Kyoko Yoshida                                        
 Kyoko YoshidaLife in BrazilBLOG 

       
2009年3月12日(木)

午前9時前に、成田空港のルフトハンザ航空のカンウンターでチェックインを完了。旅客の中にブラジル人家族が多くみられ、荷物のチェックインを手伝う旅行代理店の男性ふたりがポルトガル語を話し、彼らの通訳をしているのを見て、あらためてブラジルに行くのだと実感する。9時少し過ぎ、眞也(甥)と幸ちゃん(眞也の奥さん)、賢志(甥)の3人が平日の早朝にもかかわらず、わざわざ仕事を休んで横浜から見送りに来てくれた。ありがとう。感謝、感謝。まるちゃん(賢志の奥さん)はあいにく、新居に引越し早々風邪をひき体調を崩しているので、見送りに参加できなかったとのこと。早くよくなってね。9時半を過ぎて、いよいよ出国手続きに向かう。

出国手続きで先に行ったEdson(エドソン)が何故か別の窓口に回され戸惑っているので、私の番になって「どうしたんですか?」と、係官に聞いてみると、外国人登録カードを回収したかったけれど、捨てたと言っているから別の窓口に行かせたと言うので、「とんでもない、ちゃんと持っていますよ」と言って、彼を呼び返し、私が側に付き添って無事手続き完了。Edsonは係官に英語で「また日本に戻ってくるのか?」と聞かれ、「しばらくは戻ってこない」と答えると、「区役所には通知したか?」と聞かれたので、「した」と答えただけで、外国人登録カードのことなんて聞かれてないと言っていた。大人は家族でも一人一人窓口で手続きをしなければいけないことになっているけれど、こういうコミュニケーションの問題があるのだから、家族単位で出国手続きできるようにした方がいいのではないかと思う。でも、何はともあれ、無事出国。機上の人となる。

約12時間弱のフライトを終え、日本時間午後10時半前にフランクフルト空港に無事到着。この空港は常に工事中のようで、来るたびに変わっている上、規模が大きいので戸惑うばかり。時間つぶしにあちこち歩き回っていると、運良くマッサージのお店を発見。Edsonと交代で45分間の全身マッサージをしてもらう。料金は80ユーロと安くはないけれど、お店の女性スタッフはみな親切で、待っている間もマッサージチェアに横にならせてくれたため、合わせて1時間半ほど横になることができ、ずいぶん体を休めることができた。

フランクフルトからサンパウロまでの便では、高齢のイギリス人観光客のグループと一緒になる。夫婦で参加している人たちは比較的静かだったが、女性同士で参加している人たちは何ともにぎやかで、元気、元気。中高年の女性が元気なのは日本もイギリスも変わりないようだ。彼らはサンパウロ到着後、クルーズ船に乗るのだそうだ。それにしても同じ航空会社なのに、成田=フランクフルト間よりもフランクフルト=サンパウロ間のサービスが落ちるのはどうしてだろう?前回、エールフランスを利用した際も、パリ=リオデジャネイロ間は、これがエールフランスかと思うほど、とてもサービスが悪かった。リオデジャネイロからパリまでのフライトで、私たちのとなりに座っていたフランス人男性に「フランス人として恥ずかしい」と言わせるほどだった。この時のエールフランスと今回のルフトハンザを比べると、ルフトハンザの方がずっと良かったので、あまり文句は言うまい。

2009年3月13日(金)

午前6時半少し前(日本時間午後6時半少し前)に、無事サンパウロ空港に到着。約32時間の移動はさすがに疲れたけれど、フランクフルト空港でのマッサージのおかげでふたりとも思ったよりも元気。

サンパウロ空港での入国審査や荷物の受け取りはスムーズに行き、心配した税関も何の問題もなくフリーパスで通過。8年半前にアメリカからの引越しの途上、リオデジャネイロ空港でスーツケースを全部開けて、長時間細かく調べられたのとはずいぶん対応が違う。幸先のよい出だしだと思う。予約しておいた空港近くのホテルにチェックインし、広島の母に無事到着を電話連絡後、シャワーを浴びてすぐ横になる。夕方まで寝たり起きたりして過ごす。飛行機の中でほとんど寝ていないので、その睡眠不足を取り戻すために、午後7時過ぎに夕食を食べに階下の食堂に行った以外は、ほとんどベッドの上で過ごす。「まるで赤ちゃんのようによく眠っていた」と、後でEdsonに笑われる。

2009年3月14日(土)

到着の日にあれだけ寝たにもかかわらず、夜も問題なく眠れ、早朝、気持ちよく目覚める。7時過ぎに朝食。9時にEdsonの長年の友人でサンパウロ市在住のWilliam(ウィリアム)が奥さんのGilda(ジウダ)と共に迎えに来てくれる。車に荷物を積み込み、いざ出発。サンパウロ市から西に2時間ほどの所にあるPardinho(パーディーニョ)という田舎町にある彼らのファームに移動。ここでWilliamはAtemoia(アテモャ)という果物を栽培しており、毎週末サンパウロから来て過ごしている。ここは彼らのweekend homeであり、Williamのアマチュア無線基地であり、定年退職後の終の棲家にするつもりの場所でもある。

サンパウロ州はほとんどが高地にあり、なだらかな丘陵が広がっているが、ここPardinhoはさらに標高が高く、900〜1000mのところにあるので、視界が開けていて眺めが良く、空が広い。私がここに来るのは2度目、Edsonは3度目だが、ふたりともとても気に入っている場所だ。

ここに到着後、Williamがかねがねぜひ紹介したいと言っていたご近所のDona Betty(ドナ ベティ)のバンブーファームに行く。Dona Bettyの亡くなったご主人は、ブラジル最大の製紙会社を所有していたそうで、考えられないほどのお金持ちらしい。現在、彼女は様ざまな文化活動をしてお り、ここPardinhoではInstituto Jatobas(インスチチュト ジャトバス)という組織を作って、とても大きなバンブーファームを運営し、そこで竹の栽培や、竹の可能性を追求し、広める活動を行っている。年齢は70代後半と思われるが、とても若々しく魅力的な女性で、竹が大好き。日本の「わび」「さび」が大好きという人だ。そこで作業を手伝っていたフランス人の中年男性と言葉を交わすと、何と、フランスで日本語を勉強して、文部省の奨学生として東京大学に留学したことがあり、日系ブラ ジル人の女性と結婚してブラジルに来て以来、20年以上ブラジルで暮らしているということを日本語で話してくれたのにはとても驚いた。こんな田舎町で、英語や日本語を話せる人たちと出会えるなんて、なんとも嬉しい。

私たちの訪問がお昼時だったので、いったん失礼して、昼食後、出直すことにする。午後の訪問では、フランス人男性の他、この週末遊びに来ているというDona Bettyの友人で、品のいい80代の老婦人と、小さな女の子を連れた若いお母さんとともに、緑に囲まれたベランダでお茶(紅茶でもハーブ茶でもなく緑茶で、日本趣味が徹底している)をいただきながら、いろいろなお話をする。みな英語が話せるので、私にはありがたい限り。この老婦人は終戦後まもなく、ご主人と日本に旅行に行った話をいろいろとしてくれたが、あの当時、ブラジルから遠く離れた日本まで行って自由に観光旅行していたなんて、信じられない思いで 耳を傾けた。Dona Bettyと同じように、きっととてもお金持ちなのだろう。

