い駆け足程度なら転んだりはしないのだけれど、年甲斐もなく全速で、足元の悪いでこぼこのアスファルトの上を走ったために、バランスを崩して地面に倒れ、両膝と両手の平を擦りむいてしまった。やれやれ、、、でも、バスの運転手さんはその間ずっと、私たちのことを待ってくれていたため、何とかバスには乗ることができた。 パラカンビに着いて、擦りむいた手足を、薬局で応急手当をしてもらおうと、エドソンが言うので、薬局に行くと、昔はそういうことができたけれど、近年医療制度が変わり、薬局で医療行為をしてはいけないことになり、もうしていないということだった。それで、市がやっている公衆衛生や予防医療などを提供している地域医療センターのようなところに行くように言われ、そこに行ってみると、医師ではなく、看護士さんが担当している部屋ですぐに傷口をきれいに洗い、アルコール消毒をしてもらうことができた。傷口は乾かした方がいいからと、バンソウ膏などは張ってもらえなかったけれど、この応急手当の料金はもちろん無料。以前も少し触れたことがあるけれど、ブラジルは基本的に医療費は無料なのだ。 傷口は乾かした方がいいといっても、左の膝と左の手の平の傷から少し血がにじんでいて、このままではやはり不都合なので、薬局に行って、バンドエイドを買って、お店の人に張ってもらう。朝っぱらからとんだアクシデントになってしまった。 さて、エドソンはブラジルを出て、アメリカに行く前に、セペウ(CEPEL)という発電、給電、電力の品質管理などなど、電力に関するあらゆることを研究する国の研究機関で7年ほど働いていたのだけれど、当時、彼に目をかけてくれていた上司のひとりで、現在はリオで自分の会社を経営しているゲディス(Guedes)という人と連絡が取れ、今日、リオまで会いに行ったのだ。 この人は、物理学の博士号をもっていて、エドソンがアメリカに行って2年後くらいに、セペウを辞めて、大学での研究生活に戻り、その後、光ファイバーを使った高性能のセンサーを作る会社を設立して今日に至っているという人だった。 12時過ぎに彼の会社に行き、会社の中を見せてもらい、仕事に関していろいろ説明してもらった。社員は30人ほどらしい。最初はすべてポルトガル語だけの会話だったけれど、エドソンが時々私のために英語でかいつまんで通訳するのを聞いて、説明を英語に切り替えてくれた。子どもの頃2年ほどボストンで暮らし、学生時代、ロンドンに留学していたことがあるので、英語も話せるのだそうだ。その後、近くのレストランで、お昼をご馳走になった。 ブラジルではパスタやピザは何故か夜の食べ物という習慣があるらしく、パラカンビを含め多くの場所では、パスタやピザが食べられる店は、普通お昼は開いておらず、夜しか営業していない。でも、さすがに、リオの街中。あるところにはあるのだ。お昼でも営業しているしゃれたパスタの店があった。SPOLETOという名前のそのパスタ専門店は、おもしろいシステムで、まず、スパゲティ、フェトチーニ、ショートパスタ、ラビオリなど約8種類のパスタの中から、食べたいパスタを選び、やはり8種類くらいのパスタソースの中からソースを選び、中に混ぜる具材を、ペーコンや、玉ねぎ、オリーブ、ナス、ハム、パセリ、ねぎなどなど20数種類の中から好きなものを好きなだけ選び、目の前で作ってもらうというシステムだった。これまで経験したことのないシステムなので、何をどう組み合わせようかと考えるのに時間がかかってしまったけれど、なかなか面白いと思った。家ではスパゲティなどパスタを使った料理を時々作って食べているけれど、ここでは夜の外出が難しいため、レストランでパスタを食べたことがなかったので、これがブラジルに来て始めてレストランで食べるパスタになった。とてもおいしかった。 昼食後、会社にもどり、社員用の台所のある休憩室のようなところで、お茶をご馳走になりながら、エドソンの能力を活用できるこれからの成長分野について、いろいろアドバイスをもらった。17年近く会っておらず、その間、連絡も取っていなかったのに、ちゃんとエドソンのことを憶えていてくれて、彼の訪問を喜んで迎えてくれ、こうやって親切に時間を割いてアドバイスをくれ、とてもありがたかった。 |
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