夕方、Williamのファームに戻ると、ちょうど日の入りの時間。西の空に日が沈み、沈んだ太陽が大空を真っ赤に染める様を時間をかけて静かに眺める。あまりに夕焼けがきれいだったので写真に収める。ここの夕焼けはいつ見ても見飽きない美しさだ。

8時を過ぎた遅い夕食を終え、さすがに疲労がピークに達したようで、シャワーを浴びた後、気分が悪くなり、先ほど食べた夕食をシャワールームで戻してしまう。EdsonとWilliamは無線室のある倉庫に行っているし、居間でテレビを見ているGildaは英語が話せないので、一人で始末をして、ベッドに潜り込む。ベッドシーツだけでは寒くて眠れず、タンスから掛け布団を出してようやく落ち着く。

2009年3月15日(日)

朝食後、Dona Bettyの招待で、Instituto JatobasがPardinhoの町に最近オープンしたばかりの、彼女の亡くなったご主人の名前を冠したMax Ferrer(マックス・フェラー)文化センターを訪問。サンパウロ市在住の日系人女性建築家がデザインしたという、竹で組んだ屋根が波打つようなユニー クな形をした建物は、多くがリサイクルされた資材を利用しているそうで、いわゆるエコな建物なんだそうだ。ここで芸術ワークショップや講演会、演奏会など様ざまな催しを開催したいと、Dona Bettyは熱く語ってくれた。図書室とコンピュータ室はまだ未完成で、これから作業するらしい。人口わずか5000人というこの小さな町に、こんな立派な文化施設は少し不釣合いな様な気もするけれど、町並みにしっくりと調和していて、これからの活動が楽しみな施設だ。

今日は日曜日なので、Wiiliamのファームに住み込みで働いているヘルパーのMauricio(マウリシオ)一家も一緒に、ブラジルバーベキューの 「Churrasco(シュハスコ)」をしてくれることになる。昨日はよく眠れず、体調が思わしくないので、控えめに食べようと思っていたけれど、お肉を焼いてくれていた陽気なMauricioのお代わりの誘いを断れなくて、少しばかり食べ過ぎてしまった。また具合が悪くなって戻したりしないように、食後はしばらくベッドで横になることにする。

夕方、WilliamとGildaは乗ってきた車を私たちのために置いて、別のトラックでサンパウロに帰って行った。これから1週間、別棟に住むMauricioの家族と、このファームで飼われている人懐っこい8匹の犬たちと、私たちだけののんびりとした時間を過ごすことになる。

2009年3月16日(月)

午前中は、旅行中にたまった衣類の洗濯に精を出す。昼食後、Mauricioの案内でここから30分ほどの所にある、この辺で一番大きな町 Botucatu(ボトゥカトゥ)に行く。人口約10万人ほどの町で、日系人コミュニティーがあり、日本食料品店もあるというので楽しみだ。

住宅街を通り抜ける道路が突然、古くてあまりきれいとは言えない建物が並び、雑然と人や車で混雑し始めた。何故こんなに狭くて混雑している道路を行くのだろうかと思っていたら、何と、ここがBotucatuのメインストリートだという。イメージしていた町の様子と全然違うので、Edsonも私もちょっとがっかりする。その後、サンパウロ大学の農学部キャンパスに行く。先ほどの雑然とした街の様子とは一転して、緑に囲まれ、所々に立派な建物が点在するとても広々としたキャンパスで、車でなければとても回れそうにない。学生たちはみな車を持っているのだろうか?高層ビルがせせこましく立ち並ぶ日本と、こんなにきれいで広大な大学キャンパスのあるブラジルと、本当に豊かなのはどちらだろうと考えてしまう。次に、様ざまな工場や車の販売店などが集中する地区を通り抜けて、ブラジルでも有名なサンパウロ州立の医科大学・獣医科大学のキャンパスを見に行く。ここは先ほどのキャンパスほど広大ではないけれど、大学病院を併設していて、サンパウロ市に行かなくてもここでとても良い医療が受けられるとのこと。すばらしい!

日本食料品店に行く道すがら、先ほどのメインストリートよりもずっと道路の幅が広く、きれいなお店が並ぶ場所を通る。その一角に何かのフェアをやっている公園があり、そこに車を止めて近くの日本食料品店に歩いて行く。そこは野菜と果物を販売しているとても小さな店で、日本食料品はおしるしに店の片隅にごくわずかあるだけの、とても日本食料品店とは言えない店だった。以前住んでいたボストンやその近郊にあるような日本食料品店を想像していたので、これも期待がはずれてしまった。でも、考えてみれば当然で、ボストンは日本からの留学生や仕事で来ている人が多いため、日本から輸入した食料品を取り揃える必要があるのだろうけれど、こちらは日本から来ている人なんて皆無に等しく、地元の人たちが対象なので、日本から食料品を輸入する必要はないのだろう。それでも、私たちがこれから帰るリオデジャネイロ州のParacambi(パラカンビ)のスーパーでは買えないしょうゆ、酒、米酢、本だし、みそを購入できたのだから良しとしよう。それに、お店のレジに座っているオーナーのおばちゃんは日本語が話せ、とても気さくな人だったので、品揃えのなさにはがっかりしたものの、来てよかったと思う。このおばちゃんはDona Marina(ドナ マリナ)の愛称で知られており、日系人社会だけでなくBotucatuではとても有名な人らしい。

車に戻る前に、公園で開かれていたフェアの会場を見て回り、植木市で4種類のサボテンが寄せ植えになった小さな鉢をGildaへのプレゼントにと購 入する。そこで日系人の奥さんと一緒に店番をしていた男性と知り合い、いろいろと情報をもらうことができた。今度彼らのやっているレストランに行くことを約束する。

彼らから、日本食料品店にはなかったポン酢が、Pao de Acucar(パオン ジ アスーカ)という全国チェーンの大きなスーパーマーケットならあるかもしれないと聞いて、行ってみることにする。ここはアメリカのスーパーかと見間違えるほどきれいで、品揃えが豊かで広々としている。アルゼンチンやチリからの輸入ワインが山ほど置かれ、チーズのセクションもとても広く、ワイン好きのEdsonはすっかり気をよくしている。あいにくポン酢はなかったけれど、代わりにワインを買って帰ることにした。ここまでの道すがらには大きくてきれいな家が立ち並ぶエリアがあり、最初のBotucatuの印象とは違い、Botucatuの街が大きく広がって、多様に発展していることがわかり、うれしくなる。

このスーパーマーケットで面白いことがあった。レジで支払いをする際、「レシートはいりますか?」と、レジの女性が聞くので、Edsonが「お願い します」と、返事をすると、「では、言ってください」と言われ、Edsonは思わず「えっ、何を言うの?」と聞き返したのだけれど、こちらではレシートをもらう際には納税者番号を伝えなければならないこともあるるらしく、17年近く国を離れていたEdsonは、この新しいやり方を知らず、言ってくださいといわれて、何を言えばいいのかわからなかったのだ。まるで浦島太郎のようだと、車に戻りながら二人で大笑いした。

2009年3月17日(火)

今日は、朝8時に、Mauricioの知り合いで、日系二世のTakeishi(タケイシ)さんが迎えに来てくれ、Botucatuの日系コロニアに案内してもらう。Takeishiさんはサンパウロ市の銀行勤めを50歳になる前に退職して、Pardinhoに居を移してコーヒーの有機栽培をしている60代の男性。日本語も少し話すことができる。最初、彼は Edsonのことを日系の血をひき、日本に出稼ぎに行って帰ってきた人と勘違いしていて、妻の私が日本人である以外に日系とは何の関係もないことを知ると驚いていた。でも、日系人ではないとわかってもとても親切に案内してくれ、Pardinhoに戻ってからも自宅に案内してコーヒーファームを見せてくれた上、お昼までご馳走してくれ、こちらはただただ恐縮するばかりの1日だった。彼の家の入り口の両側に竹と石(というより岩)がきれいに配置されていて、それらを指して「竹と石で、タケイシね」と、名前にちなんでそれらを配置していることをおどけて教えてくれる様子に思わず笑ってしまった。

日系コロニアと聞いて、いつかテレビの番組で見た日系の人たちが何家族か集まって、日本語で話し、共同生活をしながら農業をしているコミューンのようなものを想像していたけれど、ここの人たちは気の遠くなりそうなほどの広大な土地を所有し、数家族が共同で耕作してはいるけれど、共同生活はしておらず、それぞれ自分たちの家を持ち暮らしていることがわかる。ここではオレンジ、みかん、柿、梅、りんごなど様ざまな果物や野菜を栽培している。ご近所にはぶどうを栽培している人もいるらしい。赤いシソを見かけたので梅干しを作るか聞いてみたら、みな家で作っているらしい。Takeishiさんの奥さんも家で梅干しを作っているという。お店に行かなくても、これらの農家の人たちから野菜や果物を直接買うことも可能らしい。

ここは日向は日差しが強いけれど、湿度が低いので日陰や家の中は涼しく、お天気も晴れたり曇ったりと変化するので、油断して、すっぴんで行動していたら、顔も、首も、腕も、むき出しになった部分は、今日1日で真っ赤に日焼けしてしまっていた。失敗、失敗。明日からは日焼け止めクリームを塗らなくては。

2009年3月18日(水)

土曜日にPardinhoに来て以来、毎日あちこち出歩いていたので、今日はちょっと家でのんびりすることにする。遠いブラジルに来てもEmailがあるので、日本の家族や友達とも簡単に連絡が取れ嬉しい限りだ。Emailとインターネットのない生活なんて今ではもう考えられない。

これまで毎日、台所の冷蔵庫にあるものを自分たちで適当に料理して食事をしていたが、今日は、Mauricioの奥さんのDona Cleuza(ドナ クレウザ)に、犬たちの足跡で汚れたベランダと、部屋の掃除をしてもらうついでに、晩ご飯のために1品何か作ってもらうことにする。ここの畑でMaxixe(マシシ)という野菜を作っていて、Edsonもこれまで食べたことがないというので、Maxixeを料理してもらうことにする。 見た目は薄緑色で表面がとげとげしたトロピカルフルーツのようだが、皮を剥いて切ると中はまるできゅうりのよう。これをにんにくとオリーブオイルで炒め、 刻んだネギを加えただけの簡単な料理だけれど、結構おいしい。歯ごたえはきゅうりよりもしゃきしゃきとして、種も少しこりこりしているけれど、正にきゅうりだ。でも、きゅうりをにんにくとオリーブオイルで炒めても同じような味にはならないかな?

MauricioとDona Cleuzaの夫婦は、Williamがわざわざパラナ州に行って雇い入れてきた人たちで、とてもいい人たちだ。ブラジルでもいい人を雇うのはあまり簡単ではないと思うけれど、彼らの雇用に関しては大成功だったようだ。彼らの21歳になる長男のMarcos(マーコス)は高校を卒業後、Botucatuで 携帯電話を修理する仕事をしおり、週末になるとここに帰ってくる。次男のMateus(マテウス)は4歳で、幼稚園に行く年齢だが、スクールバスの手配がまだついていないため、Dona Cleuzaもまだ早いと言って家に置いている。だから彼はいつもお母さんの後をついてまわっている。Gildaから「キョウコは日本から来たのよ」と教えられているのに、私のことをChinesa(中国人)と言って聞かない。何度「Sou Japonesa... Nao sou Chinesa.」とポルトガル語で言っても聞き入れてくれない。やれやれ。

2009年3月19日(木)

昨晩は犬たちが何だかとても騒がしく、何度も吠え立てたり、遠吠えをしたりするので、その都度目が覚め、今日はふたりとも寝不足だ。一体何に反応していたのだろう?普段は恐ろしいほど静かなファームだけれど、夜間の犬の吠える声はちょっと問題かも?特に、私たちによくなついている黒い大きな犬の Carla(カーラ)は、おとなしくて気立てが優しいのだけれど、寝床を玄関先の足拭きマットの上と決めており、私たちの寝室のすぐ前で吠え立てるのでたまったものではない。次の夜、Edsonがその足拭きマットを部屋の反対側に移動させて様子を見ると、彼女はその場所には行かず、相変わらず部屋の前の今度は芝生の上で寝ている。結局、彼女は足拭きマットが好きなわけではなく、この部屋の前という場所が好きなのだということがわかる。

午前中、日焼け止めクリームを塗って、ご近所に散策に出かける。下の果樹園に行っている犬たち以外はみんな一斉についてくる。でも、小さなダックスフントたちはいつの間にか姿を消し、最初から最後まで私たちから離れることなく同行したのはCarlaだけだった。かなり歩いたけれど、景色が良く気持ちのいい散歩だった。ここでは日本では見たことのないようないろいろ変わった鳥や植物が見られる。蝉の声も日本の蝉の声とは違って、多様でおもしろい。

今日の晩ご飯は、昨日Pardinhoに行って買ってきた鶏肉の残りで作ったチキンスープだ。ブラジルでは普通、日本のように小さなパッケージで肉を売っておらず、何でもかんでもキロ単位で買うので、2日続けて食べてもまだ半分以上残っている。ちょっともったいない気がする。昨日も今日もここの畑で作っているCouve(コウビ、ケールのこと)を炒めて付け合せたり、スープに入れておいしく食べた。この野菜はビタミンやミネラルが豊富で、栄養価が高く、こ れを食べると閉経後の骨粗しょう症の予防にもなるらしいと、Edsonがネット情報を教えてくれる。大好きな野菜なので、これはうれしい情報だ。

2009年3月20日(金)

今日は朝から曇り空で何となく肌寒い。長袖のTシャツでも涼しいので、夏物の薄手のカーディガンを羽織って、窓も締め切っているのだけれど、それでも手足が冷たい。お昼過ぎにざあっと降った雨があがってからもずっと曇っている。

今日はParacambiから妹のErica(エリカ)が4時ごろ到着する予定だったが、ご主人のDenilson(デ二ウソン)の仕事の都合で Paracambiを出る時間が午後3時以降に変更になり、こちらへの到着は10時か11時以降になりそうなので、今晩一緒に夕食に出かける予定は取りやめになった。明日はEricaとDenilsonの他、De Marco(デマルコ)とSiok(シオック)の夫婦と、Siokのお姉さんのBwee(ブウィ)とご主人のMarcos(マーコス)が車で片道3時間かけてAtibaia(アチバャ)から会いに来てくれることになっているので、お昼はみんなでにぎやかにChurrascoをする予定だ。De MarcoとはWilliamほど長い付き合いではないけれど、Edsonが趣味のアマチュア無線で知り合った友人で、数年前、Williamと3人で協 力してSDR Zeroという装置を作って以来、とても親しくしている。本職は臨床心理士というかカウンセラーで、サンパウロとAtibaiaに診療所を持っている。職業柄か、性格なのか、物腰がとても柔らかい優しい人で、英語も話せるのでいろいろ話ができて楽しい。奥さんのSiokはインドネシア系で、Atibaia で障害児教育の小さな学校をやっている。Siokのお姉さんのBweeはレントゲン技師で、彼女のご主人のMarcosは台湾系で、産婦人科のお医者さんをしている。BweeとMarcosは昨年の春、団体ツアーで日本に来た際、2〜3日一緒に東京観光をしたのだけれど、Bweeはおしゃべり好きで英語が話せるのでずいぶんたくさんおしゃべりをし、すっかり仲良くなったので、明日が楽しみだ。

夕方、Dona Cleuzaから明日のChurrascoで出す料理に必要な材料のメモをもらい、Mauricioと一緒にPardinhoに買出しに行く。お店には夕方5時頃に仕入れた商品が届くらしく、その頃に行くと新鮮な野菜や果物が手に入るのだそうだ。買い物からの帰り道、Dona BettyのInstituto Jatobasに寄って、Edsonはそこで竹の栽培をまかされている人に、Paracambiのファームに植えるのに良い種類の竹についてアドバイスをもらい、いろいろと話を聞き、それとは別に、見せてもらった背の高くならない種類の竹が気に入り、3鉢もらって帰る。お金を払って購入するつもりだったのだけれど、Dona Bettyから私たちが来ることを聞いて承知していたようで、無料で分けてくれた。Pardinhoに来て以来、Williamはもちろんのこと、みんなにとてもよくしてもらっていることにあらためて感謝の気持ちでいっぱいだ。私たちはとても恵まれていると思う。ポルトガル語がおぼつかない私でもブラジルでの生活が何とかなりそうな気がしてくる。

2009年3月21日(土)

リオから9時間もかかって、昨晩遅くこのファームの近くにあるホテルにチェックインしたEricaとDenilsonが、ホテルでの朝食後、午前9時半を回ってファームに到着。はるばる迎えに来てくれてありがとう。それからすぐにDe Marcoたちも到着、一気に賑やかになる。夕方の6時頃まで1日中、おしゃべりをしたり、食事をしたり、果樹園を見に行ったりと、楽しい1日を過ごす。 おしゃべり好きなBweeは敬虔なキリスト教徒なので、話の中に、聖書にある言葉や、教会で聞いた話などがよく出てくる。今度サンパウロに来たら、必ずAtibaiaにも来て、一緒に土曜日のダンスサークルや、日曜日の教会に行き、その後で、サンパウロの中華レストランでお昼を一緒に食べようと誘ってくれるのだけれど、私はキリスト教徒ではないので、教会はパスして、日曜日のお昼の中華料理だけと言うわけにはいかないものかなあ?

2009年3月22日(日)

朝8時過ぎに、Ericaたちが宿泊しているAguas da Serra(アグアス ダ セハ)というこの辺りで唯一のホテルに行き、一緒に朝食をとる。プールが大小5つくらいあって、夏場は宿泊客が多いのだろうけれど、今はシーズンオフなので、閑散としている。でもそのお陰か、ホテルのマネージャー氏やダイニングホールを担当している女性が親しく挨拶してくれ、暖 かく迎えてくれた。

10時半過ぎ、荷造りを済ませて、いよいよリオデジャネイロ州ParacambiにあるEdsonのファームに向け出発。Pardinhoから高速道路に下りてすぐのところにあるRodoServe(ホドサーブ、サービスエリアのこと)でガソリンを満タンにし、車を洗車してもらっている間に、飲み物などを購入する。その後、Castelo Branco(カステロ ブランコ)、Marginal Tiete(マージナル チエテ)、Ayrton Senna(アイルトン セナ)、Dutra(ドゥトゥラ)という高速道路を乗り継いで、午後2時過ぎにようやく昼食休憩を取る。サンパウロ州内の高速道路を走っているとよく見かけるFrango Assado(フランゴ アサド)というローストチキンのお店で、デニッシュの中にお肉が入ったようなPastel(パステウ)と呼ばれるブラジルでよく見かけるスナックと、コロッケのようなCoxinha(コシニャ)と、串刺しのフライドチキンを食べ、その場で作ってくれる新鮮なアセロラジュースを飲む。全行程8時間半かかって、午後6時半頃ようやくParacambiのファームに到着。Edsonのお母さんが泣きながら迎えてくれる。

私たちが日本を引き払って戻るにあたり、Edsonがお母さんに頼んでシャワールームを改装したり、私たちの部屋の古いベッドとタンスを捨てて、新しいものを買っておいてもらったので、この古いファームハウスも前回来たときよりもだいぶきれいになり、住環境が改善している。お母さんとEricaに感謝。スーツケースの中の物をすべてタンスに移して、スーツケースを片付けて、ようやく落ち着く。台所も古くて汚い棚が取り払われているので、以前よりはよくなっている。でも、冷蔵庫とガスレンジは古くて使い勝手が悪いので、新しく買う必要がありそうだ。洗濯も台所の外の洗濯シンクがきれいにはなってはいるものの、やはり、しばらくここに住むとなると、手洗いではなく、洗濯機がほしい。ぜいたくはできないけれど、これらはインターネットのアクセスと同様、私たちの毎日の生活には必要な物なので、余り高くないものを買おうと思う。明日はEricaにここから1時間ほどのところにあるCampo Grande(カンポ グランジ)のショッピングモールに連れて行ってもらう予定だ。

2009年3月23日(月)

昨日は新しく気持ちのいいベッドのお陰で、ふたりともとてもよく眠ることができた。でも、Edsonは今回の移動で、風邪をひいたようで、喉が少し痛いという。日本から持って来た風邪薬を飲ませる。

8時過ぎにEricaが迎えに来てくれたので、まずParacambiの町の中心部に近いお父さんの家に行く。お父さんに挨拶をして、Edsonがお父さんと話している間に、2階に住んでいるEricaたちの部屋から広島の母のところに国際電話をかけさせてもらう。ファームには電話回線が来ておらず、固定電話がないので、電話がしたい時はここに来なければならない。早く携帯電話を入手しなければ。

サンパウロのホテルから無事到着の電話をした後、Pardinhoからきれいな夕焼けを背景にした私たちの元気な写真をメールで送ったりしているので、私たちが遠いブラジルに行ってしまったという感覚が薄いと電話の向こうで母が言ってくれ、ちょっと一安心。これからも度々こちらの写真を撮って送ってあげようとEdsonが言ってくれる。

Edsonのお父さんは78歳で、私の父よりも10歳も若いのだけれど、私たちがアメリカから日本に引っ越した数年後くらいから、前立腺がんの治療を受けたり、トイレで転んで腕を骨折したり、軽い脳梗塞を起こしたりと、いろいろあったためか、ずいぶん老け込んで、弱々しくなっている。歩き方もふらふらして危なっかしい。誰かが側にいて四六時中世話をする必要があるのだけれど、EricaもDenilsonも昼間は仕事で家にいないし、お母さんはお父 さんの世話をすることを放棄してしまっていて町外れのファームからParacambiの家に帰らないため、午前中だけ従姉妹のMarcia(マーシア)に 頼んで掃除、洗濯、食事の世話をしてもらっているのだけれど、Marciaが帰ると一人になってしまう。Marciaが帰った後、午後から夜にかけて誰かに見てもらうため、Ericaの知り合いの元看護士の人を雇うことをEdsonとふたりで話し合って決めている。でも、お父さんのもらっているわずかな年金だけでは介護の人を1人フルタイムで何とか雇うことができる程度なので、残りの経費をどう捻出するかを考えると、頭の痛いところだ。それでも、日本なら、年金で介護の人をフルタイムで雇うことなどできないので、さてどちらがいいのやら?

Campo Grandeのショッピングモールは、リオ市南部のBarra Shopping(バハ ショッピング)ほど広くて高級ではないけれど、いろいろなお店が入っている。まず、連邦警察で外国人登録をするのに必要な申請書に貼り付ける証明写真を写真屋さんで撮ってもらう。今日は仕事でNova Iguacu(ノヴァ イグアス)に行っているDenilsonが、仕事の合間にそこの連邦警察に行って、申請に必要なものを確認し、写真のサイズを連絡してくれたのだ。リオまで行かなくてもNova Iguacuの連邦警察で手続きできるらしい。Nova IguacuはParacambiからリオに行く途中にある町で、30分余りのドライブで行けるのでとても助かる。

この後、シャワールームや台所で必要なものを購入して、携帯電話のお店に行き、ふたりの携帯電話を契約する。これで日本から母が私に電話をしたい時には、いつでもかけて来ることができる。ただ、日本とブラジルでは季節によって12〜3時間の時差があるので、文字通りいつでもというわけには行かないかもしれないけれど、まあそれは仕方がない。インターネットのサービスも携帯電話会社と契約して、モデムを取り付ければ可能なはずなのだけれど、 Paracambiの町外れにあるうちのファームでもアクセスできるかどうかが良くわからないため、インターネットの契約はもう少し調べてからすることになる。

ショッピングモールのフードコートでの昼食時に、ちょっとしたアクシデントがあった。こちらのフードコートは日本と違って、基本的にお肉料理ばかりで、どの店もあまり変わり映えがしないため、中華のお店があれば中華料理を食べたかったのだけれど、このショッピングセンターには珍しく中華のお店がない。仕方なく、エビ専門店のようなところのエビサラダを食べた。おいしかったのだけれど、4分の3ほど食べ終わった頃、お皿の左側のクルトンの上で動く薄緑色のものが目に入り、何だろうと目を凝らしたら、何と元気に頭をもたげて動いている青虫がいる。さすがに悲鳴は上げなかったけれど、とたんに食欲減退。 Edsonはすぐに私のお皿を持って、お店に行き、お金を払い戻してもらって来たので、青虫がいたこと以上に、その反応の素早さに私はもっと驚いてしまっ た。サラダに使われていたレタスはこのお店で準備されたものではなく、他のお店から仕入れているので衛生管理が行き届かなくて申し訳なかったと、お店の人もずいぶん謝罪したようだ。でも、彼にはこういうことは我慢がならないらしい。ポジティブに考えれば、青虫がいるということは、このレタスは有機栽培で新鮮という証明でもあるのかも、、、?

ショッピングモールで、日本米と称するお米を買ったので、帰宅後、そのお米を炊いてみた。見た感じは日本米のように丸みがないので、どうも違うのではないかと思ったけれど、炊き上がりはこちらのお米よりももっちりしているので、やはり日本米なのかな?と思う。でも、日本で食べていたお米やアメリカで食べていたカリフォルニア米とは何だか味が違うように思えるのだけれど、気のせいだろうか?

ブラジルに到着以来、10日ほど毎日ブラジル料理だけを食べていたので、そろそろ日本食が恋しくなる。Edsonが広島を出る前に買っていたのりと、ご飯に混ぜるだけでおいしいおむすびができるシソ梅ふりかけで、おむすびを作ることにした。肉じゃがも作りたかったのだけれど、お母さんがすでに夕食を作ってくれていたので、肉じゃがは明日作ることにする。お母さんは、変わった食べ物を受け付けない人だけれど、のりは食べたことがあり、好きだと言うので、小さめのおむすびをひとつ、のりに巻いてお母さんにも作ったら、おいしいと言って食べてくれた。私はおむすびを食べて生き返った心地。やはり日本人だなあと思う。

2009年3月24日(火)

今日は朝からせっせとお洗濯。洗濯機がなく手洗いなので、時間がかかる。もちろん脱水機もないので、湿気の多い時期、日向でもなかなか洗濯物が乾かない。Edsonはお手伝いのElaine(エライニ)と一緒に、家の周囲の木々の枯れた枝を切り払ったり、バナナの木の枯れた葉を切り払ったりと、家の外回りの掃除にいそしんでいる。ヤシの木の枝を切り払っている際、上から大きなヤシの実がドスンと大きな音を立てて落ちてきて、危うくEdsonにぶつかりそうになり、みんなで大笑い。この夏は例年よりも雨が多かったそうで、ファームの草木は生い茂り、ジャングルのようになっているので、こうやって枝を切り払って、木の下を掃除すると、すっきりと明るくなり、きれいになった。家の玄関の前のアボカドの木はたくさん実をつけていて、その重みで枝が玄関先まで垂れ下がってきている。もうすぐ食べ頃になるらしく、そうなると食卓には毎日アボカドが乗ることになるのだろうか?お豆腐があったら、冷奴にアボカドを混ぜて、おしょうゆをちょっとかけて、海苔をちらすとおいしくて、毎日食べても飽きないけれど、お豆腐が手に入らないとなると、さて、サラダ以外の献立も考え なくては。

午後遅く、Ericaが迎えに来てくれ、Paracambiに買い物に出る。シャワールームで着替えを置くための小さな棚などを買い、食料品を買って帰る。EricaはシャイなEdsonと違って、おしゃべり好きで社交的で誰とでもすぐ友達になる人なので、行く先々で知り合いに声を掛けられる。もちろん彼らの中にはEdsonを知っている人もいるし、Ericaに紹介されて彼女の兄だとわかると親しく声を掛けてくれる人たちもいる。ここでは親しい人たちとはただ挨拶するだけでなく、ひとりひとりと両頬にキスをし合って、ハグしないといけないので、挨拶にも時間がかかる。

買い物が終わって、家に帰ると雨が降り出したため、急いで洗濯物を家に取り込む。買ってきた室内用の物干しが早速役に立つ。夕飯は買い物に行く前に作っておいた肉じゃがを、具沢山のスープのようにしてEricaも一緒に食べる。でもやはり、おしょうゆ味に馴染みがないせいか、彼女は「もうお腹が一 杯」と言って、半分近く残してしまった。まあ、しょうがないか。

2009年3月25日(水)

今日は、朝一番にEricaの車でNova Iguacuの連邦警察に行き、外国人登録を済ませる。ずいぶん時間がかかるかと思いきや、混雑しておらず、すんなり手続きをすることができた。連邦警察といっても、オフィスで働く警察官の人たちは制服を着ておらず、T-シャツにジーパン姿なので、本当にここは警察なのだろうか?と、思ってしまう。両手のすべての指の指紋を2度取り、最後に右手の親指の指紋を再度取り、無事登録を完了したけれど、申請書の私のサインが漢字で書かれているのを見た別の警察官が、これじゃあ何て書いてあるかわからないからアルファベットでサインし直させろというようなことを言っているらしく、担当の警察官が、俺のサインだって、ほらこの通り何て書いてあるかなんてわからないだろう?だからこれでいいんだ。みたいなことを言っている。最近ここでは中国人の外国人登録が増えているらしく、その人たちはアルファベットで自分の名前をどのように表記するかも知らないらしく、それを教える意味でもサインは漢字とアルファベットの両方を書かせているらしいのだけれど、そもそもサインは読めるか読めないかは関係なく、本人を識別するのに使うものなのだから、これでいいんだということになったようだ。やれやれ。それにしても、何故、大都市のリオデジャネイロ市でも、サンパウロ市でもなく、こんな田舎町に中国人が増えているのだろうか?そう言えば、フランクフルトからサンパウロまでの飛行機の中で、私たちのすぐ近くの座席に中国人が数人座っていて、英語もポルトガル語も理解できないようだったけれど、サンパウロ空港に到着すると、その内のひとりが飛行機から降りる前に携帯電話のSIMカードを入れ替えて、早速どこかに電話をしている姿を見たし、前回Paracambiに来た際、町の中心にある軽食のお店の名前が中国人の名前に変わっており、とても無愛想な若い中国人男女が店番をしていたので、びっくりした記憶があるのだけれど、日系人だって余りいないこの辺りで、何故中国人が増えているのか不思議でならない。

連邦警察での手続きが思ったよりもスムーズに済んだので、その足でリオの日本総領事館まで行き、在留届けを済ませる。日本を出発する前に、Edsonが調べて、日本総領事館で免許証を翻訳してもらえば、日本の運転免許をブラジルの運転免許に切り替えられる手続きができるということだったので、そのことも詳しく教えてもらう。免許証の翻訳は総領事館でしてくれるのではなく、総領事館指定の翻訳者の人に翻訳してもらうということがわかり、も らったリストの中のひとりのSonooさんという人のところに電話連絡をして、昼食後の午後2時にオフィスに伺うことにする。日本総領事館はリオでも高級なFlamengo地区にあるので、マンションやホテルがたくさん立ち並んでおり、街行く人たちの服装もちょっと田舎町のそれとは違い、おしゃれだ。

昼食のためのレストランを探しながら歩いていると、突然、Edsonが白髪の男性に話しかけられ、不審な顔をしているので、何かのトラブルかと思ったら、何と、17年前に同じ職場で働いていた同僚だとわかりびっくり。17年前は白髪ではなかったので、わからなかったようだ。でも、声は以前と同じなので、ようやく誰だかわかり、しばらく立ち話をする。この広いリオの街中で、しかも平日の昼間ばったり出会うなんて、こんな偶然もあるんだ。

昼食後、Sonooさんのオフィスに行くと、立派なビルだけれども、前世紀に建てられたのだろうか?エレベーターがパリの古いビルにあるような手動でドアを開け閉めして乗り降りするタイプだったのでびっくり。Sonooさんに二人分の免許証の翻訳をお願いして、金曜日に再度受け取りに伺うことになる。その後、Nova Iguacuのショッピングモールに行き、冷蔵庫、洗濯機、ガスレンジを購入し、配達してもらう手続きをする。私たちの町外れのファーム(こちらでは SitioシチオとかChacaraシャカラと言う)は、住所はあってないようなもので、つまり住所を聞いたからといって、それで場所がわかるというものではないので、場所を説明するのに地図を書いて、一苦労。2週間くらいで配達できるそうだが、何日になるかはわからないと言う。せめて配達日が確定したら電話連絡をしてほしいと、Edsonが頼んでも、あいまいな返事しか返ってこず、こういう対応はブラジルらしい?と思う。最後に携帯電話会社のインター ネットサービスを契約して、今日の予定はすべて完了。何事もゆっくりと事が運び、手数と時間のかかるブラジルで、1日にこんなにたくさんの用事を済ませることができたなんて、奇跡に近い。それもこれもEricaが前もって必要なことを下調べしておいてくれ、車で連れ回ってくれるお陰だ。彼女には感謝、感謝。

EricaとEdsonはふたりきりの兄妹なので、とても仲がいい。Ericaは家事などは苦手でずぼらなところもあるけれど、頭が良くて明るくて気立てが優しい。Edsonが高校を卒業後、彼が働いて得た収入で彼女を大学に行かせてあげたお陰で、看護士さんとしての今があるので、そのことを恩義に感じていることは言うまでもないけれど、休暇を取って、こんなふうにいろいろ私たちの面倒を見てくれるのは本当にありがたい。

2009年3月26日(木)

今日はParacambiの銀行に行って、Edsonの銀行口座のクレジットカードが使えるように手続きし、私の納税者番号取得のための手続きをしたいと思っていたけれど、Ericaが近々Paracambiに開店を予定しているインターネットカフェの準備に忙しいようだし、Edsonは風邪で体調があまり良くなく、ローカルバスを利用してParacambiまで行くのはどうも億劫そうなので、1日家で過ごすことにする。

ここでの暮らしで一番大変なことは、虫刺され。日本で見かけるような蚊もいるけれど、ここの主流はどうもほとんど目に見えないくらいの小さな蚊で、音もなくやってきて刺す。刺されるととても小さな赤い点ができ、何日もとてもかゆく、赤い点が消えてくれない。Pardinhoでも足を何箇所か刺されたけれど、Paracambiのファームは湿度が高く、緑に囲まれているので手や足など、出ているところを次々に刺され、たまらない。虫除けのクリームを 塗ったり、かゆみ止めを塗ったりしているのだけれど、効果は期待するほどない。しかたなく、暑いのにジーンズをはいて、長袖のT-シャツを着て、むき出しの部分を極力なくして防御しているのだけれど、今度は首をやられてしまった。前回ここに来た時は、私だけが蚊の餌食になって、Edsonは大丈夫だったのだけれど、今回は彼も同様に蚊に刺されて湿疹が出ているように足が赤くなっている。でも、家族はみな全然刺されている様子はなく、何故だろうかと不思議でたまらない。

もうひとつのブラジルの不思議は、ここでは網戸というものを使う習慣がないということだ。これだけたくさんいろいろな虫が1日中飛び交っているのに、どの家も網戸というものがなく、昼も夜も戸を開け放しているので、自由に虫が家を出入りしている。ショッピングモールのホームセンターに行っても網戸など売っておらず、特注すれば手に入るらしい。もともとポルトガルなどヨーロッパの国々に網戸を使う習慣がなかったのだろうか?家を建てる際、そのままのヨーロッパの生活習慣を取り入れてしまったのだろうか?ポルトガルなどに行ったことがないので、現地の家がどんなふうに建てられているのかは知らないけれど、この広いブラジルで見られる普通の街並みを見ると、隣同士ゆとりも隙間もなくぎっしりと家が建っている様子にはとても驚かされるし、古い道路は石畳だったりするので、ここの風土をあまり考慮せずにヨーロッパの古い習慣をそのまま取り入れているとしか思えない。ただ、窓が小さく、室内が暗いのはここの太陽の暑さを避けるためなのだろうということは想像できる。食べ物に関して言えば、ヨーロッパの食文化だけでなく、アフリカの食文化、中東の食文化などが混ざり合い、地元の食材と融合して、ブラジルの食文化ができていることを考えると、家の建て方に関しては、これもブラジルの不思議のひとつのように思う。

2009年3月27日(金)

今朝は、Ericaが2ヶ月くらい前お父さんが体調を崩した際、病院に連れて行くために仕事を欠勤したことに関する、査問があるとかで、それが終わってか ら、一緒に今日の用事をすることになっていたのだけれど、査問に提出する必要書類が整わなかったとかで、延期になり、10時過ぎに迎えに来てくれた。今日は、Nova Iguacuの連邦警察にまた行って、運転免許の切り替えに必要な証明書を出してもらわなくてはならない。窓口は先日と同じだけれど、今日の担当者は別の人だ。2日前に外国人登録をしたにもかかわらず、その情報がまだブラジリアのデータベースに入っていないからデータを引き出せないと言う。前回はあれだけスムーズに行ったように思えたけれど、こんな落とし穴があったとは、、、でも、40分余り待って、何とかデータを入力してもらい、証明書を出してもらうことができた。この書類ができるのを待っている間、何かの手続きに来ている中国人の家族を2家族と、警察官とやけに親しげにしているブローカーのような中国人男性らを入れ替わり見かけ、中国人が増えていると言っていた警察官の言葉を実感する。

この後、リオのダウンタウンに行き、Edsonの買い物を済ませて、Flamengo地区に行き、Sonooさんのオフィスの近くでお昼を食べてから、約束した2時にSonooさんのオフィスに行き、出来上がっている翻訳をいただいて帰る。リオからの帰り道、Nova Iguacuのショッピングモールで、またいろいろ買い物をして家路に着く。前回のリオからの帰りと同様に夕方のラッシュアワーの時間と重なったため、普通なら30分余りで帰宅できるところを、2時間近くかかって帰宅。今日のリオの気温は33度で、暑い1日だった。さすがに疲れた。

2009年3月28日(土)

今日は朝から雨が降ったりやんだりの1日で、洗濯物を出したり、取り込んだりといたちごっごで大変なので、とうとう洗濯物を家の中に移動させて、扇風機を回すことにする。湿度が高く、扇風機をかけていないと蒸し暑くて乾かない。

午後、Ericaから連絡があり、今日は朝からお父さんの具合が良くなく、様子をみていたけれど、状態が良くならないので、病院に連れて行くことにしたという。2ヶ月ほど前の状態とよく似ている。また、軽い脳梗塞なのだろうか?心配だ。明日はEricaたちと一緒に、近くのMiguel Pereira(ミゲル ペレイラ)という町に、日帰り観光に行こうということになっていたけれど、この様子ではそれどころではなさそうだ。

PardinhoではEdsonは毎日笑顔で生き生きとしていたけれど、Paracambiに帰ってきて以来、風邪で体調が良くないことに加え、感情的に不安定で対応が難しいお母さんの愚痴を毎日聞かされるため、気分的に下降気味になり、表情があまり冴えない。あんなに息子の帰国を熱望していたのに、いざ帰宅すると喜びは続かず、愚痴ばかりというのは不幸な性格だ。その上、お父さんのこともEdsonには大きな心配の種で、気持ちが休まらないようだ。それでもちゃんと私のことは彼なりに気にかけてくれているので、私は彼の頭痛の種にならないようにしなければと思う。でも、昨日から喉の調子が良くない。どうもいつものようにEdsonから風邪をもらってしまったようだ。

Ericaからまた連絡があり、お父さんに付き添って、今晩は病院に泊まることになったようだ。

2009年3月29日(日)

病院で一晩過ごしても、お父さんの状態はあまり良くなっていないというか、むしろ悪くなっているらしい。右半身が麻痺して動かないらしい。その上、痛みを訴えているらしい。私たちは病院に行かなくてもいいのだろうか?結局、Ericaが迎えに来て、私たちも病院に向かうことになった。でも、1時間しても彼女が来ないのでEdsonが連絡すると、病院の面会時間に制限があるかもしれないので、調べるところだと言う。救急で連れて行った人の状態が悪いというのに、面会時間も何もあったものではないだろうに、そんな悠長なことを言っていていいのだろうか?それからまた1時間くらいして、面会時間は午後2時からなので、一旦、Ericaはここに来て体を休めて、2時にみんなで病院に行くことになる。でも、それまでにお父さんにもし万が一のことがあったらどうするの?私がブラジル時間と呼んでいるこういう悠長な対応には、大きな戸惑を覚えずにはいられない。それとも、お父さんは大丈夫ということなのだろうか?

正午少し前にEricaが来て、お父さんの状態を説明し、食事もせずにベッドに横になる。1時間余り寝て、お母さんが運んで来た食事を彼女が済ますのを待って、みなで病院に行く。Paracambiの町のほぼ中心にある病院は、汚いわけでも、メンテナンスが悪いわけでもないのだけれど、ここでは私は病気にはなれないと思わせるものだった。廊下は狭くて暗く、迷路のようで、病室も狭くて冷房がなく、窓が開け放され、天井の扇風機が回っているだけで、蒸し暑い。もちろん窓には網戸などない。ベッドの周りにカーテンはなく、プライバシーもない。そして、面会時間だからか、どの病室も見舞い客であふれている。狭い4人部屋の病室に見舞い客が患者一人につき5〜6人来て、ごった返している感じだ。お父さんの隣の患者さんの見舞い客はベッドの周りを取り囲み、みんなでお祈りを始めたりしている。お父さんのところにも私が知らない、親戚ではなさそうな人たちがお見舞いに来ている。ご近所の人らしい。よく日本の病院にあるような他の患者さんの迷惑にならないように見舞い客と話をするための面会室というようなものは、ここにはないようだ。

お父さんはEdsonやお母さんの顔を見ると泣き出してしまった。Edsonがお父さんの手を取って優しく話しかけているが、こんなことになって情けないのか、様ざまな感情に圧倒されているのだろう、涙が止まらない。Ericaと交代してお父さんの側に付き添っていたDenilsonも、Erica も、Edsonも、お母さんもみな泣いている。お父さんは昨日から全然食事をしていないので、点滴を受けているのだけれど、Edsonがオレンジジュースを飲むかと聞くと、飲むと応えたそうなので、今飲む気分なら、今すぐ買いに行って、飲ませた方がいいと急かせてオレンジジュースを買いに外に出る。この病院には売店も自動販売機すらもない。

オレンジジュースを買って戻ると、お父さんは少し飲んでくれた。Edsonが足や手の感覚を調べてみると、感覚はまだあるようだが、右の足は動かせないようだ。2月の終わりに神経科のかかりつけの医師の指示に従って、必要な検査を受けて、適切な治療を受けていればこのような再発の事態は防げたかもしれないのに、Ericaが忙しかったから検査に連れて行けなかったと、言い訳をしたことに、Edsonは憤っている。Ericaはとてもいい人で、優しい人だけれど、何故か時々彼女の優先順位は違うような気がしてならない。30〜40分ほどの面会時間を終えて、また来るからとお父さんに伝えて病院を後にする。一旦、家に戻り、お母さんがシャワーを浴びて、今晩病院に泊まる準備をして、Ericaの車で再度病院に向かう。前回お父さんが入院した時は、お母さんが付き添い看護を拒否したため、EricaとDenilsonと従姉妹のMarciaとEricaの友人の4人で交代して退院まで付き添ったそうだが、今回はEdsonに促されて、お母さんも付き添いを了承したのは喜ばしい。長い結婚生活の間にはいろいろなことがあったのかもしれないけれど、後に悔いを残さないためにも、これをきっかけに、残り少ない時間を一緒に穏やかに過ごせるといいのだけれど。無理かなあ?

2009年3月30日(月)

朝、洗濯をすませ、朝食をすませてしばらくして、食料品などを買いに行かなくてはならないから、お昼前頃にでもバスでParacambiの町に行こうと話していると、Ericaとお母さんが暗い顔をして病院から帰ってくる。家に入るや否や、お父さんの状態は昨日よりもさらに悪くなっていて、体を動かしもしないし、口もきかなくなったと言って泣き出す。血圧やバイタルに変化はないようなので、体が弱ってきているというよりも、気持ちが弱ってきているのではないだろうか?Edsonがしばらくふたりと話をして、Ericaにお父さんを明日リオでの検査に連れて行く手配と、もっといい病院に転院させるための手配 をするよう指示する。

11時前にParacambiの中心部までEricaの車で送ってもらい、買い物をして回る。たくさんの買い物袋を抱えて、お父さんの家に向かう途中、Ericaから電話が入り、今外出していて家にいないので、お父さんの家の隣の親戚の家で待っていてほしいということで、お隣の従姉妹の Isabel(イザベウ)の家に行き、彼女と話をしながら待たせてもらう。12時半頃小学生の子供たちふたりが学校を終えて、次々に帰って来る。お昼時にお邪魔していて、彼らの食事の支度をしなくていいのかな?と、思っていると、下の娘のNicole(ニコリ)はシャワーを浴びると、ご近所に住むおばあちゃんのところに行ってお昼を食べてくると言って、出て行った。1時過ぎにEricaが迎えに来てくれたので、近くのお店で軽く食事をして、病院に向かう。今朝、私たちをParacambiの中心で降ろしてから、Ericaはあちこち連絡をしたり走り回って、ようやく明日、お父さんをリオに搬送して検査を受けさせる手配ができたようだ。

病院の前は面会時間になってドアが開くの待つ20〜30人の人で溢れている。2時を10分近く過ぎてようやくドアが開き、病院内に入れてもらえる。 みんな一斉に2階の病室に上がって行く。今朝、お母さんから交代した従姉妹のMarciaがお父さんに付き添ってくれている。お父さんは昨日よりも少し反応が鈍く、口数が少ないけれど、Edsonの聞くことにはちゃんと返事をしている。やはり気持ちが弱っているのだと思う。2時にこの病院の医師ではないけれど、かかりつけの神経科の医師が来てくれることになっているはずなのに、面会時間が終わってもまだ来てくれない。2時半頃のEdsonの話だと、 Paracambiには到着しているけれど、一度オフィスに寄ってからこちらに来るということだったのに、3時頃になると、まだParacambiに向かっている途中だと、彼の言っていることがその都度変わるので、一体どうなっているのだろう?と、何だかイライラしてくる。3時過ぎにようやく神経科の先生が到着し、Ericaと一緒にお父さんの病室に向かったので、Edsonと私は1階の入り口前のソファーに座って待つことにする。15分くらいして、ふたりが戻ってきたので、この病院のすぐ側の先生のオフィスに行って、話を聞く。

お父さんの状態は、いわゆる加齢によるもので、脳の循環器系が機能不全に陥って起こっているので、その症状の進展を遅らせることはできても、直すことはできないのだそうだ。お父さんは家族の中で一番身長が低いのだけれど、子供の頃、厳しい生活で栄養不良だったことが原因で、身長が伸びなかったということもあり、そんなことも今回の状態を加速させているのかもしれないとEdsonは言う。

2009年3月31日(火)

今日は朝一番の救急車でリオの病院に運ばれ、検査を受けるお父さんに、夜の付き添いから引き続きEricaが同行する。仕事柄、夜勤に引き続きの勤務は慣れているとは言え、長時間ありがとう。私たちは家で待機して彼女からの連絡を待つのみ。今日も雨が降ったりやんだりの蒸し暑いお天気。Edsonとふたりで昨日買ってきたレースのような生地を窓の大きさに切って、玄関ドアの上の開いた窓に貼り付け、網戸の代わりにする。このところなるべく夕方早いうちにドアを閉めて、お母さんに夜、ドアを開け放しにしないように何度もお願いしたお陰で、室内を飛び回る虫が格段に減ったように思う。暑いのに無理してジーンズと長袖のT−シャツを着て、肌をむき出しにしないようにしていることもあって、ここ数日新しく蚊にさされていない。

午後、何の前触れもなく、待ち望んだ冷蔵庫と、ガスレンジと、洗濯機が配達されてきた。ヤッホー!!思ったよりも早く来たのでとてもうれしい。配達の人たち3人にそれぞれ10レアル(日本円で約500円弱)ずつチップを払い、早速、Edsonとふたりで梱包を解いてガスレンジと冷蔵庫を台所に据え付ける。でも、冷蔵庫は頼んだのとは違う機種が来てしまった。どちらも料金はほぼ同じで返品して取り替えるのも面倒だからと、目をつむることにする。とにか く、ガスレンジも冷蔵庫も問題なく稼動するので良しとしよう。でも、夕食後、洗濯機を箱から出してみると、輸送時に何か衝撃が加わったのか、右下前面部分のプラスチックが壊れてガタガタいっている。やれやれ、これでは目をつむるわけには行かない、洗濯機に関しては返品手続きをしなくてはならない。ここは何でもありのブラジル。ガスレンジと冷蔵庫が使えるようになっただけでも感謝しよう。洗濯機はもう少し先の楽しみにとっておこう。

夜、Ericaから連絡があり、検査の結果、お父さんはやはり加齢による脳の循環器系の機能が弱っているのと、前回の検査でははっきり確認できなかったアルツハイマーが、今回ははっきりと確認できたらしい。これらの治療での入院は必要はないので、口から食事が食べられるようになったら、退院して家に帰れるということだった。でも、家に帰ったら、24時間態勢でのお父さんの介護が必要になるので、午後から夜まで来てもらう人を早く手配しなければならない。Edsonは根気良くお母さんと話をして、毎日でなくてもいいから、週に何日か家に帰って、お父さんのために食事を作ったり、世話をしてほしいといい続け、お母さんも何とかできる範囲でお父さんの介護に加わることになったようなので、良かった。


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